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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 運命 (第35章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

事実はない。あるのはストーリーだけだ。
-ホワイトマン(ナイジェリアのシャーマン、アデバイヨ・アコモラフェの引用より)

 心が私たちに語りかけるもっと美しい世界について私は伝えています。なぜなら、「分離の論理」に染まった私たちのマインドは、私たちにそれは不可能なことだとたびたび言ってくるからです。私たちがインタービーイングという新しい論理を受け入れはじめても、古い疑念はいつまでも残っています。それは、頭を使っての考えが、存在の全体的な状態の露出している一部にすぎないからです。この本では、その存在の状態のさまざまな様相、つまり、そのような状態に関連する習性、そのような状態に結びついている傷、そのような状態を強化するストーリー、そして、それらのストーリーを反映し、維持する社会慣習について探究してきました。私たちの誰でも、つまり私たち全員がもっと美しい世界に住まうためには、これらすべてのレベルでの変化が必要なのです。

 
 この世界は「分離の物語」の内側からは実現不可能であるため、そこに到達するためには(「奇跡」の章の定義によれば)、奇跡が必要です。つまり、新しい物語に由来するメソッドや行動や因果律と、自己や人生や世界についての新しい理解を通じてのみ、私たちはそこに到達することができるのです。それとともに、「私たちには到達できない」という絶望は、私たちが現実的であること、実現可能であることと同一視している、その「分離」由来のメソッド、行動、因果律の不足を照らし出しているのです。


 「私たちは到達できるのだろうか?」という質問自体に、深い無力感が内包されています。この問いは、自分自身の主体性とは独立して、事実が存在していることをほのめかしています。この問いの背後にある恐れは、「私が何をしようとも、大きな違いはないかな、どうせ世界は破滅するのだから」というものです。そして、この恐れの背後にある前提は、私が宇宙から切り離されているということです。それは私たちの物語の一部なのです。私たちが「インタービーイングの物語」に移行すると、その前提、恐れ、その問いは消え去ります。その物語の中では、私たちは自分自身の変化が、その世界の中にいる他の人たちの変化と同時に起こっていることがわかっています。なぜなら、私たちの意識が、彼らの意識とは切り離されていないからです。


 「私がしていることは大して重要ではない」と否定するのは、妄想と思えるほどに大胆なことです。それはこう言っているようなものです。私たちが到達するかしないかは、私個人にかかっていると。私は、自己中心的な意味で「私次第であって、あなた次第ではない」ということを言っているわけではありません。それが意味するのは、私次第でもあり、あなた次第でもあるということ、それからあなた、そしてあなたも…すべての人次第なのです。それは、全員が変わらなければ私たちは到達することはできない、だからあなたや私が何をしようがほとんど重要ではないと伝えて私たちから力を奪う分離の理とはまったく異なるもので、実際には正反対のものなのです。私が伝えようとしているのは、私が何をしていようと、それは実際にはあなた次第だということであり、あなたが何をしていようとも、すべては私次第だということなのです。「分離」のマインドは、そのパラドックスに怖気づきますが、インタービーイングのマインドは、あなたがあなた次第でできることをやり遂げた世界では、私もまた私次第できることをやり遂げようとするということを理解しています。自分の行動によって、どの物語とどの世界に属するかを選んでいるのです。


 間主観的な形而上学を試みようとは私は思っていません。そのパラドックスは、客観的な宇宙の中にいる分離している存在というコンテキストにおけるパラドックスに過ぎないと言っておきましょう。確かに、それは「科学的方法」のコンテキストでもあり、ほとんどの科学的パラダイムや現在受け入れられているテクノロジーのコンテキストでもあります。後者は、私たちが何を実現可能なものとして認識するかを決定づけるため、その世界観を受け入れると、「私たちは到達できるのだろうか?」に対する答えは否定的になる運命にあります。あまりに多くの問題に対して、現実的な解決策が存在していないからです。1960年代に従来の解決策が受け入れられるようになり、その終わりも告げられていたのでしょう。


