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県立図書館が非公開にした 「福島原発立地地域の調査報告」(元新聞記者 小林茂)

(2021年6月号より)

 浜通りの大熊・双葉両町が原発適地とされた背景や、立地に至った経緯を多角的に調べあげた報告書が福島県立図書館に眠っている。同図書館は〈公にしない条件で入手したため〉との理由で、閲覧はもとより内容照会にも供していない。情報公開請求も同じ理由で開示不可とされた。報告書に依拠して書かれた『大熊町史 通史』(1985年)の電力の章を読むと、原発過酷事故につながる伏線が、調査の行われた約50年前すでにあったことが浮かび上がってくる。報告書には何が書かれているのかを探り、非公開の裏側を検証する。

原発立地の指南書

 報告書は『原子力発電所と地域社会―地域調査専門委員会報告書(各論)』(以下、『各論』)といい、国の原子力政策の受け皿として産業界を中心に1956(昭和31)年結成された「日本原子力産業会議」(現在の「日本原子力産業協会」。以下、原産協)が、東電福島原発の運転開始前年1970(昭和45)年8月にまとめたものである。(※1

※1 福島原発、とだけ書いたが、当時建設が進んでいた福井県の関西電力美浜原発と東京電力福島原発(ともに1966年12月着工)とをモデル地点とし、共通の調査項目に沿って調べ、比較対照する形で取りまとめが行われている。

 要約版の『原子力発電所と地域社会―立地問題懇談会地域調査専門委員会報告書』(1970年6月、以下『総論』)の方は県立図書館の震災ライブラリーに収められ、閲覧・貸出にも供されている。

 『総論』まえがきには、調査の目的について①原発建設が地域に与える影響を把握して②問題点を解明し③それらに基づいて今後の原発設置が円滑に進められること(に役立てる)――と記されている。つまり、原発草創期のこの報告(総論・各論)は、その後続々と造られる原発立地の指南書としての性格も有していた。

 県立図書館での『各論』発見(ただし現物に触れることはできていない)から今までの経緯を表1に示した。『大熊町史 通史』電力の章における批判的な考察に触れて以来探し続け、『総論』があるならもしかして『各論』も――と、リファレンス(資料調査)窓口で題名を告げたら、いともあっけなく存在がわかったのだが、それから先のあらましは表1のとおりである。

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震災資料としての『各論』

 国立国会図書館では確認できなかった『各論』がなぜ県立図書館にあったのか。そのわけは、震災・原発事故と無縁ではない。3・11以降、震災遺産の保全活動の中核となっている県立博物館などと同様、県立図書館もまた、放っておけば失われてしまう震災・原発事故関連資料の収集・回収に取り組んでいる。

 先に触れた震災ライブラリーを構築するための収集過程で、原産協の電子図書室で『各論』をみつけたという。

 少々脇道にそれるが、日本近現代史の研究者・中嶋久人さんは震災後間もなく『各論』をみつけ、ブログにその経緯を記している。

 2011年4月15日付けのブログ「福島第一原発を受け入れた地域社会を分析した『原子力発電所と地域社会』」の冒頭には〈福島第一原発について、受け入れた地域社会の状況を事細かに分析した『原子力発電所と地域社会』(各論編)(1970年8月)を日本原子力産業協会の電子図書室で発見した。(中略)『大熊町史』が依拠した文献であったが、国会図書館には総論編しかない。そこで、入手を断念していたのだが、偶然、日本原子力産業会議のサイトをみて、電子図書室をみつけた〉と書かれている。

 580ページの大冊であることや、目次の簡略紹介に続き、〈総論編はそれほど興味深いものではないが、各論編は、原発を受け入れたこの当時の地域社会を詳細に分析している。原発が立地された部落の社会状況、原発への賛否、地域の建設労働者の動向、財政問題にわたるまで、詳細な分析となっている〉と記し、次のように結んでいる。

 なお、むしろ、この地域の人々のほうが、この資料をみたほうが、よりよいであろう。現在、強制的に避難されており、なかなかインターネット環境にも接することすら難しいと思うが、できれば、直接本資料をみていただきたい。また、福島第一原発の運命を懸念している人々にも、みてほしいと思う。

