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【一首評】〈第1回〉サイダーのキャップを捻る瞬間に「元気だった?」と声がして 夏は/北山あさひ

サイダーのキャップを捻る瞬間に「元気だった?」と声がして 夏は
/北山あさひ(『ヒューマン・ライツ』)

はじめに、筆者は上記の短歌をTwitterアカウント「ひとひら言葉帳」で知った。そして作者(北山あさひ)の他の短歌や歌集については未読である。よって、本稿では作者の作風について言及するような切り口で本作を読み取るものではない、そういう意味での「一首評」である、ということを断っておく。

本作を一読して印象深いのは圧倒的な「瞬間」に込められた輝き(の予感)だ。「サイダーのキャップを捻る」単に"開ける"よりも、作中主体(以下、〈主体〉)の行為にクローズアップしている印象の「捻る」。そして、その瞬間「元気だった?」と声がかかる。この声は、〈主体〉の正面からではなく、後ろから不意に聞こえるようだ。
この声の主は誰なのか、そこに明確な解答を出さず余白を残していることが本作の解釈を広げているということは言うまでもない。個人的には昔の恋人、または留学などで遠くに行っていた旧友がサプライズで〈主体〉のところにやってきた、みたいなシチュエーションが連想される。
後ろから声をかけられた〈主体〉の一瞬の戸惑い、頭の処理が心に追いつかない揺らぎを表すかのような、一字空け。そこに続く「夏は」で本作は終わる。
夏、という季節に込められた青春の匂いや明るさ、熱、ノスタルジックな記憶。そしてそれらすべてが動き出すような予感。上句の爽やかさから、予想のつかない下句に接続する構成も無駄がなく、筆者は初めて本作を読んだ際、そこに込められたそのみずみずしい輝きに美しさを感じたものである。

さて、頭から読みくだしていったが本稿では「一字空け+夏は」が生み出している効果についてより重点的に触れたい。
自分が短歌を読むとき、特に具体的な情景やシチュエーションを連想させる歌においては、読み進めるにつれて先細っていく、あるいは作中の〈世界〉にズームインしていくような意識で作品を読むことが多い。これは短歌定型という構造が要請している意識ということもできる。(文字数に制限がない詩においては、〈世界〉が収束するような意識が発生しにくい。)
そのような性質を持つ短歌において「一字空け+夏は」という、"具体"ではなく、一周回って"抽象"に結実するこの終わり方は、より開放的に感じられる。視界が一気に開けるような、良い意味で、パーンと突き放されるような気持ちよさ。

この「一字空け+抽象」で終わる構造として、真っ先に私が思いついたのは

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
/東直子(『春原さんのリコーダー』)

の秀歌である。この歌も最後に「一字空け+来て」という抽象的な”声”を読者に残して終わる。この"声"の主が誰なのかという余白、そしてどこか恐怖すら感じる、この"声"の測り知れなさ = 非現実的な質感がそこに至るまでのリアリティのある情景描写の質感と絶妙なコントラストを生んでいる。

両作それぞれについて考えた時、〈短歌定型〉という枠組みをどう乗りこなすのか、そこに作者の個性やパターンを超えた先にある面白さが生まれる、という短歌の根源に立ち返ったような気がした。 (4年・会長 澤井雨夢)

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