 最近、私がちょっと直感的に感じたことをお話しします。なぜ60年代のような失望を繰り返さないと思うのかと誰かに聞かれたときに、私の頭の中に瞬時に思い浮かんだイメージのことです。「そうですね、あれは最初のチャンスだったのですが、逃してしまいました」と述べました。その時代に、私たちは非常にスムーズな移行ができたはずです。世界人口がまだ30億人で、熱帯雨林の大部分はまだ無傷で、珊瑚礁にはまだ活力があり、CO2レベルはまだ改善可能でした。先進的な科学者たちは生態系のことを理解していて、さまざまな先見の明を持った人たちが、30億人が地球と調和して生きるために必要なシンプルなテクノロジーを開発していました。しかし、そうはならなかったのです。


 今、私たちは二度目のチャンスを手にしていて、今回その移行はスムーズにはなり得ません。あまりに多くの富が破壊され、あまりにも多くの人たちがトラウマを抱え、簡単な移行など望むべくもありません。実際、私たちに向かってくる複数の危機の深刻さを最も深く理解している人たちは、希望はほとんど抱いていません。多くの人たちが「滅びゆく文明を看取ること」を語っています。本書は、彼らの絶望が危機そのものと同じ源泉から生じていること、そして私たちが新しい「世界の物語」へと移行するにつれて、以前は奇跡的に思えたことが実現可能になるということを論じています。このような驚異的な社会技術・材料技術をもってしても、この移行はスムーズではないでしょう。しかし少なくとも、一部の破滅論者が予測するような何十億もの犠牲者を出すことは避けられるでしょう。


 おそらく、私たちはこのチャンスをも逃すのでしょう。神話が何らかの導きとなるのなら、私たちはまだ3度目のチャンスを手にします。それは2050年頃なのかもしれません。そのときこそ、生態系へのダメージが本当に悲惨な結果をもたらすときであり、今すぐ奇跡に近い方向転換を図らなければ避けられません。その時点で、生態系、健康、政治、精神に対する累積的なダメージは非常に大きなものとなり、可能性の領域が拡大したしても、生き残るのは人類の一部の生存者だけになるでしょう。砂漠化、遺伝子汚染、不妊症、有毒物質や放射能汚染などが、地球の治癒力の限界に及ぶでしょう。そして、私たちはその3度目のチャンスすら逃す可能性があります。思春期を乗り越えられない生物もいるのです。


 千年王国論者もユートピア論者も、自分たちの世代は特別な時代を生きていると何千年前から言ってきました。何が私を違わせるのでしょうか?何が私たちの時代を他の時代よりも特別にするのでしょうか?文明が何千年も生きてきた物語が、さらに何千年も続くことはあるのでしょうか?一つの基本的な理由が故に、私はそうは思いません。それは生態系のことです。文明の物語は、私たちを生態系から切り離し、生態系による成長の制約から除外してきました。このような成長が持続不可能であることを長々と論じる必要はないでしょう。私たちは様々な資源のピークと生態系のピークの重なり、ピーク文明に達しようとしているのです。もし私たちが自然の富を残らず荒廃させる気であれば、消費拡大と人口増加をあと40年は維持できるかもしれませんが、それより長くは無理でしょう。


 ですから、自信を持って私たちは特別な時代に生きていると言えるのです。


 昨日、『お金か人生か』の著者ヴィッキー・ロビンと電話で話しました。「私は愚痴っぽい老婆になりそうだわ」と彼女は打ち明けていました。「人々はインスピレーションやサポート、ときにはただ私の存在を求めて私に連絡してきます。つい最近の連絡はブラジルのエコビレッジからでした。私のこの気難しい老婆の部分はこう考えていました。エコビレッジ?私たちはそれをもう試したのよ。うまくいかないわ。私はそんな役割を演じたくないの。」


 
 ヴィッキーだけではありません。私の旅や手紙のやり取りでも、私は幻滅を感じているたくさんのヒッピーたちに出会います。彼らは痛みと疲れを抱えながら、私の話を聞きに来ることもあり、もっと美しい世界を望んでいた若い頃の希望を恐れずに再燃させようとはしていないのです。彼らは社会の変容や意識の転換の話をすると、それが裏切られた傷に触れることになるので身を縮めるのです。コミューン、愛の集会、アシュラムで、彼らは驚くほどに美しい可能性を垣間見ています。私たちは、彼らが「幻滅を感じている」と言ってるので、彼らが見たものが実在していなかったと推測していますが、それは明らかに実在した、幻覚ではない未来の光景だったのです。水瓶座の時代が幕を開け、戦争、犯罪、貧困、嫉妬、お金、学校、刑務所、人種差別、生態系破壊、その他すべての闇が、拡大した意識の前に、やがて消え失せていくであろうことはあまりにも明白だったのです。


