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昔の作品ですが、メンヘラ小説追加しておきます

  タイトル 「50%」
                      
 プロローグ
   1

 ウレタン製の床の上を歩くと、軽やかな足音が早朝の病院の廊下に木霊する。廊下の蛍光灯はついていなくて、病院全体が山奥の茂みの陰にいるように薄暗い。
 今は十二月の下旬、朝の六時半、まだ夜明け前である。もうすぐ年越しなのに、病院内は完全セントラルヒーティングのおかげで生暖かい空気が漂っていた。窓の外に見えるイチョウの木は、月影に凍えて枝を震わせているというのに。
 壁に掛けられた何を表現しているのかよくわからない絵の下に、身を寄せ合って座る人影があった。暗闇の中、時折小声が聞こえるが、何を言っているか聞き取ることはできなかった。
 この東廊下には入院患者が僕を入れて三人集まっている。しかし、いったい何が始まるのか僕にはさっぱりわからない。
 僕が突っ立っていると「座って」と朱美の声がした。朱美は百合の花のようなすらっとした細身の女性だ。髪の毛は肩に掛かる辺りまで伸びていて艶やかで、近くにいるといい匂いがする。目はぱっちりとしていて睫毛は長く、唇は潤っていた。普段は劇団で活動をしているらしい。最初、彼女がなぜ精神病院に入院しているのか不思議に思ったが、手首にある無数の切り傷を見て僕は納得した。
「早く座ってよ。昇がそこにいると御来光が見えないでしょ」
 僕は窓を背に立っていた。かすかに見える朱美の視線の先を追って窓の方を眺めた。
 今は暗くてよくわからないが、確かにこの窓からは山が見えたはずだ。そうかここから見える日の出を朱美たちは見に来ているのだ。
 僕は人生で太陽が輝くような瞬間を体感したことがない。名前が昇なのに日が昇るような人生を歩んでいない。高校を中退してからずっとひきこもりだった僕は、二十五歳でついに精神病を発病して、入院生活を送るまでに落ちぶれてしまった。僕の人生はまだ夜明け前だ。というより夜が明けることなんてあるのだろうか。生きていて今までずっと暗闇の中でもがき続けて、もうどうしていいのかわからなかった。
 自分の過去に思いを巡らせていると、急に僕の体が窓から遠ざかった。左腕を掴まれて引っ張られたのだ。そう、目を鋭く細めて頬をぷくっと膨らませている朱美に。
「こいつ怒ってやって」と朱美は、じっと座っている眼鏡をかけたおとなしそうな女性に視線を送った。彼女は直子という名前で僕と同じ病だと診断されている。赤い眼鏡を少し斜めにかけていて、唇は乾燥して割れている。いつも能面のような表情で、何を考えているのかわからない。
「わたしはそんなのいいから、別に大丈夫」
 つれない直子の返事に朱美は怒りを直接僕にぶつけてきた。
「だいたいね、昇の書く小説は気配りってもんが足りないのよ。周りがどう自分を見ているか敏感にならなきゃ。もっと読み手がどう受け取っているか考える必要があるわけ。そんな台本、うちの劇団じゃ絶対採用されないわよ」
 僕は小説を書いている。そして朱美が劇団に所属していると聞いて、昨日朱美に僕の書いた小説を読んでもらった。その結果ボロカスに叩かれることになる。結構生き甲斐として書いていたのできつく言われると心が折れる。僕はしゅんとなるしかなかった。
「明るく……なってきた」
 直子は太陽が昇るであろう山の方に視線をやったまま静かに、しがれ声で呟いた。
「いーね、この感じ」と朱美は弾けた笑顔で山の方を向く。さっきまでの不機嫌はどこかにいってしまったようだ。
 自然と朱美が見つめている方向へ視線がゆく。群青色の空の色が薄くなってきて、山の向こう側にあるだろう太陽が照らすオレンジ色の光と交わり、水彩画のようなグラデーションを織りなしている。
「ねえ、死ぬときってこんな感じかな」
 朱美の突拍子もない言葉が、その色っぽい唇からこぼれる。
「生まれるときの間違いじゃない?」
 僕は真面目に聞き返した。
「要は一緒でしょ、死ぬのも生まれるのも」
 僕は首を捻りながら言葉の続きを待った。
「この世で死ぬってことは来世で生まれるってことなのよ。だからさ、死ぬときには来世の光がだんだん見えてくるのかなって。でも死んでみないとわらないものね。私、失敗ばっかりだし」
 言っていることはわからないではない。でもここにいるだけあって相当病んでいるなと心では思ったが、表情には出さなかった。失敗とは手首を切っても死にきれなかったという意味なのだろうか。
「御来光!」
 朱美の澄んだ声と共に、眩い一筋の光がすうっと瞳の中に差し込む。その瞬間、今ここに自分が存在して生きているということが朱美に許されたと思えた。今まで生きていること自体、罪だと感じていた。自分という存在がないほうがこの世のためだと思っていた。けれどそうではない。今この瞬間を生きていてもいい。今日が僕の人生の夜明けだ。
「昇……顔がリア充」
直子は無表情でぼそぼそと呟いた。
「過去の昇が死んで、新しい昇が生まれたのよ。ある意味来世が始まったわけ。生まれ変わったのよ、よかったわね。来月退院でしょ、退院してもしっかり書きなさいよ」
 よくわからないが朱美なりの励ましなのだろう。僕はありがとうとだけ伝え朝日の、羽布団に包まれているような暖かさに身を委ねた。

 第一章 宇治
   2

 甲高い彼女のフルートの音色がこんなにも耳に、腹に、全身に心地よく響くとは思いもよらなかった。
 
 一月中旬の午後四時、宇治川の水面に傾きだした太陽の光が反射して、柚子色の輝きを放っている。川の側には鵜飼いに使われる鵜の小屋が静かに佇んでいた。ここにいるはずの鵜はこの季節、どこにいっているのだろう。
 空高く伸びる十三重の石塔は塔の島の中心で威厳を保っている。塔の島と橘島を結ぶ小さな橋を渡ると、枝だけのしだれ桜が寂しそうに春が来るのをじっと待っている。
 観光客がぞろぞろと、赤く細長い朝霧橋を渡っていて、僕は彼らの隙間を縫うようにして早足で歩いている。
 なぜ早足なのかというと、聞こえるからだ。
 どこからか不思議な音色が聞こえる。それは空耳とかでなくて確かに僕の鼓膜を震わせている。
 朝霧橋を渡りきると宇治神社が見える。神社で祭りをやっている様子はない。僕は音色の正体が祭囃子とばかり思っていたので露店も何もない神社に少しがっかりした。
 それにさっきまで聞こえていた音色は聞こえなくなっていた。僕は手がかりを失ってしまった。
 しかたなく宇治神社に少し遅めの初詣をすることにした。
 僕の願いはふたつ。
 ひとつは早期に社会復帰をすること。もうひとつは小説で認められることだ。
 お賽銭を入れないで鈴だけ鳴らして掌を合わせた。それで御利益があるかどうかはわからないけど、お賽銭を入れるだけの小銭すら僕は持ち合わせていなかった。
 退院してからもう一年が経つ。去年の一月に退院してから今までの間、何もしていないわけではなかったが、僕の人生は朝日が昇った途端、雲で隠れて何も見えなくなってしまったようだった。振り返るといったい自分は何をしていたのか、空白の一年になってしまった。
 精神科の担当医によるとこの一年間は陰性症状というものが出ていたそうだ。陰性症状とは意欲の低下や感情が乏しくなることをいう。
 最近になってやっとやる気が出てきて、こうして散歩をして社会復帰に向けて体力をつけている。やっと雲が晴れてきた感じだ。僕は社会に迷惑をかけたままでは終われない。社会の役に立ちたい。社会の歯車の一部になりたい。強い願いを込めて僕はもう一度掌を合わせ、振り向いて元来た道を戻る。
 小説は書いていた。いくつか応募もしていたがなかなか結果はついてこない。挫けそうになったら朱美の「あんた光るもの持ってるんだからね、後は磨くだけよ、わかった? ちゃんと努力して書き続けるのよ。二年後、いいえ三年後ぐらいかしら、私があんたのヒロイン演じるんだからね」という言葉を思い出してはパソコンに向かう自分がいた。そして小説のネタがどこかに落ちていないかと思いながら宇治神社を後にした。

 宇治神社を出たら、うっすらと朝霧がかかっていた。その霧の向こうに桜が咲いているように見える。いやまだ一月だ、梅すら咲いていないはずだ。少し進むと霧の向こう側がよく見えた。すぐに若い女の人の姿が目に入った。彼女は桃色の着物を着ていて、手にはフルートを持っている。桜の正体は彼女の着物の色だったんだなと思いながら自然と彼女の方へ足が進む。宇治神社の鳥居の正面、朝霧橋の袂、宇治川沿いに『源氏物語』宇治十帖の情景を表した像のとなりに彼女は立っていた。彼女の髪の毛は腰の辺りまで伸びた黒髪で宇治十帖のヒロイン、浮舟を彷彿とさせる姿だった。
 彼女は楽譜もなしにフルートの吹き口を唇に当てた。
 空気が一変した。
 透き通るような彼女のフルートの音色は僕の心を優しく包み込んだ。さっき聞こえた不思議な音色はこれだったのだ。
 今まで流れていた時間と彼女のフルートが響き渡っている時間とではまるで別の空間だ。あまりの心地よさに全身が震えてしまう。
 不意に彼女と目が合った。彼女は一秒だけ僕を見つめてすっと視線を逸らす。瞬間に顔が燃え上がるように赤くなったのがわかった。でも顔が熱を帯びた状態は妙に気持ちよくて、僕の視線は彼女を捕らえたままで、彼女の生み出す世界に浸り続けていた。そして彼女の周りにどんどん人が集まってくる。みんなこの音色に酔っているんだ。
 
 か細い音色なのに芯はしっかりとしている。高い音と低い音が交互に激しく、しかし柔らかく入れ替わる。
 この曲はなんというのだろうか。というか彼女はいったい誰なんだろう。演奏が終わったら曲を知りたい振りをして彼女に話しかけてみよう。そんな勇気、自分にあるだろうか。
 長いようであっという間の彼女の演奏が終わった。彼女は吹き終えたフルートを名残惜しそうに唇に当てたままでいた。
 僕は何も言えずにいた。他のギャラリーが彼女に声をかける。すごいね。素晴らしいね。また聞きたいよ。と賞賛の声が自然とかかる。べつに。あっそう。そうね。彼女は淡々と返事をしていた。熱い演奏と打って変わって冷淡な印象が、僕には堪らなかった。
 曲名を知りたい。いや彼女のことが知りたい。
 そう思っても僕は行動に移せずにいた。ただじっと彼女を眺めているだけだ。しかしもう目が合うことはない。彼女は手早く荷物をまとめて立ち去ろうとした。彼女が背を向けたそのとき、不意に振り返った。そしてどんどん僕の方へ向かって歩いてくる。心臓の音が隣の人に聞こえてしまうのではないかと思うくらい高鳴った。彼女の桃色の着物が視界全体に入ってきて僕の視線は泳ぐしかなかった。僕は覚悟を決めて彼女に話しかけようと、緊張で動かない顎を必死で動かそうとした。

 すっと彼女は僕の横を通り過ぎた。

 後ろを振り返ると、何か地面においてあるものを手に取っていた。
 拍子抜けした僕は膝から崩れ落ちた。そして尻餅をついて地面にへばってしまった。彼女は僕の方を見ていない。僕だけが彼女の方を見ている。僕は急に頭が冴えて彼女のことを冷静に見つめることができた。
 ほんの一時見た彼女の目は吊り目で鋭く、唇は適度な厚みで口紅は着物に合わせて淡い桃色だ。鼻はやや高めでほっぺのチークがまた着物と同色で素敵だった。
「何でこけてるの? 大丈夫?」
 見つめていた淡い桃色の唇が僕に向かって言葉を発する。僕は無意識に言葉を返していた。
「大丈夫な訳ないだろ!」
 なんて乱暴な言葉を発したのだろう、と思ったときには手遅れだった。
「あっそう」
 彼女は興味なさそうに僕の前から去っていった。
 彼女が話しかけてくれた時間は五秒にも満たないであろう。でも僕は感激していた。彼女の姿はどんどん小さくなっていく。気づいたら彼女に大声で話かけていた。
「また聞きたいよ。また聞かせてよ」
 彼女はその場にぴたりと止まった。僕の心臓の音も止まった。誰も何も発しない空間が僕の逃げ道を塞いでいる。早く何か返事してくれ。頼む! すると彼女はゆっくり振り返った。
「またここでやるから、よかったらきて」
 無表情だが、それでも僕の問いかけに返事をしてくれたことが嬉しくて仕方なかった。それにまた彼女のフルートが聞けると思うと僕の胸は、はちきれんばかりに期待でいっぱいになった。

 これが、天女の調べのような彼女のフルート演奏を聞く最初で最後になるとは思わなかった。神様はどうしてこんな意地悪をするのだろうとのちのち僕は嘆くことになる。

   3

 あれから何度朝霧橋を渡っただろうか。社会復帰のための散歩と称して朝昼晩と一日三度様子を見に行くこともあった。
 しかし彼女の姿はどこにもなかった。
 もう一ヶ月以上が経つ。
 ――二月の下旬
 猫が大好きな僕は気分転換に猫カフェに行くことにした。こんな田舎な宇治にも猫カフェができる時代なのである。
 情けないことだが、こづかいを親にもらった。そのこづかいから電車代を払うのはなんだか申し訳ないので三駅ほど歩いていくことにした。
 小一時間歩くと「猫」という大きな看板が目に入った。ひきこもりの僕には猫カフェに入るにもかなりの勇気がいる。あっという間に猫カフェの目の前まで来てしまった。やっぱり引き返そうかな。そう思ったとき窓から一匹の猫が見えた。
 その猫は普通の猫よりひと回りも大きくて、頭からしっぽまでふわっとした長いグレーの毛に包まれていた。艶やかな毛並みをしていて、顎のラインと胸の辺りは白かった。そして英国貴族が飼っていそうな優雅な雰囲気を全身から醸し出していた。
 ノルウェージャンフェレストキャットだ!
 ずっと見たかった猫を見て僕の気持ちは一気に盛り上がり、勢いで店のドアを開けた。店の中は暖房がきいていて心地よい。
 受付でお店のシステムについていろいろ説明を受け、料金を前払いする。一時間千円という値段設定だ。お金を払ったからにはもう引き返せない。
 僕は猫がいる部屋に通された。
 その部屋は十畳ほどで、さっき見たノルウェージャンフォレストキャットが部屋の端にあるキャットタワーの最上段で毛繕いをしている。上には板が十字に交差していて猫が部屋の天井付近を渡れるようになっている。板の上にはしっぽをだらんと垂らした他の猫がいて、目を瞑って今にも眠りに落ちようとしていた。部屋の所々に籠があり、そのほとんどの籠の中に猫がいて眠りについていた。床には小さな噴水のような物が置いてあって、いつでも猫が水分を補給できるようになっている。そして猫じゃらしが至る所に散乱している。
 でも部屋全体を見渡して僕は痛烈に後悔することになる。

 客が全員、女なのだ。

 ふたり組と三人組と。それと僕と同じ、ひとりで来てる子と。みな別々の長椅子に座っている。
 計六人の女子と一時間もの間、狭い空間に閉じこめられるのはひきこもりの僕にとってあまりに刺激が強すぎた。どこに、どんな距離感で座っていいかすらわからず僕は注文したオレンジジュースを手にしたまま立ち尽くす。
 そんな僕に「にゃーん」と一匹の猫が首根っこを擦りつけてきた。その猫は短い茶色い毛が全身を覆っていて、耳がとても大きい。長めのしっぽを立てながら、アーモンドのような大きな目でこっちを見つめてきている。
 この猫は人懐っこくて有名なアビシニアンだ。人見知りの僕にも優しく懐いてくれる。僕が長椅子に座るとアビシニアンは膝の上にちょんと乗ってくる。そして思わずアビシニアンを抱きしめる。
「抱っこは禁止だよ。猫にとってストレスになるから。さっき説明受けたんじゃないの?」
 ひとりで来ていた子が僕に話しかけてきた。
「抱っこはしてないよ。抱きしめただけだよ」
 と慌ててアビシニアンから手を離す。
「ずるいよ。私なんか撫でるだけなんだから」
「ちょっとぐらい大丈夫だよ。膝に乗せてぎゅっとしたらいいんだよ」
 なんとなく適当に応対してしまった。急に話しかけられたので緊張する暇もなかった。それになぜかこの子は話しやすい。ショートヘアーでボーイッシュ、目は細い。ノーメイクなのが親しみやすい要因だろう。それに同じ『ひとり客』だから通じるものがあるのかもしれない。
 その子の膝には耳が折れ曲がっている猫がいる。スコティッシュフォードだ。
「ぎゅっとしていいの?」
 その子は僕の言うことを真に受けて猫に手を伸ばそうとしている。
「誰も見ていないよ。それにすぐに離したら猫だってストレスにならないよ」
「ほんとに?」
 僕は膝の上にいるアビシニアンをもう一度軽く抱きしめながら頷く。
 その子は意を決したように目をきつく閉じながら、膝の上のスコティッシュフォードを胸の中に埋めた。猫はじっとしている。その子もぴくりとも動かない。誰も見ていないというのは嘘でふたり組と三人組、店員もこっちを気にしているようだった。注意されないだろうか、僕は心配になってきてその子が早く猫を放すよう強く念じた。他の猫の小さな鳴き声がやけにゆっくりと聞こえた。窓から射す光が店員の影をじっと床に映し出す。早く、早く! 
 その子は抱きしめて十秒ほどですっと手を離した。
「もふもふだね!」
 満面の笑みがこぼれる。そしてとても満足げな表情をしている。勧めて良かったのかもしれない。店員はもうこっちには向いていなかった。
「私、愛っていうの。園部愛。よろしくね。あなたは?」
 急にプライベートな質問をされたものだから僕は狼狽した。
「ぼ、僕は神崎昇」
 とだけ答えると愛は矢継ぎ早に次の質問を投げかけてきた。
「私、十九よ。早生まれだから成人式は終わったの。あなたは何歳なの?」
「二十六」
「宇治に住んでるの?」
「うん」
「私も宇治住み。仕事は?」
「してない」
 と勢いに任せて言ってはいけない情報を教えてしまった。後の祭りだった。
 愛はうーんと上を向いて何か考えているようだった。そしてすぐ僕の正面を向いた。
「私も」
 と愛は照れながら舌を、ぴっと出した。
「学生さんじゃないの?」
「ううん、ただのニート」
 あまりに堂々とニートを公言したので僕は驚きを隠せなかった。僕なんかはそのことについて生き恥を晒してるとしか思えないのに。いつの間にか膝の上のアビシニアンはどこかに行ってしまっていた。
「ねえ、猫のどこが好き?」愛の質問は続く。
「気ままで勝手なところかな。犬はわざとらしくてあまり好きじゃない」
 愛はふうんとだけ言って、頷いた。
「私はね、ずっと寝ているところが好き。いつまでも寝てていいんだもんね、猫って。そういうところが羨ましいというか、いいなと思うの。」
 共感はできなかったが、とりあえず頷いた。
「私も猫みたいにずっと寝ていたい」
 非生産的なことをさらっと言うあたりは今時の若者というものなのか。
 店員が愛の元を訪れて、時間がきました、延長されますかと事務的に話しかけてきた。
「帰ります。じゃあね、昇」
 膝の上のスコティシュフォードをそっと横に移動させ、愛はコートを着て店から出ていった。連絡先の交換くらいしておけばよかったと後悔した。けれど連絡先を聞く勇気など持ち合わせていなかった。

