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音楽好きふたりが語り尽くす! ニューヨーク・ラテンを築いた男、ジョニー・パチェーコ/NHK-FM「ウィークエンドサンシャイン」

いつもお話を伺っている『歌と映像で読み解くブラック・ライヴズ・マター』の著者 藤田正さんが、NHK-FM「ウィークエンドサンシャイン」(DJピーター・バラカンさん)2021年5月1日(土曜・午前7時20分~)にゲスト出演します。特集テーマは「ジョニー・パチェーコ」。この2月15日に85歳で亡くなったサルサ界の重鎮です。音楽好きのスペシャリスト2人のトークとなる当日はかなり深~い話になるのでは、と期待!

いつもはアメリカン・ブラックを中心に取り上げているこのnoteですが、今回は番組の予習(?)も兼ねてラティーノの音楽世界へ。ニューヨークの豊かな音楽世界をご紹介しちゃいます。

NHK-FM 「ウィークエンドサンシャイン」2021年5月1日午前7時20分~ 
このnoteは番組の副読本です。番組終了後、1週間は「NHKラジオ ラジル☆ラジル」で、放送を聴くことができます(5月8日午前9時に配信終了/「聴き逃しはこちら」をクリック)。
※番組内で「旧ザイールの都市、キンシャサは、現在のコンゴ共和国の首都」との発言がありますが、正しくは「コンゴ民主共和国の首都」です。お詫びして訂正いたします、とのことでした。


――さて、藤田さん。NHK-FM で「ジョニー・パチェーコ」の特集だそうで! 緊急事態宣言下で気軽に外出もできない5月の連休だから、ラテン・ダンス音楽で楽しくという企画でもあるみたいですね。とはいえ、「ジョニー? だれそれ?」という方も多いと思うので、簡単に説明をお願いします。

藤田 ピーターさんらしい企画だよね。ご存知のとおり、彼は世界のポップ・ミュージックに造詣が深い方で、何よりロックとブラック・ミュージックがお得意だけど、ぼくが音楽雑誌の編集者だった時に、まだまだナゾの音楽だった時期のレゲエの原稿もお願いしたりしていました。知識があるし音楽を理解するセンスが抜群だから。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの来日(1979年)では、極めてインタビュー取材が困難だったんだけど、ピーターさんと一緒にスクープをゲットしたのも、懐かしいな~。

――えぇ、お二人にはそんな過去が! いや、驚いている場合じゃなくて、今回はジョニー・パチェーコがテーマなんで、彼の話を。

藤田 ジョニー・パチェーコは「サルサ Salsa」の土台を築いたレコード会社の代表であり、バンド・マスターとしてもスターだった人です。同じカリブ海の音楽であるレゲエはジャマイカから生まれた。ジャマイカは英語圏。その周りの島々、たとえばキューバやプエルトリコはスペイン語圏。パチェーコが生まれたドミニカ共和国もそうです。

――大坂なおみさんのお父さんの母国はハイチですよね。

藤田 ハイチとドミニカ共和国は同じエスパニョーラ島で、西半分がハイチ。東半分がドミニカ共和国です。「メレンゲ Merengue」という音楽で知られていますが、パチェーコはキューバ音楽の大ファンだった。

カリブ海の国々


――変わった人だった、ということですか?

藤田 違うと思います。20世紀の大衆音楽の巨大な発信地は、もちろんアメリカ合衆国、中でもブラック・ミュージックだよね。でもキューバ音楽も大変な影響力を持っていた(今も)。メキシコ音楽にしても、カリブ海の島々の音楽も、キューバ音楽の動向を無視しての発展はなかった。若いころのパチェーコがキューバ音楽の、いわばコピーから始めたのは不思議じゃありません。

――プロとして活動はアメリカ・ニューヨークからですよね。

藤田 ニューヨークはカリブ海の島々の人たちが職を求めて集まったマチでもあります。パチェーコもその一人だった。彼はその中から身を起こし大成したミュージシャンです。「ウィークエンドサンシャイン」では、彼が自身のバンドをスタートさせた1960年のヒットからスタートします。

――それがサルサですか?

藤田 いや、この言葉が音楽のジャンルを指す言葉になるのはもっとあとですね。ご存知のようにサルサってスペイン語で、料理に使うソースのこと。料理本体にプラスαするものだよね。音楽においても、もともとのマンボなどのキューバ音楽に、違うセンスを加えることを「サルサ!」って、在ニューヨークのミュージシャンが使っていた。60年代前半のことです。パチェーコや、若いプエルトリコ系のミュージシャンが、お隣り同士のジャズやリズム&ブルースを取り入れて新世代のラテン・ダンス音楽を作り出していた時期です。

――キューバ革命も影響大だったそうですね。

藤田 ニューヨーク・ラテンを激変させた最大要因の一つです。1959年に革命が成功して、米国とキューバの関係が一触即発の状態になった。61年には米国がキューバに対して国交断絶を決定。ということは、これまで頼り切っていたキューバからのフレッシュな文化が途絶えちゃったわけ。パチェーコや、チャーリー&エディ・パルミエリなど当時からニューヨークで活躍していた才人たちは、この状況を好機と捉えて自分たちの音楽をクリエイトし出した。

