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第11回 若大将が通う京南大学のロケ地は?

 前号では、4月に逝去された田村正和さんもお住まいになった「ハイデルの丘」についてご紹介しました。これから何号かに亘り、田村さんの母校でもある成城学園内で撮影された映画と、その出演俳優に纏わる逸話をご紹介したいと思います。

 成城学園の歴史は、1917年に牛込(新宿)で創設された成城小学校に始まります。8年後、当地・砧村に移転してきた成城第二中学校はすぐに七年制高等学校となり、現在に繋がる成城学園が設立。戦争を経て、1950年に成城大学が開学します。
 現在、成城大学には校舎が九棟ほどありますが、最初の鉄筋校舎となる1号館は1958年に落成。東京タワーと同じ年に建てられたこの校舎は、正門を入った中庭の右手にあり、現在でも教室棟として使用されています。屋上では、学生時代の大林宣彦監督が自主映画『絵の中の少女』(58)の撮影を行っており、この8ミリ・フィルムには監督ご自身はもちろんのこと、のちにご夫人となる恭子さんの若き日の姿も刻まれています。

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 当1号館が劇場映画に初登場したのは、『狂熱の果て』(61)なる太陽族の実態を描く大宝映画。次が加山雄三主演で16本ほど作られた‶若大将〟シリーズの第四作目『ハワイの若大将』(63)となります。前作『日本一の若大将』(62)でも、中学校校舎(昨年解体)や母の館前で愉快なやり取りを繰り広げた若大将と青大将(田中邦衛)。二人はここで、中学校舎で受けた試験が不正行為とみなされ、父親役の有島一郎と三井弘次共々、当校舎にある学部長室に呼び出されるというピンチに見舞われます。
 四人が1号館を出るショットでは、大林監督が日がな一日ピアノを弾き、8ミリカメラで1コマずつ女子学生(もちろん恭子さんも!)を撮影していたという大学講堂の建物も登場。監督によれば、当時の成城大学でコンクリート製の建造物は、大学講堂と1号館、母の館のほかにはトイレの建物くらいしかなかったとのことですが、正門付近では、三角屋根の木造校舎(学園本部棟:旧地歴館)の風情ある姿も確認できます。

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 ちなみに、若大将が通う‶京南大学〟は、最初の二作が三鷹台の立教女学院(ユーミンの母校)、第五作目以降はほとんどが桜上水の日本大学文理学部(例外として日大二高と東京農業大学など)で撮影されており、成城のキャンパスが京南大となるのはこの二度だけとなります。
 1号館が見られる映画には、舟木一夫が主演した『夢のハワイで盆踊り』(64)というヘンテコな題名の東映作品もあり、どちらも「ハワイ」に関係するのが面白いところ。こちらでは高橋元太郎と本間千代子が大学生役でロケに参加。『若大将』では見られなかった校舎、2号館(64年竣工)の姿がフィルムに収められています。先の東京五輪の年に建造された本校舎は、今でも教室棟として使用されているのですから、時の流れを感じざるを得ません。本間千代子が青大将と同じく、スポーツカーで通学してくる様子からは、いかにも成城といった雰囲気が伝わってきます。
 続いて建てられた3&4号館も含め、設計は学園の卒業生で著名な建築家・増沢洵(まこと)。自然光を豊富に取り込む、連続窓を持つこれらの校舎は‶モダニズム建築〟と称され、いずれも高い評価を受けています。

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 加山、舟木の両主演者は、のちに成城と祖師谷の住人となります。成城のパチンコ屋さんで舟木の姿を見かけた方も、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか? 加山邸は稲垣浩監督邸の斜め向かいにありましたが、昨年末にはこの豪邸も取り壊され、ご家族ごと都心のマンションに移られたと聞きます。
 ‶若大将〟田沼雄一の父親・久太郎を演じた有島一郎は、ペーソスも漂わせる実に巧い喜劇役者で、ご自宅は成城五丁目の六間通り沿いにありました。敷地内で成城学園出身のご息女が営んでおられたのが、「5(ファイブ)スポット」という喫茶店。有島邸は今や、某有名タレントの仕事場へと姿を変えていますが、『キングコング対ゴジラ』(62)や『100発100中』(65)、『クレージー黄金作戦』(67)でのコミカルな演技は、忘れられません。

※『砧』818号(2021年6月発行)より転載(一部、加筆・削除箇所あり)

【筆者紹介】
高田雅彦(たかだ まさひこ) 日本映画研究家。学校法人成城学園の元職員で、成城の街と日本映画に関する著作を多数執筆。『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『山の手「成城」の社会史』(共著/青弓社)、『「七人の侍」ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)の他、近著に『今だから!植木等』(同)がある。