巧妙に仕組まれた福島原発立地工作(元新聞記者 小林茂)

(2021年7月号より)

県立図書館が非公開にした「調査報告書」を読む


 福島県立図書館が非公開とした福島原発建設期の調査報告書を都内の大学図書室で閲覧することができた。この大学が入手した経緯ならびに、先月号で触れたいくつかの論点に関し、一次資料たる現物をもとにもう少し掘り下げてみたい。なお、報告書まえがきには「論述の基礎をなした各種実態調査結果をまとめて、各調査担当者による論文集とした」「一般向けにまとめた先の『原子力発電所と地域社会』報告書(注『総論』を指す)と併せて、参考にしていただければ幸甚である」とあり、発行者(日本原子力産業協会、以下「原産協」)による「内部資料として作られたもので当初から非公開だった」との主張はこれと矛盾する。(本文中敬称は省略させていただいた)

コロナ対策下の閲覧

 日本原子力産業会議(以下「原産会議」)編『原子力発電所と地域社会―地域調査専門委員会報告書(各論)』(1970年8月)、すなわち『報告書(各論)』がこの大学に収められているとの情報は得ていたが、コロナ禍に伴う利用制限のため立ち入ることができずにいたのだった。

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都内の大学図書室に収められていた『報告書(各論)』

 大学キャンパスの研究棟付属図書室に、探し続けてきた『報告書(各論)』はあった。「平田文庫」と個人名がつけられ、同文庫には『報
告書(総論)』が収められていることも分かった。

 平田敬一郎(元日本開発銀行総裁)。この調査を主導した原産会議・立地問題懇談会(1967年8月発足の「立地問題特別委員会」を改組したものと思われる)の座長を務めた人物である。

 『報告書(総論)』には平田以下、懇談会委員37名の氏名が記されている。本県関係では、木村守江(県知事)、伊東正義(全国農業共済協会会長)の名が見られる。

 大学によれば、一連の資料は平田の没後、家族より寄託された、とのことである。ついでに記しておくと、同図書室は〝保存図書館〟を標榜し、①経済・経営関係の雑誌・単行本②社史・団体史・個人史③官公庁・民間の調査研究書――等の資料収集・受け入れを目的として活動し、28万件の図書資料(閉架式)を所蔵している(利用案内より)。

調査の概要

 この調査は、原発の立地が周辺地域に与える影響を把握し、後に続く原発の立地対策に資するとの目的で、建設途上にあった東京電力福島原発/関西電力美浜原発を対象に1968(昭和43)年末から1年かけて進められた。
 報告書の副題にもなっている地域調査専門委員会(主査・松井達夫早大教授、委員14名、以下「専門委」)と、その下につくられたワーキング・グループ(主査・笹生仁日大教授、委員11名、以下「WG」)が調査に当たった(専門委には福島県企画開発部開発課長、WGには同開発課主任主査が加わっている)。

 そして『報告書(総論)』は1970(昭和45)年6月、平田が座長を務める原産会議・立地問題懇談会に答申され、次いで同年8月、調査担当者による論文集として『報告書(各論)』がまとめられている。

 先月号でも触れたが、『報告書(各論)』は、第1部「東京電力福島原子力発電所周辺地区に関する調査報告」、第2部「関西電力美浜原子力発電所周辺に関する調査報告」、補論――の3部構成、全580ページ。

 第3部に当たる補論は、第1部/第2部の論拠となる基礎資料を収容し、調査委員による詳細な考察を加えている。第1部/第2部と内容が重複するところもあるのだが、補論を座右に双方を突き合わせながら読み込むと、原発を受け入れた当時の大熊・双葉両町の輪郭が浮かび上がってくる。

 今号では「第1章 福島発電所設置の経緯」(執筆者・大津昭一郎高崎市立経済大助教授)の「Ⅱ 立地条件」より「6.地震」「1.敷地の概況」および「Ⅴ 設置が比較的円滑に行われた理由」を中心に見ていくことにしたい。

