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曾我兄弟の仇討―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載98

 源平の合戦が始まる直前の西暦1170年代。伊豆の伊東(静岡県伊東市)に伊東祐親という武士がいた。本来、伊東は工藤祐経という武士の所領だったが、工藤祐経が上洛している間に伊東祐親がこれを横領してしまう。恨みを抱いた工藤祐経は、伊東祐親の暗殺を画策。京から伊豆に刺客を送り込んだ。刺客は隙をみて伊東祐親に矢を放ったが、隣にいた息子の祐泰を誤って射殺してしまった。祐泰には十郎と五郎という息子がおり、のちに曾我十郎、五郎と名乗るようになる兄弟は「工藤祐経は父・祐泰の仇だ」と、命を付け狙うようになる。

 やがて西暦1180年代に源氏による平家追討が始まり、平家に味方した伊東祐親は源頼朝に敗れて自害。一方、源氏に与した工藤祐経は頼朝から信頼され、側近として目覚ましい出世を遂げた。伊東を取り戻しただけでなく、全国に領地を与えられた祐経。その中に安積郡(郡山市)も含まれていたとされる。鎌倉幕府の公式記録には「工藤祐経が安積を領した」という記録はないので真偽は不明だが、やがて祐経の子孫が安積郡に入植するのは確かだ。

 それはともかく、鎌倉幕府は建久4年(1193)頃には盤石の体制となる。頼朝はこれまで尽力してくれた側近らの慰労を兼ね、同年5月に富士山の裾野(静岡県)で狩猟の会を催すことにした。もちろん祐経もこれに同行している。ところが5月28日の夜。狩りを終えた一行の宿舎に曾我兄弟が乱入。祐経は父の仇として殺害されてしまった――。これが後世、赤穂浪士や荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘とともに〝日本三大仇討〟として並び称されるようになる〝曾我兄弟の仇討〟である。以後、工藤祐経は長いこと忠臣蔵でいえば吉良上野介のような敵役として、芝居などで扱われるのだが、近年の研究により曾我兄弟の凶行は単なる仇討ではなかったことが判明した――。まず兄弟にはもう一人、小次郎という兄がいた。小次郎は早くから京の公家・藤原範季の家来として仕えていた。この藤原範季は、かつて源氏が没落した際に源範頼(頼朝の弟)を養育していた。また藤原範季は後鳥羽上皇の側近でもあった。後鳥羽上皇は幕府を敵視し「なんとか幕府を意のままに」と、秘かに願っていた。が、幕府のトップが頼朝のような切れ者では操るのは不可能。頼朝に比べたら凡庸な範頼が将軍になれば好都合だ。そこで上皇の意を汲んだ藤原範季が〝頼朝暗殺〟を計画。小次郎(兄)を介して曾我兄弟(弟)を動かし、仇討にかこつけて頼朝を殺そうとしたのだ。現に兄弟は祐経を殺した後、仇討とは無関係な頼朝も襲おうとして失敗している。そして鎌倉に戻った頼朝は、弟の範頼を処刑している。つまり工藤祐経は頼朝を守ろうして、身代わりになって命を落としたのだろう。(了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。



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