 僕はまだ時間があるので、籠の中に寝ている猫を覗きにいく。目をきつく閉じて全身を丸めながらも、四肢を伸ばそうとしている猫がいる。愛がずっと寝ていたいといった心理が僕には読めない。体がついていかないから、心が疲れ果てたから、そのいずれも愛に当てはまるようには思えなかった。単に働きたくないのだろうか。
 僕は働きたい。社会の役に立ちたい。精神病持ちでもだ。そこが愛とは違う。同じ働いていない人間でも志が違う。愛に対して怒りがこみ上げてきた。
 怒りを抑えるために猫じゃらしで猫と戯れた。最初は全く反応しなかったけれど、テクニックを駆使すれば猫は猫じゃらしにじゃれる。猫大好き人間の僕は猫たちと楽しい時間を過ごした。
「お時間ですけど、延長されますか」
 店員が愛のときと同じように事務的に話しかけてきた。僕は愛とは違う。今は稼いでないけどいつか自分で稼いだお金でまたここに来るんだ。
「また来ます」
 猫カフェから外に出ると見覚えのあるコートが目に入った。北風がコートの裾を揺らしている。
「待ってたよ」
 そこには鼻をすすりながら両手を組み震えている、愛がいた。愛の視線は真っ直ぐに僕の両目を捕らえていた。

  4

 なぜ愛が僕を待っていたのか。そんなこと聞けるわけがない。
「これからの時間、暇でしょ? 一緒に宇治巡りしない?」
 直前まで愛に対して怒りの感情を持っていたのでどう接していいのかわからない
「今日は帰ることにする」
 愛はこっちを見ている。
「え、もしかして怒ってる?」
 これが女の感というものだろうか。鋭く気持ちを見抜かれるのは非常に困る。でも怒っていることがわかってしまったのならなぜ怒っているかぐらい伝えるべきだと思った。
「待ち伏せしてごめんなさい。お金がなかったから延長できなくて、でも昇ともう少し一緒にいたくて」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあなに?」
 僕は自分の気持ちをどう表現していいものかわからなかった。けれど素直に自分の気持ちを伝えられるよう努力しよう。それが誠意だ。
「さっき仕事してないって堂々と言ってたよね」
 愛は小さく首を縦に動かす。
「僕も仕事をしていない。でもそれじゃ駄目なんだ。社会のために役に立たないと本当に駄目な人間になってしまう。愛はそれでいいの? 猫みたいにずっと寝て、働かないで人生を過ごしていいの?」
 愛はじっと僕の目を見ている。視線を外さないのは愛の癖なのだろうか。非常にプレッシャーである。しばしの沈黙の後、愛ははっきりと返事をした。
「男にとって仕事は大事よね」愛が至極真面目な表情になった。「女は仕事なんて二の次。結婚して家庭に入れば関係ないもの。昔から家事手伝いってあるじゃない。あれって今の言葉でいうとニートだよ。だから私はニートであることを恥と思わない」
 男と女の違いを主張されたら僕には反論できなかった。確かにそうだ。いくら男女平等が叫ばれても男と女では生き方に違いが出る。愛は愛なりの考えや生き方があって、仕事をしていなくても堂々と生きているのだ。愛の素直な思いを聞き、自然と自分の硬い表情が崩れていくのがわかった。
「だから昇は仕事を探せばいいのよ、明日からねっ」
 僕は愛に宇治の中心街に向けて背中を押された。悪い気はしなかった。

「ここは抹茶パフェが有名なの」
 江戸時代に建てられたであろう古い平屋の建物の前に行列ができている。友禅染の、のれんが建物の奥ゆかしさとマッチして風情を織りなしている。行列はその、のれんから始まり最後尾は隣の店のさらに向こう側だった。
 愛はその行列に並ぼうとはしない。僕も並ぶ気にはならない。待つのが嫌だからではない。お金がないから並んでも抹茶パフェにありつけないのだ。
 店の前に抹茶パフェのオブジェが飾ってある。愛と僕はオブジェの前で立ち止まった。抹茶パフェの具材、抹茶アイスと抹茶スティックと抹茶カステラと白玉がちゃんとわかるようになっている。
「ねえ、昇ならどれから食べる?」
 愛が楽しそうに聞いてくる。
「うーん、白玉かなあ」
「そう白玉から食べるのがいいの!」
 愛はヒートアップしている。
「白玉は長いことアイスの横にあると冷えて固くなっちゃうの。だから白玉は早めに食べるのがいいの! でも私はスティックから食べちゃう。邪魔だから先に食べちゃう。で、次に白玉を食べるの。でね、白玉食べちゃったら、溶けないうちにアイスを食べるの。でねっ、カステラはパフェの具材としては邪道だから隅によけるの!」
 愛は息を切らしていた。僕はあっけに取られて笑うしかなかった。
「ずいぶんと計画的だね」
「そう、私ってすごく計画的な性格なの!」
 愛の気持ちは高まる一方だった。その後も愛の熱い抹茶パフェ論を聞き続ける。しばらく話した後、気が済んだのか、愛はすっと大人しくなった。
 そしてお金を一切使わないまま、僕たちは店を後にした。

 次に訪れたのは平等院だ。
 花も葉もない枝だけの藤棚の奥に入口がある。拝観料が要るので僕たちは中には入らない。
「裏に回ろう。冬だから垣根の脇から中が見えるかもしれない」
「うん、うん!」
 愛はお金を使わないことを楽しんでいる。それはお金がない今の僕にとって、とても気を楽にさせてくれることだ。
 垣根を伝ってみると思っていた通り垣根の葉の付きは悪かった。僕たちは一番くぼんでいる垣根に近づく。
「私たちで独占だね」
 愛は嬉しそうに垣根と僕を交互に視線を移す。ここから中は見えるのだろうか。
 垣根の隙間から中を見ると十円玉に描かれている鳳凰堂の姿とはかけ離れたものだった。きっと角度が悪いのだろう。
 大きなキャリーバックを持った観光客の姿も見える。きっとどこか遠方から旅行で来ているのだろう。
「私も旅行で来たなら中に入ってるなー。旅をすると財布の紐が緩むからね」
「それわかる」
「にしてもここ、宇治三大がっかり名所のひとつね」
 愛は両手を天に向けて広げ、首を傾け口を尖らせた。
「平等院はちゃんと見ればがっかりしないって。ちなみにあとのふたつは?」
「宇治駅のからくり時計とあと一個なんか」
「からくり時計も観光客には受けてるんじゃない? もうひとつは?」
「そのあとひとつを探しに行こっ! 上流の天ヶ瀬ダムまで散策に行こうよ」
「遠いよ。距離結構あるよ」
「いいのいいの、さ、行こう!」
 愛に振り回されていることが内心楽しくてしかたなかった。言葉にも表情にも出さなかったけれど感覚が鋭い愛には、ばれていたのかもしれない。

 天ヶ瀬ダムまで行こうと言った愛はすぐにバテてしまい、ダムの手前の吊り橋で足を止めた。吊り橋は深緑の川の流れの上に静かに佇んでいた。橋の幅は一メートルくらいあるだろうか。ロープが吊り橋の周りにいくつも架かり、これらがこの橋を支えていると思うと渡るのが不安になるほどだ。
「疲れちゃった」
 愛は大きな石の上に座る。真冬の寒さなのに額に汗が滲んでいる。何か気を利かせねばとはわかっていても、僕はどうしていいのかわからない。汗を拭くためにハンカチなんて持ち歩いてないし、励ましの声をかけることすらうまくできない。そんな状態の僕を突き刺すような言葉がかけられた。
「ねえ、昇は今まで仕事しないでどう過ごしてきたの?」
 僕の心は一瞬で凍り付いた。
 なんと答えていいのだろう。吐く嘘も持ち合わせていない。かといって正直に言ったら嫌われるに決まってる。頬の筋肉はひきつっている。それに急に腰骨が痛くなってきた。拒否反応が身体症状として現れているのだろうか。それでも何か言葉を発しなければならない。オブラートに包むような表現を頭の中で慎重に組み立て、話し始めると自分でも思いもしない露わな言葉になっていた。
「高校を中退してからずっと家にいたよ。ひきこもりってやつ。その間何にもしていない」
 沈黙がその場を支配する。吊り橋が風に揺れる音が聞こえるはずなのに、僕の耳には届かない。愛に好かれたい、嫌われたくない。だけどそれ以上に誤魔化したくないという気持ちが強かった。
「それから気持ちが不安定になって精神病院に入院したんだ。今は退院して一年。それで社会復帰を目指して体力をつけているところ。情けないけどこれが僕の全てだよ」とまで一気に吐き出して、少し気持ちを静めて「ごめんね、こんな人間で」と付け足した。
 すぅっと愛が立ち上がった。
 何も言わず、振り向きもせずひとりで吊り橋の方へ向かう。吊り橋の前で立ち止まりもせずそのままずかずかと渡る。当然吊り橋は揺れる。それでも愛は無言のまま振り向かないまま揺れる吊り橋の上を歩む。
「危ないよ! ゆっくり歩いてお願いだから」
 愛は速度を緩めるどころか、反対にスピードを上げて歩き続ける。いや走っているといっていいのかもしれない。吊り橋は縦に横に激しく揺れている。あまりに揺れるものだから愛はバランスを崩し、こけた。
 しかしそのまま転がって愛は吊り橋を渡りきってしまった。吊り橋の激しい揺れに僕は愕然とするしかなかった。そんなに僕のところから逃げ出したいのか。
「吊り橋効果って知ってるー?」
 愛は橋の向こう側から声を張り上げている。僕は平常心ではなかったので、愛が何を言いたいのか理解できなかった。だから首を横に振った。
「吊り橋の揺れでね、心も揺れるでしょ。そしたら心の中に隙間ができて、そこに相手の気持ちを受け止める余裕ができるのよ。昇は勇気を出して自分の過去を語ってくれた。その気持ちが嬉しかったし、ちゃんと受け止めたかった」
 愛は僕から逃げ出した訳じゃなかった。こんな自分を受け止めようとしてくれているんだ。そんな人がこの世にいるなんて考えてなかった。今の状態は僕にとって未知で、訳がわからない。愛は僕を受け入れてくれたんだ。それだけは確かなようだった。
「うおー」
 僕を受け入れてくれた愛の気持ちを受け止めるために、吊り橋に向かって走り出す。七歩ぐらい渡ったところで怖くなってへたり込んでしまった。こんなに揺れるなんて、見てる以上の揺れだった。
「吊り橋効果出たー?」
 愛が手の平を口に添えて叫んだ。確かにいつもと気持ちの持ちようが違う。揺れる恐怖を体験して、心に隙間ができたおかげで気持ちに余裕が出てきたような気がする。愛の気持ち、吊り橋効果が出てる今なら受け止められそうだ。
「愛の気持ち、嬉しかったよ。僕の暗い過去を受け止めてくれてありがとう」
 こんなに素直に感謝の気持ちを人に伝えたのは生まれて初めてだった。

 帰り道、吊り橋効果ってそんなんだったっけ? という疑問が湧き上がってきた。親に料金を払ってもらっている携帯でこっそり調べると『緊張や興奮でドキドキしているときに異性を見ると恋してると脳が勘違いしてしまう様』と出てきて僕は苦笑した。愛にうまいことやられてしまったのかそれとも天然なのか、区別がつかなかったし、つけようとも思わなかった。

   5

 吊り橋から引き返して塔の島周辺に着くころには、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
 僕はどこで愛と別れていいのかわからず戸惑っていた。送っていけばいいだろうか、いやそんな出過ぎた真似は恥ずかしくてできない。
「ねえ、川の水さっきより増えてない?」
 他愛のないことを愛は呟く。
「もしかしてダムが放水したのかも。昨日雨降ったし」
 僕も平静を保った振りをして返事をする。頭の中ではこれからどうするのかということだけしかなかった。
 連絡先は聞いておいた方がいいだろうか。いいに決まってる。それを知らなかったら愛との繋がりがなくなってしまう。それはよくわかっているが、聞いていいものか躊躇してしまう。躊躇というより無理という思いしかない。無理だ、ひきこもりの僕にはあまりにもハードルが高い。
「のぼるー、あの赤い橋渡るよー」
 愛は朝霧橋を指さし僕に催促した。
 ――そういえば
 あのフルート吹きの彼女はどうしてるだろうか。もしかして今いるかもしれない。いたらどうしよう。ふたりで聞けばいいじゃないか、いやそんなこと許されるのか。別にいいじゃないか付き合っている訳じゃないし見られたって。でも彼女に誤解されたら、それに愛の機嫌を損ねたら……僕はどんどん混乱していく。
「なにぼーっとしてるのよ。せっかく昇に、とっておきの場所を教えてあげようと思ったのに」
 ごめんごめんとその場を取り繕った。フルート吹きの彼女はいないのに愛の機嫌だけは損ねてしまったようだった。でもすぐに愛の機嫌は直った。
「ほら、橋渡って」
 愛に催促されて朝霧橋を渡り出す。橋の袂にはフルート吹きの彼女の姿はなかった。僕はほっとして愛に集中することだけを考える。
 橋を渡った先には塔の島があるだけだ。川の流れは愛の言っていたとおり水かさが増え轟音を立てて流れている。朝霧橋は長いためか真ん中の方は照明が届かなくて薄暗い。こういう場所でキスしたりするカップルもいるかもしれない。
「ねえ、止まって」
 朝霧橋のど真ん中で愛は歩みを止めた。
 え、と僕の脳みそは固まってしまった。もしかして、キスするわけ? 顔が赤くなるのがわかった。暗いから愛にはわからないことだけが救いだった。
「昇をここに連れてきたかったの」
 上の血圧が二百を越えたのではないかと思うくらい全身の血管が張りつめた。愛は僕とここでキスをしようとしているのか。生まれて初めての出来事に興奮している。もうぶっ倒れてしまいそうだ。
「またぼーっとして、なんか変なこと考えていない? いいからほら、空を見てみて」
 空を見て何になるのだろう。キスをするときは背の低い女性が上を向くのがセオリーではないのか。そんな疑問を抱きながら僕は空を見上げた。
 そこには眩いばかりの星空が広がっていた。周りが暗闇なので星がはっきりと見える。この街中でこれだけ星が見える場所を僕は知らない。
「す、すごい」
 僕は感嘆の声を上げる。
「ね、綺麗でしょ。ここは私のとっておきの場所なの」
 闇夜に浮かび上がる星々の瞬きが朝霧橋の中心を微かにそして静かに照らす。僕たちふたりだけがこの橋の中心というステージに立たされていて、なにかドラマの世界にいるかのようだった。僕はキスのことなんて忘れて、星空をじっと見ていた。感動のあまり目には涙が溜まっていた。こんなにも星空が美しく映るなんてどうかしてる。きっと愛と一緒に見れたからこんなにも感動するのだろう。
 そして恋に落ちている自分に気づいた。愛のことが好きになっている自分に驚いた。きっと客観的に見れば何も不思議ではないだろう。でもひきこもりの自分が誰かに恋をすることがあるなんて思いもよらなかった。朝霧橋から眺める星空が気づかせてくれた。
「昇、私と付き合ってよ」
 星々の煌めきがいっそう増した様な気がした。というより今のは何なんだろう。付き合ってほしいってどういうことだ。夜ご飯を付き合ってということか。それとも……いやわかっている。わかっているが受け止めきれない。愛のいう吊り橋効果も発揮できないほどだ。
「私ね、昇と初めて会ったとき思ったの。この人は本気で私のフルートを聴いてくれてるって。本気で感動してくれてるって。声かけたときなんて腰抜かして喜んでたじゃない。私のことそんなに認めてくれる人なんてあんまりいないから。それでね、また会いたいなと思ってたら猫カフェに昇が来たの。私びっくりしたよ」
 びっくりするのは僕の方だった。フルート吹きが愛だったなんて! にわかには信じられなかった。フルート吹きの彼女は吊り目でロングヘアーだったのだ。
「フルート吹いてた人と愛じゃ目と髪の毛が全然違うよ」
「あの日は成人式でメイクしてもらってたの。髪の毛は切ったの。わかる?」
「わからない。口調ももっときつかった」
「そんな風に思ってたの? でもねあの時いろいろあって不機嫌だったかも」
 どうしても信じられなかった。憧れのフルート吹きがこうして僕と仲良く星空を見て、付き合ってくれと言っている。信じられるわけがない。
「目が合ったでしょ。昇は顔真っ赤にしてたじゃない」
 愛の言っていることは正しいが、信じられなかった。信じるのが怖かった。
「今度、目の前でフルート吹いたら信じてくれる?」
 フルートを吹いてくれる? 僕だけのために? そんな夢のような出来事がこの先待っているのか。それに愛の言っていることは全て辻褄が合っていた。何を抵抗しているんだ。愛はあのフルート吹きなんだ。聴けばわかる。だから聴かせてもらおう。
「じゃあ聴かせてよ」
「また顔真っ赤にして聴いてくれるならね」
 今も顔が真っ赤になっているのに。きっとそのことも愛は悟っているのだろう。
 この後、愛から連絡先の交換をしたいと申し出があって、愛の番号を知ることができた。

 僕の人生の太陽は完全に雲を抜けて東から南の空向けて真っ直ぐに昇っていた。

   6

「あんた、いいの書けたら一番に私に見せなさいよ」
 退院するとき朱美から言われた言葉だ。あれからいいと思える小説が書けてなかったが、愛と恋をして僕は変わった。この経験を生かして恋愛小説を書こうと心に決めていた。きっといい作品が書ける。書き終わったら一番に、朱美に見てもらうんだ。

