大丈夫
生活していて、自分は触り心地にうるさい方だなと思うことが多い。服とかブランケットとか直接肌に触れるものはもちろん、部屋の壁とか普段使いのお皿とか、触れる機会が限定的なもの、更には本とか財布とかキーチェーンとか、本来触り心地で選ぶべきでないものにまで肌触りの良さを求めている気がする。
根っこには、昔から色んなモノを理解したい時触れて確かめてきたということがあるんだと思う。公園に落ちている木を拾う時、砂浜で貝殻を拾う時、校庭の砂で泥団子を作る時、折り紙を折る時、触れて心地良くなければそこでやめていただろうことがたくさんある。触れて理解して、大丈夫だと思えたものたちだから、今思い出せるんだろう。だから今も理解したいものにはまずは触れてみるしかないと思っている。何も分からなくても、対峙して入り込もうとするしかない。
理解したい対象がモノでもヒトでも概念でも、どこまでいけるかは半分くらい運だ。僕にとって一番身近な例は音楽。聴いてみて肌に吸い付くみたいに馴染む時もあれば、どうしても自分の中に混ざっていかない時もある。聴く時の心構えとか体調とかテンションとか、そういういろんなタイミングと運で自分にとってのグッドミュージックはどんどん変わっていく。自分にとってのグッド○○というのは単に良し悪しの二項対立といったことではなくて、自分の中で理解できたという感覚なのだと思う。客観的にいいものかどうかというのはもちろん関係ない。そして何かを理解できたときの自分の中の指標として「『大丈夫』と思う」という極めて曖昧な感覚があるんだけど、多分これは理解の深度に合わせて、3種類くらいあると思うので書き残しておきたい。
まずは虚勢の大丈夫。基本的には無理して理解しようとしてる時とか、一旦触れてみたけどあーこれは無理だなってときに出るやつ。全然知らないジャンルの音楽聴いてみて違った時、意を決して期間限定メニューを食べてみたけど美味しくなかった時、あんまり知らない人たちの飲み会に混ぜられてハズレだった時、それでも負の感情を表に出さずに、自分の中で全部請け負いますよって時の「大丈夫です!」というやつ。ストレスが溜まっていくこともあるけど、ほんとしんどい時にうわ言みたいに「大丈夫大丈夫…」と呟いているとなんかいけそうな気がしてくる時もある。今まで張ってきた虚勢が自分を助けるまじないみたいになりつつあるのかなと思う。
次に、僕やあなた、もしくは気に入りの料理や本やお酒とか、何か一つの対象をさしていう大丈夫。ある程度その対象を理解してないと言えないやつ。このお酒は飲みやすいから大丈夫とか、彼は怒ると手がつけられないけど次の日にはもう大丈夫とか。この深度の大丈夫は自分にも他者にも使えるから便利なんだけど、それだけに慎重にならなければいけないと思う。自分のことでもそれ以外のことでも、状況を読み違えてほんとうは理解できていなかったとしたら、大丈夫じゃなくなってしまう。そうなったらもう虚勢を張るどころか嘘になっちゃうから、「君は大丈夫」とか「これは大丈夫」と言うためにはちゃんと触れ続けていないといけない。
最後に、自分と他者の間に関係を結んで言う大丈夫。まだそんなに長いこと生きてないけど、これは数回しか言ったことがない。家族とか、高校軽音部のバンドメンバーとか、大事な人とか。明らかにその時々、僕は自分そのものをかなりの割合で注ぎ込んで向き合って、同時に向き合ってもらえたから言えたやつ。これまでの大丈夫と違って具体例を列挙することが難しい。それくらい編み目の細かい体験を共有した時にだけ言えるんだと思う。子どものころから、触れて確かめることがクセになっていたけど、きっと無自覚的にこの大丈夫に辿り着きたかったんだと思う。身体に吸い付くようなものを手に入れたい、落ち着いて呼吸ができる場所を見つけたい、言葉がスルスル出てくる人と出会いたい、そういう場所を居場所と思いたい。そういう感覚に突き動かされてきたから、触れて確かめて向き合うことをやめられないんだと思う。大人になって、子どものころみたいに本当に手で触れることは少なくなったけど、その分言葉や仕草、文化や思想など、他者と触れ合う手段は増えたと思う。触れ合うことをやめない限り、きっと僕らは大丈夫だと思う。
終わりに、どの深度の大丈夫も大事な感覚だと思っていることを付け加えたい。特に序列はなくて、ただ自分の中に留まっているか、外界との関わりの中にあるか、とかそれだけの違いだと思う。説得力のある大丈夫が言える大人になりたい。自分にもあなたにもしっかり響くやつ。どうやったらそういう大人になれるかな、まぁ大丈夫か〜。
YOJHO
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