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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載75

横田河原の合戦

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 平安時代の嘉応2年(1170)5月。奥州藤原氏の藤原秀衡は、平清盛から鎮守府将軍に任命された。官位を背景に奥州全土へ影響力を及ぼすことが可能となった秀衡。が、ただ一ヶ所だけ例外の土地があった。

 その土地とは会津だ。――平安時代の会津を支配していたのは、磐梯山麓の慧日寺。当時は広大な領地と数千の兵力(僧兵)を有していた。しかし西暦980年代、越後国から城氏が会津へ進出してくる。当初は敵対した慧日寺と城氏だったが、やがて和睦。陣ヶ峯城(会津坂下町)を拠点とした城氏は、慧日寺と会津を分かち合う二大勢力となった――。さらに城氏は平氏の血筋だったので、京にいる清盛の一族とも古くから友好関係にあった。となると城氏と結んだ慧日寺も平氏の味方となる。つまり会津は平氏の一大牙城となっていたため、奥州藤原氏といえども簡単に手が出せなかったのである。

 ところが治承4年(1180)から情勢が変わってくる。平氏の専横に不満を持った人々が、各地で〝平氏打倒〟を叫ぶようになったのだ。この声に押され、東国で鳴りを潜めていた源氏が立ち上がる。まず同年8月、伊豆で源頼朝が挙兵。続いて9月、信州木曽(長野県)にて源(木曽)義仲が兵を挙げた。これを知った平氏は、ただちに追討軍を派遣。ところが10月、頼朝追討に向かった平氏軍の主力が、富士川の合戦(静岡県)で敗北。京に逃げ戻ってしまう。

 この間に木曽義仲は信濃国を平定。年が明けて治承5年(1181)になると、早くも北陸を窺う気配をみせるようになった。このころ京では清盛が死去。強力な指導者を失い混乱した平氏は、義仲の動きに対応できなくなる――。そこで追討を任されることになったのが城氏だ。

 追討令を受けたのは、城資永という武将。だが資永も治承5年2月に急死し、弟の長茂が跡を継いだ。城長茂は本拠地の越後だけでなく、会津でも兵を集める。すると慧日寺の僧兵も加勢に加わった。ちなみに僧兵のリーダーの名は、乗丹坊という。資永や長茂の妹を妻としていた乗丹坊は、会津でもとりわけ城氏と関係の深い人物だったのである。

 連合軍を結成した長茂と乗丹坊は、数万の兵を率いて信州へ出陣。治承5年6月、横田河原(長野市)にて義仲の軍勢3000と激突した。兵力に勝っていた連合軍だが、長旅の疲れで動きが鈍い。さらに義仲の巧みな戦術に翻弄され、大敗を喫してしまう。この〝横田河原の合戦〟と呼ばれる戦いで乗丹坊は討死し、長茂は越後へ敗走した。――結果、木曽義仲はのちに北陸から上洛を果たし、一方の城氏と慧日寺は没落していくことになる。

 余談だが、横田河原の合戦からおよそ400年後、同じ場所でしのぎを削ったのが武田信玄と上杉謙信。こちらの戦いは〝川中島の合戦〟として知られている。      (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。



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