 あれから愛とは毎日のように会っていた。家はちょっと離れていたが、それでも歩いて一時間半ほどのところにあった。だから僕は社会復帰の体力作りも兼ねて愛の家の近くのコンビニまで歩いていった。そこで待ち合わせをして、それから毎回お金を使わないデートを飽きずに続けていた。
 三月には朝からお互いジャージ姿で大吉山に登った。展望台までたどり着くと愛は宇治を一望できる景色に感激していた。疲れ果てていたはずが一気に元気になり「あの辺りが私んち、あの辺りが昇んちよね、近いじゃない」とあさっての方向を指さしながら言うから、僕は笑いを堪えるのに必死だった。「好きな人の家は近い方がいいじゃない。だって私昇のこと好きなんだもん」と続けられて僕はこっぱずかしくて赤面した。
 四月には、太陽が丘まで歩いて遊びに行った。
 桜の花びらが散る暖かい春の午後に、芝生の上で寝転がるのがとても気持ちよかった。その後、野球の試合を外野の方から眺めてると打球が飛んできて愛が慌てて僕の陰に隠れたときは、頼りにされているみたいで嬉しかった。そして小さな声で「私、昇のこと大好きよ」と耳元で囁いてくれた。僕が顔を赤らめたのは言うまでもない。それから体育館から聞こえてくる気合いの入った「いちにさんし!」というかけ声を真似て、ふたりで馬鹿笑いをした。
 夕方、学校帰りの子どもたちがアスレチックで遊んでいる姿を眺めて愛はぽつりと呟いた。
「可愛いなあ。子ども欲しいなあ」
 その言葉はそのときの僕には何の現実味も与えなかった。ああ、愛は子どもが好きなんだな、くらいに受け止めていた。
 五月には前に行けなかった天ヶ瀬ダムまで歩いて行った。僕といろんなところに歩いていったので、愛は体力がついていた。だから無事天ヶ瀬ダムまで辿り着けたのだ。ダムから流れ出す水の量があまりに少なくて、川の水が干からびてしまうのではないかと、僕たちはわりかし本気で心配した。
 新緑が生み出す黄緑色の光の中に包まれながら宇治川沿いを歩いて帰った。愛は僕の手をぎゅっと握って、それからずっと手を繋いで帰ってきた。「昇のことが好きで好きで堪らないの」と言われるとやっぱり顔が赤くなる。相思相愛とは僕たちのことだ。
 僕はキスをしたことがない。そんな機会なかった。けれど恋人ができた今、できるかもしれないと舞い上がっていた。
 ただどうしてもそこまで進展させることができなかった。
 僕はどうしても愛とキスをしたかった。好きな人とキスをしたかった。
 告白も番号交換も手を繋ぐのも全て愛からだった。でもキスはしようとしてこない。そこまで愛は経験がないのかもしれない。こっちから仕掛けなくてはいけないのか。
 顔を近づけて自分の唇を愛の唇に重ね合わせるなんて、とてもじゃないけど僕にはできない。受け身な自分を変えるのは容易ではない。でもこうしてデートができているだけでも僕の人生にとっては奇跡的なことだった。チャンスは必ずある。そのときに、ものにできるよう頑張るしかない。
 この三ヶ月、僕たちなりに人生を謳歌していた。毎日があの日の星空のように煌めいていた。
 フルートは結局聴かせてもらえなかった。忘れただとかスランプだとか言ってフルートを持ってくることすらなかった。
 やっぱり嘘だったのか。でも話を聞くとフルート吹きは愛なのだと思う。ではなぜ吹いてくれないのか、その疑問がずっと胸につかえていた。
 そんなときにハローワークから電話があった。仕事の紹介だった。僕は精神病だということを隠して仕事を探していた。クローズで社会に出るつもりだった。オープンにすると精神病だということだけで給料が雀の涙ほどになる。だから僕はクローズでいくと決めていた。
 今回担当者が持ってきた話は工場での仕事だ。僕は働けたら何でもよかったのですぐに承諾して面接に行った。愛も応援してくれた。
 歩いて体力をつけていたおかげか、それとも愛と付き合って自分に自信を持てるようになったおかげか、面接は合格した。愛も喜んでくれた。でもそれ以上に僕は社会復帰できることに喜びを感じていた。やっと社会の歯車の一部になれると思うと嬉しくて仕方なかった。
 仕事内容は単純作業の繰り返しで誰にでもできるようなものである。それでも今まで仕事をしていなかった僕にはきつかった。先輩には毎日怒られ、同時期に入社した年下の社員に冷たい視線で見られ、体力的にもきつく疲れは溜まる一方だった。
 それでも僕は食らいつく。絶対に社会復帰するんだという気持ちだけで毎日朝早く起きて夜遅くまで残業する。
 そして愛と過ごす時間は極端に減った。休みの日も疲れて夕方まで寝て過ごすことも度々だった。愛は「頑張って仕事をしている昇を応援してるね」と電話する度に言ってくれる。それだけが心の支えだった。

 六月、初任給をもらった。最初の月だったので満額はもらえなかった。それでも今まで自由になるお金のなかった僕にとっては大金だった。
 そのお金で久しぶりに愛と出かける計画を立てる。
 以前並ぶことすらしなかった老舗の抹茶パフェをふたりで食べに行くことにした。
「意外に私、順番守らないかもね」
 愛が言っているのは列の順番でなくて、以前話していた食べる順番のことだ。すっかり浮かれ気分の僕たちの声は弾んでいた。
「ねえ、昇は何食べるか決めてるの?」
「あのオブジェと一緒のやつを頼むつもりだよ」
「えー真似しないでー」
「じゃあどうしよう……」
「うっそ」
 愛は楽しそうに僕をおちょくる。
「ねえ、もっといっぱい美味しいところに食べに行こうよ。どこか遠くとか」
「遠くねえ」
「金沢ってご飯が美味しいらしいよ。魚介類も美味しいし一度行ってみたいな」
「遠すぎだろ」
「蟹が特に美味しいって」
「そんな金持ちじゃないし」
「就職したんだからすぐお金貯まるって」
「お金ないデートがよかったんじゃないの」
「それはそれ、これはこれ!」
 会話は弾み楽しい時間を過ごす。
 仕事も決まり、天真爛漫な彼女が隣にいる。僕の人生はこのとき絶頂にあったんだと思う。僕の人生の太陽は一番天高く昇り正午のときを刻んでいた。

   7

 僕が社会復帰し、愛との仲もうまくいき、全てがうまくいっているように思えた。だけど、それら全ては幻想だったのだ。精神病は僕の全てを壊していった。

 僕が働きだして四ヶ月が過ぎた九月。貯金も少しはできていた。あれは夏から秋になる季節の変わり目だったと記憶している。
 愛のフルートをもう一度聴きたいと思っていた僕は、面と向かってはっきりとフルートを聴かせてくれと頼み込んだ。あの日のフルート吹きが愛だと確信できないから証拠を見せてほしいと両手を合わせてお願いした。
 最初は嫌がっていた愛も、僕の疑いを不本意に思い、じゃああの日のあの曲を、あの日の姿のままで見せるわと、ちょっと怒りながら承諾した。待ち合わせはもちろん、朝霧橋の袂だ。
 パンの耳をまかれるのを上空で待っている塔の島の鳩のように僕は愛のフルートの音色を待った。
 時間になったらあの桃色の着物姿のフルート吹きが現れた。メイクで吊り目になっていてやっぱり愛だとは思えなかった。髪の毛は肩の辺りにかかるくらいで、今の愛と同じだ。本当にフルート吹きは愛と同一人物なのだろうか。疑いの目をフルート吹きに向ける。
「昇、まだ信じてないの?」
「まだ信じられない。じゃあ、あの日最後に吹いてた曲はなんて曲名なの?」
「あの曲は私のオリジナル曲『カプチーノ』よ。私が9歳の時に作った曲なの。その時カプチーノにはまってて、それでそう名付けたの」
「じゃあ『カプチーノ』を聞かせてよ」
「わかったわ」
 源氏物語の像の背後で愛はそっと立ち止まる。風が愛の髪の毛をふわりと揺らす。大事そうにケースから出されたフルートの銀色の輝きが、水面の反射光と相まって眩い。
「実はあの一回しかここで吹いたことないのよ」
 愛はフルートの吹き口にゆっくりと口を付けた。僕の視線は愛に釘付けだ。両耳をひくひくさせてあの日の音色を待った。
 でも聞こえてきたのはあの日と似ても似つかぬ音色だった。これはあの日のフルート吹きの音色ではない。というより雑音が鳴っているだけであり、名演とはほど遠いものだった。途中で愛は吹くのをやめた。無言の時間がふたりの間を流れる。
「やっぱり駄目かあ」
 愛はしょんぼりとしていた。僕もなんと声をかけていいものかわからなかった。
「どうしてかわからないけど、ひどく息漏れがするの。技術面では問題ないはずなんだけど」
 と、フルートを持った手をだらんと下げる。
「精神的なものなのかな。なんか最近疲れちゃってて息をするのも苦しいの」
 愛の目は虚空を見つめていた。
「急に吹けなくなったの。どうしてこうなったかわからないの。私、わからないの」
 愛の独白は続く。
「何がどうなってるか、わからないの。最近あまり寝れなくなって、昼は変にテンション上がって、また夜寝れなくて。気持ちが不安定なの。昇、こんな私に気づいてたよね? なのに仕事しだしてからちっともかまってくれないよね。もう限界なの。どうしてわかってるのにそんな意地悪するの? ねえどおして?」
 愛の口元が細かく、かつ激しく揺れる。
「わかってるのに、どおして!」
 愛はそう叫びながらフルートを地面に投げつけた。
「昇は私の考えが全部わかってるのよ。私が今何考えているかわかってるんでしょ。どうしてそんなことするの。おかしいじゃない。そうやってからかって楽しいんでしょ。自分だけ幸せになればそれでいいんでしょ。頭おかしいんじゃない? 私が寝れなくて苦しんでいるのに、それがわかってて裏で笑って。アホじゃない。聞こえるよ昇の声が。愛は生きている価値すらないって。いつもそう言ってるよね。四六時中そう言っているよね。電波でも出してるの。おかしいよ! そんなのおかしいわよ!」
 愛は下駄を川に蹴り投げて、靴下一枚でわめき散らし、銅像をげんこつで殴り始めた。
 あまりの異常事態に僕は愛を取り押さえようとした。
「愛なんて早く自殺してしまえって今言ったでしょ! なんで昇はそんなこといつもいつも言うの!」
 愛は暴れ続けた。僕には手が負えなかった。そして誰かが警察に通報し、愛は取り押さえられた。
 僕は愛が夜、眠れていなかったということを全く知らなかった。昼間に気分がハイになっていることにも全く気づけていなかった。それなのになぜ僕がわかっていると確信を持って言い張ったのだろう。
 それに愛が僕に言われたという暴言は、僕には全く心当たりのない。そんなこと言っていないし、思ったことすらない。愛はなぜあんなことを口走ってしまったのか。僕にはわからなかった。ただ言えることは、愛は明らかに精神的におかしかった。
 その日のうちに愛は僕が入っていた精神病院に強制入院することになった。すぐに会いに行ったが面会謝絶だと説明を受け仕方なく家に帰った。
 現場に叩きつけられたままのフルートを大事にケースにしまって一時的に保管する。家に帰り、そっとケースを開け傷ついたフルートを見て僕はさっき起きたことは現実だったのだと改めて実感した。

 僕の人生の太陽は西の空へ傾いていく。沈むことが宿命づけられた太陽の輝きは他人の目には哀れに映るのだろうか。

   8

 朱美から芝居の案内が届いた。そこには役でウェイトレスの身なりをしている朱美の姿が写っている。なんでも特殊能力があるウェイトレスで、その能力で人を救っていく話だそうだ。パンフレットの中の朱美はひときわ目立っていて、さすが主役をはれるだけのことはあるなと思わせた。パンフレットの他に手紙も入っている。
『昇、勉強のためにも見に来なさいよ。それとまだ小説書き上がらないの? 早く見せなさいよ。待ってるんだからね。人生はそう長くはないの。早く書かないと書き上がる前に人生終わっちゃうんだからね。だから私の芝居見て刺激受けて、さっさと小説書き上げな』
 朱美らしい文面だった。
 愛が入院してからというもの小説は全く進んでいない。とても小説のことを考えたり芝居を見る気分ではなかったので朱美には悪いけど行かないことにする。また次の案内のときに行けばいいと考えていた。
 
 面会謝絶の日々が続く。愛はどうしているのだろう。
 無駄だとわかっていながら、どこからか中に入れないものか探ってしまう。僕が入院していたとき、外に出るときも中に入るときも必ず看護師がドアに鍵をかけていたことを思い出して頭を抱えた。
 今は待つしかない。愛は必ず戻ってくると信じるしかない。
 なぜ愛が自分のことを全て悟られてると思ったり、何も言っていないのに酷い悪口を言っていると確信をもって言ってたのか。その疑問が頭から離れなかった。
 どうにかして疑問を解きたかった。
 愛が入院している病棟は僕が入院していた病棟と同じだった。なので看護師の顔はだいたい知っている。その中で特に仲のよかった年輩の女性看護師の須藤さんに話しかける。須藤さんは背が低く小太りで髪の毛は背中の辺りまで伸びている。激務のせいか肌は荒れていて清潔感はなかった。
 最初にまだ愛が面会謝絶なのかを確認して、それから愛の変な様子について看護師に質問した。
 そしたら須藤さんは「それは病気の症状で陽性症状っていうのよ。興奮状態になったり、自分で自分をコントロールできないようになったりするのよ」
 と優しく教えてくれた。
「僕は退院してから一年間やる気でなくて、何もできなかったんですけどそれは陰性症状って言うんですよね」
 すると須藤さんは「よく自分のことわかってるわね。陽性症状も陰性症状もどっちも辛いのよね。だいたいは発病時に陽性症状が出て、回復期に陰性症状がでるのよね」
 そこで僕は気づいた。
「愛って僕と同じ精神病なのですか?」
 それは個人情報だから答えられないわよ、と軽くいなされた。
 僕は納得できないまま病院を後にした。

 愛の変な言動が陽性症状、僕のやる気のなさが陰性症状、このふたつの症状はどう関係あるのだろう。
 最初に陽性症状が出てあとから陰性症状が出る。ということは僕にも陽性症状がでていたということなのだろうか。それに愛にもこの先、陰性症状が出るってことなのだろうか。
 どちらも全く想像がつかなかった。
 ネットで調べても須藤さんが言ったことが出てくる。もっと専門的なことが書いてあるが、専門的すぎて僕には理解できなかった。
 誰かわかりやすく教えてくれる人はいないだろうか。きっとウミガメなら誰か教えてくれる。ウミガメとは最近流行のsnsで、ネットでのコミュニティーサイトとしての地位を確立している。
 精神病のコミュニティーの質問欄に『陽性症状について詳しく知りたいです。専門的な知識をお持ちの医師、看護師の方いませんか? よろしくお願いします』と書き込んだ。
 一日経っても二日経っても返答はなかった。今時どこの誰が書いたかわからない質問に、親切に答えてくれる人なんていないのだろう。
 そんなことを思っていたときだった。
 僕の携帯が聞き慣れない音を立てた。それはウミガメの掲示板に返信があったという、お知らせ音だった。
 誰かが返信をくれたのだ。嬉しくて、すぐに返答を読む。そこには長文がびっしり書き込まれていた。
『はじめまして、こんにちわ。ここではみかんと名乗っている者です。私は介護士をやっていて、今はステップアップするために看護学校に通っています。将来的に看護師になる予定(なれるかどうか不明)なので、看護学校の授業で病気のこととか勉強しています。今ちょうど精神の授業があって、そこで陽性症状のことについても学びました。なので詳しく知りたいことがあれば質問してください。プリントがあるのでなんでも答えられると思います。陽性症状って言ってもいろいろあります。ひとことではかたづけられません。またいつでも返信待ってます』
 看護学生が返事をくれるとは思わなかった。看護師になるために学校に行かないといけないことすら知らなかった。愛の症状を掲示板で説明するのは気が引けたのでウミガメールと呼ばれるウミガメのメール機能を使ってコンタクトを取った。
『返答ありがとございます。具体的な陽性症状について知りたいです。まず僕が気づいてもいないことや考えてもいないことを確信を持って、私が考えてることわかるよねって言われます。それと悪口を言ってないのに、一日中僕に悪口言われてるって言ってます。それってどういうことなんですか』
 僕はできるだけ具体的にかつ病気なのが彼女だとわからないように質問した。すぐにみかんから返信があった。
『なるほどね、彼女が病気になっちゃたのかな。それは思考伝播ってやつと幻聴ってやつね。思考伝播とは自分の考えていることが周囲に漏れていると感じる症状なのね。その症状で彼女はあなたに、自分の考えが漏れていたと感じていたわけ。幻聴の方はね、実際に存在しない声が聞こえる症状なの。精神病では特に悪口が聞こえることが多いみたい。でもね、どっちもしっかり薬を飲めば良くなるの。だから薬はちゃんと飲むように言っといてね。私の方でわかるのはこれくらいかな。大丈夫かな』
 まず病気になったのが彼女だとすぐ見抜かれたことに女の勘の鋭さを感じた。女の勘ってのは本当の怖い。でも陽性症状のことを詳しく教えてもらえて嬉しかった。僕自身にはどちらの症状もなかったのでよくわからなかった。症状には個人差があるのかもしれない。
 ついでに陰性症状についても教えてほしいと頼んだ。図々しいかなと思ったがみかんは親切にもまた詳しく教えてくれた。
『陰性症状ってのはやっかいみたいで、薬物治療が困難で、なかなか治らないの。感情が鈍くなったり、意欲や自発性が低下したり、会話が少なくなったり、ひきこもったりするの。でもどうして陰性症状についても知りたいの? 彼女は陽性症状で苦しんでいるんじゃないの?』
 女の勘でも僕が精神病だとは気づかないようだった。別に会うわけじゃないので言ってしまってもかまわなかった。
『僕も精神病で陰性症状が出てて一年くらいなんもやる気が起こらなかったんですよ』
 こう返信すると途端にメールが来なくなった。あれだけ早く返信してくれていたのにどうして。やっぱり精神病の人と関わるのは知識がある人でも嫌なのであろう。これからは決して自分が精神病であることを言わないでおこう。それが身のためだ。
 愛と会えない空白の時間は仕事で埋めた。仕事をしているときは何も考えずに済んだ。ただ残業がないときは家に帰るとずっと、愛と過ごした日々の記憶が頭の中を駆け巡って苦しかった。
 愛がいないと生きている意味さえ見失う。陸に打ち上げられた魚のように泳ぐ場所を失った僕がいる。僕が海に戻れる日は来るのだろうか。
 フルートを吹けなくったっていい、好きって言ってくれなくていい。ただ側にいて欲しい。
 どうして病気になってしまったんだ。いったい何が原因なんだ。僕が仕事を始めてかまってやる時間が減ったせいなのか、それとも僕の病気が移ったのか。
 自分ひとりでは解決できない問題だらけだった。
 今日もまた仕事に精を出す。仕事だけしか今の僕にできることはない。早く愛に会いたい。その一心で日々をやり過ごした。
 