「原発周辺に災害記録はない」

 「6.地震」の項の記述については先月号で『大熊町史 通史』から全文引用した。要約は以下の通り。

 ①福島県周辺では強震以上の地震は約150年に一度、烈震以上は約400年に一度の割合でしか起きていない。

 ②福島県周辺は地震活動性の低い地域ということができ、過去に地震による被害を受けた経験も少ない。

 ③とりわけ原発敷地付近では大きな被害を受けた記録は見当たらない。

 立地に最適との理由として挙げられたこれらの要件は、大地震・大津波に原発事故が加わった今となっては荒唐無稽の極みとしか言いようがない。

 大津はこの認識をいったいどこで得たのだろうか。論文集といいながら、出典はどこを探しても書かれていない。

 これと瓜ふたつの記述をほどなく見つけることができた。日本機械学会誌第71巻第591号(1968年4月)所収「福島原子力発電所の計画概要」(111~115ページ)。「2.敷地概要(5)地震」のくだりを全文引用する。

 敷地周辺に被害を及ぼしたと思われる地震について調査を行ったが、著しい被害はみられない。強震以上は150年に一度、烈震以上は約400年に一度くらいの割合でしか起こらず、激震以上は一度も起こっていない。

 筆者は豊田正敏。福島第1・第2原発や柏崎刈羽原発の建設を担うなど日本の原子力導入に深く関わり、後に東電副社長を務めた人物である。

 さらに、東電が企画した記録映画『黎明―福島原子力発電所建設記録 調査編』(日映科学映画製作所、1967年)の冒頭3分過ぎに入るナレーションにも簡略化した形ではあるが同じ表現が見られる。

 『黎明』の制作は1967年、豊田論考の掲載は1968年4月(ただし受理年月日には1967年11月22日とある)、専門委の調査着手は1968年末。

 この流れから、大津は、フィールドワークを専門とする社会学者としての自前の調査によってではなく、東電資料に依存し、この地に大きな災害履歴が見られない――というのは、東電の認識であったことが類推される。

 では東電の言うように、果たしてこの地は災害と無縁(災害履歴がなかった)であったのか。東日本大震災・大津波を「想定外」と驚いてみせた東電のいまにつながる問題の端緒がそこにある。

大熊・双葉の津波伝説

 原発周辺に災害の記録がなかったわけではない。大熊町に伝わる津波伝説。1913(大正2)年発行『双葉郡郷土誌』の「第16章 口碑伝説」大野村(合併して大熊町になる前の名称)の項には次のように書かれている。

二、魚畑(イヨバタケ)、カラカヒ森、共ニ大字野上向山ニ
在リ 昔々大津浪ノ起リテ此地一帯海水ノ浸ス所ト
ナリシニ其水ノ引キ退キタル後ニ魚貝類ノ留マリ
在リシト依テ名ツケシトゾ

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『双葉郡郷土誌』(県立図書館所蔵)の大野村野上向山の津波伝説

 『大熊町史 通史』の執筆者・岩本由輝編著『歴史としての東日本大震災―口碑伝承をおろそかにするなかれ』(刀水書房、2013年)には「東京電力福島第一原発のある大熊町の海岸から8~10㌔㍍西方の野上地区にも『魚畑からかい森』の伝説があった。(中略)この大津波はおそらくすでにみた400年前の〝慶長津波〟をさしているのであろう」(76ページ)と踏み込んでいる(「400年」の意味するところについては先月号を参照されたい)。

