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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載76

奥州藤原氏の会津侵攻


ふくしま歴史再発見001

 平安時代の治承4年(1180)8月。平氏を倒そうと源氏が各地で挙兵。この年の10月に源頼朝が、富士川の合戦(静岡県)で平氏軍を撃破。一方、信濃国でも源(木曽)義仲が、着実に勢力を拡大していた。

 源氏の快進撃に苦慮する平氏を、さらなる衝撃が襲う。治承5年(1181)閏2月、一族のリーダーだった清盛が病死したのだ。跡を継いだ宗盛には清盛ほどのカリスマ性がない。「果たして宗盛が、統率力に長ける頼朝や勇猛な義仲に対抗できるのか?」と、平氏の人々は不安を隠せないでいた。そこで一族の主立つ者が今後の対応を協議。「源氏を牽制するには北方からの援助が必要だ」という意見で一致した。すぐさま宗盛名義で協力を要請したのは、越後国の豪族・城氏である。同じ平氏の血筋である城氏は依頼を快諾。治承5年の春、木曽義仲と戦う準備を始めた。これで当面のあいだ北陸方面は一安心。次は関東の頼朝だ。このとき平氏が頼みとしたのが平泉の奥州藤原氏だった。すでに平氏と奥州藤原氏は嘉応2年(1170)に同盟を結んでいる。奥州から金を提供する代わりに、当主の秀衡は平氏によって鎮守府将軍に任命されていた。だが今回は新たな好条件が必要だ。そこで平氏は思いきった手に出る。秀衡に〝陸奥守〟という官位を与えることにしたのである。陸奥守とは陸奥国(青森、岩手、宮城、福島)における最高位で、鎮守府将軍よりも権威が高い。従来まで有力貴族(公家)が歴任してきた官位を、秀郷流藤原氏(武家)にすぎない秀衡に与えようというのだ。当然、公家からは「伝統と秩序に反する」との声があがったが、平氏は秀衡の陸奥守補任を断行。治承5年の春には内示が通達されたようである。これにより、ついに奥州藤原氏は名実ともに〝みちのくの王者〟となった。

 しかし秀衡はしたたかだった。陸奥守に就任しながらも、平氏の思いどおりには動かない。

 同じ年の6月、城長茂に率いられた越後・会津(慧日寺)の連合軍が、横田河原(長野県)で木曽義仲に大敗。長茂は〝藍津之城〟と呼ばれていた陣ヶ峯城(会津坂下町)へと逃げ帰っている――。ところが直後に、奥州藤原氏の軍勢が陣ヶ峯城を攻撃。長茂を会津から追放しているのだ。

「ともに手を組んだ秀衡と長茂が何故?」と、京にいた平氏の人々は驚いたはず。が、秀衡からすれば城氏と慧日寺の弱体化により「ようやく会津に手が出せるチャンスが到来」と思ったのだろう。そして彼の行動の裏には「官位の内示を得た」という口実があった。陸奥守になりさえすれば、会津に攻め込むことも正当化できるからである。

 結局、平氏としては奥州藤原氏まで敵に回すわけにはいかず、秀衡の会津侵攻を黙認。予定どおり治承5年8月、正式に秀衡を陸奥守に補任している。          (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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