   9

 それは愛が入院して二ヶ月が経った十一月のことだった。やっと愛と面会できるようになったのだ。
 病院の周りにはイチョウの木が黄金色に輝いて、ガスコンロの火が紙に引火したときのような真っ赤なもみじが何本も佇んでいた。
 それらはまるで今の僕の気持ちを現しているかのようだった。愛に会えるということで体が熱く火照っているのがわかった。
 面会室で待たされる時間が長く感じた。窓の外にあるもみじを眺めてじっと待つ。いったいどんな顔をして会えばいいのだろう。いや普段通りにすればいい。でももし愛がまたおかしくなってしまったら……いろいろ頭の中に想像を巡らせていたら、面会室の扉がそっと開いた。そこには少しふっくらとした愛の姿があった。
「もう来てくれないかと思ってた」
 愛の言葉に驚いた。何度も面会に来ていたことを看護師は愛に伝えていないのか。でも自分から何度も来ていたなんて言いにくいので笑って誤魔化した。
「ずっと愛のこと考えてた」
「そうだと嬉しいな」
「そうだよ。なんだ普通やん」
 もっと異常な言動をしてくるのではないかという憶測はどこかにふっ飛んでしまった。
「なんか私おかしくなったみたいなんだけど、覚えてないの」
「え、ほんとに?」
「昇にも迷惑かけちゃったのかな?」
 覚えてないとなると話さない方がいいのかもしれない。だから僕はとぼけることにした。
「いいや全然。愛が元気にしてるかだけ心配だったけど元気そうでよかった」
「ありがと、昇」
 愛の笑顔に僕の心は、アイスクリームが真夏の日差しに溶けるようにとろけた。
「私ね、昇と同じ精神病みたいなの。病気までお揃いね」
 やっぱり同じ病気だったのか。思っていた通りだった。ただ病気以外のお揃いのものに心当たりがなく、苦笑いした。
「そうだ、こっち来て」
 急に愛は僕を面会室の外に引っ張り出そうとした。
「駄目だよ。怒られるよ」
 ナースステーションに目をやると、看護師が慌ただしく動きまくっていた。
「大丈夫だって。看護師さんも忙しそうだし」
「外には出れないよ」
「私の部屋に行くの」
 私の部屋? 今あてがわれている部屋のことだろうか。
「私、保護室にいるの」
 保護室といえば症状が重い者が閉じこめられる部屋のことだ。いわば牢獄のようなものである。
「保護室に入っているのに面会できるの?」
「もう出る予定なんだけど他の部屋の空きがなくて」
 なるほど、最初は症状が重くて保護室に入れられたけれど、今は良くなって部屋の空きを待っている状態なのか。
「早く、早く」
 いけないことだとはわかっていながらも、保護室に行ったことがなかったので興味があった。だから足音を立てずに愛の後ろを歩いた。
「ここ曲がって」
 暗い方へ曲がる。こっちには来たことがなかった。
「その奥の扉開いて。急いで」
 日が射さない空間にある、横に稼動するタイプのドアが僕たちの前にそびえ立つ。ドアを開くとそこには横一列に保護室のドアが並んでいた。どのドアにも鍵が掛かっているようだった。
「601よ。早く来て」
 と部屋の番号を呟きながら、一番端の部屋に僕を導く。静まりかえった廊下よりさらに静寂に包まれた空間がそこにはあった。
 入口のすぐ横にドアがないトイレがあった。トイレの前にはボタンがあってそれを押すと水が流れるようだった。看護師が排尿、排便を確認してから流すのだろうか。その先には六畳ほどもない小さな空間が広がっていた。そこにはベッドだけしかなかった。他に何もない。壁は木目調になっていて平坦で出っ張りなどが全くなく、窓は二重ガラスになっていて頑丈そうだった。なにより空気が重く密閉されているみたいで鼓膜がピンと張る感じで居心地が悪かった。
「これが保護室か」
 僕がきょろきょろと部屋を見渡していると愛が「こっち来て」と手招きをした。
 ふと振り返った。そのとき――
 愛の顔が急に大きくなって僕の顔に近づいた。唇にこんにゃくゼリーのような柔らかくそれでいて弾力のある感触がした。
 時間差があってようやくキスをしたということがわかった。
 静寂の中に唇を吸う音が響いた。愛の口元は熱を帯びている。ファーストキスは喜びというより驚きが大きかった。ただ吸われる唇の心地よさに身を任せる。
 ゆっくりと顔が離れていく。柔らかい感触がほのかに唇に残っている。
「ここなら誰にも邪魔されずにキスできると思ったの」
 と頬を赤くして笑いかけてくれた。
 僕も自分の気持ちを愛に伝えようと言葉を探した。付き合ってくれてありがとう、と感謝の気持ちを伝えようとした。だけどそのとき外が騒がしくなり、白衣の集団が、僕たちがいる保護室へ入ってきた。そして愛を取り押さえようとする。
 愛が敏感に反応する。さっきまでの笑顔とは打って変わって、頬がひきつって目つきが鋭くなった。
「あんたたち宇宙から私をさらいに来たんでしょ。私を宇宙人にレイプさせて火星に連れてって、できた子どもを私に育てろっていうんでしょ。そんなこと許されると思っているの。もう離して!」
 彼らは暴れる愛を十人がかりで取り押さえた。僕も羽交い締めにされ部屋からひっぱり出された。
 また愛と引き離されるのか。僕はまた絶望の淵へ追いやられるのか。

   10

 無断で保護室に入ったことがよほどいけないことだったのか、愛と面会することに病院の許可がおりなくなった。なんでも僕がいると愛が興奮状態になる、それがよくないという病院側の言い分だった。
 
 もう一生愛とは会えないのだろうか。

 そんなことはないと頭の中ではしっかりとわかっている。それでも大きな力によって愛と引き裂かれることが堪えられなかった。愛を欲している自分自身がもどかしくどうしようもなかった。
 ずっと預かっている、傷ついたフルートを眺めながら愛と初めて会ったときのことを思い出す。とても元気そうで精神病になんてかかりそうにもないあの日の愛。頭の中であの日のフルートの音色が聞こえてくるような気さえする。
 それから僕は仕事にだけは真面目に行って、それ以外の時間はほとんどふて寝して過ごした。
 仕事ばっかりしていたらいつの間にか年を越していた。もう愛と出会って一年が経とうとしているのだ。
 久しぶりに朝霧橋まで散歩に行った。源氏物語の銅像の裏に立ってみる。そして愛のフルートを箱から取り出して、見よう見まねで吹いてみる。すると息のかすれた音だけが虚しく木霊した。口を離してフルートを眺めると、吹き口が愛の唇に見えてくる。保護室でのキスを思い出す。
 愛が欲しい。愛と会いたい。愛じゃないと駄目なんだ。
 帰ってきて欲しい。いつになったら会うことができるのか。本当にもう一生会えないのではないか。そんな思いを誰にも言えずにいた。誰でもいいから聞いてほしかった。この胸の苦しみを少しでも軽くしたい。乾いた大地に芽生えた双葉のように水を欲していた。愛を欲していた。
 帰り道、携帯の音が鳴った。聞いたことのある音だ。ウミガメのお知らせ音が鳴ったのだ。
『ごめーん、あれから精神のテストとか老年のレポートとか母性のグループワークとかとか、それに実習もあって返事できなかったー。私のこと覚えてくれてるかしら? あなた自身も病気なのね。私でよかったら話聞くよ。きっと大変だと思うから。看護ってのはね困った人を助ける仕事なのよ。だからじゃないけどあなたのことほっとけないよ。私でよかったら話して。誰にも言わないから大丈夫だよ。プライバシーの保護も看護の大事なポイントなのよ』
 すっかり忘れていた。確かみかんという名前で、僕の質問に丁寧に答えてくれた看護学生だ。随分使命感を持った学生だなと感心した。話した方が楽になるのだろうか。会うわけじゃないし、僕のことを知っているわけでもないし、連絡が来なくなっても被害はないし、話してみるか。とにかく楽になりたかった。言い方は悪いが、話す相手なんて誰でもよかった。
『彼女と会えなくなりました。なんでも僕と会うと彼女は興奮状態になってしまってよくないとのことです。すごく苦しいです。もう一生会えないのではないかと思い悩んでいます』
 とメールを送ると、びっくりするくらいすぐに返信が返ってきた。
『まずあなたはちゃんと服薬できている? 薬を飲んでいないのならこれからはちゃんと飲んでね。飲めてないと再発する可能性が高いの。だから絶対服薬はしてね。でね、彼女は今病気と戦っているの。だから彼女が落ち着くまで我慢してね、必ず会えるようになる日が来るから。心の病で一番注意しなくてはならないところは、自殺しちゃうってところにあると思うの。だから今彼女を興奮させると危険なの。命に関わるのね。だから今は彼女のためだと思ってぐっと我慢して会えるようになる日を待ってね』
 薬のことをなんて関係あるのだろうか。念のため飲んでいるが、薬が効いているなんて思ったことはなかった。それに愛は自殺を考えてしまうほどまでに状態が悪いのだろうか。実感はないし、そこまで言われる筋合いもなかった。
『今は我慢するしかないということなのですね。それは今の僕にとって酷というものです。死んだ魚の目をしてその日まで生きろってことですか。もう堪えられないのです。今すぐなんとかしたいのです。本当に苦しいのです。それがあなたにわかりますか』
 今ある思いを乱暴にぶつけてしまったとメールを送ってから気がついた。もう返事が返ってくるこはないだろうと思っていると、ウミガメのお知らせ音がすぐに鳴った。
『彼女もあなたに会えなくてすごく苦しんでると思うのね。彼女も頑張って堪えてるのよ。負けちゃ駄目よ! 今が一番苦しいとき、だからあなたも頑張って乗り越えて。絶対にまた会える日が来るからね。だからその日まであなたも頑張って。私、応援してるからね』
 あれだけ当たり散らしたのに、こんなに励ましてもらって申し訳ない気持ちになる。やはり看護師を志している人は違うと肌で感じた。なんて返事したらいいのかわからなかったが、何か送っておかないと失礼になるだろう。
『こんなに励ましてもらってありがとうございます。みかんさんも頑張って看護師になってください。僕も応援してます』
 と優等生な返答をしておく。
 みかんとメールをして少し冷静に自分のことを見ることができるようになったかもしれない。
 僕は自分勝手だった。愛にとって今、僕と会うことがよくない。会うべきではないということがわかった。愛のことを考えると今は我慢するとき、よし、愛と会えない時間に愛のことを想って小説を進めよう。書き上げて朱美に見せよう。そうすることによってしか堪えることができないような気がした。だから小説に没頭しよう。
 僕はパソコンに向かって自分の思いの丈を打ちまくった。いいものができるかどうか別として久しぶりに充実したときを過ごすことができた。

   11

 桜が咲き始めた三月に小説が書き上がった。それは僕が愛と過ごした、楽しかった日々を凝縮した話だった。そこに僕たちの理想がある。今とかけ離れた理想を描くことで僕の気持ちは安らいだ。この小説を朱美に見せたらなんて言われることだろう。きっとマスターベーション小説だと揶揄されるのだろう。でもなんといわれようとこれは僕が書いた小説なんだ。どんなにけなされても誇りを持っていよう。
 一度芝居の案内が来て以来、朱美からの連絡はなかった。朱美とは電話番号を交換していない。朱美が僕の住所を教えて欲しいと言ったからこっちの住所だけを教えた。だからこちらから連絡は取れない。次に芝居の案内が来たときに芝居を見に行って公演が終わってから楽屋で読んでもらえばいい。そしたら他の役者の人にも読んでもらえるのではないか。きついことを言われるかもしれない。しかしその恐怖以上に、今自分がどれぐらいの実力があるか知りたかった。だから皆に読んでもらおう。

 桜が舞い散る四月に愛と面会が可能だと知らされた。病状が安定したらしい。
 なんだかもう現実離れして実感が湧かなかった。愛は僕のことを今でも想っていてくれるのだろうか。
 それでも僕の足はすぐに病院へ向く。朝一番に愛に会いに行った。桜の花びらが背後から後押ししてくれているようで心強い。病棟へ行くと看護師の須藤さんがすっと面会室へ通してくれた。
 窓から見える桜吹雪を見ながら会えなかった時間の長さを推し量る。前に来たときは紅葉したもみじが窓から見えたのだから、半年会えていないことになる。愛が発病して僕たちの関係は終わってしまったのだろうか。何とかもう一度あの楽しかった日々を取り戻すことはできないのであろうか。ノック音がして扉が開いた。
 愛は一段とふっくらとしていた。それでいて落ち着いた雰囲気である。
「やあ、元気だったかい昇君っ」
 愛は右手を上げて僕を君付けで呼んだ。
「やあやあ元気だったよ愛姫」
「姫なんてやめてよ、もうl」
「フルート王女、さあ目覚めのひと吹きを!」
「私がスランプなの知ってて言ってるのおー」
「吹いたらちゃんと鳴るかもしれないやん」
「あっこから調子が悪くなったんだからね。もう全部昇のせ・い・よっ」
 まるで半年の空白なんてなかったかのようだ。僕たちの間に溝なんてできていなかったのだ。
「私元気になったのよ。でも退院はまだ先みたい。もう大丈夫なのにみんな慎重なの」
 愛は急におかしくなるからもう大丈夫とは僕には言えなかった。いきなり変なことを言って僕を困らせる。もちろん病気のせいだとは理解している。だからこそきちっと治してから退院してほしい。でもそれを愛に伝えようとは思わなかった。愛を変だと思っている自分がいる。きっとそのことが愛を傷つける。だから言わないでいた。
「また明日も来るよ。退院まで毎日来るよ。だから元気出して」
「うん、ありがとね。私、絶対に昇と結婚するの。そこんとこよろしくね」
 結婚なんて単語がいきなり出てきて少し戸惑ったが、僕も愛とずっと一緒にいたいと心から思っていたので抵抗はなかった。そもそも自分が結婚できるなんて考えていなかったから、愛から結婚の二文字が出たことを喜ばしく思った。
「ねえ散歩に行こっ。院内なら許可出てるし」
「えーそんなに良くなってるの。全然付き合うよ」
 愛が須藤さんの元へ行き何か談笑してからこちらに戻ってきた。
「昇も一緒に行っていいって」
 ということは須藤さんもついてくるのだろう。
 僕が入院しているときに須藤さんと一緒に散歩に出たことを思い出す。あの頃は本当に先が見えずに苦しかった。今の僕には愛がいる。たとえ病気で気が変になろうとも、僕は愛を愛している。そのことが僕の力になっていた。
 須藤さんは僕たちに気を使っているようで、僕たちよりも少し前を歩いていた。話しかけてくる気配すらなかった。僕たちは須藤さんの後を追うように付いて歩く。院内だったら屋外も散歩していいので僕たちは桜が舞い落ちる中庭のベンチで落ち着くことにした。
 愛の精神状態は驚くほど落ち着いている。ベンチに隣同士で座っていると、愛は僕の肩に寄りかかってきた。僕たちは言葉で会話することをやめ、体が触れ合う感触のみで会話した。呼吸のリズムと愛の体温が肩から伝わってくる。それが僕にとっての幸せであることは言うまでもない。須藤さんは桜を眺めている。きっと僕と愛の仲が良すぎて見ていられないのだろう。須藤さんの携帯が鳴る。電話に出て何か業務について話しているようだった。愛は僕の肩から頭を浮かした。
「昇、ふたりでここから逃げよ」
 愛が僕の手を引っ張る。須藤さんは電話の応対でこちらの動きに全く気が付いていない。僕の足はすくんだ。
「今しかないのよ。お願い一緒に逃げて」
 愛の目の訴える力の強さに僕は心動かされた。精神病院の中は牢屋の中と変わらないということを僕も知っているし、体感している。愛と自由になりたいという思いが内蔵の奥の方から湧いてきて、気が付いたら愛の手を握りしめて走り出していた。桜の花びらに隠れて少しでも見つかるのが遅くなるように願いながら。
 駅までかなりの距離があったが僕たちは一度も止まることなく走り続けた。そこから電車乗り、空いている席に倒れこみ、乱れた呼吸を整える。ふた駅いったところで愛はこっちを見て力強く訴えた。
「昇、私どこか遠くに行きたい」
 『遠く』という抽象的な言葉が僕たちの不透明な未来を的確に現していた。でも『遠く』を具体的にすることでふたりの未来にも道筋が付くのではないかと期待して京都駅へ向かう。
 宇治から外の世界に出るのは初めてだった。不安と期待がカフェオレのミルクとコーヒーのように僕の心の中で入り交じりながらぐるぐる回る。
「私ご飯が美味しいところがいい。金沢がいいな」
 金沢。そんなに遠くに行くということが想像できなかった。でもそれくらい遠くまで行かないと連れ戻される可能性が高い。僕は愛が連れ戻されなければどこでもよかった。
「金沢へ行こう」
 具体的になった目的地へ向かって僕たちは進む。進むしか、もう道はなかった。


