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最期のことば

 93歳のJ様は食事もほとんど摂ることが出来ず、かなり衰弱し1日のほとんどをベッドで過ごされていました。
奥様へもう長くないことを伝え静養室に行くと、その呼吸はこのまま止まってしまうのではないかと思えるほど浅くて弱いものでした。戦争で満州へ出兵され、終戦後も満州に抑留され、とても丈夫だった身体も今ではやせ衰え往年の面影はありません。それから奥様は毎日、お見舞いに来られていました。

 しかし、私の経験上、J様がもうすぐしゃべることができなくなるのは間違いありません。私はJ様に
「優しい奥様ですね。感謝を伝えたほうがいいですよ」
と言うと、J様はニヤッと笑うとプイとあっちを向いて黙ったままいかにも亭主関白らしい素振りでした。奥様は寂しそうにJ様のほうを見ていました。次の日、J様は意識がなくなり、しばらくして息を引き取りました。J様は奥様に「ありがとう」を伝えることなく天国に旅立たれたと思っていました。

 ところが、そうではありませんでした。奥様が退去手続きにご来苑された時に、
「あの日ね、私も『ありがとう』って言ってなかったから、主人に『ありがとう』って伝えたの。そしたらね・・・」
J様は、奥様の帰り際に
「ありがとう……」
と、小さな小さな声で伝えたそうです。奥様は涙で、
「それが、最期の言葉でした。おかげで、主人がこの人でよかったって思って見送ることができました」

 奥様はJ様と結婚して幸せだったそうです。しかし、J様が自分と結婚して本当によかったと思っているのか、長年不安でもありました。
「ねぎらいの言葉も、褒められたこともなかったから」
それが最期に、J様が発した「ありがとう」のひと言で、J様から「いい人生だった、幸せだった」と言われた気がしたそうです。 

特別養護老人ホーム 清華苑
施設長 岩西太一

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