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政経たんがちっともイーロン・マスクに期待しない話

イーロン・マスク氏が、twitter社を買収したいと報じられてから、1ヵ月半あまりの月日が経ちました。


彼はスペースXの立上げなど、実業家としては極めて優秀なのだろうとは思っております。

今回、4月にイーロン・マスク氏は440億ドルでtwitter社を買収したいと報じられました。さまざまな報道が錯綜しておりますが、縷縷述べていきたいと思います。

まずそもそも個人的に信用ならないと思ったのは、大きく分けて2つあります。それは「表現の自由の守護神と彼が自認されていること」と「トランプ前大統領のtwitterアカウントの取り扱い」です

①表現の自由の守護神と彼が自認されていること


彼は「表現の自由」を旗印にtwitter社を買収しようとしました。
彼は「リベラル勢力による報道管制」的なことを申しているのですが、それは以下の記事で詳細が述べられています。

メンツァー氏は、マスク氏の主張を、「保守派へのバイアス」と「過度の規制」という2つの論点で検証している。

「保守派へのバイアス」については、「そのような主張を裏付ける信頼できる証拠は見当たらなかった」とメンツァー氏は述べる。

ニューヨーク大学の研究チームは2021年2月、ツイッターを含むソーシャルメディアの政治的バイアスを検証した報告書をまとめている。報告書では、保守派を「検閲」しているという主張には、「根拠がない」と結論づけている。

メンツァー氏らイリノイ大学の研究チームがボットを使って行った実験でも、むしろ「ツイッターがリベラルなバイアスではなく、保守的なバイアスを持っているという証拠」を示していた、という。

さらにツイッターが同年10月に公表した、日本と欧米6カ国の社内調査でも、表示優先度を決めるAIアルゴリズムが、右派の政治家やメディアを左派よりも強く増幅する傾向があったことが明らかにされている。


「イーロン・リスク」がTwitterの「表現の自由」を損なう、これだけの理由
https://news.yahoo.co.jp/byline/kazuhirotaira/20220513-00295764

結論から言えば、彼の言っていることはあまり理由になっておらず、勇み足とも言えると考えます。
そもそも「表現の自由」とは、とてもセンシティブなものです。もちろん私はマスク氏の言葉をそのまま受け取るなら、「そのとおりだ」と言いたいです。ですが、今回の買収劇に「表現の自由」を持ち出すことに関しては「え?」と首を傾げざるを得ません。それはこのnote記事を書いていて上の報道に触れたこともありますが、上記した通り「表現の自由」はセンシティブなものです。ある程度法律の素養や政治に関わっている人からすれば、「軽々しく語ってほしくない」と少なからずの方が思っているように私は思うのです。少なくとも、お金で解決できるかと言われれば、それは人類史を見れば、火を見るより明らかと言えると考えます。

②トランプ前大統領のtwitterアカウントの取り扱い

上と関連しまして、これも非常にセンシティブなものです。
(彼は当初トランプ前大統領のアカウント復帰に否定的な考えをしていたようにも記憶していますが、ニュース記事が見当たりませんでした)彼はトランプ前大統領のアカウント復帰を肯定しています。

さらに、サンフランシスコのテクノロジー・コミュニティーから出てきた同社には強い左派バイアスがみられると指摘。「もっと公平になるべきだ」と話した。

「極右の1割と極左の1割が平等に取り乱すような、そういうバランスが勝利だ」と、マスク氏は語った。

先週には、活動団体がツイッターの広告主に公開書簡を送り、マスク氏のマネジメント下では「ツイッターはあなたのブランドを付けたまま、誤報の巣窟になる危険がある」と警告した。

ホワイトハウスのジェン・サキ報道官は、バイデン政権はオンラインプラットフォームが言論の自由を守ることを望んでいるが、偽情報のためのフォーラムにならないようにすることも望んでいると述べた。

また、トランプ氏のツイッター復帰を認めるかどうかは、民間企業が決定すべきことだとした。

マスク氏、トランプ氏のツイッターアカウント凍結を撤回の意向
https://www.bbc.com/japanese/61403430

トランプ前大統領への感情的な是非はともかく、彼も自然人である以上人権を享有する一主体であるのは、これはあまねく肯んずるところと思います。

上では、twitterは「左によりすぎ」と言っており(後の調査で否定されているのですが)、「バランスが大事」とも述べています。これだけ見れば「そうかもしれない」と思う人もいるでしょう。ですが、これには私はちょっと疑問符が付きます。

まず、「バランスとはなにか、それは守られるべきものなのか」です。
もちろん「表現の自由」は、何ものにも代えがたいものです。
ですが、アメリカ合衆国大統領選挙をめぐるフェイクニュース、COVID-19(いわゆる新型コロナ)を巡るデマ、ロシアのウクライナへの攻撃などで、メディアやSNSのあり方が大きく問われることが多くありました。

乱暴な言い方をすれば「表現の自由で、なんでもかんでも許されるのか」ということです。もう少しいうと、彼はバランスとひとくくりにしていますが、「そもそもそのバランスを構成する中身がやばすぎるだろう」ということになります。

閑話休題、ここで少し政治哲学のお話をします。
ロールズ、という政治哲学者がおりました。あのか”これ正”で有名なサンデルの師匠でもあります。
彼は「反照(反省、反射とも)的均衡」という言葉を提唱しました。
詳細は省きますが、「哲学的熟考による結論と、我々が普段感じている常識がずれた場合、どうするか」といったことです。

「表現の自由は大事(哲学的熟考)」→「特定の集団を攻撃するような言説・主張も許されるのか、それはちょっとおかしい(我々の常識)」→「むむ、どうしよう・・・どこまで許すか?(考える必要がある)」

要するに「表現の自由」というものは、そう簡単に語れるものなのか?と思えてならないことであります。
さらに言えば、「表現の自由」という言葉さえ使えば、なんでも許されると思っていませんか?とマスク氏に問いたい気持ちすらあります。

さらにもう一つ、問いたいことがあります。
それは「インターネット空間というものを、どう捉えるか」ということです。
上記した「表現の自由」というものは、古くは「国家対民衆」の間柄で語られることでした。もちろん今は、一民間企業が「国家格」としての立場に立っていることは否定しません。不勉強ながら「インターネット」というものをまったき「表現の自由」の名の下に解釈をしていいのか、という気持ちもあります。これは緒論あると思いますが、個人的にはまだ「民間企業の論理(すなわち約款がある以上、どうしても限界はある)」と考えます。付言すれば、バイデン政権の報道官は「民間企業が決めること」としていることを付け加えたいと思います。

③余波

この買収劇で「株価操縦」として訴訟が起きています。
「表現の自由」を旗印に行動した結果、訴訟になってしまうというのは果たしてどう解釈すればよいのか、少し冷めた目で眺めてしまいます。

最後に

「どんな政治信条を持つか」「何かに対してどう考えるか」というのは、あまねく自然人である以上享有されるべきものです。
しかしそれを振りかざし、結局として事態が混沌としてしまうというのは、果たしてどうなのでしょうか。変化を求めないわけではありませんが、やはり重要なのは「使う側のリテラシー」であり、運営は「使っている側がなにを求めているのか」の一言に尽きます。

大山鳴動して鼠一匹、となってしまうのでしょうか。
これからも事態の推移を注視したいと思います。



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