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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載79-源義経の郎従・杉目行信

源義経の郎従・杉目行信

 文治5年(1189)閏4月30日。奥州藤原氏の四代目・藤原泰衡は、平泉近郊の衣川館に兵を差し向けた。衣川館にいた源義経を討つためである。不意を突かれた義経は自刃。波乱に満ちた生涯を終えた。

 ちなみに、義経を守ろうと最後まで奮戦した郎従のなかに、杉目行信という武将がいた。〝杉目〟とはかつて福島市にあった地名。現在、福島県庁が建っている場所には〝杉目城〟という城があった。平安時代、ここの城主であったのが杉目行信であろう。ということは、行信は信夫佐藤氏の一族だった可能性が高い。佐藤から分家するのと同時に、領地の村名を姓としたと思われる。

 ところで源義経は幼い頃、政治目的のため奥州藤原氏に招かれた。陸奥国南部(南奥)にいる〝源氏恩顧の武士〟を懐柔するためだ。石川庄(石川郡)の石川氏や岩城郡(いわき市)の岩城氏など、平安時代の南奥には源氏と縁の深い武士が多かった。彼らを味方にしなければ奥州藤原氏といえども〝真のみちのくの王者〟たり得ない。そこで三代目・秀衡が目をつけたのが義経。「我々は源氏の御曹司を保護していますよ」とPRすれば石川氏や岩城氏も靡くだろう。事実そうなった。そして南奥へ義経の存在を強調するならば、より近くの信夫郡(福島市)に預けておくほうが有効だ。信夫佐藤氏と奥州藤原氏は強固な同盟を結んでいる。おそらく義経は、信夫郡で過ごした時間が長かったに違いない。その日々において佐藤継信、忠信兄弟との友情が育まれ、やがて彼らは平氏追討の戦へと旅立っていく。じつはこの中に杉目行信もいたのだろう。信夫佐藤氏と義経が密接な関係にあったとすれば、行信が義経に臣従したのも不思議ではない。

 佐藤兄弟と行信は、義経とともに戦い平氏を滅ぼした。だが義経は追われる身となり、継信と忠信は異郷の地で命を落とす。最後まで残った行信も「義経が自刃した後、壮絶な討死を遂げた」とされている。ところが行信には、古くから別の伝承も語り継がれている。

「行信の容姿は、義経と瓜二つだった。そこで行信が身代わりとなり衣川で自刃。義経は北方に逃れた」

 という言い伝えだ。いわゆる〝義経生存説〟の根拠のひとつになっているのが行信なのである。

 実際、閏4月30日に義経を討った泰衡が、その首を鎌倉に送っているのだが、源頼朝のもとに届いたのは6月13日。40日以上も要している。いくら平泉と鎌倉が遠く離れているとはいえ、これは遅すぎる。そのため「偽の首(行信)だとバレないよう、わざと腐敗させるため時間をかけたのでは」と、生存説を支持する研究家の間で囁かれている。

 真偽の程はともかく、義経伝説は歴史へのロマンをかきたてる。その重要な鍵となっているのが福島の武士・杉目行信なのである。   (了)

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