誰の体験なのか
小説を書く人は著者です。著者は特権管理者です。特権管理者はたまに暴走してしまいます。著者は登場人物が知らない事も全部知っている人なのでご都合主義に走ります。ですが、ご都合主義はまだ軽い罪です。後で全体を読み返してみますと矛盾を発見することができます。
もっと大きな問題は、複数の登場人物が出て来る場面で、それが誰のどんな体験なのかを曖昧にして全体のぼんやりした体験にしてしまう事ではないでしょうか? それでも何となく物語は成立します。けれど、登場人物はチェスや将棋の駒扱いになってしまいます。頭を掴まれてその場所にポンと置かれた駒で、そこで起きた事がストーリーを成立させるためだけに使われます。
ですが、よく考えますと、登場人物の一人ひとりは人間でなければなりません。(動物、アンドロイド、植物でもOK。とりあえず個性があって自律して生きている前提のもの)なので、その場面という時間の中での体験は登場人物に帰属する必要があります。2人いれば2人が1つの場面でそれぞれの体験を持ちます。人間界では普通にある事です。
でも、小説には神様である著者がいますのでそこが曖昧になりがちな気がします。個別の登場人物に個別の体験がある。場面が同じ中で複数の登場人物がいたら人数分だけ体験がある。これ、なかなか難しいのではないでしょうか?
例えば、1人目の当事者Aがいて、2人目Bが友達だとします。Aは恋愛問題に悩んでBに相談します。小説として考えればお話はAを中心に回りますから、Bは聞き役、相談役です。2人の場面ではBはAに対して良いアドバイスができたとします。Aは喜んで恋愛問題をそのアドバイスに従って解決しました。めでたし、めでたしです。
さて、ここでBの方はどうしたのでしょうか? 相談されてアドバイスして終了、です。普通は。でも現実にはBにも人生があってAと会っていた時間は体験になります。Bには独立した体験ができていたはずです。その事をどう考えれば良いでしょうか?
Bは、Aにアドバイスした時に、自分の過去の経験を活かしてそれをするでしょう。Aにアドバイスする時に、良いアドバイスを与えようと考える動機は何でしょう? 適当にアドバイスするならその理由は何でしょう? 例えばAの相手のCのところへ乗り込んで行ってAの事で交渉したり話を聞いたりした場合、Bはそうするための単なる機能でしょうか? もし機能にしてしまうなら、それは著者が特権管理者だからかもしれません。もしBが実在の人間なら(小説では実在を想定された人間)Bには独立した動機とそこでの体験が発生しているはずです。
結論は無いのですが、そんな事をちょっと考えています。
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