 そのときに起こったことは、彼らが見たものが現実ではなかったことを知った幻滅ではなかったのです。組織的にであれ、心理的にであれ、過去の力の猛攻撃の下、未来の前兆は失われたということが起こったのです。社会の権力者たちがヒッピーの試みを潰そうと企てただけでなく、ヒッピーたち自身も、行動に表れざるを得ない内在化された抑圧、権力者たちのイメージを抱えていたのです。たとえ彼らがお互いの癒しの必要性を認識していたとしても、それをホールドするには彼らの生まれたばかりのしくみは弱すぎたのです。


 別の見方をすれば、1960年代に「分離の時代」はまだその頂点に達していなかったのです。人類が探究すべき疎外、分離、分断の極限はまだあったのです。60年代は、麻薬中毒者が転落の途中で明晰さを取り戻す瞬間のようなものでした。世界が崩壊して初めて、私たちは集合体としてのどん底へと落ち、私たちに示された道を生きはじめるのです。


 もし読者の中に、私が愛してやまないヒッピー世代の人たちがいるのであれば、あなたが知っていることを思い出してほしいのです: あなたが見たもの、体験したものは現実でした。それはファンタジーではなく、未来を垣間見たことに他なりません。それを生きようとするあなたの勇敢で不運な試みは、その未来の可能性の形態形成場を呼び起こし、強化するのに役立ったのですから無駄ではなかったのです。もっと平たく言えば、それが新しい世代が全うしはじめている文化的な学習プロセスを開始させたのです。

 

 あなたが体験したことが本物だと、私にどうやってわかるのでしょうか?何度も何度も、最も皮肉屋な元ヒッピーの目にさえ、その体験の残り火がくすぶっているのを私は目にしています。そして今、それを再び燃え上がらせる瞬間が来ているのです。


 ヴィッキーと私は、新世代の理想主義者たちはヒッピーたちよりも圧倒的にアドバンテージがあるという点で意見が一致しました。「あなたたちの世代が失敗した部分で彼らが成功する理由は、簡単に言えばあなたがたなのです」。初代のカウンターカルチャーの先駆者たちには、この新しい世界へと先だったエルダーたちがいませんでした。彼らには、失敗から学べる人たちも、古いパターンが噴出したときに新しい物語の中へと留めてくれる人たちもいなかったのです。もちろん例外も散見されましたが、概してヒッピーたちは、自分たちよりも前の世代が別の世界に恩義を受けていることを理解していました。「30歳以上の人間は信用するな」と彼らは注意していたのです。


 今日、ある友人が「このイベントを開催していると、私を非常に感心させる知恵と寛大さを持った20代の若者たちに出会い続けるのです。彼らには、私が25歳のときには触れることのできなかった知性があります」と言っていました。私がどこへ行こうと、同じことが言えます。私の世代が何十年にもわたっての苦闘の末に到達した理解を、生まれながらにして身につけたかのような若者たちのことです。そして彼らは、これらの理解をより完全に生きているのです。私たちが何十年もかけた旅が、彼らには何ヶ月かなのです。旧世界のパターン化の影響は、彼らにとっては非常に表面的なのです。それを後にするために、同じような解きほぐしや機能停止させるプロセスを体験する必要がないこともあるのです。必要なのは通過儀礼と同調だけで、彼らは新しい世界へと完全にシフトします。私たち上の世代は、彼らが足を踏み入れるためのスペースを守っているのですが、そこに辿り着けば、彼らは私たちが行けたところを超えるところまで行くのです。


 これからの時代の世代は、前の世代が垣間見ただけの世界を実際に創造することができるのです。彼らには頼れる存在があるから、そうするのです。ヒッピー世代、それに続くX世代とY世代の反抗的な要素は、新しい創造者たちの周りで立ちはだかり、もっと美しい世界の物語を彼らが守っていくのを手助けします。そうすることで、60年代の物語は繰り返されないのです。


