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音描く君のミューズ 3話


#創作大賞2023  

前の話

音描く君のミューズ 2話|日部星花(小説家) (note.com)


3話


――あんたの声に委縮するんだ

「遅い。まったくテンポに合っていない。そもそも音が滑りすぎだ」
「上向きに音が連なっているからとただただ上向してどうする。芸がなければ品もない」
「そのフレーズはもっと歌え。単調すぎる。違う! 微妙なニュアンスを聴き取るんだ。そんなこともできないで弱音とは笑わせる」
「楽譜の指示を見ているのか? 運指が雑だ。何のために楽譜に番号が振ってあると思っている? そこに作曲者の意図があるんだ。意味も分からず好き勝手に弾くな!」

 三歳から始めたピアノに費やした時間は計り知れない。一日五時間、七時間、八時間と、年齢を重ねるたびに練習時間が増えた。爪が割れて血が滲み、泣き、それでも挫けることは許されなかった。楽しかったピアノのレッスンが義務になったのはいつからだっただろう。

「もういい。お前には失望した」

 演奏を放棄し、舞台を降りた時も、父は温度のない瞳で俺を見た。

「ピアニストがステージから逃げてどうする。演奏の上手い下手以前の問題だ」

 お前は演奏家失格だ。ピアノに触れる資格すらない。父はそう言って俺の前から去った。

 ――違う。叫ぼうとした言葉は声にならなかった。逃げたんじゃない。
俺はただ楽しくピアノを弾きたかったんだ。他の人間の演奏に、才能に焦って、息切れしてでも走り続けなければならないなんて御免だったんだ。芸術の追求なんて苦しいだけだ。間違っている。そうだろ?

「お前は弱い」

 妹の響を連れて家を出て行く父が、最後に俺に向けて言い放った言葉が、今だに耳から離れない。

「お前は自分の弱さにすら気づいておらず、認めようとも、ましてやそれを克服しようともしない。……才能だけはあると思って育ててきたが、伸びしろは皆無としか言いようがない。ピアノを『捨てる』というなら好きにしろ。代わりにお前はもう俺の息子ではない」

 ああ好きにするさ。
俺はピアノを捨てたんだ。もう音楽の世界にも戻ることはないし、あんたの『期待』に苦しめられることもない。



「俺がお前の……ミューズ」

ミューズというのはたしか、英語で音楽を意味する『music』や美術館を意味する『museum』の由来となった、ギリシア神話と音楽と詩を司る九人の女神のことだ。そして、彼女らが芸術家にインスピレーションを与えるということから、作家や作曲家、画家やデザイナーなど芸術家の創作意欲を刺激する女性を指すこともあるとされている。

……つまりは、それになれと。
そういうことか。

「ええ。お願いします!」

だから応えた。

「ぜッ…………てー嫌だけど」

「え⁉ なんでですか⁉」

「え⁉ じゃねぇわ。普っ通に嫌だっつうの。俺はもうピアノとは関係ねぇよ」

心底驚いた表情にこっちが驚く。こいつ、さっきまでの俺の話、全く聞いていなかったんじゃないのか。

「ど、どうして! なんでかは知りませんけど大勢の人前で弾くのが嫌になってしまったんでしょう⁉ なら私のためだけに弾いてくれればとりあえずはそれでいいのですが!」
「そうじゃないピアノを弾くのがもうこれっきりだってことだ! つうかなんで俺がお前のためにピアノ弾いてやんなきゃなんないんだよ、理由がねぇだろ!」
「なんでって……」

春宮がぎゅっと手に力を込めた。そして言う。

「――今のピアノは、私の『完成した』絵を見たいから、弾いてくれたんじゃないんですか⁉」

「は」なんッッつう自信だこの女。「はああ~~~??」

ついさっきまで『もう描けない』と、悄然としていた姿は幻かと思うほどの興奮具合だった。さながら水を得た魚がごとくである。

「私が描いてきた絵は不完全なんです。小学生の頃一度だけ聴いた宝生奏介のピアノを、必死で思い出しながら描いたものだから」
「ああそう。なら今の『幻想即興曲』で記憶は更新されたな。よかったじゃねぇか、新鮮さバッチリだ」
「ええ、新鮮さはバッチリです。君はかつての腕は失われたと卑下していましたが、君の音は変わらず、素晴らしく美しかったですよ。……でも、だからこそ、練習の末に完成した今の君の演奏も聴いてみたくてたまらない」
「は?」

「だって今の演奏、ミスタッチしまくりだったじゃないですか」

あっけらかんと指摘され、口許が引き攣った。

……いかにもピアノを弾いた経験なんてありませんみたいな弾き方をしていたど素人にも、当然のようにミスがバレていたらしい。

「……わかってたのかよ」
「私は簡単な合唱曲ですら盛大に音を外しまくるくらいの音痴ですし、音感なんてものはゼロですが」
(大分説得力のある音感のなさアピールだな……)
「――私には、この目がありますので」