 次は原発敷地にかかり11戸が移転対象となった双葉町細谷地区にまつわる〈細谷千軒〉という、津波被害に遭い挙家移住した集落の伝説である。

 『双葉町史第5巻 民俗編』(2002年)の「第9章 口承文芸/第2節 伝説」(576ページ)には次のように書かれている。

 (25)郡山と細谷の海津波

 郡山地区の南に細谷というところがあって、この地区は土地が肥沃で、米も美味しかったという。 

 さて、(伝説細谷千軒)といって、海岸まで大変に栄えたところという。

 古老の話では、昔、海津波で被害を受けてから、人家も移動したとのことである。 

 現在は、海岸もかなり侵食されているが、昔はかなりの集落で、出土品も耕地整理の折に発見されている。

 浪江・双葉両町にまたがる国の復興祈念公園。その検討資料には、公園予定地周辺について〈古来より、平安時代の貞観地震ほか複数の地震や津波に見舞われてきた土地である〉と書かれている。国交省の第2回有識者委員会(2016年11月21日)の議事録より以下に抜粋引用する(説明者は東北地方整備局建政部都市調整官)。

 ①福島県沿岸部は、これまで度々津波による被害を受けてきた。

 ②貞観地震(869年)では浪江町請戸地区等で津波によるとみられる堆積物が確認されている。(※1)

 ③慶長三陸沖地震(1611年)による津波では、相馬領の沿岸部で多くの死者を出した記録が残る。

 ④近現代においても津波を起こした地震が発生していたが、大きな被害には至らなかった。

 原発を含む浜通り周辺は災害のない場所などではなかったのだ。「(初期の原発の多くは)古い時代の地震学の知識をもとに造られてしまい、その後にわかってきたリスクに備えていないようなのだ(※2)」(添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』2014年)という時代背景を割り引いたとしても、地域の伝承を非科学とあなどり、おろそかにした結果がいまなのである。

 ※1 浪江町請戸地区で見つかった津波堆積物の地層から奥会津・金山町にある沼沢湖(請戸からの直線距離約130㌔)ができた際の火山噴出物が確認され、津波が起きた年代測定に寄与している。それくらいの距離を火山灰の微粒子は飛んできた。
 ※2 添田前掲書には「福島第一原発の沖合約200㌔の太平洋に深さ8000㍍にも及ぶ日本海溝がある。(中略)太平洋プレートが東南東の方向から年間約8㌢ずつ日本列島に近づき、この海溝で日本列島の下に潜り込んでいる。ここでたまったひずみが約600年周期で、今回のような大津波を引き起こしてきた。そんな地球の大きな動きがわかっていない時期に、東電は福島第一原発の立地場所を決め、津波や地震の想定をして設計をしたのだ」(4ページ)とある。

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双葉・浪江両町にまたがる復興祈念公園に関する国交省説明資料。双葉町細谷の海津波伝説と、浪江町請戸海岸で確認された貞観津波堆積物が引用されている。


「過疎地」を目指した原発

 「1.敷地の概況」のなかで大津は予定地について

 ①東京の北方約220㎞、原子炉の設置地点から最寄りの人家まで約1㎞。

 ②周辺の人口分布も希薄で、近接市街地として約8・5㎞に浪江町がある。

 とさりげなく書いているが、前述の豊田論考では「原子炉設置予定地点より周辺1㎞以内には人家がなく、周辺の人口密度も小さく、原子炉敷地として最適である」

 と言い切っている。

 これらの認識に対し『大熊町史 通史』電力の章で筆者の岩本は「東京から遠いこと、人口稠密の地域から離れていることが立地条件として考慮されていることからすれば、いかに技術的に安全性が強調されようとも原子力発電所の性格なるものが如実に示されているといわざるをえないであろう」(837ページ)と読み解いたうえで次のように指摘する。

 ①浪江町よりも近いところに当時人口七六二九人の地元の大熊町、隣接の人口七一一七人の双葉町、人口一万一九四八人の富岡町のあることは、この説明からはすっぽりと脱落している事実に気づかなければならない。

 ②二万人以上の町なら市街地として扱うが、一万人前後の町は配慮の対象にならないという論法が、要するに原子力発電所の立地が東京からの距離の遠さを力説する形で適地の判断がなされることにつながっているのである。