 このブログに気づいて、私がアクセスを試みた2015年ごろにはID・パスワードがないと入ることができなくなっていた。

 察するにギリギリのところで県立図書館の担当者はアクセスし『各論』をみつけることができたのだろう。そのうえで原産協に事後承諾を得ようとした際に〈当分の間公にしない〉条件を付された。この間のいきさつはどうやらそういうことのようだ。

 なお、中嶋さんが自らのブログを媒介として福島原発を取り上げた論考『戦後史のなかの福島原発―開発政策と地域社会』(大月書店、2014年)は『各論』をはじめその前後に行われた福島原発立地地域周辺の各種調査の詳細な言及と考察がなされている。

納得しかねる不開示理由

 開示を求めるにあたって、県立図書館の収蔵資料が果たして開示対象に当たるかどうか、一抹の不安があった。県情報公開条例の解釈運用基準に〈歴史的若しくは文化的な資料又は学術研究用の資料として特別の管理がされているもの〉は開示対象の公文書に当たらない旨規定されていたからだ。

 請求が門前払いにならなかったのは、副館長(3月17日面談時の説明)によれば「目録を作っていなかったから(公文書とみなされた)」。解釈運用基準は〈特別の管理〉として三つの要件を規定し、そのすべてを満たすことを求めているが、そのうちの〈資料の内容、所在を明らかにする目録を作成、公にすること〉の作業を怠っていたらしい。

 適切に処理していれば、開示対象か否かの議論になることもなかった――副館長は、そう言いたげであった。

 さて、原産協の意見書である(県立図書館に届いたのは2月17日)。「個人が特定できる情報が含まれているので公開しないでほしい、とあった」という。

 この回答を合理性ありと判断し(不開示を決め)た根拠はなにか。不開示とした3月15日までの間、内部でどのような議論があったか。そう問うたが「(原産協の)非公開意向を尊重した。納得に足る理由の有る無しには踏み込んでいない」と、とりつく島のない答えがかえってきた。

 解釈運用基準を読むと〈当該情報が現に公にされていないというだけでは足りず、その性質に照らし、公にしないことが社会通念上相当と認められること〉〈公にしない条件をつけることが合理的と認められる場合に限り不開示とする〉とある。

 この間のやりとりからの印象ではあるが、図書館側が果たしてこの基準に則って適切な吟味を行ったかは疑わしい。

不開示決定通知書

福島県教委の不開示決定通知書

『各論』の中身

 『各論』にはどのような事柄が書かれているのだろうか。

 中嶋さんのブログによれば、第1部「福島原発」、第2部「美浜原発」、補論の3部構成。

 福島・美浜両原発に関して、設置の経緯/建設計画と進捗状況/地域の概況/社会的側面における影響/経済的側面における影響/自治体財政と地域関連事業/観光と地域開発問題――の共通7項目を設定。

 補論は、住民意識と社会構造の変化に関する実態調査の結果/農業への影響に関する調査報道/鮮魚小売商における水産物流通構造の調査結果/地元出身労務者アンケート調査結果/福島原子力発電所建設労務者実態とその消費動向――の5項目について第1部・第2部の基礎データが収容されているようだ。

 ここでは主に『大熊町史 通史』の「第4章 電力」を手がかりに探ってみたい。

 第4章は、相双地方における地域電力会社の推移を概観した①前史、続いて②原子力発電所用地の選定③原子力発電所の立地調査④原子力発電所の建設⑤原発の事故――の5節から成っている。

 ②の用地の選定には、漁業補償に関連して、原発予定地の地先海面が好漁場であり、生業が失われることへの不安や、放射能による海洋汚染の恐れから反対があったが、東電・県開発公社が「放射能による危険はない」「冷却水の温度差による大きな被害は考えられない」と強調し、一応の解決をみた、と書かれている。そのうえで、原発立地が円滑に進んだ理由として次の4点を挙げている(表2参照)。

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※2 1958年作成された「建設基本計画書」を指す。基本計画の構想には〈二三男対策に重点を置き、就業職の斡旋、海外移民等、町外への飛躍を図る〉〈大工場、事業の誘致は至難であり、労働力の余剰は…町営事業を悉皆失業対策化して、その救済を図る〉などの文言があり、〈脆弱な財政基盤での町政運営、その負担や我慢は、町民が担わざるを得ない苦しい状況だったことも容易に想像できる。特に住民の雇用や税収基盤の安定をはかるための工場・事業所誘致は、当初から困難としていた〉として原発建設計画が容易に進められた背景が構想から読み取れる――としている。(大熊町職員労働組合自主レポート「原発とともに歩んできた大熊町のすがた」2012年より抜粋引用)


