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「伝承館」はなにを伝えようとしているのか(ジャーナリスト牧内昇平)

展示内容の可視化で分かったダメさ加減


 昨年9月にできた「東日本大震災・原子力災害伝承館」(双葉町)。開館以来、多くのメディアが展示内容への批判を展開しているが、議論はなかなか深まらない様子だ。よりよい施設にするためには、具体的な展示内容をオープンにし、実際に足を運んでいない人も含めて議論できる環境を作る必要がある。伝承館の展示内容の「見える化」を、本誌で試みる。

 伝承館の課題については、本誌先月号の記事「反省と教訓が一切伝わらない『伝承館』」が詳しく書いている。福島大学共生システム理工学研究科の後藤忍准教授による「事実を伝えられる世代が健在なうちに展示内容を見直すべき」という指摘は、もっともである。

 筆者が心配しているのは、伝承館の「公開性」の問題だ。施設の展示内容をめぐっては、県がつくる「資料選定検討委員会」で有識者による話し合いを行ったが、その会議の議事録が非公開だったことがかねてから指摘されてきた。ブラックボックスのまま展示の中身が決められていったのだ(議事録自体は10月22日に県のホームページに公開されたが、会議で使われた資料は12月16日現在、まだ公開されていない)。

 オープン後に問題になっているのが、館内の展示フロアが「撮影禁止」とされていることだ。ニュース映像など著作権の問題が発生するものだけでなく、展示内部の風景や、館内のパネルに書かれた文章まで撮影が禁じられている。カメラのシャッター音が鳴ると、職員が飛んできて「やめてください」と注意してくる。

伝承館(多くの県民が登場)

館内で流れる映像には多くの県民も登場する(開館日に本誌編集部撮影)

見直しが求められる展示物

見直しが求められる展示物(開館日に本誌編集部撮影)

 こうしたことによって、伝承館の「あるべき姿」についての議論が喚起されにくい状況になっている。見に行った人からは「反省と教訓が伝わらない」などの意見が出るが、実際にどんな展示資料があり、どんな文章で状況を説明しているのかが白日のもとにさらされていないため、議論がその先に進まないのだ。どこをどう修正すればいいのか、どんな資料や記述を加えればいいのか、といった具体的な話がしにくくなっている。放射線量の問題などで福島第一原発近くに行くのをためらう人も多いだろう。こうした人も伝承館の「あるべき姿」について議論に加わることができない状況だ。

 そこで筆者は、伝承館の「可視化」に努めたい。展示資料そのものの紹介は難しいが、館内に掲示されている文章なら書き写して紹介することが可能だ。実際の文章をなるべく多く読んでもらうことによって、この施設のあり方を広く議論する素地を作りたいと思っている。

 まず紹介するのは、展示フロアに入る前に見るオープニング映像だ。入館料(大人600円)を払った人はこの映像を見てから2階の展示フロアに行く流れになっている。見に来た人に第一印象をもたらす映像だから要注目だ。

 5分ほどの映像には俳優、西田敏行氏によるナレーションが入る。原子炉建屋が水素爆発を起こし、放射性物質が大気中に放出されたことを指摘した後、ナレーションはこう語る。

 たーくさんの人が、避難生活を強いられました。今、皆さんがいる、この建物が立つここも、あれから長ーいこと、避難指示区域だったんだぜ。それぞれが一生懸命に、それぞれの日常を取り戻そうとする中、復興は残念ながら、まだまだ道半ば。光もあれば、影もあります。発電所の廃炉作業はまだまだ続いて、私が生きてるうちに見届けられっかどうか……無理かもしんねえなあ。震災のこと、事故のこと、復興のこと、これからの未来のこと、この場所で皆さんと一緒に考えることができたら。そう思ってます。

 いかがだろうか。筆者はやはり違和感がある。〈皆さんと一緒に考えることができたら〉と言っておきながら、原発事故がなぜ起きたのか、なぜ多くの人が故郷を奪われる状況になったのか、原因・責任を追及する問題提起に乏しい。
 特に以下の部分はひっかかる。〈私が生きてるうちに、見届けられっかどうか……無理かもしんねえなあ〉。俳優界の大御所が、甘ったるい声で語りかけるのだ。西田氏独特の「泣き笑い」の表情が目に浮かぶようである。入館直後にこの映像に出会うことで、原発事故について、「同情」や「あきらめ」といった感情が惹き起こされることにならないだろうかと筆者は懸念する。

重要な説明を欠いた展示


 ここからは実際の展示フロアに掲示された文章を紹介する。伝承館内は①災害の始まり、②原子力発電所事故直後の対応、③県民の想い、④長期化する原子力災害の影響、⑤復興への挑戦、の五部構成になっている。順番にいこう。

