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【熟年離婚】〈男の言い分66〉

三十過ぎの娘、息子がすねかじり、妻は無関心。どこで子育てを間違えたのか、どこで夫婦の平行線がずれたのかーだね。


 K氏、61歳。元・会社員。昨年8月、2歳下の妻と離婚。


 私の家族は、街で美容院をやっている妻と、34歳の娘、32歳の息子は無職で親のすねかじりでした。

 私が結婚したのは26歳の時。2歳下の妻は美容師でした。私は当時、印刷会社の制作部でデザインを担当していたんですが、今の「働き方改革」なんて無かった時代ですから、毎日毎日、夜遅くまで働いていましたよ。そんな時に“合コン”で知り合ったのが妻です。「将来は自分の店を持つのが夢」という彼女の明るさ、逞しさがまぶしかったですよ。翌年に娘、2年後に息子が生まれました。アパート暮らしをしながら、子供達を保育所に預けて共働き。マイホームを造るのを夢見て―と、どこにでもあるごく普通の家庭でした。ところが、子供達が20歳を迎えた頃から、「普通」じゃなくなった。早く言えば、娘も息子も、自立する気の無い引きこもりになったんです。

毎日の父子喧嘩、妻、放任

 娘が高校を卒業する頃、妻は、それまで勤めていた美容院のオーナーの引退後、店を継ぐことになって張り切っていました。娘は、「将来はお母さんの後を継ぎたい」と美容学校に入ったものの、半年足らずでやめてしまい、その後、コンビニや居酒屋のアルバイトをするが、3カ月も持たない。「そんなことでいいのか」と私がいくら叱っても、うるせーな、という顔をするだけ。その後も、何かパートをやったり辞めたりをくり返して、25、6歳を過ぎた頃からは何もしないで家でゴロゴロですよ。妻の美容院は大繁盛で、彼女は、家のことには無関心。娘のことも「そのうち自分で何とかするでしょうよ」と―何とかなる様子じゃないから心配してるのに。もう、毎日のように父子喧嘩、夫婦喧嘩でしたよ。そこにまた困ったことに、息子もすねかじりを始めたんです。

 彼は、高校時代から“文学”好きで小説を書いたり、同人誌に“作品”なるものを出したりしていたんですが、“小説家”を目ざして、東京の大学の文学部に進みました。―ここまでは、親の私もちょっと応援する気持ちになっていましたが、その後がまずい。彼が大学3年生の時に、中央の文学同人誌に応募した小説で「新人賞」を取ったんです。私には、その同人誌の賞の値打ちなど皆目分かりませんが、本人は天にも昇る喜びだったんですね。―妻も本人以上の喜びようで、美容院の客やら親戚やら近所やらに自慢しまくっていたようです。―ここまでは、わが家にも小さな春が来るかな、と思いましたよ。―ところが、息子は、東京ぐらしが性に合わない、静かな環境で創作したい、と言って勝手に大学を辞めて家に帰って来てしまったんです。妻は「モノを書くって、そういうものよ」なんてわかった風のことを言って息子を迎えましたが、私は断固反対。そんな甘いことってありますか? 息子をガンガン叱ったら、息子はじめ、妻と娘に白い目で見られて―それからというもの、私だけ家族の中で“除け者”の空気になっていきました。仕事の帰りに、行きつけの飲み屋でひとりで夜を過ごす時が一番幸せでしたよ。

 そのまま時が経って、息子は30歳を超えましたが、相変わらず、部屋にこもって“小説”なるものを書き続けては、あちこちに応募したりしているようですが、“受賞”のニュースがさっぱり無いのは、「小説家の母」なる妻がシン、と静かなことでそれとわかります。

 娘も相変わらず、家でゴロゴロしていましたが、モノ好きの親戚が縁談を持って来たんです。意外なことに、娘は乗り気で見合いしたんですが、翌日、速攻で断りの返事が来ました。父親の私が言うのも何ですが、一生懸命、生きて行こうとしなかった女は、一目見ればそれとわかる。どんなに美人でも誰だって嫁にしようとは思いませんよ。―娘は残念ながら私の顔に似て、お世辞にも美人じゃないから、なおさらですよ。しかし、彼女は、人生の大転換を図ったのか、結婚願望に目覚めて、もっと見合いをしたいと言い出したんです。―ふだん、家族には興味のない息子が、そんな姉に向かって、「姉ちゃん、自分の顔、鏡でよーく見て見ろよ、三十過ぎてその顔で、デブで、嫁に行けると思ってるの?」と言ったから大変。彼女は泣きながらキッチンの椅子を振り回して大バトルになりました。それを必死で止めながら、私は不謹慎ながら笑ってしまいました。喜劇ドラマのようでね。




中年引きこもり2人

 仕事を終えて疲れて家に帰ると、ダイニングキッチンにも居間にも誰もいない。娘も息子もそれぞれ2階の自分の部屋に引きこもって、コンビニ弁当を食べている。妻は夜8時過ぎまで仕事から戻って来ない。冷蔵庫のものをかき回して、チンして、ひとりで晩酌。日曜日は娘、息子らが居間でテレビを見ながらゴロゴロ。父親にいつもの説教をされたくないと思う、反抗的な目で私をチラ見する。くつろぐ気持ちになれるはずないでしょう。妻は、それなりに子供達と仲良くやっていたようですけどね、何をしても叱らない、〝いいお母さん〟だったんでしょう。

 私の60歳の定年を間近にして、妻と話し合ったんです。娘、息子をどうしたものか―妻は「そのうち、目が覚める」と娘のことは言い、「息子はそのうち芥川賞とかを取るかもしれない。このまま小説を書かせてやるのが親の務め」の一点張り。「そんなことを言っている時じゃない。人生も終わりに近いんだ」と言っても、「あんたは勝手にしたら? 子供達は私が引き受けるから」と。これから妻も年を取っていくばかり。いい年の娘、息子を背負って、自分が動けなくなったらどうするのか。こうなったのは、親である自分達にも大きな責任がある、と話したんですよ。―ところが妻は、聞く耳を持たない。「私がいいんだからいいでしょう。あんたと違ってまだまだ稼げるし」と。「この家のローンを払い終われたのも、私のおかげでしょうが」と。トドメに「あんたは、髪結いの亭主で良かったね」と。これは終わりだと思いましたね。娘と息子に離婚の話をしたら「二人の思うようにしたら」と淡々。それでも、息子は「今に作家になって恩返しするよ」と。仕事をして自立するのが最高の恩返しなんだけどね。

 結婚以来、二人で頑張って来たつもりだけど、夫婦が平行線で進むとして、どこで二本の線の角度が変わって離れていくのかなぁ、と思います。「子育て」もどこかで間違えてしまった。世間で80歳の親にすがる50歳の子供の話をよく聞きますが、他人事じゃないですよ。子供達をあんな風にしてしまったのは、親である私と妻の大きな間違いでした。

 私は、小さな家を借りて、会社の仕事の下請けをするデザイン事務所を開いたところです。妻の店は繁盛のようです。息子は相変わらずのようですが、娘は、介護施設のパートタイムを始めて5カ月続いているそうで、「人の役に立ってるっていいね」と言っているとか。私が抜けた家族に、新しい春が来ることを願っていますよ。そして、妻が動けなくなったら、私が支えてやるつもりです。娘、息子がこれからどうするかも見ていくつもりです。ハハハ、自分がボケたり動けなくなったりしない、って思っているところが、自分でも笑えますよ。(橋本 比呂)


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