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翻訳と声

 私は子供の頃から読書が好きで、いつも何かしら本を読んでいました。そして普通の日本の家庭に生まれ、特に英才教育を受けたわけでもなかった私にとって、海外文学とはいつも翻訳で楽しむものであり、そのことに対して特に何の疑問も持っていませんでした。たとえ日本語に訳されていても、遠い時代に遠い国で書かれた物語を読めば、何となく遠い気持になったものです。
 しかしながらその感覚は大人になって原文に触れるようになると、大きく変わることになりました。今でもよく覚えているのは、ヴァレリーの本についてです。かつてお気に入りの本のひとつがヴァレリーの『テスト氏』で、古本屋で買った福武文庫の粟津則雄訳をよく読んでいたのですが、ある時ふと気が向いて原著を読み始めたところ、冒頭の数行を読んだだけで、何だか妙な違和感を覚えたのです。最初はそれが何なのかよくわからず、自分でも困惑していたのですが、原文を読んだ後に再び粟津則雄の訳文を読み返してみるとただちに明らかになりました。というのは改めて訳文を読むと、今までヴァレリーの声だと思って聞いていたのが実は単なる粟津則雄の声でしかなかったということが強烈に意識されるようになってしまったのです。原文を読んで聞こえてくるのが本物のヴァレリーの声であり、訳文を通して聞こえてくるのは完全に別人の声、すなわち訳者の声でしかなかったのです。それは言わば着ぐるみが壊れて中の人が出てきてしまったような気まずい感覚でした。

 翻訳における〈声〉の問題はなかなか深い問題を孕んでいるのではないかと思います。というのは、そこには単なる誤訳の有無云々を越えた、翻訳という行為そのものが内包している本質的な欠陥が示唆されているように感じられるからです。それは、どれだけ意味が正確に伝えられても、どれだけ表現が上手に写されても、原文の持つ〈声〉を届けることだけは絶対に不可能であるという問題です。
 あるいは訳書を読むということは、人づてに噂話を聞くのと似たようなことなのかもしれません。例えば何か遠くで物凄い事件が起きて、その当事者から話を聞いた人たちが事件の詳細を話して教えてくれるとします。ある人は聞いた通りのことを冷静に正確に教えてくれるでしょう。しかしまた別の人はちょっと話に尾ひれを付けて面白おかしく話してくれるかもしれません。あるいはもっと上手な人であれば、当事者が話していた時の口調や顔つきを真似しながら、「こんな風だったらしいよ」と臨場感たっぷりに一通り演じ直してくれるかもしれません。そうして噂話を伝えてくれる人々にはそれぞれに才能の違いがあり、性格の違いもあり、同じ一つの話でも誰から聞くかによって印象が変わってしまうでしょう。一体誰の話を一番信用すべきか決めるのも難しいだろうと思います。
 しかし誰から噂を聞いたところで、結局、それは事件に立ち会った当事者から実際に話を聞くのとは違います。どれだけたくさんの人からどれだけ多様な語り口で噂を聞いたところで、本当に当事者と会って、面と向かって、本当にその人の声で話を聞くまでは、何だか腑に落ちないような感覚が拭い去れなかったりもするのではないでしょうか。さらに言えば、もし当事者から直接に話を聞けるのだとすれば、わざわざ当事者以外の人々から噂話を聞く必要などなくなってしまうのではないでしょうか。

 おそらく現代の日本では、海外文学を楽しむ読者のほとんどが翻訳を通して作品に触れていると思います。しかし自分自身たまに翻訳をする人間でもあることから私があえて注意を促したいのは、翻訳作品を読んでいる時にみなさんが聞いている声は本当の作者の声ではなく、訳者の声に過ぎないということです。しばしば翻訳者というものは何か舞台裏に隠れている透明な存在で、作者と読者を繋ぐ仲介者のように思われがちですが、真実はそう単純ではありません。実は翻訳書においては、作者こそが舞台の外に追いやられていて、カツラを付けて衣装を着た訳者が声色を変えながら独り芝居を演じるのを読者が眺めているだけの閉塞した状況になってしまっているとも考えられるのです。
 あるいは学術論文など、声などというものが問題にならない文章も存在するかもしれません。しかし少なくとも文学においては、ダンテだとかシェイクスピアといったような偉大な文豪の声を聞いているつもりが実は訳者の声を聞いているだけだったのだと判明すると、ちょっと興ざめしてしまう部分もあるのではないでしょうか。というのも訳者の声は結局、作家の精神ではなく訳者の精神から発されているのであり、そして多くの場合、訳者の精神は作家の精神よりもはるかにちんけであるからです。
 訳文それ自体に文学的価値がある場合も多いことはもちろん承知しています。しかし例えそうであっても、翻訳という作業には個々の訳者の才能のみでは解決できない本質的な問題が含まれており、訳文を通して作者の声を聞くことは不可能なのだということ、翻訳書を読んでいるときに聞こえているのは実は訳者の声でしかないこと等々を承知した上で、ある程度の警戒心を持って訳文に接することは重要であると思います。というのも、もし読者の注意が作家の方にのみ向いていて、翻訳者が透明な存在だと勘違いされていたら、読者は翻訳者の声を作家自身の声だと勘違いしてしまうからです。

 あるいは文学に限らず様々な形で翻訳された文章が流通している現代だからこそ、誰のどのような訳文であっても「翻訳された文章は基本的に噂話でしかない」くらいに思って、眉に唾を塗って接するべきなのかもしれません。