 第二章 金沢
   12

 カキツバタの葉が生い茂る川の側に桜の大木が根を張って立派にそびえ立つ。満開の桜の花びらが橋の向こう岸まで咲き乱れ、静かに佇む灯籠の上空を、枝が生き生きと伸びている。
 兼六園の桜は今が見頃だった。
 京都駅からサンダーバードに乗って二時間ほどで金沢に到着した。それからどこか金沢らしいところに行きたいという愛の要望に応えて兼六園にやってきている。
 なんだか拍子抜けするほどあっという間に着いてしまって、遠くまで来たという感覚がまるでない。しかしこの街に知り合いなど皆無であり、愛を閉じこめようとする人たちもいない。働いて貯めたお金が多少ある。それを元手にして部屋を借りて仕事を探してここで暮らしていこう。今までしていた工場の仕事にはもう復帰できない。なにもそこにこだわる必要はない。どこでもなんかしらの仕事ができればそれでいい。金沢でバイトでもいいので新たに仕事を探そう。
「旅をするとやっぱり財布の紐が緩むね」
 愛は板橋と呼ばれるジグザグになっている橋を渡りながら、兼六園に来るまでの坂道の途中にある店で買った焼きいなりを頬張っている。ほんのりと焦げたおあげに包まれている、味の付いたご飯が堪らなく美味しい。僕は一気に平らげてしまって、僕の手元には包み紙しか残っていなかった。
 今渡っている板橋は幅が狭く、禅寺の庭にある石の橋のように趣がある。僕はバランスを取り、すれ違う人を上手に交わしながら愛の後を追った。
 兼六園を出ると、焼きいなりを食べたばかりの愛が「お腹空いたね、金沢らしい美味しいもの食べにいこっ」と両手を広げてはしゃいだ。
「もう食べたやん」
「えーもっと食べたいー」
「じゃあ金沢の美味いもん、海鮮丼を食べに行こう」
「楽しみやわ。病院のご飯、美味しくなかったから余計にね」
 近江町市場の中にあるお店で三十分ほど並んで出てきた海鮮丼は鮮度がいいあまり七色に輝いていた。ブリやマグロ、イクラに蟹のはさみまで白ご飯の上に乗っている。愛は目を輝かせてマグロ一切れを、白米と一緒に箸でつまむ。それをゆっくりと口元まで持っていき、目を瞑りテレビでグルメリポーターが食べるように口の中に含ませる。
「わあー美味しい。病院のご飯と全然違うよ」
 愛の喜ぶ顔を見ることができて僕は幸せだった。
 そこからどこに向かっていいものかわからなかった。まだ肌寒い北陸の地で僕たちはどうして生きていったらよいのだろう。自由を感じていたのは束の間で、今は行き場のない閉塞感が僕たちの未来を支配していた。それでも僕はここ金沢で未来を探すために何かをしなければならない。
「部屋を探そう。そこからふたりで始めるんだ」
「うん。仕事も探さないといけないし、やることいっぱいだね。まずは不動産屋さん探そっ」
 愛の前向きな発言に僕は勇気づけられた。一緒に頑張って生きていける。前だけを向いて歩いていこう。この金沢で愛と共に生きていこう。

 部屋は保証人がいないと借りれないらしい。保証人代行の会社に依頼して部屋を借りることもできるらしいが、お金がかかり、今仕事をしていない僕たちにとってはかなりリスキーな選択肢だった。
「なんなら住み込みで働けるところ紹介しましょうか?」
 不動産屋、岩井さんの思わぬ発言により僕たちに希望の光が射した。岩井さんは白髪で丸い眼鏡をかけてて、少し腰の曲がった人の良さそうなおじいさんだった。仕事なんて何でもいい。どうせ仕事はしなければいけないのだから、セットで住む場所が付いてくる方が絶対いい。
「お願いします! お願いします!」
 僕はただただ頭を下げた。
「どんな仕事がいいんだい?」
「素人にもできることなら何でも大丈夫です」
 ゆっくりと立ち上がった岩井さんが棚にある資料に目を通しだした。資料を取る手の甲には皺が寄っていて、露出した皮膚の所々に黒いシミが顔を覗かしていた。
「これなんかはどうかな」
 岩井さんが取りだした資料には調理補助と書き記されていた。なんでも料亭の下働きらしい。将来性もあるし、やってみたいと思った。料理なんてしたことなかったが、補助ぐらいならきっとできる。
「やってみます!」
「今時の若者にしては威勢がいい。よし、話通しておくよ。ちょっと待っておくれ」
 岩井さんは奥の部屋に行き、電話をかけているようだった。その間愛は視線を落とし、口は真一文字に閉じられ、ひとことも言葉を発しなかった。
「どうしたの?」
 愛は唇を震わせて頬から雫をこぼした。ど、どうしたの? 思わず聞き直した。愛は涙を拭きながら震える唇を動かした。
「私も力になりたい……私も働きたい」
 愛は僕の手をきつく握った。それは今までにない愛の決意表明だった。女はニートでもいいと、働くということに後ろ向きだった愛はそこにはいなかった。僕は素直に嬉しかった。そこに岩井さんがはつらつとした表情で戻ってきた。
「おまえさん、明日から出られるかい?」
「大丈夫です!」
「部屋も今晩から使っていいってさ。もちろんふたりでな」
「あの、私もそこで働けますか?」
「夫婦で働くのかい?」
 夫婦と言われ僕たちは顔を見合わせた。別にそう思われたってかまわなかったので、はにかみながら視線を岩井さんの方に戻す。
「直接向こうで聞いてみてください。きっと仕事はあると思いますよ」
『ありがとうございます』とふたりの声が重なり、思わず吹いて笑ってしまった。
 その足で僕たちは金沢市内にある料亭へ挨拶に行く。
 料亭の表玄関には染め物の暖簾と、煌々と輝く『みなせ』と書かれた白い看板が金沢の夜の街に浮かび上がっていた。
 表玄関を横目に僕たちは勝手口から料亭の中に入る。北国らしい色白の美人の女将さんが優しい微笑みで「なんかいろいろと大変やったようやね。うちで働くことは大歓迎よ」と温かく出迎えてくれた。
 ふたりともにそれぞれの仕事をもらえることを確認する。そして女将さんに料亭のすぐ近くのアパートに案内された。
 六畳一間の畳の部屋だった。中央にはちゃぶ台が置いてあり、部屋の隅には一組のふとんが綺麗に畳んであった。夜になり、部屋の電気がまだ通ってないことがわかり、近くのコンビニで仏壇用の蝋燭を買ってきて、蝋燭をお皿に乗せてちゃぶ台の中央に灯した。
 隣には顎のラインが赤く揺らめいている愛がいる。愛は僕の顔を指しながら笑った。
「お化けみたーい」
 愛はけらけらとお腹を抱えて笑った。そんな愛を見て病院から逃げ出して正解だったと確信した。
 僕も愛も精神病の薬なんて持ってきていない。薬なんて飲まなくったって一度治った者は大丈夫なんだ。僕だって正常だし、愛だって変なことを言い出したりしない。現在の医療というのは慎重すぎる、なんて考えながら愛とじゃれあい、そのうち疲れがどっと出たせいか、いつの間にか眠りに落ちてしまった。

   13

 加賀野菜の源助大根と呼ばれるずんぐりとした楕円形の大根が山のように積まれている。その大根に付いた土を落とすため延々と手洗いする作業を朝からずっと続けている。
 春になったとはいえここは北国だから水が信じられないくらい冷たい。手は赤くなり、ぱんぱんに腫れていた。でもこれぐらいのことで弱音を吐いていては勤まらない。僕は仕事をひとつひとつ確実にこなしていくことにした。
 愛は接客するために着物を着てくると言っていた。愛に接客なんてできるのだろうか心配だ。でも愛がやる気になっている。その気持ちさえあればきっとなんだってできる。愛は若いし可能性に溢れている。愛のこれからに期待して僕は僕の仕事をこなそう。
 結局丸一日、大根を洗い続けた。それでもまだ大根は残っている。もう夜の七時を過ぎている。何時までこの作業を続ければいいのだろうか。
「おうお疲れ、今日はもう上がれ。明日は台所周り全部掃除せーま」
 料理長が金沢弁で声をかけてくれる。目上の人が気にかけてくれるというのは嬉しいことだ。愛は接客がメインなのでまだ仕事をしている。先に帰るのはちょっと気まずいが、慣れない作業で疲れてしまったので先に部屋に戻ることにした。
 部屋に着くと昨日はつかなかった電気がつくようになってた。
 ちょっとだけ横になるつもりで布団に入ったら、いつの間にかぐっすり寝てしまっていた。ふと目を開けると隣で愛が背中を丸めてすやすやと眠っていた。愛も疲れ切って、帰ってすぐに寝てしまったのだろう。僕は愛を起こさないようそっと寝返りを打った。
「ねえ、しよう」
 愛の静かでそれでいて力強い言葉が僕の耳に届く。愛が僕の方を向くと、叱られた後の子犬のような顔で笑っていた。
「仕事で嫌なことあった?」
「そんなこと、どうでもいいの」
 愛のいつになく真剣な物言いに僕は狼狽した。女の人を抱いたことなんてないから、どうしていいのかわからなかった。
「昇、保護室のキスを思い出して」
 あの日の禁断のキスを瞬時に思い出す。あれは余りに突然で、しかも初めてのキスで戸惑いの中、全てが通り過ぎた出来事だった。そのときのことを考えると、大脳に脳内麻薬があふれ出てくるのがわかった。
 愛の手が僕の首にからみつく。同時に愛の吐息が僕の前髪を柔らかく揺らした。
「毎日しよう」
 そういって愛は舌を僕の唇の中に入れてきた。あの日と同じ生温かい感覚が口腔内を支配する。あの日と違うのは愛の手が僕の股間に触れていることだった。
 僕は必死に愛の唇を吸った。柔らかい感触が徐々に薄れてゆき、愛とふれあっている箇所が繋がる感覚になり、同じ生命体の一部として愛の唇を感じていた。
 愛との一体感はこの世の何物にも代え難い快感だった。自分自身が広がる感覚。自分の境界線がなくなる感覚。高揚感で脳内が麻痺して快楽という名の痺れに身を任すと、このまま死んでもいいと思える境地まで意識が飛んだ。大脳を通っている全ての脳神経が痙攣して、それが心地よくて最後まで愛を求め続けた。
「昇は脳でセックスするタイプね」
 愛は僕の顔を覗き込みながら嬉しそうに、はにかんだ。僕は仕事の疲れと愛の営みの疲れがどっと出てすぐに寝てしまった。
 それからは仕事が終わると激しく体を求め合う日々を過ごしていくことになる。この狭くて汚い部屋の中で僕たちは希望という名の交わりを重ねた。
 その日々の中で僕は愛に言い聞かせた。僕の書いた小説の世界のふたりより、今ふたりがこうして過ごしている時間の方がずっと輝いていると。理想を越えた僕たちの関係はますます熱していくばかりであった。僕の人生の太陽は午後の日差しをめいいっぱい降り注ぎ、その栄華を誇っていた。
 ある日いつものようにステーキをフランベするような営みを終えると愛は子作りについて語りだした。
「私ね、絶対昇の元気な赤ちゃん産むの。ひとりだと可愛そうだし、ふたりは欲しいよね」
 避妊はしていた。
 子どもの話になると僕の気分は沈んだ。ふたりで生きていくのでさえやっとなのに、子どもの面倒なんてみれるわけがない。そもそも子どもを作るなんて選択肢は僕の中には初めからなかった。
「赤ちゃんがだんだん大きくなって小学生になって中学生になって高校生になって大人になっていくのってすごく不思議なことじゃない? でも素敵なことやんね」
「そうだね」
「それでね、女の子だったら私と同じ服着せて街を歩くの。絶対楽しいよね。男の子だったらやんちゃな子がいいかな。私の言うこと聞くような子は将来大物にならないような気がするからね。子どもって可能性のかたまりやんね。考えるだけでわくわくしちゃう」
 僕はどうしたらいいのだろう。相槌を打つのは火に油を注ぐだけだし、かといって無視するのも愛を傷つける。それに僕たちは見つかったら精神病院に連れ戻されてしまう立場だ。そんな不安定な中で子どもを作って生きていこうなんてどうかしている。
「昇はどっちがいい?」
 ん? どっちって何が? と思わず聞き返すところだった。子どもが欲しいのか欲しくないのかと聞いているのかと思っていた。
「男の子か、女の子か」
 よどんだ空気が流れる。それをうまく誤魔化すことが僕にはできなかった。
「どっちって難しいね」
「私、昇の希望通り産める気がするの。私はどっちでも愛せる自信があるから昇の好みに合わせるわ」
 僕の気持ちに気が付いているのかどうかはわからないが、愛は子どもへ対する夢を語ることをやめない。僕は一刻も早くこの話を終わらせたかった。現実を見ろ。ふたりが生きていくだけで精一杯じゃないか。子どもなんて経済的に余裕のある人が作るものだ。僕たちは逃亡生活を送っているんだ。そのことをお前は忘れてないか。そう言いたかったが口から出た言葉は全く違っていた。
「上は男の子、下は女の子がいいかな」
 僕に子どもを作る気なんてほんの一ミリもなかった。でも愛の希望の光を消したくはない。希望だけは決して失ってはならないと本能レベルで感じていた。
「そうね、それが一番いいよね」
 虚空を見つめながら首を立てに振っている自分がとても悲しい生き物のように思えた。
 その後眠りにつくと、うなされた。そして朱美が夢に出てきて「成功したわ」と嬉しそうに言った。朱美はきっと女優として確固たる地位を築き上げたのだろう。朱美は本当に嬉しそうに僕の夢の中で笑顔を振りまいた。そのおかげか僕も明るい気分になり、子どものことをすっかりと忘れることができた。

   14

 頭上に萌ゆる新緑の黄緑色からこぼれ落ちる光と、枝葉の影が鮮やかなコントラストを地面に描きだす。小鳥のさえずりが初夏の午後の暖かい日差しにほどよく溶け込んでいて、六月の柔らかい日の光によって温められたアスファルトの微かな匂いが、鼻先を軽く刺激する。
 ここで働き始めて二ヶ月が経つ。昼休みに愛と一緒に外で休憩を取っていた。北国も夏に近づいてくると暑くなるものだなとふたりして笑った。
 そんな何気ない幸せな時間。
 昼からいつものように下ごしらえと清掃をこなす。すっかり着物姿が板に付いてきた愛はてきぱきと業務をこなす。人は変われるんだと愛を見て思う。働いている愛の姿が僕にはとても眩しかった。
 日が落ちる。
 今夜は団体の常連のお客さんが店を貸しきりにしていて、客席だけでなく厨房の中まで和やかな空気が漂う。今日は人が少ないので女将さんの指示で僕も客席まで料理を運ぶ。愛と目が合いアイコンタクトでお互いを励ましあう。
 お客さんたちは次々に瓶ビールを空にしてゆき、皆の顔がだんだんと赤く染め上がっていく。
 料理の注文も少なくなり僕の仕事場の中心が厨房から客席へ変わっていく。最初は整然としていた場の空気もいつの間にか、ざわつき出して目の前の人の注文を聞き取るのもやっとのことだった。それでもいつもよく見る顔ばかりで僕はリラックスして接客することができた。
 そのうち酔っぱらった体格のいいお客さんが僕に声をかけてくるようになる。
「お兄さん、愛ちゃんの彼氏なん? そーなが?」
「ええ、はい」
「そうかそうか、愛ちゃん大事にせいや。まあ飲みな、ほら」
 体格のいいお客さんが僕にコップを差しだし、瓶ビールをついだ。 
 僕は料理長の方を向く。料理長は笑顔でうなずく。これはお客さんに付き合って飲めということなのだろう。
「はい、いただきます」
 ごくごくごく、と一気に飲み干す。愛が心配そうにこっちを見ていて、そのことにこの場にいるみんなが気付いている。僕は恥ずかしくて顔が真っ赤になった。
「酔っぱらっちゃって」
「誰に酔っているんだろうねえ」
 場が一斉に笑いで埋め尽くされる。僕は穴があったら入りたかった。
「そういや愛ちゃんはなんか楽器吹けるんだって聞いたよ」
 愛はきょとんとしながらも凛とした姿勢で答えた。
「フルートを少々」
 その上品なオーラはどこからくるのだろう。料亭で接客をしているうちに身についたのだろう。こんな一面もあるんだなと感心した。今まで僕が知ることのなかった愛の姿がそこにはあった。
「俺も楽器するんだけどね、フルートじゃないんだよ。ねえ、愛ちゃんこれ吹いてみてよ」
 『これ』とはフルートによく似ている。フルートより短くて、色も黒々としている。
「これってピッコロよね」
「うんそうだとも。吹いたことあるの?」
「ないよ。吹いてみていい?」
 愛にピッコロを吹かせていいものか? 精神状態が悪いときにフルートを吹いて、うまく吹けなくて気が動転して入院することになった経緯がある。もしかしたら今回もそうなるかもしれない。止めた方がいいのかもしれない。
「昇、私吹いてみたい。今はこうして働いて精神的に充実しているし、きっといい音鳴るよ」
 落ち着いている今なら吹いても問題ないだろう。だが問題は別の部分にある。
「吹くのはいいけど、ピッコロ吹けるの?」
「音ぐらいでるよ」
 愛はピッコロを、お嬢様が風で飛ばされた帽子を拾い上げるような手つきで取った。
 あれだけうるさかった店内が一瞬で静まりかえる。愛の指先と口元に視線が集まる。緊張していないだろうか。愛はゆっくりと息を吸い、口腔内にある空気をピッコロの吹き口に吹き込んだ。
 ――最初の一音でわかった。
 この音色は朝霧橋のほとりで聴いたあの音色だ。ピッコロの生み出す音はフルートよりずいぶんと高い。それが愛のメロディに、ものすごくマッチしている。
 ピッコロは愛の演奏をさらに高みに導いてくれている。そこには新しく生まれ変わった愛の姿と音色があった。
 とてもピッコロを初めて吹いたとは思えない滑らかな演奏にお客さんたちも唖然としながら耳を傾けている。
中には口をぽかんと開けたままの人もいる。それぐらい愛の演奏は素晴らしかった。
 次に流れてきた曲はあの日僕が一番気に入った愛のオジリナル曲『カプチーノ』だった。不思議な魅力が溢れ出て僕の全身を震わせたあの日のメロディだ。僕は脳を震わす。新しい愛の音色に痺れてしまったのだ。このままずっと愛のこの素晴らしい音色に包まれていたい。すっとこのまま愛を感じて過ごしていきたい。
 愛と出会えて本当に良かった。愛が僕の全てだ。
 演奏が終わると静寂が辺りを包み込んだ。そして三秒後に、わーと拍手が舞い起こった。
「愛ちゃん本当にピッコロ吹いたの初めてなの?」
「うん!」
 愛はあの日の輝きを取り戻していた。この新しい生活が実ったと実感があった瞬間だった。僕たちは決して間違った道を歩んでいない。正しい道を正しい方向に進んでいるのだと胸を張って言えるとこの時は思っていた。

