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【歴史】和田胤長の流罪―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載89

(2021年5月号より)

 かつて阿武隈川から西の郡山市内は〝安積郡〟と呼ばれていた。また須賀川市と周辺の町村は〝岩瀬郡〟と区分されていた。鎌倉時代になると安積郡は、伊豆の伊東氏の所領となる。そして岩瀬郡は、相模国(神奈川県)の武士・二階堂氏が支配することになった。じつは、この両家にそれぞれ安積と岩瀬が与えられた年は明確に分かっていない。ただ、鎌倉時代の初期に起こったある事件をきっかけに、伊東氏と二階堂氏は奥州との結びつきを深めただろうと推測されている。 

 その事件は〝泉親衡の乱〟という。

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 建久10年(1199)に源頼朝が亡くなると、御家人(鎌倉幕府に属する武士)たちの対立が深刻化する。2代将軍となった源頼家はまだ若く、御家人たちを統制することができなかったからだ。不安定な政権の中で、執権(幕府の事務局長)を名乗り権力を掌握していったのが北条氏。頼家の母・政子が北条家の出身だったことが、他の御家人を出し抜いた最大の要因となった。建仁3年(1203)になると北条氏は、意のままとならない将軍・頼家を追放。その弟である実朝を3代将軍に据えた。すると、強引すぎる権力固持に御家人たちが反発する。その一人が信濃国(長野県)の武士・泉親衡だ。建暦3年(1213)になると親衡は、幕府の長老であった和田一族と結託。「実朝を将軍の座から引きずり下ろし、頼家の子・千寿丸を擁立しよう」と企てた。「北条との血縁が薄い千寿丸が将軍になれば、北条氏を失脚させられる」と考えたからだ。ところが同年2月、親衡らが決起する前に陰謀が露見。クーデターの首謀者は次々と捕らえられる。その中には和田胤長という人物も含まれていた。執権北条氏は「一味のナンバー2は和田胤長」と断じ、彼を流罪に処することにする。このとき配流先に選ばれたのが陸奥国・岩瀬郡であった。二階堂氏は早い時期から北条氏を支持していたため、二階堂氏に胤長の身柄を預けることにしたのだろう。そして鎌倉から岩瀬まで、胤長を護送したのが伊東祐長であった。伊東氏もまた、いわゆる北条派の一員。同年3月に胤長を岩瀬まで護送した伊東祐長は、そのまま安積郡に入植したようである。

 ここで、ひとつ不明なのは「和田胤長が流罪となる前から、安積は伊東氏の領地であり、さらに岩瀬も二階堂の領地だったのか」という点。ひょっとしたら二階堂氏の人々と伊東祐長が、泉親衡の乱の封じ込めに活躍し、その褒賞として岩瀬や安積を与えられたという可能性もある。いずれにせよ、泉親衡の乱と和田胤長の流罪をきっかけに〝伊東氏が安積郡〟〝二階堂氏が岩瀬郡〟を、本腰を入れて支配するようになったのは間違いない。ただ、祐長は伊東氏の分家として安積に派遣され、二階堂氏も当主は鎌倉に在住。岩瀬には代官を派遣している。 

     (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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