彼女は指で自らの目元を叩いた。

「ミスタッチが奏でる色も、この目できちんと見ていましたよ」

規則的に放たれる色のシャワーの中に、ぽつんと、違和感の残る色が出てきて見えるのだという。

「……ならお前だってわかってるだろ、俺の今脳では、昔の腕とは程遠いってこと。俺はお前の神様にはなれねぇし、なる気もねぇよ」
「あら。腕が落ちたらもう一度元通りにすればいいだけの話ではないですか。昔はあれほど天才だって言われていたんですから、大丈夫ですよ」
「……」

簡単に言ってくれる。
はァとひとつ嘆息して、「そんな気もやる気もねぇよ」と応えた。

「――俺はあの日にピアノを捨てたんだよ。結果と才能が物を言う、息苦しい世界が虚しくてな」

苦しいだけなら要らないとピアノを捨てた。
そして、そうしたことで、あの人に演奏ごと自分という人間を否定される恐怖も、競う苦しみもなくなった。

「俺が弾かなくたってすぐに他の才能が現れて、天才だの神童だの言われて。あの世界で言う『天才』なんて、どうせ代替可能な部品でしかねぇんだよ」
「そんなことないです」
「お前に何がわかるんだよ」

「少なくとも。私にとっては、君が唯一だ」
「……ッ」

言葉が鋭く、胸を抉った。

「言ったでしょう。君の音だけです。君の色だけが美しいと思った。世間的にどんなに美しいと言われる曲でも、どんなに素晴らしいと言われる演奏でも、私にはそうは思えなかった。
音階に、私だけ感じる色があるんです。たくさん音があれば意味もなく混じりあって上昇して下降して、結局は雨の日の水溜まりに浮かんだ油みたいな色になるんですよ。――でもあの日君の奏でた『幻想即興曲』だけが、私に音楽の素晴らしさを伝えてくれた。だから私は筆を取ったんです。感動と、あの日見た色を形にして残すために」

心臓が早鐘を打つ。
俺のピアノが彼女に絵を描かせたのだという高揚感が、じわじわと胸を侵食する。――やめろ。違う。喜ぶな。
俺の音が春宮美涼という天才を生んだのだ。――違う!

「私は君のピアノが好きです」

認めてもらった気になるな。
そもそも俺はピアノごとピアノに尽くした人生を捨てたのだ。舞台を降りて自分から!

「北条くん。これを」
「なんだよ……」

初めて俺の名を呼んだ春宮が手渡してきたのは、スケッチブックだった。クロッキー帳と言うのだろうか。美術の知識はさっぱりなのでよくわからない。

促されるまま開いてみれば、鉛筆で描かれた絵が目に入った。色鉛筆か何かで軽く色付けされたそれは、間違いなくあの絵のラフ画だった――緑の森と、紫の炎。
ぱらぱらとめくれば、何枚も同じようなラフ画があった。試行錯誤の跡。

「君の音を思い出しながら、いくつか描いて調整したんですよね」春宮は苦笑して言う。「これは中間部の、ゆったりした雰囲気の箇所で見た色を表した絵なんです。……今の演奏を聞いてからなら、もっと綺麗に描けたのでしょうが」

春宮がスケッチブックの表面に触れる。

「私は見たものを膨らませてこの絵にしている。この絵に胸を打たれたという人がいるなら、君の音がその人の胸を打ったと言っても過言ではありません」
「……過言だろ」
「いいえ。人が構図や色や画面に描かれたモノの形の美しさに感心するなら、それは私の『絵』の、『技術』の功績でしょう。けれど誰かの心を動かしたなら……魂を打ったなら、それは君の音によるものですよ。なぜならこの絵は、君の音を魂にしている。それとちょっぴり、私の感動を」
「魂……」

そうなのだろうか。

この絵には本当に、俺の音が――魂として宿っているのだろうか。プロでもないただの子供の北条奏介のピアノと、それを唯一と言った春宮美涼の魂が、ここに。

「北条くん。君が君の音を人に届けたくないと言うのなら、私が人に届けます。そうしたいんです。好きなものは広めたい。そうでしょう?
――だから、私のために弾いてください。まずは他の誰でもなく、私のために」

ね。

そう言った春宮は、これ以上となく美しく微笑んだ。

――あまりに眩しかった。
俺のピアノが好きだと言った彼女が。
ひたむきで真っ直ぐで、ただ純粋に美しいと思った色を奏でるために俺に誘いをかける彼女が。それを存分に振るわんとしている彼女の姿勢が、

息苦しくて、
羨ましい。

「無理なものは、無理だ」
「あ……」

顔を背け、椅子から降りた。ピアノから足早に離れ、そのまま出口に向かう。
そうだ、と四年前の、舞台を降りた俺が言う。――それで正しい。
春宮が慌てたように声を上げた。

「ま、待ってください! 君はピアノが嫌いになってしまったんですか⁉ だから……」
「もう俺に関わるなよ」

それだけ残し、俺は後ろ手で音楽室の引き戸を閉めた。そしてそのまま振り返らずに、早足で薄暗い廊下を歩いた。


  *


「こんにちは北条くん。今お時間ありますか?」
「お前昨日の話聞いてたか?」

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