百人一首から学ぶ"省略"の妙
百人一首、好きと宣言できるほど何か知っているわけではないがいくつか誦じれる程度には好きだ。
特に自分で文章を書くようになってからは「もしかしてこれめちゃくちゃすごい遺物なのでは・・・」と畏怖も抱くようになった。
スマホもテレビもない時代の人たちが情報によって浪費されることなくその豊かな感受性を全て注いだ文は流石に凄まじいものがある。
例えば
『田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人』
どうだろうか。肺に入ってくる冬の朝の空気の冷たさすら想像させる文章ではないだろうか。
この文章の妙は「田子の浦にうち出でてみ"れば"」の"れば"にあると思っていて、何気なくというニュアンスが出ることでたまたま外へ出てみたらという前提が加わり、目の前に広がっていた富士の美しさがより際立って描写されるのである。
俳句には想像を促す力がある。洗練された省略によってその隙間を埋めるために脳が稼働する。その結果生み出されるイメージは本物の富士よりも富士であり、モデリングをそのまま見せるVRでは一生届かない領域だ。脳を使う気持ちよさが俳句にはある。
省略の大切さは最近の私の文章力の課題でもある。百人一首を学んだら文章力めっちゃ上がる気がするんですけどそうでもないですか?
(所要時間21分)
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