 「①災害の始まり」の前半は、震災が起きる前の状況を展示するフロアだ。相双地域には「相馬野馬追」や「ダルマ市」などの伝統文化があること、原発立地前の一帯の主な産業は農業だったことなどを紹介したうえで、こんな文章がある。

 戦後、農村部では農業の衰退とともに過疎化が急速に進み、また炭鉱業も衰退の道をたどりました。一方で、高度成長期を迎える中、都市部を中心にエネルギー需要が増え続け、また中東の政情不安から石油価格が高騰する「オイルショック」を契機に、エネルギーの多様化が求められていました。原発の開業は地域に雇用を生み、経済的な恩恵をもたらしただけでなく、首都圏のエネルギー供給地帯として、日本の経済発展を支えてきたのです。
 福島第一原発の建設が始まる1960年代後半まで、周辺一帯の人口は、福島県内の他の町村と同じく、減少が進んでいました。しかし、発電所の建設が始まると、双葉郡では電源立地町を中心に人口が増加に転じました。

 過疎化していた浜通りは原発ができて潤った、という趣旨のことが書いてある。逆に言えば、そういったことしか書いてない。この展示に憤りを感じているのが、元読売新聞記者で双葉町出身のジャーナリスト、小林茂さんだ。

小林茂さん顔写真=本人提供

小林茂さん(本人提供)

 「相双地域に原発が立った経緯や受け入れた地域住民の心境などが全く説明されていない」

 小林さんによると、原発近くの地域からは869年の貞観津波による堆積物が見つかっている。かつて繁栄していた集落が津波の被害を受けたという伝説も残っている。

 「歴史的に見れば、双葉や大熊は津波が襲う地域だったことを証明するものです」

 ではなぜ、この地域に原発が立ったのか。東北学院大の岩本由輝名誉教授による編著、『歴史としての東日本大震災』によれば、1970年に日本原子力産業会議が発表した報告書には、福島県周辺は「烈震以上のものは約400年に一度くらいの割合でしか起こっていない」と書かれているという。

 小林さんは語る。

 「烈震とは現在で言うと震度6の地震です。しかし400年に1度しか起きないというのは、400年に1度は起こる、ということでしょう。なぜこのような理屈で原発が立ってしまったのか。ここは重要な反省点です。伝承館では、その反省が抜けてしまっています」

 また、地元住民の間にも当初から事故への不安はあった。1985年に発行された大熊町史によると、福島第一原発では1973年に放射性廃液が建物外に流出する事故が起きた。その際、発生の22時間後まで事故の内容が町に報告されなかった。当時の助役が「怒りましょう」と町長へうったえたと、町史は伝えている。

 「こうした資料の内容をつぶさに掲示し、説明を加えていく必要があります。二度と起こさないためには、過去の検証が必要です。伝承館にはこうした指摘が全く含まれていません」

落ち度を小さく見せたい!?


 館内をさらに進もう。双葉町の「原子力広報塔」の写真パネル展示の先には、津波の映像を映し出す場所がある。それを過ぎると、原発事故と当時の行政の対応を展示するフロアに入る。来場者が目にするのはこんな記述だ。

 福島第一原子力発電所の全交流電源が喪失するという緊急事態。東京電力から原子力安全・保安院への通報を受け、政府が原子力災害現地対策本部を立ち上げました。しかし、緊急事態応急対策拠点施設(オフサイトセンター)も被災し、その機能をほとんど発揮できなくなるなど、用意されていたマニュアルのとおりに事を進めることはできず、現場での活動は大きな制約を受け、緊急事態応急対策を実施することは困難な状況でした。この時、誰も経験したことのない事態に、全ての関係者が持ち得る知恵と情報を全て集結させ、対策に奔走しました。(※傍線は筆者が加筆)

 最後の一文、事実かとは思うが、行政の「頑張り」を殊更に強調しているように筆者は感じる。当時の行政の対応と言えば、課題になったのがSPEEDIである。この部分に関する伝承館の説明は、本誌先月号で福島大・後藤准教授も批判している。実際に読んでみよう。

 緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)について

 ①国と関係道府県では、原発事故によって大量の放射性物質が放出またはおそれがある緊急事態に備え、大気中濃度や被ばく線量を予測し、その結果を地図上に示すシステム(SPEEDI)を整備していました。SPEEDIは、各原子力発電所が設置しているERSS(原子力発電所が正常に稼働しているかどうかを常時確認し、事故が起こった場合は、事故状態の確認・判断、今後の事故進展を解析・予測するシステム)から放出される放射性物質の情報(放出時刻、種類や量等)を受け取り、気象データ等に基づいて予測計算を行います。福島第一原発の事故では、全電源喪失の影響により原子炉の運転パラメーターを把握することが困難になり、ERSSからの放出源情報が入手できなくなったため、予測計算によるSPEEDIの情報は活用できませんでした。このため国は、ERSSの放出源情報ではなく、仮の値を用いてSPEEDIの予測計算を行い、その結果を、国原子力災害対策本部やオフサイトセンター、県災害対策本部に送信しました。

 ②当時、SPEEDIによる予測結果は、国やオフサイトセンターにおいて住民避難等の防護措置の判断に活用されることになっていましたが、県災害対策本部では、SPEEDI結果の取り扱いを明確に定めたものはなく、その情報を共有することができませんでした。

 ③2014年、原子力規制委員会は福島第一原発の事故を教訓として、原子力災害発生時に、いつどの程度の放射性物質の放出があるか等を把握すること及び気象予測の持つ不確かさを排除することはいずれも不可能であることから、緊急時における避難や一次移転等の防護措置の判断にあたって、SPEEDIによる計算結果は使用しないとの見解を示しました。(※各段落の番号は筆者が加筆)

 この文章は、福島県の「落ち度」を小さく見せるためのものになっていないか。

 一番長い段落①は、「仮の値を用いて予測計算を行った」という経緯の説明だ。段落③の趣旨は、「現在はSPEEDIの情報は使っていない」ということ。重要な「なぜ福島県は3・11の時にSPEEDIの情報を生かせなかったのか」ということについては、一番短い段落②で「結果の取り扱いを明確に定めたものがなかった」と軽く触れているだけである。果たして検証として十分だろうか。実際の検証結果をもっときちんと「伝承」することが、この施設の役目だと筆者は考える。

〝住民目線〟への違和感


 続く展示フロア、「②事故直後の対応」は、人びとの避難の状況や放射線への不安を説明している。ここに来ると、記述が急に〝住民目線〟になる。

 原子力発電所が危険な状態に陥ったことを受け、放射性物質による被ばくから住民を保護するため、原発周辺の自治体へ避難指示が出されました。しかし、多くの住民は事故の深刻さや、避難期間の見通し等の詳しい状況もわからないまま、避難先へと向かいました。避難が始まった後も、事故の状況変化による避難指示の拡大など、さまざまな理由で、何度も避難先を変えなければならない事態が生じました。十分な情報がない中、多くの住民が、目に見えない放射線の影響に不安を抱えながら、避難生活を送ることとなったのです。

 誰が、どんな判断で住民に避難を指示したのか。十分な情報や避難期間の見通しを与えなかったのは誰なのか。「住民」を主語にした形式的な〝住民目線〟の文章によって、責任の所在など問題の本質が問われにくくなっている、と筆者は考える。
 当時福島に住んでいた人びとの不安は察するに余りあるが、これについてはこんな文章が掲示されている。

 原子力発電所事故により引き起こされた放射線への懸念は、福島県全域の生活に大きな影響を及ぼしました。放射線が人体に及ぼす影響についてはさまざまな情報が錯綜し、特に、妊娠中の女性や子どもを持つ親にとって、被ばくへの強い不安は避けられないものでした。直接的な影響として一部の野菜や原乳、水道水から放射性物質が検出されたことで、広く県全体の農林水産業が大きな打撃を受けたほか、放射線の影響が見られなかった地域でも、工業製品の取引先から放射線の測定を要求されるなど、経済への影響も広がりました。また、放射線に対する正しい知識の欠如や誤解、情報の錯綜による「風評」も起こり、県内では先の見えない不安が広がりました。さらに、県外でも一部地域で高い値の放射線量が測定され、放射性物質汚染に対する不安は全国へ広がっていきました。(傍線は筆者加筆)

 この文章を読むと、人びとの「被ばくへの不安」は「正しい知識の欠如」や「情報の錯綜による風評」が原因だということになる。しかし、現に放射性物質が大気中に放出され、原子力緊急事態宣言も発令されている以上、知識不足や情報の錯綜を強調するのはミスリードではなかろうか。

自主避難者に言及せず


 次は「③県民の想い」の展示フロアである。原発事故が人びとの暮らしをどう変えたのかを伝えるコーナーだ。

 筆者が指摘したいのは、いわゆる自主避難者たちについてはほとんど言及がない点だ。フロア内を確認したところ、わずかに自主避難者の「二重生活」の一端を垣間見せる、避難先での住宅手続き資料が展示されているだけだった。次の文章による説明がついていた。

