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【熟年離婚】〈男の言い分64〉

「歯に衣着せぬ物言い」とは「人の心を踏みにじる暴言」でもある、と教えてくれたのは、妻です。


 K氏、58歳。会社員。今年5月、同年の妻と離婚。

 私は、この春に離婚したばかりで、まだ身辺が落ち着きませんが、心は落ち着きましたよ。妻とは、不貞とか借金とか、家庭内暴力など深刻な原因で別れたわけではありませんが、「熟年離婚」した人達がよく言うように、残りの人生を、心穏やかに、大事に生きていきたい、ただそれだけの理由です。

 妻は、離婚に不服でもめましたが―ほら、運動会で二人で片足を縛りあって走る競争があったでしょう。あれ、片方が止まったり転んだりすれば走れない。結婚生活って、それに似てませんか? 私、二人で縛りあった足の紐をほどかせてもらったってとこですかね。

 私と妻は、東京の大学のサークル活動で知りあいました。北関東の田舎から突然、「都会」に出て来て、小さくなっていた私に比べて、東北から来た彼女は、そのイントネーションや時に出る方言を周りにからかわれても、いっこうに物おじしないで、堂々と意見を述べる。そのうち彼女はサークルのリーダーになったんです。私は、そんな彼女に惚れてしまって、一生懸命、彼女の活動を手伝っているうちに、付き合うことになって―結婚の話になった時、彼女から難しい条件が付きました。江戸時代から続く商家だった彼女の家は、今は廃業して、母親が一人で暮らしていて、彼女は一人娘。だから結婚したら実家に一緒に帰ること―気楽な三男の私は、彼女の郷里に行きました。彼女は、地元の公務員になり、私は東京に本社がある会社の支社に入りました。


【熟年離婚】〈男の言い分64〉

 ―と、これが、私ら夫婦の“履歴”です。どの夫婦も、ここまでは平穏。人生はそれから始まるんですよ。

「長所」は「欠点」だ

 妻の実家で、母親と3人で暮らし、共働きで頑張っているうちに、長男を授かり、しばらくにぎやかで平穏な暮らしが続きましたが、母親が他界。昔からの商家の造りは、通りに面した間口は狭いが、奥行きは裏通りに届くまで長く、しかも2階建て。親子3人で暮らすには不便で、近くの賃貸マンションに移って暮らし始めました。―それまでは、私も、自分が置かれた環境の激変で、ただそれに慣れるだけで目いっぱいでしたが、落ち着くと、妻との摩擦を感じるようになりました。これ、妻は何も感じていないので、あくまで私、です。

 最初にパンチが来たのは、息子をめぐってのこと。おっとりと明るい子でしたが、他の子より言葉が遅い。それを妻は「あなたに似て、頭がよくないのかも」と―。「おお、悪かったな」とそこは切り抜けたが、妻の“暴言”は家庭内だけで収まらない。会社の飲み会のついでに、同僚二人が〝二次会〟に家に寄ってくれたが、妻は「もう遅いし、子供も寝ましたから、お帰り下さい」と。それ、本当のことですよ。だけど、本当のことを通しちゃまずい時だってあるでしょ。―それからというもの、離婚するまで、私の家に来てくれる同僚は“絶滅”しました。私の母が、嫁のためにストールを買って、はるばる訪ねて来たのに「こんなものより、地元のお菓子の方がモノで残らなくて助かるんですよ」と―。母は黙って笑っていましたが、血圧パンク寸前だったでしょうよ。身内だけでなく、きっとこの調子で職場でも嫌われているんだろうな、と思いましたね。

 学生の頃、彼女の率直な物言いが大好きだったが、裏を返せば、それって「人の気持ちを踏みにじる物言い」でもあるんですね。良いトシになって学びましたよ。「長所」は裏返せば「欠点」でもあるんですね。

息子も〝被害者〟

 妻の物言いが家庭に暗い影を落とすようになったのは、息子が小学校の高学年になった頃。周りの子がみんな学習塾に通い始めて、息子も行きたい、と言ったら「あんたじゃ、塾に行っても効果ないんじゃないの」と。息子が目に涙をためて私に訴えたので分かったが、それ、母親の言うことか? 「頑張れよ」と息子を励まして、毎回、塾帰りを迎えに行ったのは私でした。

 町内会の会合に出た時、おばさん達に言われました。「お宅の奧さん、ずいぶんはっきりもの言いますね」と―そうだろう、みんな気を悪くしているんだろう。家であれだけ言うんだ、他人に何を言ってるか―恐ろしいことですよ。

 息子の大学受験の時も一騒動です。彼は、法学部を目指していましたが、妻は「あんたのアタマじゃ無理」と断言。息子は泣いて悔しがったが、やっぱり不合格。「ほらね、だめだって言ったでしょ」と妻。私は必死で息子をなぐさめましたよ。次があるぞ、とね。彼は一浪して、念願の大学の法学部に合格。妻は「あんたにしては上出来だったね」と。

 息子は、東京の大学に行って下宿してからというもの、一度も家に帰って来ませんでした。妻は、息子に愛情が無いわけではなく、衣類や食料、菓子などを小まめに送り届けていたし、手紙も書いていた。―しかし、人は、眼の前で自分に発せられた「言葉」が一番、胸に響くものではないですかね。

 私は、勤め先の本社に行く度に、息子に会いましたが、家には帰りたくない様子が父親として辛かったし、夫として、“暴言”を繰り返す妻を制御できなかったことを申し訳なく思っています。さらに、息子に済まなかったのは、去年、彼に結婚相手を紹介された時のこと。明るくて優しそうなお嬢さんでしたが、幼い頃の病気がもとで、右足が不自由だとのこと。「母さんに会わせたら、本人に向かって何を言うかわからない」と―彼らはごくわずかな身内で、ひっそり結婚式をあげました。「私に断りもなく」と、妻は激怒しましたが「それじゃ、息子達と絶縁すれば?」と私が言うと、沈黙。

 好き合って一緒になったとはいえ、長かろう老後の穏やかな人生には程遠いな、と思うのは、私ばかりではないでしょうね。

 最後のパンチは、私に来ました。

 妻の生家は、昔の商家の造りそのままで朽ち果てさせるのは惜しいので、私は休みのたびにDIYでせっせとあちこち修理するのが何よりの愉しみでした。しかし妻は、解体して更地にして売りたいと。街なかの超一等地ですから、確かに売った方がいいかも。しかし、街の歴史として出来る限り残したい。

 うるさい妻を無視して修理を続けていたある時、妻が言うには「あなたの両親を呼んで住まわせたい一心で、修理してるんでしょ。“街の歴史がどうの”なんて“おためごかし”言わないでよ」。思い当たるフシがある。私の両親は80代の今も公営住宅暮らし。それを「かわいそう」と、私が言ったっけ。

 はい、これで全て終わりです。離婚の理由が納得できない、と妻は大暴れでしたが、お互い先も長い。第一、私がもう“率直”の皮をかぶった暴言に耐えられない、です。今は、東京本社に戻してもらって、時々、息子夫婦に会って、元気でやっています。妻も、相変わらずの物言いで、元気いっぱいのようですよ。彼女の周りの皆さん、何を言われてもこらえてね。私のように「死ぬまで」でなくて一時なんだから。
(橋本 比呂)


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