  15

 僕たちの生活は充実感に満ちていているはずだった。
 何物にも縛られず、誰の助けもいらないで生きているはずだった。
 その全ては幻想だったのだ。

 朝晩が随分と涼しくなってきた九月のある日、仕事を終えて家に帰ると、愛が身仕度をしていた。もう夜の九時を回っている。こんな時間からいったいどこに出かけるのだろうか。
「今から出かけるの?」
「うん」
「えっと、どこへいくの?」
「……ちょっとね。でも心配しないで。すぐに帰ってくるから」
 コンビニにでも行くのだろう。僕たちが住んでいる場所からコンビニは少し離れたところにある。
「コンビニに行くならついていこうか」
「ううん、大丈夫」
 なんとなく会話をすることを拒否されているみたいで僕は口を噤んだ。
「行ってくるね」
 ドアが閉じる瞬間に、もう愛が帰ってこないかもしれないという予感がした。だから急いで玄関まで走っていき扉を開け、愛を呼び戻そうとした。風がぴゅーっと吹く。そこにはすでに愛の姿はなかった。
 帰ってくる。帰ってくるさ。僕は部屋の片隅で体育座りをしながら愛の帰りを待った。気が付くと朝だった。いつの間にか僕は布団の中で横になっていて、隣には愛がいつものように寝ていた。
 昨日の出来事は夢だったのか。そのことを愛に確かめるのもなんだか怖くて僕は何事もなかったかのように愛と一緒に料亭『みなせ』へ出勤した。
 源助大根を洗いながら昨日の夜の記憶の欠片を紐解く。愛の後を追って開けた玄関から吹き込む風の感触が鮮明に頬に残っていて、とても夢とは思えなかった。
 夜になって仕事が終わって家に帰ると愛がまた身仕度をしてどこかへ出かけようとしていた。化粧が昨日より濃い感じがした。愛はばつが悪そうに表情を歪めた。
「……ちょっと出かけてくるね」
 どこへいくの? 男にでも会ってるの? という問いかけをぐっと我慢して、気を付けて行ってきてねと愛を送り出した。
 愛は家を出た後、周りを気にしているようだった。それから繁華街の方へ向かって早足で歩いて行く。後ろから見ると愛の髪の毛は随分と長くなっていた。正面から見る愛は幼く、背後からみる愛はどこか大人だ。愛は繁華街の細かい路地をアメンボのようにするするとすり抜けていった。そして僕は愛を見失った。ビルの裏口がそこらにあり、愛はきっとこのどこかに入っていったのだ。ピンクの看板があるビルが気になった。そこには色っぽい女性の顔がアップで写っている看板があった。愛は何をするためにこんなところに来ているのだろうか。僕はこの場からどこへ行けばいいのかわからず途方に暮れた。帰り道迷ってしまい行きの何倍もの時間がかかってしまった。
 家に付くと愛の姿があった。
「おかえり、昇」
「ああ、ただいま」
 いつの間に帰ってきていたのだろう。
 なんて声をかけてよいのかわからず、僕は玄関で立ち尽くした。
「なにしてるの? もう寝ようよ」
「ねえ、どこ行ってたの」
 家の外を走る車の音だけがふたりの間に響きわたる。その車が通り過ぎると静寂がふたりの間にある空気を凍りつかせる。愛の視線は泳ぎ、手は少し震えていた。愛が動揺しているのが手に取るようにわかる。
「んんー、ちょっとね」
 努めて明るく振る舞う姿が余計に怪しい。愛に男がいるのではないかという嫌な予感が頭によぎった。
「ちょっとじゃわかんないよ。ちゃんと説明して」
 僕は覚悟を決めて愛の話を聞くことにした。このまま疑心暗鬼になってしまっていては辛すぎるからだ。
「誰かと会ってるの?」
「ううん、違うよ。絶対そんなことないよ」
「じゃあ何してたの?」
 愛は頭を抱えた。少し考えてからこっちを向いて答える。
「お金、全然貯まらないじゃない。だからアルバイトをしてるの」
「アルバイトってどんなの?」
「ええっと、話したりする仕事」
 話したりする仕事? ということは話す以外に何かあるのだろうか。
「よくわからないよ」
 愛は沈黙に沈んだ。何か言いたそうだったが、その度に口をつぐんで言葉を飲み込んでいるように映った。
「男でもいるの?」
「違うよ、違う違うの、そういうことじゃなくて、だから働いてるの」
「具体的に、どんな?」
「だから話したり、お酒ついだり」
 お酒? 話したりする仕事でお酒が入るということはどういうことだ。
「あのね、落ち着いて聞いてね。私ね夜の仕事を始めたの。でもいかがわしいことはなくて、ただ男の人の隣でお酒作って相槌を打つだけなんだよ。それだけで今働いているところよりずっといいお金になるのよ」
 僕はお金のためにそんなことをしている愛が信じられなかった。最初はお金に全く執着心がなかったのに、人というものは結局お金だ。僕は半分絶望、もう半分はあきらめの気持ちで愛に問う。
「お金がそんなに必要かよ」
 愛の目尻から水滴がすぅーと落ちる。まるで雨の日に蓮の葉っぱから雨水がこぼれ落ちるように。
「必要よ! いつまでも昇にこんな生活させたくない。昇にはもっといい生活をしてほしいの」
 愛はお金に執着しているのではなく、僕のためにお金を稼ごうとしてくれているのだ。僕は何か言葉を発しようとしたが胸が詰まって何も言えなかった。まるで太陽が胸の中にあるかのように胸が熱かった。それでも発しなければならない言葉があった。
「愛と一緒なら僕は何でもいいよ。だからそんな仕事辞めて」
「駄目。昇に今の生活はふさわしくない」
「なんとかするから」
「何年待てばいい? 私そんなに待てないから、だからお金が必要なの。結婚して子どもを作るのにはお金がかかるの!」
 結婚の二文字が重かった。一緒に暮らしているのだから結婚しているも同然だが、籍を入れているのと入れていないのは全然違う。それに病気持ちの元ひきこもりにそんな甲斐性はなかった。
「私、夜の仕事続けるからね」
 それが愛の僕に対する愛情表現だと思うと頭ごなしに否定することなどできなかった。甲斐性がない自分が恥ずかしかった。僕は貧しくても愛と一緒にいることこそ全てだと思っていたけれど、愛はこの貧しい暮らしに傷ついていたのだ。
 そのことに気が付かなかった自分が情けなかった。愛する人といることだけに幸せを感じている自分が恥ずべき存在だった。愛している人が幸せを実感していなければ、ひとりよがりの自己満足でしかなかった。
 僕には愛の夜の仕事を止める権利なんてない。

   16

 どういう店でどんな感じで愛は働いているんだろう?
 いつも見慣れているはずの源助大根が女性の太股に見えた。愛は男の客の前で、太股を晒しているのだろうか。胸元は開いていないだろうか。体を触れられたりしていないだろうか。
 一度気にし出すと、作業が手に付かない。ここの給料は正直安かった。最初は安くても雇ってくれるだけで感謝の気持ちでいっぱいだった。けれど店とボロアパートを行き来するだけの生活に愛が不満を持っても仕方なかった。ただ愛の場合は僕がこういう生活をしていることに心を痛めているようなので、僕としては早く出世して愛に楽をさせたい。
 しかし、現実は甘くない。こうして半年も経つのに、僕の仕事は、仕事を始めたときと同じ、源助大根を洗うことだ。いつになったらもっと上の仕事を任されるのだろう。愛のためにもっと仕事ができる男になりたい。仕事を頑張る、というありきたりな答えが僕の胸を支配していた。
 仕事が終わって家に帰ると入れ違うように、濃い化粧をした愛が家を出ようとしていた。
「行ってくるね」
「ああ」
 扉が閉まって、誰もいない部屋を見て虚しさが腹の底からこみ上げる。
 悔しい、苦しい、どうして。
 頭がおかしくなりそうだった。
 あれだけ充実していた同棲生活も愛の夜のバイトが始まってからは、中身がなくなってしまった。
 なんのために働いて、なんのために生きているのか。それすらわからなくなっていた。なんだかひきこもりの頃の苦しみがよみがえった気がする。全然違うようで、本質的には同じ苦しみ。
 なんだろう。生きることの苦しみ、生存苦とでも言おうか。僕は何も変わっていない。何ら成長していない。一本道をぐるっと回って、また同じ道に出てきたような感覚。
 一生こんなことが続くと思うと嫌になった。生きることが嫌だ。一生を生ききってなんになるというのだ。それが誰かのためになるのか。愛のためになるというのか。
 それでも生きようと思う。思うけどそれ以上に大きな波が心に押し寄せて、僕の全てを飲み込もうとしている。
 僕はふと天井を見上げた。見慣れたはずの天井が全然違う物のように見える。不思議な感覚だった。こんな感覚初めてだった。
 ――二ヶ所、穴が開いている。
 あそこにロープを引っかければいいのだ。きっとここに住んでいた前の住人が首を吊って死んだのだろう。
 僕は部屋の中にロープがないか探した。引き出しを開けて、ふすまを開けて、戸棚を開けてもどこにもない。畳をひっくり返してみてもロープなんてなかった。
 頭が痛くなった。故障した機械が煙を上げるように僕の頭からも何かが燻し出されているように思えた。
 気が付いたら朝だった。
 隣には愛がいつものように寝ている。
 いつの間にか畳が元の位置にはめられている。引き出しもふすまも戸棚も開けっ放しのはずだったのに、全て元通りになっている。
 昨日首を吊ろうとしたことは夢だったのか。それとも夜の仕事から帰ってきた愛が全部元通りにしてくれたのだろうか。
 そんなこと聞いても仕方ないので、僕は少し早いけどひとりで料亭『みなせ』へ向かった。
 いつものように源助大根が山積みされて、僕は何一つ考えることなく大根を手にとって蛇口を捻って水をかける。
 あまりに意味がない。息苦しい。
 全てに意味がないように感じる。この感覚はきっと誰にもわかってもらえないだろう。愛にもわからない。話す必要もないし、話そうとも思わない。
 大げさでなく視界が暗く感じる。お先真っ暗とはこのことなのだろう。大根を洗う手は動いている。動かないのは頭だけだ。目が回るような感覚がここのところずっと続いている。いつまでこの状態が続けば気が済むのだ。あれだけ楽しかったのにどうして。
 いつしか愛との会話もなくなっていた。もちろんだが夜の営みも最後にいつしたかわからないくらい、なかった。
 半分に割ると中にカビが生えていた林檎みたいに、僕の心の内面が腐敗している。抜け殻だけがここにあって、中身は何もない。愛と話したいとも思わないし、もう愛がどこに行っていようがどうでもよかった。
 ただこの頭の中がグチャグチャになった感覚だけ治して欲しい。もう死にたくて堪らない。どこかへいってしまいたい。ここでないどこかへいってしまいたい。
 気が付いたら愛の忌み嫌う小汚い部屋にいた。僕と愛はこんなタコ部屋で生きているんだと再確認させられた。
「行ってくるね」
 愛の声が玄関からする。ぴきぴきと音を立てて空間が歪んだ気がした。疲れているんだ、気のせいだ、と自分に言い聞かせて抜け殻になった自分を無理矢理奮い立たせた。
 もう壊れかかっている。
 自分で自分のことはよくわかる。
 このまま壊れてしまって、もう二度と立ち上がれなくなれば苦しみは過ぎ去ってくれるのだろうか。いったいなんの苦しみか。この感覚は愛が夜の仕事に行くようになってからだ。
 ――愛が水商売をしていることがこの上なく嫌な自分がいる。
 それだけなのだ。それだけなのにこんなに息苦しく、辛く、情けなくなる。ありのままの愛を止められない自分がいる。
 愛が離れていく、本能的にそう感じていた。愛にその気持ちをぶつけたところで「違うよ」と否定されるだけだろう。僕は不安なんだ。それを誰にも相談できずにひとりで抱え込んでいる。こんなときに親がいれば頼りにできるのにと思う。親はどれだけ心配しているのだろう。何も言わずに出てきたのだからなおさらだ。捜索願は出ているのだろうか。
 親に心配させている自分の罪深さと、愛に対する裏切られた気持ちとが、やじろべえのように心の中でバランスを取っていた。
 その状態が妙に心地よかった。

   17

 十月、一本の電話が警察から料亭『みなせ』にかかってきた。偶然僕が聞いてしまったのがいけなかった。女将さんが電話口で「京都」「失踪」「病院」と飛び飛びに口にしていた。もしかしてだが僕と愛がここにいることがばれてしまったのかもしれない。そう思うのが自然だった。
 追っ手が来るかもしれない。今までにない焦燥感が頭のてっぺんから足の爪の先までの全ての神経を支配した。
 もちろん愛にもそのことは、すぐ伝わった。
「私たち大丈夫だよね? ね?」
 念を押す愛に僕は何も言うことができなかった。きっと駄目だ、と僕も愛もわかっていたんだ。今の生活の終わりが急速に近づいているということを第六感で感じとっていたのだ。
 それから僕たちの生活は一変する。できるだけ目立たないように夜も部屋の明かりをつけなかった。玄関のドアの音も立たないようにゆっくり開け閉めした。部屋のカーテンは窓ガラスから射し込む光をずっと遮っていた。
 息を殺して生きていた。
 その生活の中でも愛は夜の仕事を続けていた。
「お金があって困ることはないでしょ」
 愛はすっかり変わってしまった。それが悪いこととは一概には言えないが、僕は悲しかった。お金がなくてニートだった愛は、愛すべき存在だった。あの頃に戻りたいとかそういうのではない。ただ人が生きると言うことは大変なことだという実感をひしひしと感じていた。愛は生き抜くために働くようになり、お金をより多く稼ぎたいと思うようになった。生きるとはそういうことなのだ。
 それに比べて僕は生きるために何か変わっただろうか。ひきこもりから精神病になり、病気が治ってまたひきこもりをして、それから働き出した。僕なりには結構な進歩だと思っているが、世間から見たらきっと無価値な人間なんだろう。目の前のことだけで精一杯になっていて、一生という長いスパンで物事を考えられていない。
 この時は自分が今人生の大きな転機にいるなんてこれっぽっちも思ってなかった。
 心配事が重なってしんどくなっているだけ、そう納得していた。
 それは突然やってきた。少なくとも僕にとっては突然の出来事だ。夜中に僕の携帯が鳴る。画面には『園部愛』と表示されている。僕は眠い目を擦りながら電話に出る。
「愛ちゃんが大変! 愛ちゃんの彼氏さん早くきて! 愛ちゃんが、愛ちゃんが」
 知らない女の人の声がした。
「誰ですか?」
「私、愛ちゃんと一緒に働いてるのよ。愛ちゃんの様子が変なの。なんか意味がわからないこと話し出して。早く来てあげて!」
 愛がまたおかしくなったのだ。僕はどうしていいのかわからなかった。こんなこと言ってはならないことだが、気が狂った愛とは関わりたくなかった。本当に自分は最低だと思う。でもそれが僕の本当の気持ちだ。気が狂った愛とどう向かい合えと言うのだ。僕は医者でもカウンセラーでもない。こっちまで気が狂ってしまう。わかっている、こんなときこそ僕が愛を支えなければならない。だけど無理だ。無理なんだ。それなのになぜ愛はおかしくなる。頼むからおかしくならないでくれ。僕を困らせないでくれ!
「もしもし、愛ちゃんの彼氏さん? 聞こえてる?」
 電話越しに微かに愛の念仏を唱えるような声が聞こえる。それだけで僕の頭もおかしくなりそうだ。いやおかしくなるというより、もうおかしくなっているのかもしれない。僕も愛も同じ精神病だ。そのことを忘れて金沢の地で半年暮らしてきたけど、結局僕たちは精神病に犯された人間だったのだ。全て振り払って逃げてきたはずなのに根本は何も変わっていない。結局心が病んでいれば人生は終わっている。僕自身自分が今何をしようとしているのかわからなかった。次にする自分の行動が予測不可能だった。気が狂っているのだ。電話の向こう側の愛のように、僕もおかしくなっていくのがわかった。
 意識がだんだんと不明瞭になり今自分がどうなっているのかわからなかった。なんだか異空間に迷い込んでどこにも出口がないような感覚に浸っていた。体が伸びきって力が入らなくて自分が立っているのか座っているのかすらもわからない。よくわからないが僕は今電車に乗っているみたいだ。どうやって乗ったのか誰と一緒に乗っているのかもわからない。脳味噌が伸びきって今というものが全く見えない。意識はあるが認識はない。
 『京都、京都』という音声が頭の中にこだまする。この声は幻か、それとも本当に京都に戻ってきたのか。
 僕はふわふわとして何の現実感も感じないまま、ただそこに在った。