 原発敷地周辺の気象について、大津は「年間を通じ、西・西北西・北北西の風向分布が卓越し、いずれも敷地から海に向かう風である」、豊田は「大部分は海へ向かって吹いている」と、共通の認識を書いている。

 放射能が大気中に漏れても、海に向かって流れるので被曝の心配はない、と言いたかったのであろうが、風下地帯は常に一定ではなく、さらには原発から遠く離れていることさえも、なんら安全の担保にもなりえない。原発事故でそのことが露呈されたのである。

 調査当時の粗雑で皮相な理解に、大津の盟友だったWGメンバーの気象庁予報部主任酒井俊二は異論を挟まなかったのであろうか。

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福島原発からの距離と大熊・双葉両町の主な集落(豊田正敏『福島原子力発電所の計画概要』より)

用地買収が進んだ理由

 第1章の「Ⅴ 設置が比較的円滑に行なわれた理由」(先月号に全文引用)を読むと、立地地域の弱みにつけこまれ、絡め取られた――と表現するほかに言いようのない複雑な感情にとらわれる。

 用地買収が円滑に進んだ理由の3つ目には、①隣接地区では精農家が多く、生産意欲が大きいため反対気運があるが②対照的に当該地区は開拓農家が主体で、生産力・定着力ともに低かった(ので誘致への抵抗が少なかった)――とある。

 ここで当該地区というのは、原発に隣接する大熊町夫沢地区と、双葉町細谷地区を指す。

 「第4章 社会的側面における影響」(執筆者は前述の酒井俊二)に具体的な記述が見られる。

 大熊町夫沢地区について「比較的古くからの集落で7つの班にわけられ、このうち6班、7班のほとんどは戦後の開拓入植農家」、細谷地区については「比較対象とした4部落(他に大熊町大川原地区、双葉町下羽鳥地区)のうち最も新しくできた集落で、幕末期以降の郡山部落の本家からの分家、または山陰、北陸、北関東などからの移住者で、定着性も弱い」と書いている。

 実際の買収交渉を担ったのは1961年に発足した福島県開発公社で、「長びけば問題が続出するとの判断から」「昭和39(1964)年7月、部落公民館に大熊町の地権者を集め町長立ち会いのもと個別折衝の結果全員(290名)から承諾書を取りつけた」(第1章 Ⅲ用地の買収および補償――より)。

 補論の「Ⅰ 住民意識と社会構造の変化に関する実態調査の結果」(酒井・大津共同執筆)の「第2章 施設立地の経緯」のなかで大津は

 ①企業と部落民、特に関連部落(隣接部落)の人々に対して、原子力発電所の立地に関する充分な話し合いがもたれたという事実はなかった(部落総会での説明など)。

 ②用地買収等の直接的な折衝が、企業ではなく県の開発公社が行ったところに多少の問題が残る。

 と指摘しつつ

 ③大熊、双葉両町の場合は、部落組織の規制力(まとまり)が比較的弱い地域だったので、県や町を前面に立てた用地買収業務が円滑に進んだ。

 としている。ただ、円滑に進んだ夫沢・細谷におけるケースは例外的であり、これから立地作業に入ろうとする他の地域にそのまま通用するものではない、とわざわざ注意を促している。

 〈開拓入植農家〉という表現が『報告書(各論)』に再々登場する。生産力や土地への定着力が低い、そのことが原発の立地工作が円滑に進んだ背景として描かれている。

 福島という土地の戦後開拓・入植という歴史に気づかされたのは、飯舘村放射能エコロジー研究会(IISORA)第8回シンポジウム(2017年2月18日、福島市)における報告「福島原発の起源としての引揚と国内開拓―木村守江知事を中心に」(発表者:浅野豊美早大教授)がきっかけであった。

 以来、引揚・入植・開拓は原発がこの地にやって来た背景を考える上でのキーワードにも成っているのであるが、紙数の関係からその点検は次の機会としたい。

 関心のある方は浅野論考「移住・引揚・国内定住地としての福島と原子力発電所―地元エリート・県人会移民ネットワークを中心に」(『越境と連動の日系移民教育史 複数文化体験の視座」ミネルヴァ書房、2016年)所収(387~412ページ)を参照されたい(同書は福島大学附属図書館に所蔵されている)。