――それがサルサなんですね。

藤田  「サルサ、雪が降る大都市に生まれた熱帯音楽」(藤田)です。かっこいよね~。沖縄の音楽にも似たところがあってね、ぼくは現代の沖縄音楽って関西で生まれた(再出発点)と考えているんです。簡単に言えば、移民先で、故郷とは? 私は何者?という発見があったからこそ、文化は新しく生まれ変わるんだと思うんですね。

――「ウィークエンドサンシャイン」では、ファニア・オールスターズの曲も流れるんですよね。

藤田 もちろん! 「サルサ」をキーワードにビジネスとしてこの音楽を世界へ報せたのがファニア・レコードでした。ファニアは……厳密に発音するとファニーアだけど……1963年末、パチェーコが弁護士のジェリー・マスッチ(1934年~1997年)と共に設立した独立系の会社だった。作品第1弾は1964年、パチェーコ自身のアルバムです。なぜ「ファニア」だったのかも「ウィークエンドサンシャイン」でお伝えします。

――ウィリー・コローン&エクトル・ラボー、オルケスタ・ハーロウ、レイ・バレットなどなど、もうたくさんのアーティストと楽団がファニアからレコードを出して、アメリカ合衆国のみならず、ラテン・アメリカ全体へ伝わっていった。

藤田 アフリカへもね! 日本ではレゲエのほうが知られているけど、同じカリブ海音楽として、サルサ&ファニアは本当に偉大な功績を、特に70年代に果たしました。ソウル、レゲエ、そしてサルサ!っす。

FANIA のNの文字に顔が見えるのがジョニー・パチェーコ(集合写真、最後列左から5番目も同じ)。中央の女性は女王、セリア・クルース!

――この中心にジョニー・パチェーコさんがいたんですね。

藤田 そうです。パチェーコは、単なるバンド・マスターじゃなくて、むちゃくちゃかっこいいスターでした。足は長いし、色男だし、キューバン・フルートを吹く姿も決まっていた。1976年にファニア・オールスターズとして来日したときも……ぼくはその時、横浜&東京公演のすべてを観たんだけど……ダンス、指揮、スペイン語と英語が混じったリズミックな司会、とか、これまでぼくが知っていた洋楽の人たちとはまるで違った美学を持っていた。

だいたいこういうミュージシャンはビジネスマンとしては成功しないものだけど(笑)、パチェーコは違ったね。おかげさまでぼくは彼と何度も話をする機会があったけど、優しくて感じのいい人でした。そういう意味では、アース・ウィンド&ファイア(EW&F)のモーリス・ホワイトと同じ印象がぼくにはあるね。

――EW&Fのホワイトさんも晩年は病気と闘いながら舞台に立っておられたそうですね。 

藤田 ぼくら取材者には無理を押してでも言葉をくれた人です。パチェーコも長い闘病生活でした。だいぶ体力が落ちてきたパチェーコと話をしたこともあります。だから音楽映画の傑作『OUR LATIN THING』や若き日のライブ映像やサルサ・ヒットに接するたびに、マジに切なくなります。一介のキューバ音楽フリークが、ラテン・アメリカ音楽全体を変えた。土台を作り直した。その偉業を称えて、「ウィークエンドサンシャイン」を聴きながら明るく踊りたいですね。

――「ウィークエンドサンシャイン」、楽しみです! 関連して面白いのは、移民先のニューヨークの、特にサウス・ブロンクス地区がサルサの一大拠点でありながら、続いてラップ~ヒップホップも生まれたという藤田さんの視点・証言です。70年代に現地で暮らしたことがある人ならでは。

藤田 はい。本当に偶然・幸運だったんだけど、『OUR LATIN THING』にも登場するファニア・オールスターズのトランペッター、ラリー・スペンサーさん(プエルトリコ人)の家に、ぼくはちょっとだけ住まわせてもらっていました。ラップ・ミュージックなんて言葉がない時の最初期ラップ時代です。つまり、ラリーのような親の世代がカリブ海からやってきた人たち。その子どもたちが移民先で始めたのがラップ~ヒップホップなんですよ。一見、音楽のカタチは違っていても、サルサやレゲエとラップ~ヒップホップは、親子の関係であると考えてください。そうするとジョニー・パチェーコたちの音楽が、ますます魅力的に聴こえてくるはずです。

――そうですよね! 1970年代後半になって出てくるのが、ネットフリックスのオリジナルシリーズ「ザ・ゲットダウン」で描かれているヒップホップである、と。

藤田  図式的に言えばハーレムはジャズやソウルの牙城。隣のイースト・ハーレムやサウス・ブロンクスではラテン系のコミュニティが定着し、カリブ系の音楽を発展させた。もちろんこの流れはブルックリン区にもほぼ同時代的な流れとして存在したわけです。ブルックリンにもメレンゲはあるし、レゲエもあるし、もちろんラップではノトーリアスB.I.G.を生んだ地域! B.I.G.についてはネットフリックスの自伝映画にも詳しいですね。

「ザ・ゲットダウン(The Get Down)」Ofificial Trailer

ブルックリンで育ったラッパー、ビギーの物語

藤田正、岡本郁生監修『米国ラテン音楽ディスク・ガイド50’s-80’s LATIN DANCE MANIA』(いまや希少な書籍。装丁はなんと、先日、紫綬褒章を受章したばかりのサルサ仲間、佐藤卓さん!!!)


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