 この先の説明は、かなりアメリカ中心のものであることを認めます。私が知る限り、60年代にアメリカや西ヨーロッパが経験したことは、インド、中国、ラテンアメリカ、アフリカではまったく類似していません。さらに先住の民たちはヒッピーたちが再現しようとしていた理想の多くを常に生きてきました。しかし、今世界を支配しているのは西洋文明であり、その科学、テクノロジー、医学、農業、政治形態、経済は、すべてのオルタナティブを周縁部へと押しやっています。世界中の人たちがその文明に反発し、それに代わるものを築こうと奮闘しているときに、新しい世代は、文明化が初めて絶頂を迎えた先人たちの恩恵を今まで通り受けることができるのです。


 とは言っても、西洋が自分たちが犯してきた文明そのものから人類を救い出してくれるなどとは想像してはなりません。分離という目に見えない習慣の中でなすすべもなくもがいても、分離に基づく文明を元通りにすることはできません。私たちの癒しは周縁からもたらされるのです。先進国の外を旅するたびに、私はこのことを改めて実感するのです。コロンビアにいたとき、「ここには人間であることを忘れていない人たちがいる。彼らはのびのびしていて、ハグをし、歌い、踊り、時間をかけているのだ」と思いました。アメリカ合衆国を訪れていたコンゴのアクティビストであるグレース・ナマダムは、私の社会が彼女の社会と同じように問題を抱えていることに同意していました。確かに、女性をレイプしたり、ピグミーを虐殺したりする民兵はいませんが、「ここの人たちは自分の子供たちをどう育てていいのかさえ知らないようですね」と彼女は私に話していました。彼女は敬意の欠如(そして肥満、非個人性、コミュニティの欠如…)に愕然としていました。


 私たちの癒しは周縁からもたらされるのです。中央が崩壊していく中で、それ以外があり得るでしょうか?


  • それは、旧来の「人民の物語」への全面的な参加から疎外されてきた人たちや場所、だからこそインタービーイングとしてどのように生きるかの知識の一部を守ってきた人たちからもたらされるのです。

  • それは支配的なパラダイムと矛盾するために排除されたアイデアやテクノロジーから生まれるのでしょう。これらには、農業、ヒーリング、エネルギー、マインド、生態系の回復、有毒廃棄物の浄化などのテクノロジーが含まれます。

  • それはまた、コンセンサスに基づく意思決定、非ヒエラルキーの組織、直接民主主義、修復的司法、非暴力的コミュニケーションなど、周縁に追いやられ、ほとんど忘れられている社会的・政治的技術からももたらされます。

  • それは、現在のシステムが抑圧したり、奨励しなかったりするような種類のスキルに関与しています。支配的な経済制度の外で、好きなことをしてわずかな報酬で働きながら悩み暮らしていた人たちは、そのスキルと経験が新しい物語のパイオニアとして高く評価されることに気づくでしょう。

  • それは、生計を立てるため、あるいはノーマルであるために、過小評価されてきた人たちの本来の才能や情熱の要素を自由にします。このカテゴリーには、おそらく現代社会のすべての人たちがある程度含まれています。「私はこんなことをするために地球へと送られたのではない」と考えるたびに、私たちは自分たちの抑圧されたギフトの揺れを感じることができるのです。

  • それは、人生の過小評価された部分、つまり、私たちが現代社会の慌しさとプレッシャーの中で軽視してきているもの、すなわち、自発性、辛抱強さ、ゆっくりすること、官能、遊びといった資質を体現し、正当化するもなのです。これらの資質を体現しない革命には注意してください。それは全く革命ではないかもしれないからです。


 未来を垣間見たいですか?それは、拒絶され、廃棄物の山として投げ込まれた「オルタナティブ」「ホリスティック」「カウンターカルチャー」の領域で花開いてきたものの中に見つけることができます。(纒足や奴隷所有制度のように、放棄され繁栄も発展もしなかったものは、この範疇には入りません)。これらは新たな常識となるでしょう。すでにそこに生きている人たちもいますが、私たちのほとんどはまだ2つの世界の間にはまり込んで、一部は旧世界の中で、一部は新世界の中で生きているのです。




第34章 意識                第36章 通過儀礼>


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