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白河結城氏の台頭|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載125

 南北朝時代の西暦1353年(南朝・正平8/北朝・文和2)5月、奥州南朝の拠点であった宇津峰(郡山/須賀川)が陥落した。これで奥州における南北朝争乱は終結、北朝によって陸奥国には平穏な時が訪れるはずだった。だが14年後の西暦1367年(南朝・正平22/北朝・貞治6)に異常な状況に陥る。

 まず、全国の北朝を束ねていたのは足利氏。足利氏は奥州管領という役職を設置し、陸奥国の統治を一任していた。ところが西暦1367年に奥州管領を名乗る者が4人も出現。吉良満家、畠山国詮、斯波家兼、石橋棟義の4人だ。4人はそれぞれ「正統な奥州管領は自分だ」と主張して抗争。これをみた奥州の武士たちは「4人とも従うに値しない」と見限った。結果として奥州管領の地位は失墜し、武士たちは新たな権威を求めるようになっていく。そんななか当時の福島県でもっとも勢力を伸ばしたのが白河搦目城主の結城氏だった。

 かつて南朝が健在だった頃、その中核を担っていた白河結城氏。しかし西暦1342年(南朝・興国3/北朝・暦応5)頃から南朝の衰退が顕著化すると、時の当主・結城親朝は「このまま南朝に従えば我が一族は滅びる」と憂慮するようになった。悩み抜いた末に親朝は西暦1343年(南朝・興国4/北朝・康永2)6月、ついに北朝に転じることを決意する。この報に接した時の北朝総帥・足利尊氏は大喜び。なにしろ結城氏は奥州だけでなく常陸国(茨城県)や下野国(栃木県)にも影響を及ぼす大勢力だったからだ。そこで尊氏は寝返りの見返りとして、親朝を〝八郡検断〟に任じた。


 検断とは軍事権と警察権を合わせた権限のこと。これを親朝は白河、高野(東白川)、依上(茨城県大子町)、石川、岩瀬、田村、小野(小野町)、安積(郡山市)の八郡で行使できるようになったのである。たとえば、もし八郡で様々な騒動が起こったら警察権をもつ結城氏がこれを裁くことになる。また戦が起こり結城氏が出陣を命じたら、八郡の武士たちは結城氏の指揮下に入らなければならない。つまり結城氏は検断として事実上、八郡を支配下に置くことになったわけだ。

 親朝は検断就任から5年後の西暦1347年(南朝・正平2/北朝・貞和3)に病没。子の顕朝が跡を継ぐとともに八郡検断も引き継ぐ――。このころ八郡を合わせると総勢1万の兵を動かすことが可能であった。この数には奥州四管領の誰もかなわない。おまけに八郡検断は足利氏が任じた役職であり奥州管領と同等だ。

 そのため西暦1367年頃には多くの武士が顕朝に靡くようになり、中通りだけでなく会津や岩城(いわき市)も影響下となる。やがて室町時代となり足利氏が絶頂期を迎えると、これを背景に白河結城氏も一段と力を強めていくのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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