演説原稿⑦<文化庁前のデモに参加した際に、スピーチで言いたかったこと。>―2019年9月27日@京都文化庁前、9月30日@東京文化庁前

この問題に関して、私には3つの立場がある。そして、多くの感情が生まれ、いてもたってもいられない気持ちだ。
今日は、自分の感じることを正直にいいたく、そして他の方々の感じていることを聞きたいと思ってきた。


まず、1つ目の立場は、展示プランナーとしてずっと働いてきた者として。
私は15年間、展覧会をつくる仕事をしてきた。長年ミュージアムに勤め、そしていまは独立し、文化庁の仕事もしている。
展覧会やミュージアムという場は、立場を超えて、人々が自由にあらゆる可能性と未来について考え、語れる場所だ。
その場を守るために、そしてその意義を信じて、多くの人々が仕事をしている。私もその一人だ。
直接的に現場をつくり、運営する人々もそうだし、作品等を通じてその場で発信をする方々もそうだし、また基盤をつくる文化行政もだ。

その場がまず、暴力によって荒らされてしまっていることが、ただただ悲しい。


2つ目の立場は、政治家だ。
私は今年、公募に手を挙げて、いち市民から国会議員を目指して活動を始めた。
その理由の一つは、文化に関して政策的な見直しが必要だと感じたからだ。
そして、長期的に国の力に、一人ひとりの力になるはずの文化が、産業主導、効率化優先、合目的的で短期的な政策によって勧められていることを懸念している。
さらには、現政権下での国家運営において、行政の建前が崩れてしまっている事態がおきている。
今回の問題も、その一つだ。まずは、大義にのっとり、公の仕事をする行政は、建前を守ってほしい。
不交付の過程をきちんと公表し、しっかりと検証すべきだ。


最後の立場は、いち国民だ。
この国には、歴史認識の問題がある。
今回、「表現の自由」に対する圧力として顕在化したが、その背後にあるのは歴史認識の問題であり、それに伴った政治家の介入だ。
いち国民として、私はこの問題にあまり向き合ってこなかった。
でも、最近デモなどにいっているうちに、これまで差別の最前線で戦ってきた方々と、私も含めてそうでない人々には、見えている現実の風景が全然違うのでは、ということに気づいた。
と同時に、歴史修正主義を主張する人たちは、本当にそれを信じ、日本や自分自身が貶められているといった被害者感情をもっているのではないかと、感じた。
そういう問題に対し、ただ「おかしい」と糾弾するだけでなく、なぜそのような主張をもつようになってしまったのか、その背景と構造をしっかり見つめていかなければいけないと、思う。
そして、歴史修正主義の問題は、一国民としての私も当事者であり、断固として立ち向かっていきたい。