第4章「筆者」の鋭い指摘

 ところで、もっと早く触れるべきであったが、この章を担当したのは岩本由輝さん(執筆当時は山形大学教授)で、いまは南相馬市に暮らしている。

 その岩本さんに河北新報が取材した6回連載「談(かたる) 人生・仕事」(1月19日〜2月3日)。

 1月27日の4回目「福島第一原発の誘致 ありのままに記す」は①『大熊町史 通史』編纂に関わることになった経緯②大熊町が原発を受け入れた背景③福島県周辺では400年に一度程度しか大地震は起きず、原発敷地周辺でも顕著な被害の記録は見当たらないとし、原発立地に適しているとした『各論』の認識の問題④1973年に起きた放射性廃液流出事故――についてインタビュー形式で書かれている。

 福島第一原発が全基稼働に入っていた当時、当たり障りなく書かれることの多い自治体史のなかで、岩本さんの堂々の論陣は際立って映った。記事には〈2011年3月の福島第一原発事故後、町史を読んだ方から「当時、よく原発の原稿を載せることができましたね」という電話を頂きました〉と書かれている。私が『大熊町史 通史』に関心を抱くようになったのも、原発を抱える自治体にあって、電力の章には堂々の批判精神が存在していたからであった。ほどなく、筆者が岩本由輝さんであることを知った。

 ①の町史編纂では〈電力の項目は私たちの考えではなく、町が設けました。私は原発誘致のありのままを伝えたいと思い、淡々と記しました〉②の原発を受け入れた背景については〈開発が遅れた浜通りは企業を誘致しようとしても原発ぐらいしか来ない地域でした。「地元が原発を歓迎した」と言われますが…近代化をとおして集落は行政の下部組織に改組され、上位下達で国の意思を通すのはたやすくなったのです〉と語り、その分析は脚注2に引用した大熊町職労自主レポートの認識とも重なる。気をつけて読むと、自主レポートは町史をベースに書かれているようなので問題摘出と分析の有り様が共通なのは当然なのかもしれないが。

 さて、福島県や大熊町・双葉町の地震について、『各論』には次のように書かれている。

 福島県周辺においては、強震以上の地震は約一五〇年に一度、烈震以上のものは約四〇〇年に一度くらいの割合でしか起こっておらず、福島県周辺は地震活動性の低い地域であるといえる。したがって福島県周辺で過去に震害を受けた経験も少なく、とりわけ当敷地周辺においては、特に顕著な被害を受けたという記録は見当たらない。(第4章「電力」原子力発電所の立地調査――所収)

 地震が少なく、被害記録もなく、原発立地に適している――という含意なのだろうが、震災原発事故を経た今となっては、いったいどこからこのような安全論を持ち出してきたのか不思議でならない。

 400年の意味について〈慶長三陸地震・津波(1611年)からちょうど400年目に東日本大震災が起きたのは、歴史の皮肉です〉〈原発建設地は平均標高35㍍の海岸段丘ですが、20㍍以上切り崩して整地しました。津波が来ても、原発が水をかぶらないようにする配慮は欠けていました〉と岩本さんは取材に対し語っている。

 記事にはないが、岩本さんは震災後、2011年から逆算して400年前の当時に東北地方の太平洋岸を広く激しく襲った地震・津波がなか
ったかを調べ、東京天文台編「理科年表」第44冊(1970年)のなかで慶長三陸地震・津波が起きていたことを突き止めたのだと論考(※3)に書き、年表より〈三陸地方で強震、震害軽く、津波被害大、伊達領内で死一七八三人、南部、津軽で人馬死三〇〇〇余り云々〉を引用紹介している。

※3 年報 村落社会研究51『災害と村落』第6章 東電福島第一原発に大熊町と双葉町が睥睨されるまで-設立経緯と内包された問題(日本村落研究学会、2015年)