不開示処分取り消しを請求

 『報告書(各論)』不開示決定(3月15日)に対する不服申立書(審査請求書)を6月14日、福島県教育委員会社会教育課に提出した。

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『報告書(各論)』不開示に対して提出した不服申立書

 別紙の趣意書には不開示処分を取り消し、開示を求める理由として次のように書いた。

 〈「原発を受け入れたこの当時の地域社会を詳細に分析し」「立地された部落の社会状況」「原発への賛否」「地域の建設労働者の動向」「財政問題」におよぶ詳細な分析を行った『各論』は、立地地域の浜通りが巷で言われるような両手を上げての誘致であったのかということや、立地の背景にどのような力学・政策が働いていたのかを、当時にさかのぼって知る上で、県民とりわけ浜通りの人たちにとって有用と思われる〉

 〈『総論』『各論』ともに原発推進目線で書かれたものではあるが、一般への閲覧・利用に供されることの公益性は大きく、多くの人に読まれるべきと考える〉

 その上で、『報告書(各論)』の現在の所有者である原産協が、県立図書館に求めた〈公にしない条件〉に関し、県立図書館側はその求めの合理性や妥当性を充分に検討・吟味することには踏み込まず、原産協の言い分を丸呑みしたと類推するに足る事実を列挙し示した。

 請求に当たって県情報公開条例と、その解釈運用基準を読み直した。県条例「第1章 総則」の第1条(目的)にかかる解釈運用基準は、公文書開示制度の欠点(限界)について次のように記している(要約引用)。

 ①県民が開示請求をしない限り、開示されない。

 ②開示対象が公文書そのものであり、県民にとって理解しやすいものではない。

 ③開示対象者だけにしか提供されない。

 これでは地方自治への参画を進める上での広報効果は期待できないので、

 ④実施機関は、開示請求を待つことなく、県民が必要とする情報を的確に把握し、積極的に公表・提供することにより、県民が迅速・容易に情報を得られるようにする。解釈運用基準はこのように指針を定めている。

 『報告書(各論)』が公文書と見なされなければ開示対象云々の議論の俎上にさえも上らなかった――とした図書館副館長の発言は、まさにこの指針への無理解から発したものと言えよう。

 原発が浜通りにやってきた背景や、住民の懐柔がどのように行われたか、立地地域の住民が望んだから原発が来たのか、こうした疑問のいくつかは、この報告書を読むと答えが見えてくる。

 開示請求などしなくて済むような自由な図書館が求められる。

 なお、「報告書は今も大熊町にあるはず」(2021年1月27日付河北新報)と岩本は記事の中で触れている。立地地区と周辺集落の住民の協力により出来上がった成果物たる報告書は事の性格からいって懇談会委員のみならず、専門委・WGのメンバー(県企画開発部開発課長・開発主任主査も加わっている)にも配付されたと考えるのが至当と思われる。さらに言えば、大熊・双葉の住民にこそ、その内容はフィードバック(還元)されるべきものと言えよう。

 おわりに、この稿のなかでは触れなかったが、烏賀陽弘道著『福島第一原発 メルトダウンまでの50年―事故調査委員会も報道も素通りした未解明問題』(明石書店、2016年)、松谷彰夫著『裁かれなかった原発神話―福島第二原発訴訟の記録』(かもがわ出版、2021年)を参考にさせていただいた。

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こばやし・しげる 1951年双葉町生まれ。77年、北海道洞爺湖の有珠山噴火に遭遇。以来88年の北海道・十勝岳噴火、92年の能登半島沖地震、96年の北海道駒ヶ岳噴火等もっぱら火山災害取材にあたる。2000年、読売新聞福島支局長。03年、水戸支局長。


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