 福島市の夫婦と2人の子どもがいる家庭で、北海道に母親と子どもで避難をした際の住宅手続きに関わる資料です。父親は仕事の都合で福島市に独りで残り、二重生活となりました。このように避難指示区域外では、避難した人、残った人、それぞれに苦悩や葛藤がありました。

 福島県が自主避難者向けに行っていた住宅の無償提供を打ち切ったことなどはもちろん書かれていない。ずいぶん冷淡な記述ではないだろうか。

 次のフロアは「④長期化する原子力災害の影響」だ。「除染」、「風評」、「長期避難」、「健康」の4つのテーマについて取り組みを紹介している。 

 だが、実際の展示は不十分な内容にとどまっている。特に気になるのは「甲状腺検査」についてだ。展示パネルの一部では、福島県が甲状腺検査を行っていることも紹介している。しかし、肝心の検査結果については明示していないのだ。これまでに数回にわたる検査で200人以上が甲状腺がんと診断されたり、その疑いがあるとみなされたりしている。しかし、そうした事実はパネルに示されていない。実際にがんと診断された人や、子どもの健康への影響を心配する親たちが疎外感を抱く展示内容になっていないだろうか。

乱暴すぎる総括

 最後のフロアは、「⑤復興への挑戦」である。このフロアは、廃炉作業の説明を除いて震災や原発事故とは本来関係ない。浜通りにロボットなどの産業の一大先進地を作るという政府の「福島イノベーション・コースト構想」の宣伝が中心だからだ。ロボットスーツやドローンの展示は子どもの人気を集めそうだが、これが「伝承すべきこと」だろうか。

 出口近くにはこんな文章がある。

 ふくしまの未来に向けて

 東日本大震災および原子力発電所事故により、福島県はさまざまな困難に遭ってきました。苦しみをバネに新しい一歩を踏み出した人も、いまだ葛藤する人も、それぞれの形で復興への歩みを進めています。そして、ふるさとの未来に特別な想いを寄せています。

 昨年春に福島に引っ越してきた筆者は、少なくとも多くの取材先から「『復興』という言葉は使いたくない」と耳にしてきた。「『復興』とは『忘れる』ことだ。俺は原発事故を忘れることはできないし、忘れる気もない」と聞いたこともある。福島県民をひとまとめにして、〈それぞれの形で復興への歩みを進めています〉と総括してしまうのは、いささか乱暴ではないだろうか。

展示内容を見直せ

 以上、昨年9月にオープンした伝承館の展示内容について、筆者自身の問題意識も加えて、駆け足で「可視化」を試みた。もちろん、展示資料の実物や、スクリーンに映し出される大がかりな映像資料は、現地に行かないと見ることができない。実際に見学したら施設の印象は違っているかもしれない。

 だが、伝承館が何を伝えようとしているかは、資料と資料の間をつなぐ「文章」からも垣間見えてくるだろう。前述・太文字部分は館内のパネルにある文章を筆写している。全体の一部に過ぎないが、伝承館のあるべき姿、改善すべき点を考える材料にしてもらいたい。また、展示資料の一部を別表に示した。どんな資料を加えるべきか、読者の方々にも考えてほしい。

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 展示資料ももちろんだが、それ以前にこの記事で紹介してきた館内の一連の文章をどうにかしなければダメだと筆者は考える。

 まずは、誰が・いつ・何を・どのようにしたのかといった、いわゆる「5W1H」を明確にしてほしい。受身形の文章が多用されているため、事故の予防や発生後の対策について、責任の所在がつかみにくくなっている。3・11当時の佐藤雄平知事や内堀雅雄副知事、各市町村長の名前は館内の文章や映像にほとんど出てこない。館内の文章を見直し、福島県の対応を含めて検証のまな板にのせてほしい。

内堀知事③

内堀知事

佐藤雄平知事

佐藤元知事

 展示エリアの出口に、来場者が感想を書くノートが置いてある。中には「原発事故の反省、検証する姿勢が一切感じられない」などといった厳しい指摘もあったが、筆者が注目したのは、こんな書き込みである。

 たのしかったし むかしおきたこともしれてよかったです またきたいです

 子どもの筆致でこう書かれていた。震災と原発事故が起きてからまだ10年も経過していない。住む場所や生業を奪われたままの人はおびただしい数にのぼっている。そんな状況のなか、予備知識のない子どもに「たのしかった」「昔のこと」と思わせてしまったとしたら、伝承館という施設は罪深い。すぐに施設のあり方、展示内容を見直すべきである。


 まきうち・しょうへい。39歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。個人サイト「ウネリウネラ」。

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