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みちのくの名門・相馬氏の誕生―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載100

 今回もまず鎌倉幕府を現代社会に置き換えて解説したい。〝武士=農園経営者〟とすると、鎌倉幕府とは農園経営者たちが設立した農業組合ということになる。そして組合の事務局長を務めていたのが北条氏。本来は農園経営者の一人だった北条氏は事務局長の権限を利用し、自社の農園を拡大していく。結果、北条氏は北条農園グループという巨大企業へと成長。鎌倉農業組合の組合員より、北条農園グループの社員のほうが多くなった。すると〝グループの社長が日本でいちばん偉い〟という状況になる。と、ここで力を持ってくるのが社長秘書。秘書は〝社員の要望を社長に取り次ぐ役〟であり、秘書と不仲になったら重役でさえ社長に御目通りが叶わなくなる。そのため最終的にグループを支配したのは秘書となった。なお、秘書のことを当時は〝内管領〟と言い、長崎氏が世襲していた。この内管領・長崎氏に振り回されたのが相馬氏である。

 相馬氏のルーツは相馬御厨(千葉県流山市の周辺)であり、行方郡(南相馬市)は飛び地領として扱われていた――。4代目の相馬胤村は、文永9年(1272)春に遺産の分配を発表。分家となる子供たちに領地を分け与え、分家を率いる本家の5代目当主は、長男の胤氏と決定した。が、ここで騒動が起きる。胤村には妻が2人おり、最初の妻とは死別。後添えとして阿蓮という女性を妻に迎えていた。ちなみに5代目に指名された胤氏は先妻の子。この決定を後妻の阿蓮が不服とし「わが子・師胤(六男)を5代目に」と騒ぎ出したのである。騒ぎを収めるべき胤村は文永9年8月に死去。相馬の跡目争いは、鎌倉農業組合が処理することとなった。相馬氏も組合員だったからである。しかし前述のとおり、すでに組合は機能を失いつつあり北条農園グループを頼ったほうが早い。そこで阿蓮は長崎氏に仲裁を求めた。すると長崎氏は「阿蓮の申し出の通り、師胤を5代目とする」との判決を下す。こうなると今度は胤氏が判決を不服とし、永仁2年(1294)に飛び地領の行方郡へ勝手に移住。「ここで相馬一族から自立する」と言い出した。このころ相馬御厨の土地をほとんど分家に分け与えていた本家にとって、行方郡は貴重な本家領だ。失うわけにはいかない。そこで阿蓮が再び長崎氏を頼る。この時も長崎氏は阿蓮を支持し、永仁5年(1297)に胤氏の領地を没収した。これで阿蓮ら本家は一安心、というわけにはいかない。長崎氏は没収した胤氏領を、グループ社員だった結城宗広(白河)に与えてしまったのだ。「これ以上、本家領を失うわけにいかない」と考えた本家は元亨3年(1323)に、ついに行方郡へ本拠を移すことにした。

 こうして〝みちのくの名門・相馬氏〟が誕生するわけだが、その背景には阿蓮という女性の〝母としての執念〟があったのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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