 この論考には〝400年〟記述が、『各論』第1部・第1章 福島発電所設置の経緯――に出てくることや、執筆者名にも言及している。興味深いのは、美浜原発に関する第2部で同じ筆者が〈福井県近辺では、強震以上の地震は約八〇年に一度、烈震以上は約一七〇年に一度くらいの割合で起っており、福井県近辺で過去に震害を受けた経験は必ずしも少くないが、敦賀付近は福井県近辺のなかでは例外で、かつて震害らしいものは経験したことがないようである。これは地盤条件の差によるものと思われる〉と記したくだりである。

 岩本さんは〈この論法で行けば、どこでも原発の適地となってしまう。(中略)地震に関する判断の記述を〇〇(原文は実名)のようなそれこそ紛うかたなきド素人にまかせておくことがまかり通っていたのであるから恐ろしい限りである〉と容赦ない。まったくそのとおりである。

多くの人に読まれるべき

 第一原発のある辺りは、子どもの頃、双葉町(途中までは標葉町といっていた)から里山を越えて出かける遊び場だった。

 ガキ大将を先頭にヌラリッポと地元では呼んでいたキノコ(アブラシメジ)を採りに行ったり、柏もちを作るための柏を採りにわざわざ出かけたりもした。飛行場跡を利用した塩田はすでに休業していたと思うが、滑走路だった辺りを掘り返すと時々機銃弾がみつかることもあった。

 自分の土地ではないのだが、原発立地話を知った時に思ったのは、遊び場を盗られる――だった。

 福島県議会で原発誘致の議論が始まったのが、双葉南小に入った年だった。1号機着工は双葉高校に入った年だった。節目節目に原発の姿があった。

 原発建設用の産業道路の機能を持たせるためだったのだろう、直線的に切り開かれた国道6号は、しばらく弾丸道路と呼ばれていた。一直線ならこの道の先に東京が見えるかもしれない、とバカな空想をしたものである。

 原発でふるさとは本当に豊かになれるのだろうか?と思い始めたのは中学生のころだったと思う。

 『各論』にこだわっているのは、東京や大都市圏に置けない原発が、なぜ福島へ浜通りへやって来ることになったのか、その一部始終が原発推進目線ではあるがこの中に書かれているからだ。多くの人に読まれるべきだと思う。

小林茂さん

こばやし・しげる 1951年双葉町生まれ。77年、北海道洞爺湖の有珠山噴火に遭遇。以来88年の北海道・十勝岳噴火、92年の能登半島沖地震、96年の北海道駒ヶ岳噴火等もっぱら火山災害取材にあたる。2000年、読売新聞福島支局長。03年、水戸支局長。



● 日本原子力産業協会「非公開」の言い分
(ジャーナリスト・牧内昇平)

 問題の報告書を作成した「日本原子力産業会議」は原子力の開発と平和利用の推進を目的に、1956年に設立された組織だ。初代会長の菅禮之助氏は、東京電力の会長を務めていた人物。2006年に改組し、現在の組織名は「日本原子力産業協会」(原産協)になっている。協会のホームページによると、今年5月18日現在の会員数は386社。電力会社など原発関連企業のほか、大熊町や福井県高浜町などの原発立地自治体も加盟している。

 原産協はなぜ、福島県立図書館に報告書『各論』の非公開を求めているのか。電話で問い合わせてみると、担当者は次のように答えた。

 「『各論』が非公開なのは、地域の調査内容をとりまとめたものであり、執筆者や調査対象となる地域住民の個人情報が詳細かつ広範囲にわたって含まれているためです。そもそも『各論』は『総論』の根拠となる内部資料として作られており、当初から非公開とされてきました。『各論』は当協会にも所蔵していますが、記者の方の閲覧要望を受けても、非公開という我々の判断は変わらないだろうと思います」

 個人情報がネックということか。それならば、個人情報が含まれているページだけ「黒塗り」にして読めないようにし、部分的に開示すればいいのではないだろうか。そのように指摘したが、担当者は「ご意見としては承っておきます」と答えるばかりだった。

 福島第一原発は未曾有の大事故を引き起こした。なぜ、福島県の相双地方に原発立地の白羽の矢が立ったのか。原発は立地地域にどのような影響を及ぼすことが予想されていたのか。それらの疑問をあらゆる角度から検証していくことは、再び原発事故を起こさないためには不可欠な作業ではないだろうか。今さらになって往時の資料を「非公開」とする原産協の対応は、社会的に許容されるべきではないだろう。

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まきうち・しょうへい。39歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。


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