 第三章 そして宇治
   18

 頭の中がぼんやりとしている。自分が浮遊物であるような感覚で部屋の中に漂っている。
 木目調の壁がある六畳もない部屋に自分がふわふわと宙に浮いているような感覚だ。
 僕の他にもうひとり人がいた。髪の長さがセミロングでベッドの上で三角座りをしている女性だ。彼女は死体のように身動きひとつせずじっとしていた。よく耳を澄ませてみると、彼女の鼻をすする湿った音がわずかに聞こえる。セミロングの髪型にに見覚えがあった。
 僕は気づいた。彼女は愛だ。愛は顔を膝に埋めていつまでもすすり泣いている。僕は愛に近づきたくても体が宙に浮いたままでどうしても前に進むことができない。なぜか声も発することができず、まるで映画のワンシーンを見ているように愛の姿を眺めるだけしかできなかった。
 ふと三角座りをしている愛が消えた。どこにいったのだろうと周りを見渡すと、愛が「ここから出して!」と叫びながら扉を叩いていた。愛は力一杯扉を叩いている。まるで叩かれるのを想定して頑丈に作られているかのように扉はぴくりともしなかった。
 扉を叩く音がだんだん強くなっていく。そして最終的に愛は叫び声を上げながらドアを叩き始めた。ヒステリックな金切り声が頑丈な扉を切り裂いてしまいそう。そしてまた愛の姿が消えてしまった。
 次に浮かび上がったのは白衣の集団だった。とても騒がしい。白衣を着ている七人が、暴れているジャージ姿のひとりの男をとり押さえていた。
「お願いだから去勢しないで! お願いしますお願いします」
 抵抗している男が必死に訴えている。
「僕の種をなくしたら世界は変わってしまうんだよ。それでもいいの? 離して!」
「そんなことしないから、大丈夫だから落ち着いて」
「殺すより酷いことしようとしてるんだよ。僕の生殖機能を吸い取って世界を変えようとしているのはわかっているんだよ。そんなの鈍感な僕にだってわかるんだよ。どうして人類のためにならないことするの? お願い! お願いやめて!」
 男の口調は優しいが抵抗の激しさは増すばかりだった。手足をばたつかせて周りの人たちを困らせている。白衣を着ている人たちは看護師だろうか。男は一番近くにいる看護師をぶん殴った。口元から鮮血のしぶきが散った。
「こらっ、やめなさい! どうしてわからないの?」
「お前ら全員殺してやる。うわあ」
 部屋の外からさらに看護師が三人やってきた。これでこの六畳ほどの部屋に看護師が十人いることになる。みんなで男を取り押さえる。それでも男は抵抗をやめない。さらに白衣を着た女が慌てて部屋に入ってきた。
「私が許可出すから縛って」
「はい、ドクター」
「お前ら全員殺してやる。皆殺しだ!」
「猿ぐつわも許可出すから、して」
 男は手足をベッドの四隅に縛られ、さらに猿ぐつわまでされて身動きを取ることも話すこともできなくなった。ドクターは看護師たちが男を縛り終えると「ごめんね」と男に声をかけて部屋を出ていった。そして次々に看護師たちも部屋を後にした。去り際の看護師たちが皆、男に「痛いけどちょっと我慢してね」とか「すぐ解いてあげるからね」と行動とは裏腹な優しい言葉をかけていくのが不思議だった。
 残ったのは男の哀れな姿だけだった。顔をよく見ると、どこかで見たことのある顔だった。
 そして僕は驚愕した。
 その顔は僕がいつも鏡で見ている自分の姿そっくりだからだ。これは僕自身ではないか。入院していた頃の僕なのではないか。ふとベッドを見ると縛られている『僕』はいなくなっていた。
 次の瞬間、『僕』はお茶の入ったプラスチックの容器を扉のガラスに思いっきり投げつけていた。ガラスは割れるどころかぴくりともしなかった。『僕』は転がり落ちたそれを拾い上げまた力一杯ドアのガラスめがけてたたきつける。「出してよ!」と叫びながら『僕』は延々と同じ行動を繰り返していた。
 この光景はいったいなんなのだろう。
 そのときどこからか声が聞こえてきた。
『時間が戻っているんだ。愛が保護室に入れられて絶望に浸っていたとき、保護室に入れられた直後、お前が保護室に入れられて暴れたとき、保護室に入れられた直後と時間軸が逆に動いているんだ』
 誰だ?
『お前は今意識を失った混迷状態で保護室に入れられているんだ。それで幻覚を見ている。ただこの幻覚は過去にこの601の部屋で起こった本当のことだ』
 誰なんだ。
『金沢に薬を持って行かなかったから再発したんだな。薬で抑えているだけなのに精神病が治ったと本気で思ったお前が悪いんだぞ。再発の恐ろしさ肝に銘じとけよ』
 もうやめてくれ、いったいどういうこととなんだ。こいつがいっていることは本当なのか。
『愛と同時にイッちまうなんてお前は幸せだな。ははは』
 愛は無事なのか。愛のこともっと聞かせてくれ。
『愛はもう再起不能だな。この病気は何度もイッちまうと癖になるんだ。お前はまだ二度目だからマシだけど、愛は入院中になんどもイッちまってたからな。あいつは病気のお前には無理だ。さっさと手放してしまいな』
 何を言っている。同じ病気同士だからこそ理解し合えるんだ。支えあえるんだ。
『共倒れって言葉知ってるか? 今まさにそれが起こったんだ。お前と愛は一緒にはやっていけない。それぞれ健常者のパートナーを見つけるこったな』
 健常者のパートナー? 何を言っているんだこいつ。意味が全然わからない。
『まあそういうこった。そろそろお前も目を覚ませよ。俺は神だ。俺が作った楽しい楽しい人生ゲームはまだまだこれからだぜ』
 ふぅっと目の前が暗くなって目を開けてみると僕の視界に木目調の壁が目に入った。
 僕は本当に保護室に入っているのかもしれない。さっきのやつがいってたことは本当だったのだろうか。僕は閉じこめられている。でも閉じられた扉を叩く気にはなれなかった。

   19

「もう幻覚は見えませんか?」
 女医の質問に僕は「はい」とうなずく。
「今は幻聴は聞こえる?」
「今は聞こえません」と小さな声で返事する。
「前に聞こえてきた神の声はもう聞こえない?」
 今度は声で返事せずにうなずくのが精一杯だった。
「そうね、状態も安定してきたしそろそろ退院の時期を考えていかないとね」
 黄色く色づいたイチョウの木が優しげに僕の方を眺めている。そして気が付いたらイチョウの木は黄色から、枝だけ残した茶色に変化していた。茶色はやがて新緑の黄緑色になり、それが濃い緑色になり、そしてまた、イチョウが黄色く色づいた。

 そう、あれから一年が経つ。僕はずっとここにいる。僕はいったい何をやっているのだろう。一年が経つのに状況が何一つ変わっていないことに得体の知れない恐ろしさを感じる。この一年を返せと誰に言っていいのかわからなかった。女医に言えばいいのか、いや違う。どうしょうもないことなんだ。僕自身納得はしていないが理解はしているつもりだ。
 この病気の怖さはここにあるのではないかと密かに僕は思っていた。
 愛はどうしているのだろう。噂では僕と違う病院の閉鎖病棟に入れられていて、いまだに保護室に閉じこめられていると聞く。
 須藤さんがいれば気兼ねなく聞けるのだが、須藤さんは僕と愛が脱走した責任を取らされて退職されたそうだ。
 須藤さんには本当に申し訳ないことをしたと、胸が痛む。でも仕方なかったんだ。あのときはああするしか道はなかった。愛を救いたかった。でも結果的に愛の病気を長引かせることになって、いいことなんてひとつもなかった。僕もこうして一年間もの間、閉じこめられた状態で過ごしている。
 こんな状態で僕は生きているといえるのだろうか。
 なんのためにここから逃げ出した。僕はこれからもずっと自分の病気に縛られて生きていかないといけないのか。
 それは苦しみというより、諦めといった方が正しい。僕は社会のお荷物になりたくない。なのにこんなことになってしまって。もう働けないかもしれない。そうなると、障害年金と生活保護をもらって生きていかなければいけないのだろうか。体中の筋肉がプルプルと震え出す。指先の震えが最高潮に達したとき、僕の中で何かかプツンと切れた。
「嫌だ!」
 随分前に移った大部屋から廊下に出て、僕は大声を上げた。
「どうしたの?」
 須藤さんの替わりに配属になった千原さんが優しく聞いてくる。それなりに年齢を重ねているのに童顔である千原さんは長い黒髪を揺らしながら天使のような眼差しで僕を見る。
「もう嫌なんだ! 一ミリの希望もない人生なんて生きている意味がないよ。こんなんじゃ死んだ方がマシだよ!」
 千原さんは何も言わず、ただうなずいてくれた。
「愛だってどこかの病院の保護室に閉じこめられているんだろ! そんなの可愛そうだよ。僕たちの人生の大切な時間を奪う権利なんて誰にあるんだよ。僕は全うに働いて生きていきたいんだよ。それってそんなに高望みなわけ? そうじゃないでしょ。普通だよね。それなのにこんなところに一年も閉じこめられて。……もう殺してくれよ」
 千原さんの目から一筋の光が流れ落ちた。そして、ただただうなずいてくれる。
「何で泣いてるの?」
 千原さんは涙を拭いて言葉を選ぶように答える。
「生きるってなんだろうね。私は昇君と同じ病気の人をたくさん見てきて……何もしてあげられない自分が辛くて。私たちにできることっていったい何があるんだろうって。昇君の普通に働いて暮らしたいって希望をどうやったら叶えてあげられるんだろうって」
「そんなの簡単だよ。ここから出してくれたらいいんだよ」
 千原さんは頬を濡らしているのに仏のような笑顔だった。
「あなたの病気はね、一生つき合っていかなくてはいけない病気なの。だからね、ゆっくり良くなってもらうしかないの。今のあなたではわからないかもしれないわ。でもわかって。これはあなたの今後の人生のことをよくよく考えた結果なの。私たちは昇君のずっとずっと先の未来を考えているの」
「未来のために今を犠牲にするの? 今この瞬間が一番大事なんじゃないの?」
 千原さんの表情は少しだけ困った顔になって、またすぐ天使の笑顔に戻る。
「もちろん今も大事。こうして美人の私と話していてどない?」
 僕は思わず笑ってしまった。
「自分で自分のこと美人って言っちゃいますか」
「そう、誰も言ってくれないから自分で言っちゃってるの」
 お笑い芸人が鉄板ネタで笑いをとるように千原さんは笑いを誘ってくる。でもその気持ちが嬉しかった。
「そこまで美人でもないですよ」
「ひっどーい。でもそこまでもてないし、三十五なのに結婚もできてないしそうなのかもね。昇君ったらバカ正直なんだから」
「うそですよ。ただ僕は、僕の彼女の方が美人だと思います」
 愛の話題を出した瞬間、場の空気が凍りついたのがわかった。さっきまでの笑顔が消えてしまって千原さんが千原さんでないような気さえした。千原さんは真剣な表情で話し始めた。
「愛ちゃんはね、今とても苦しんでるの」
「愛は保護室に閉じこめられているんですよね」
 千原さんはまた一段と表情を堅くした。
「愛ちゃんはね、閉じこめられているわけではないの。自分から動こうとしないの。外に出てこようとしないの」
「違うね、そんな嘘付いてもすぐにわかるよ。愛は閉じこめられてる、病院の間違った方針によってね」
 僕は怒りをぶつけた。例えぶつける相手を間違っていたとしても、僕の怒りは治まらなかった。
「陰性症状って知ってるかな」
 僕は胸を張って「ええ、知ってます」と答えた。
「僕も以前に陰性症状が出ていました。それが愛に出ているんですか?」
「そうね、愛ちゃんは今、無気力状態なの。私たちにできることは投薬と声かけくらいしかなくて」
 僕の唇が怒りで震える。押さえきれない思いは尖った言葉として吐き出された。
「そうやって愛を薬漬けにして、死んでるみたいに生きさせて、病院は本当に愛のことを考えてやってるの? 自分たちが利益を上げたいから薬漬けにして入院を長引かせているだけじゃないの。保護室にぶち込んで薬漬けにして人権派気取って大金巻き上げて、いい商売だな。お前等腐りきってるよな。人の人生おもちゃにして搾り取るだけ搾り取ってそれでいい人のような顔をして、高い給料もらって自分たちは悠々自適に暮らして。ホントふざけてるよな。僕らの人生ぶちこわして食い物にして、よくのうのうと生きてられるよな。僕は許せないよ。絶対にお前等を許せない。ここに刃物があればお前を刺してるよ。死ねよ、てめえなんて死んじまえ!」
 なぜか千原さんの表情は笑顔に戻っていた。この人いったい何を考えているんだ……僕はたじろいだ。
「昇君と愛ちゃんの敵はね、私たちじゃないのよ。敵は病気。私たちは命がけであなたたちを支えるわ」
「意味がわからないよ。やっていることと言ってることが全然……繋がらないよ」
 千原さんがどんどん近づいてきて、両手を僕の背中に回して、僕を包み込んだ。
「私はあなたたちを、この命に変えても守り抜くわ」
 千原さんの胸の膨らみの温もりが僕の体躯に伝わってくる。それは今までに味わったことのない安心感をもたらした。
「私たちを信じてほしい。昇君の、普通に働きたいって希望、必ず叶えてあげるから。愛ちゃんも必ず良くなる。私がふたりを社会に復帰させるから。必ず、ねっ」
 その言葉よりも体の温もりに僕はやられていた。僕の心の氷塊が千原さんという熱を帯びた岩盤によって溶かされていくのがわかった。人肌が心地よかった。このままずっと抱きしめていて欲しいくらいに。

   20

 二十九の冬、僕は退院した。またしても一月の退院だった。
 ふらっと朝霧橋まで散歩をする。早朝の宇治川の流れは澄んでいて、清い流れの音だけが辺りに鳴り響いていた。橋の真ん中でふと立ち止まる。空を見上げると七、八分の白い月が蒼くなったばかりの空の上に浮いていた。
 ずっと月を見ながら愛と初めて出会った場所まで歩いた。視線を月に残したまま僕は、そこにいた愛のことを思い出す。僕の頭の中にいる愛は病気ではなかった。心を震わせる音色をフルートで吹く謎の美少女、といったところだろうか。僕たちは猫カフェで再会すべきではなかったのだろうか。それは偶然だったのか必然だったのか。
 愛はまだ入院している。
 視線を月から外して鞄の方を見る。鞄から愛のフルートを取り出し、愛が発病したときに地面に叩きつけてできた傷に視線が移る。そして僕は傷ついた部分をそっと撫でる。愛に触れるときのように優しく撫でる。自然と涙がこぼれ落ちる。
 ねえ愛、どうして病気になっちゃったんだ。愛が病気になっちゃったおかげで僕たちの関係はボロボロだよ。今も僕のこと恋人と思ってくれているの? それとももうどうでもいい人になっちゃってるの? 誰も愛の居場所を教えてくれないよ。どこの保護室に閉じこめられているの? 早く僕の隣に戻ってきてよ。淋しいよ。苦しいよ。生きているのが……辛いよ。
 これは陰性症状だろうか。それともただの恋の病なのだろうか。
 散歩の後、診察日だったので病院に行くと偶然千原さんに出会った。
 千原さんは「元気にしてた?」と爽やかに声をかけてくれた。「まあ」と返事をした後、千原さんが急に顔を近づけてきた。一瞬キスをされるのかと思ったが、千原さんの唇は手を添えて僕の耳元に迫った。
「愛ちゃんに会いたい?」
 こそこそ声で千原さんは囁く。僕は力強くうなずいた。
「じゃあ、診察終わったら売店の前に来て」
 千原さんはそういって病棟の方へ消えていった。
 診察を終えて売店の前に行くと千原さんと四十代くらいの夫婦が僕を待っていた。この夫婦、どこかで見たことがあるような気がした。
「昇君、心の準備はいい?」
 千原さんはいったい何を考えているのだろう。
「愛に会う心の準備でしょうか?」
「ええ」
 千原さんは夫婦の方に顔を向けた。男性の方が一歩前に出て静かに僕に話しかけてきた。
「君が昇君だね」
「は、はい」
 男性は綺麗に整えられた髭に手をやりながら少し考え込むようにしていた。そして吹っ切れたように僕に話しかけてきた。
「愛の父です」
 僕は思わずのけぞった。
 言われてみてばどこか愛に似ている。そうだ、この人たちを見たことがあるわけではなくて、愛の面影を重ねていたのだ。少し離れたところから愛の母親が言葉を投げかけてきた。
「愛は少し前に退院して、今はずっと家にいるのよ。よかったら会ってやって」
 愛が退院している、いつの間に? 僕より後? それとも僕より先に退院したの? 聞きたいことは山ほどあったが、そんなことよりも何よりも愛に会いたかった。
「愛は元気ですか?」
「会ったらわかるわ」
 愛の母親は少し暗い口調で愛のことを話す。やっぱり陰性症状が出てるのか。僕の心配は杞憂には終わってくれるのだろうか。
「愛にフルートを返したいんです」
 会うときはいつも愛の家の近くのコンビニで待ち合わせをしていたので、愛の家に入るのは初めてだった。
「ついてきてください」
 愛の父親がうながした。
「愛ちゃんによろしくね」
 千原さんはいつもの優しい笑顔だった。僕たちは千原さんと別れて、愛の両親と愛の家へ向かった。

 玄関を開けると二階まで吹き抜けになっている広々とした余裕のある空間が僕を向かい入れてくれた。廊下の床はピカピカに磨かれていて、自分の姿が写ってしまいそうだ。玄関から入ってすぐにある螺旋階段を上りきると立派な木のドアがあった。どうやら応接間のようだ。
「愛、連れてきたよ」
 ドアはゆっくりと開いた。そして僕は驚くことになる。

 愛は、いた。
 それは醗酵したパンの生地のように膨らんでいた。
 それはだらしがなく、意欲もなく、醜く、腐敗臭がしていた。
 すっかり変わり果てていた。
 
 それは愛の形をなしていなかった。
 しかし、それは、愛だった。

 顔には吹き出物ができ、お腹はまるまると太っている。表情は暗く、唇から全く言葉を落とさない。
 僕はどんな顔をしていいのかわからなかった。
 感情鈍麻、思考困難、意欲や自発性の低下。そして薬の副作用による肥満。愛は陰性症状の真っ直中にいた。
 理解はできたが、素直に愛の現状を、僕は受け入れることはできなかった。

   21

 誰かの模写であろうか。どこかで見たことのある絵が壁に飾られている。重厚なガラスのテーブルの周りを、ふんわりと肌触りが良さそうな四つのソファーが取り囲んでいる。床にはペルシャ絨毯が靴下の裏側から心地よい刺激を与えてくれて、窓から射す冬の日差しは日溜まりとなって絨毯を温めている。天井は――
 僕の視線は泳いでいた。
 愛を真っ直ぐ見ることができなかった。
 愛は一言も言葉を発しない。そして僕も言葉を発することができなかった。言葉がひとつも生まれてこなかった。
 どちらから話しかけることもなく、また遠ざかるわけでなく、お互い突っ立ったまま下を向いていた。僕はもう今の愛を直視できないでいた。桃色の着物を着てフルートを吹いていた愛はもう帰ってこないのか。
「そうだ、フルート返さなきゃ」
「え、フルート……昇が持っていた……の?」
「う、うん。知らなかったの」
「……全然」
 急に普段の会話になって、遠く離れた距離が一気に縮まった。しかし愛の表情は以前のように明るくはなかった。影がある、というか元気がない。もっというと生きているのか死んでいるのかわからないくらいだ。愛の顔の表情筋は何ひとつ働いていなくて、笑うとか、怒るとか、そういうものが一切感じられなかった。小刻みに震えている愛の紫色をした唇がよりいっそう震えだした。伸ばした手も震えている。愛の手は僕の腕をつかんだ。僕は思わずのけぞりそうになったが、ここでのけぞってはいけないと反射的に思い、その場にとどまった。愛の視線をうっすらと感じる。僕は愛の虚ろな瞳をそっと眺めた。
 愛は目に涙をたくさん溜めていた。そのうるうるとした瞳は病的で、僕は自然と視線を外してしまった。それでも愛がこちらを向いていることがわかるほど愛は僕のことを見つめていた。暖房器具から出る生暖かい風が僕の鼻先をかすめる。

