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鎌倉公方と奥州|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載126

 足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を創設した西暦1336年(南朝・延元1/北朝・建武3)11月は、まだまだ南朝と北朝が激しく争っていた時期だった。もともと鎌倉に長く住んでいた尊氏は関東地方に思い入れが深かったが、吉野(奈良県)を本拠とする南朝から北朝の天皇を守るため、やむなく京で幕府をひらいた。ちなみに室町(上京区)とは尊氏の孫・義満の屋敷があった地名で、足利氏による政権が室町幕府と呼ばれるようになるのは義満の代になってからである。

 ともかく下野国(栃木県)をルーツとする足利氏にとって関東は南朝に奪われたくない大事な土地。そこで尊氏は1349年(南朝・正平4/北朝・貞和5)に〝鎌倉府〟という機関を立ち上げた。次男の足利基氏を府の長官として鎌倉に派遣し、関東支配のため自治権を与えたのである。以後、鎌倉府の長官は基氏の血筋が世襲し〝鎌倉公方〟と呼ばれた。公方とは高貴な身分をさす尊称だ。こうして室町幕府は、箱根峠より西の地域を京の将軍家が支配し、鎌倉公方は将軍家の指図を受けつつも箱根以東を支配するという二元体制となる。

 西暦1367年(南朝・正平22/北朝・貞治6)春に足利基氏が亡くなると、嫡男の氏満が2代目鎌倉公方に就任。同じころ京では基氏の兄で2代将軍・足利義詮が、子の義満に将軍職を譲っていた。つまり3代将軍・義満と2代鎌倉公方・氏満は従兄弟の間柄。しだいに氏満は「自分には関東しか与えられていない」ことが不満となり「いずれ義満を倒し日本の王者になる」との野望を抱くようになる。が、兵力でいえば京の将軍家のほうが圧倒的に有利だ。

 そこで氏満は少しでも軍事力を増強させようと、鎌倉に反抗的な関東武士の殲滅をはかる。このとき矢面に立たされたのが下野国小山の武士・小山義政だった。小山氏には宇都宮氏というライバルがおり、下野の覇権をめぐり争っていた。これに氏満は介入、鎌倉に友好的な宇都宮氏を支援して小山氏を滅ぼそうとしたのである。

 1380年(南朝・天授6/北朝・康暦2)秋から始まった小山氏と鎌倉公方の戦は1396年(応永3)春まで実に16年にも及んだ。この間に小山義政は討死したが、遺児の小山若犬丸がしぶとく抵抗をつづけたのである。しかし若犬丸も最後は力尽き、下野から奥州田村庄(福島県田村地方)へと逃亡する――。


 だが奥州も安全な地ではなかった。1391年(南朝・元中8/北朝・明徳2)に京の義満が「奥州管領は当てにならん。奥州も鎌倉公方が支配せよ」との命令を出していたのだ。このため氏満には奥州に兵を進める権限があり「田村庄の庄司(管理人)である田村氏は若犬丸を匿っている。これを討伐せよ」と、家臣に出陣を命じたのである。(了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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