Vは社会を飲み込まない話

※以下は私のツイートの引用です。

キズナアイさんも仰っていましたが、これからは誰もがvtuberを一つ持つ時代、と言っていました。しかし私はある意味ですでにそれはなされていると思いますし、違う意味ではなりはしないだろうと思っています。それは「ホモ・サピエンス」という種のインターネットに対する向き合い方の程度です。
インターネットの使い方は、人により異なります。もちろんIoT社会を迎えるにあたり、逃れられはしないでしょう。しかしそこに仮想人格まで求める人は、どれほどいるでしょうか。
思惟かねさんは「それは人によって演じる人格ってありますよね?」と仰っていました。
それも否定しません。しかし自己がネット空間に拡張するにあたり、ネット空間でだけ自己を変える、ということはあるのかな、と思いました。ネット空間に己の礎は置きこそすれ、極端に「Vになる!」とは言い切れないように考えます。単にアカウントを取る、で終わる人もいますから。
結論として、「ホモ・サピエンス」はVの空間(ネット空間)に飲み込まれてゆくでしょう。しかし人の営みが加速するだけであり、あまり劇的な変化をもたらすとは思いません。ただその飲み込まれ現象が「Vな人格を持つ」「Vになる」というのであれば、それはそうだろうというにとどめます。
ペルソナのことも思惟かねさんは仰っていました。しかしVであれ肉体であれ、それは見え方の問題です。通した先は操作する人は同じです。性格や活動方針はありましょうが、やはり同じ人である以上差が出るのかな、という俗な感想も持ちます。これは私だけかな。
ただ、ある種新しい交流は生まれるかもしれません。Vというシグナルで、いままで思いもよらなかった方々と出会うこともあるでしょう。それはネット萌芽期から言われていましたが、Vの文化で加速する印象は持ちます。が、やはりそれはすごく劇的なんだろうか、とも思ってます。

おおむね申し上げたいことはTwitterのほうでしましたが、一方で申し上げたいのは現代の日本社会に根本的に抱えている問題もあります。それは主に官の方面です。

「FAX」「紙ベース」、オンライン申請をしても「手作業でチェック」など、これが日本の現状です。マイナポータルの運用も始まっているようですが、そもそもマイナンバーカードの普及率が全体の2割を切っている状況では、Vも何もないのではないか、と思ってしまいます。

「Vって行政の手続きとか、そういうことなんだろうか?」と思われる方もいるでしょうが、人が人として生きていく上で社会のインフラとしての行政の側面は、とても大きいです。インターネットそのものの電波行政は、総務省の管轄です。そしてマイナンバーの所管も総務省です。Vの理想を高らかに掲げるのはわかりますが、その前提が日本はほぼできていません。オモイカネさんの記事は人間の内的な側面、そして心と心の距離という意味ではVの価値は賛同できます。もっとも彼女は、「あくまで未来」と付言しているので、私の批判は当たらない可能性もありますが。ただ誰しも、常に「仮想人格」「自己実現」のために生きているのではありません(念の為、Vにおけるアバター=ネットで使うアカウントという認識でおります)。

またもう一つの「Vになるのかな?」例を上げましょう。それは人の保守的な側面です。

もっともこれに関しては、もしかするとVtuberは「人間の保守的な性向を逆手に取った」可能性があります。もともとコンピューターグラフィクスなど立体映像は大変な技術力とコストがかかり、MMDなどを除くとあまり普及していなかったようにも思えます、が、Vtuberはそれをまったく翻して普及しました。ある種「枯れた技術の水平思考」的なものを感じます。





・・・・とまで書くと、まるで私がVtuberを嫌っているように思えるでしょうが、「YouTuberはちょっとなあ、でもVなら」という人に対して動画投稿の敷居を下げたという特筆すべき点は大いにあると考えます。オモイカネさんの記事にもある通り、もう5桁を超えるVtuberが存在するようですから。

結論として「まだ日本をVが飲み込むようになるのにはおそらくすごく時間がかかる」および「人間の保守性」ということから、本当にVが社会を飲み込むのだろうか、と訝しんでしまいます。ただ上記のとおり「枯れた技術の水平思考」的な意味では、「ある意味当然の帰趨であり、そんなに劇的なことなのか?」とも言える気がしてならないのです。

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