「昇に……会いたかった」

 愛は泣き崩れた。僕は愛を支えようと思った。手をそっと重ねる。荒れた肌だと鈍感な僕にでもわかってしまう。金沢で触れた人と別人としか思えなかった。僕は見た目がどうこういうタイプではないが、あまりの変容振りにどうにも心がついていかなかった。
「私のこと、キライになったよね」
「そんなことないよ。何を言い出すんだよ」
「言い訳になるけど聞いてくれる」
「もちろんだよ」
 愛は虚ろな瞳を精一杯輝かせた。
「夜のお店に行ったところまでしか覚えてないの。気がついたら保護室の中にいて。でもそこが保護室だとわかるまでたぶん一ヶ月ぐらいかかって。自分がいる場所が保護室だとわかった瞬間からやる気なくしちゃって。生きていることがどうでもよくなって。気持ちが沈んで、ずっと沈んだままで。今の今までずっと沈んでて……」
「そうか」
「でもね、昇と再会できたから今気持ちが上がってきている。こんな気持ちになるのは金沢にいたとき以来なの。やっぱり私には昇が必要なの。これからもずっと一緒にいてね。私今は見た目が不細工になっちゃったけど、少しずつ戻していくから安心してね」
「だから見た目なんて関係ないよ。愛は愛だよ」
「また私を抱いてね」
 僕は視線を逸らせてうなずいた。今の愛を抱ける自信がないのと、そのことに対する罪悪感からだった。愛は僕のうなずきで笑顔になっている。
 愛の状態は僕と再会したことによって急激に良化している。愛の両親も笑顔で僕を見送ってくれた。
 フルートを手渡し、明日も会う約束をして僕たちはバイバイした。
 陰性症状が恋の力によってよくなるなんてあの看護学生だって信じられないだろう。
 
 ――だが精神病という名の敵は甘くなかった。

 僕が帰ってからすぐに愛に最悪の事態が起こった。愛は手元にあった薬を全て飲み、ぶっ倒れてしまったのだ。
 僕がその知らせを聞いたのは次の日、愛に会いにいったときだった。愛の母親は頭を抱えこんでいた。
「あなたと会わせたのが間違いだったわ。悪いんですけど愛とは会わないでいただけますか。こちらの勝手を言って申し訳ないのですが」
「僕が原因で愛はODしたっていうんですか」
「あなたが引き金になったことは間違いないんです。もう愛に会わないでください」
「会ってくれっていったり会うなっていったり、全然辻褄合わない人ですね。親がどうこういうより、愛が僕に会いたいかどうかだと思うんですよね。僕は愛に会いたいし、これで相思相愛なら会ってなんにも問題ないですよね」
「もう会わないでやってください。愛は今、胃洗浄をしてぐったりしているんです。あなたがいなかったらこんなことにはならなかったでしょう。金沢に愛を連れて行ったことに対しても謝罪の一言もないですよね。そのせいで愛の病気は悪化したのですよ。愛があなたと一緒にいていいことなんてひとつもありません。だからお引き取りください」
 ここまで言われるとさすがの僕も何も言い返せなかった。僕のせいで愛の病気が悪化したことは確かだからだ。
「ひとつだけ約束するわ。愛があなたと会いたいといったら会わせる。それでいいでしょ」
「わかりました」
 これで愛と引き離されることは何度目になるだろう。待たされることに僕はいつまで経っても慣れなかった。

   22

 新緑が芽吹いている。愛との恋愛を描いた小説を書き上げて一年二ヶ月が経つ。
 机の上に広がっている原稿はまだ朱美に読んでもらえていない。そしてそれは決して朱美に読まれることはなかった。

 診察を待っているときに知った顔があることに気づいたのが、ことの発端だった。誰だっけ? とじろじろ相手の顔を見ながら考えていると、相手から声をかけてきた。
「昇……じゃない?」
 どこかで聞いたことあるしがれ声だ。でもその女性が誰だかわからずにいた。
「あ、もしかして直子?」
 僕は記憶の奥底から彼女の名前を探し出した。
「久しぶり」
 退院してから一度も直子と会ってなかったし、彼女のことはあまり印象に残っていなかったので完全に忘れていた。よほど朱美のインパクトが強かったのだろう。退院してから朱美と直子は頻繁に会っていたのだろうか?
「朱美とは連絡取ってるの?」
 すると下を向いている直子の顔面がさらに沈んだ。その姿にいくら鈍感な僕でも察することができた。
「連絡、取れてないんだね」
 僕がずばっと言ってしまったら、直子は泣き出してしまった。
「ごめんなさい。でもそれくらいで泣くことじゃないでしょ。いったいどうしたの」
 直子は鼻水を垂らしながら泣きじゃぐった。それでも必死に言葉を吐こうとする。
「知ら……ないんだね」
「何が?」
「……なんにも」
 直子は覚悟を決めたように黒目に神経の全てを集中させ、僕の目を見てきた。

「朱美は……死んだのよ」

 朱美は、成功してしまったのだ。

 不思議と祝福の気持ちが僕の中に湧き上がった。朱美の望みが叶ったということは良いことなのだ。ああ、朱美は報われたのだ。朱美は自分の意志でこの世を後にして来世へ旅立った。それはやはり祝福に値する。
 しかし、僕の体は異常反応を起こしていた。
 お腹が捻れたような感覚に陥り、立っていることが困難になり僕はウレタン製の床の上に崩れ落ちた。
「大丈夫ですか」
 声を出そうにも、息さえうまく吸えない。呼吸というものの自発性が失われていた。
 指先は震え、目は霞んだ。
「先生! 早く来てください」
 そして僕には朱美の声が聞こえたんだ。
『昇、いい、あのね全然だめよ。こんなにも幸せに包まれた小説は嫌みでしかないの。もっと汚い部分を書かなきゃ駄目。いい、昇の妄想を書くにあたってあの子は優秀なモルモットよ。だけどね何これ? 美化しすぎよ。恋愛がうまくいって幸せで、はい終わりって何のための小説なの? どうしてうまくいっていない頃のことを書かないの? もったいないわよ。幸せなんて描いたって何にもならない。描くべきは不幸よ。私は先にイっちゃったけど、昇はまだまだこっちに来ちゃ駄目よ。昇には書くべきものがあるでしょ。いい、わかった?』
「うん、わかったよ朱美」
 僕は倒れたまま、力強くうなづいた。
「先生、彼は幻聴に受け答えしています。早く注射をお願いします」
 すぐにぶっとい注射を打たれ、僕の意識は遠のいた。


 目を覚ますと観察室のベッドの上だった。
 近くにいた看護師さんが優しく僕に話しかける。
「まだ何か聞こえるかしら?」
「いいえ」
 朱美の声が幻聴だろうがなんだろうがどうでもいい。あのアドバイスは僕にとってこれからの道しるべになるだろう。書くという行為は幸せを描くだけでは駄目だ。不幸をちゃんと見つめる勇気が必要なのだ。それはきっと自分と向かい合うという作業なんだろう。僕は小説の中に自分の理想を練り込み、その世界に逃げていただけなのかもしれない。だからこれからは自分の不幸にもしっかりと目を向けて書いていこう。そして来世で朱美に僕の物語のヒロインを演じてもらおう。
 ――朱美、ありがとな。
 僕は心の中でそっと呟いた。
 本当に呟いてしまうと、また幻聴が聞こえたと思われてしまう。
 ――朱美、どれだけ深く手首を切ったの?
 そもそもあれだけの切り傷がありながらも今まで生き残ってきた方が奇跡だったのかもしれない。
 ――ねえ、僕は愛も朱美も失ってどうすればいいの?
 頼れる人なんて誰ひとりいなかった。
 いい子を演じて、僕はその日のうちの帰宅することができた。
 家に着くと父も母も誰も僕のことを喜んで歓迎してくれなかった。僕にはもう誰もいなかった。
 朱美とは全然会っていなかったが、いざ彼女が死んでしまったとなると、喪失感が半端なかった。今回の小説は来世から読んでもらったようだが、次書いたときにまた読んでもらえる保証はひとつもない。朱美はある意味、心の支えだった。支えを失った今、僕はいったい誰を頼りにしていったらいいのだろう。家の中をうろうろとする。うろうろうろうろする。何も前に進まない。
 僕の目の前には襖がある。その襖はボロボロに破れていて蹴飛ばせば吹っ飛ぶであろう代物である。でもその襖より僕の方がボロボロで、少し風が吹いたくらいで吹っ飛んでしまいそうだった。僕の精神状態は風前の灯火、このままでは朱美の後を追ってしまいそうだった。人の温もりが欲しかった。

 次の日の昼下がりに僕の携帯がなった。ウミガメールが届いたのだ。心当たりはあった。看護学生のみかんだ。
『私ね、あなたに会ってみたいの。病気を抱えながら、同じ病気の彼女を支えて頑張って生きているあなたに一目会ってみたいの。そしてね、話を聞かせて欲しいの。あなたの声を聞きたいの。駄目かしら』
 心がからからに乾いていた僕は反射的に誘いに飛びついてしまった。
『明日の朝六時に伏見稲荷のおもかる石の前で待ってる』と場所を指定された。
 今すぐに人の温もりが欲しい僕は彼女の指示に素直に従った。

 第四章 伏見
   23

 朝日に照らされた新緑が柔らかく輝いている。まだ朝は肌寒く、早朝から伏見稲荷を訪れている人たちはみな長袖を着ていた。僕はおもかる石のある地点を目指して鳥居をくぐり続けた。
 無数にある朱色の鳥居の空間から、柑橘系の香りがほのかに薫っている。
 おもかる石は少し山を登ったところにあるようだった。どうしてそんなところを待ち合わせ場所に指定したのか僕にはその意図がわからなかった。
 柑橘系の香りはずっとしている。前に若い女性がいる。きっと彼女が付けている香水の香りなのだろう。
 しばらく歩いていると鳥居が二手に分かれている地点に出た。果たしておもかる石に向かうにはどっちにいったらいいのだろうか。
 右なのか、左なのか。
 僕は決めあぐねた。もし間違ってしまうと道に迷ってしまう。このままでは待ち合わせにも遅れてしまう。柑橘系の香りをさせた女性は右側の鳥居をくぐってすたすたと先に進んでいった。僕の周りの空気から柑橘系の香りが消えていく。僕だけがこの場に取り残されたようだった。
 右に行ってみようか。でもやっぱり左かもしれないし……
 優柔不断がもろに出る。右か左か、僕には決められない。
 じっとしていると、左の鳥居からさっき前を歩いていた女性が下りてきた。じわっと柑橘系の香りが僕の周りを漂う。
「迷ってるって思ってた」
 彼女は僕に話しかけたきた。
「右に行っても、左に行っても同じところに出るのよね」
「あなたが看護学生の、みかんさん?」
 彼女はそよ風のように優しく笑った。
「山本香織っていうの」
 柑橘系の匂いと共に彼女の芯がしっかりした声が僕の耳に届いた。
「みかんのいい香織(香り)で覚えてねっ」
 香織のくるくるとした栗色の髪が柔らかく縦に揺れている。はっきりした二重でくりっとした目が僕の瞳を見つめている。身長は女性としては高い方で百六十五センチくらいだ。細身ですらっとした身体はしなやかでありながら芯がしっかりと通っている。おっとりとした口調が妙に心地よく、意識がぼんやりとしている。
「なにぼーっとして。私のこと好きになっちゃ駄目よ。あなたには愛ちゃんがいるんだからね」
 僕は目を擦って香織を見た。僕と同い年か年上か、大人びた雰囲気が香織にはあった。そこが愛とは違う。愛と違う魅力に引かれていく自分がいることに僕は戸惑った。引かれるというより、吸い込まれると表現した方がいいだろうか。
「愛ちゃんと会えないの?」
「うん、会えないんだ。事情があってね」
「今も愛ちゃんのこと好きなの?」
 僕は一呼吸おいた。容姿が変わってしまった今の愛を受け入れられていない自分をひとまずおいておいて、僕は今までの愛に対する気持ちを喉の奥から吐き出す。
「愛のことが大好きです。彼女の存在が僕の生き甲斐なんです。周りは僕たちを引き裂こうとするけど、僕は彼女が好きなんです。病気が一番の敵です。今彼女は病気によって太っていて、そのことによって僕の気持ちが冷めてしまってますが、それも病気との戦いの一部なんです。病気がすべて悪いんです。病気さえなければ僕たちはうまくいっていたんです。病気さえなければ……」
 香織は耳を触りながらあさっての方向を見ながら叫んだ。
「愛ちゃーん! 昇君のろけてるけど、愛ちゃんに内緒で他の女に会ってるわよー」
「わあ、何叫んでるの」
「愛ちゃーん! 昇君ちょっと私に見とれてたわよー」
「や、やめてー」
 香織はけらけらと笑い転げてしまった。
「そんなに後ろめたいなら私と会わなければいいのに」
「人が恋しかったんです。誰かに話を聞いてほしかったんです」
「じゃあ聞かせてよ、あなたたちの物語を」
 僕たちは右側の鳥居の方へ歩き出し、愛のことを話した。鳥居をくぐり抜けて立ち話になっても僕は愛のことを話し続けた。愛のフルートの音色に心を奪われたこと、猫カフェで再会したこと、発病してフルートを地面に叩きつけたこと、病院から逃亡したこと、逃亡先の金沢で働きながら将来を悲観していたこと、そしてふたりとも再発して病院に連れ戻されたことを勢いに任せて一気に話した。
「いろいろあったのね。でも病気と闘いながらよくやったと思うよ。いい、あなたたちの病気はね、残念ながら治らないのよね」
 非常にきついことをさらりと言う。
「でもね、病気を持ちながら生きていくことはできる。病気は友達、なんて言葉は当人たちにとっては腹立たしいかもしれないけど、それでもあなたたちは病気と共に生きていかなければいけないからね。そして私にはその辛さがわからない。全力でわかろうとしても絶対にあなたたちの本当の辛さは私にはわからない」
 香織は親指を軽く口にあてた。
「ねえ、おもかる石持ってみない?」
「そうそうずっと思っていたんだけど、おもかる石っていったい何?」
 香織は首を傾げているが目は笑っている。
「昇君、知らないんだあ。えっとね、まず願い事をするの。それでね次におもかる石を持ち上げるのよね。そこで石が軽く感じたらその願いは叶う。重ければ叶わない。っていうおまじないみたいな石なのよ」
「へえ」
 願い事はたったひとつ。
 愛と一緒にいたい。本当にこの一心なのに。
 そして愛の容姿が変わってしまってショックを受けた自分にショックであり、情けない気持ちがある。例え太ってしまって肌が荒れ果ててしまっても僕は愛を愛する。この気持ちが揺らいでしまった自分を僕は一生責めるだろう。
「願い事は決まってるの?」
 香織は栗色の髪をスプリングのように縦に揺らしながら、相変わらず柑橘系の香りを漂わせていた。僕はそんなことは知ったこっちゃないと、自分の思っていることを素直に答える。
「愛と暮らしたい」
 栗色が余計縦に揺れて「一途なのね」とぽつりと呟く。
「私の願い事は三年で学校を卒業して看護師になって循環器の認定看護師を取ること」
「エリートみたいですね」
「本当にたいしたことないのよ」
「僕には何もない。積み上げてきた物も、誇れるキャリアも何もない」
「あなたには愛ちゃんがいるじゃない。それで十分じゃないの。私にはいないのよ。ほんと羨ましいんだからね」
 愛する人の存在があるということはいいことなのだが、別離が訪れたらその全てがなくなってしまう。だがら僕は資格とかそういう社会で認められるものが欲しい。もちろん、愛がいてそれプラス資格が欲しいなどと言ってしまうのは贅沢と言うものだ。でも仕事が安定しないと愛と暮らすことは不可能である。
「わあ、軽ーい」
 香織はおもかる石を軽々と持ち上げていた。
「ねえねえ、昇君もやってみて」
 愛と一緒になりたい、一緒に住みたい、一緒の人生を過ごしたい。そう願って僕はおもかる石を持ち上げた。

 ――すごく、重たかった。

「ねえねえ、どうだった」
「うん、普通」
「ということは努力次第で何とでもなるってことね。頑張ってね応援してるよ」
 長い引きこもり生活と入院とで腕力が落ちているのだろう。自分を納得させる理由はそれしかなかった。
「何でも相談してね。私には看護の知識があるから、いろんなこと答えられるよ。私こう見えても勉強できるんだから」
 すぐそばにいるのに、香織の声が霞んで聞こえた。そのかわり両手が痺れる感覚が僕の意識の全てを支配していた。細身の香織が軽々と持ち上げた、おもかる石が重いなんて。
 迷信だ。
 僕は愛と過ごした金沢の思い出を胸の中からひっぱりだして、あの時の温もりを取り戻すために香織の知識を借りようと決心した。

   24

 帰り道、鳥居をくぐりながら下る道、僕はありったけの疑問を香織にぶつけた。
「どんなに頑張っても一生治らないの? 治った人もいるって聞くけど」
「昇君の病気は慢性疾患だから完治するってことはないの。ただ前にも言ったように、服薬さえしっかりとしていれば社会復帰できる病気なのよ。それを寛解っていうの」
「じゃあ、寛解すれば問題はないの」
「まあ、再発の可能性はどこまでもついて回るけど、無理をせず、服薬をしっかりしていれば今の社会で働けるよ」
 働けるのはいいのだが、再発の可能性がずっとついて回るというのがあまりにも恐ろしい事実だった。
「もう絶対に再発はしないって状態にはもっていけないの?」
 香織は静かに首を横に振った。
「いつまでも再発の心配をしないといけない?」
「そうね」
 僕の頭の中は闇に包まれた。
「でもね、昇君の病気には個人差がかなりあって、重い人は病院から一生出られないこともあるのよ。再発もしやすい人とそうでない人がいるの。昇君がどっちなのかは私にはわからないけれど、本当に状態が重い人はまず働こうなんて気にならないかも。障害年金と生活保護をもらって生きていくことになるかしら。それが良いとか悪いとかじゃなくて、その人にあったライフスタイルが送れたらそれでいいんじゃないのかな」
 僕は少し違和感を感じた。看護師の卵とはいえ、なんでこんなに僕の病気に詳しいんだ。
「すごく勉強されているんですね」
 香織がハッとなったのがわかった。なぜか顔を赤らめる。
「昇君の力になってあげたいって思っていろいろ調べたの。なんかちょっと恥ずかしいかも」
 香織の顔がどんどん赤くなっていく。僕は自分が何か悪いことを言ったのではないかと、自分の吐いた言葉を思い返してみたが心当たりが見当たらない。
「昇君は悪くないのよ。こんなになっちゃってごめんね」
 と首の付け根まで真っ赤にしていた。僕には今くぐっている鳥居の朱色より香織の顔と首の方が赤く見えた。その状況を打破するかのように香織は切り出す。
「あのねっ、すっごく余計なお世話かもしれないけど、こんなこと言っちゃうと深刻になるかもしれないけど、知識として知っておいて欲しいことがあるの」
「う、うん」
 まあたいしたことではないと僕は高をくくっていた。
「昇君は愛ちゃんと真剣に将来のことを考えているのよね?」
「もちろん」
「結婚して子ども作って平穏な家庭を作ろうとしているのよね」
「うーん、まだそこまで将来が見えてないけど」
「見えてないけど?」
「今は会うことすら叶わない状態だから先のことは見えないけど、一緒に暮らしたいって思ってる」
「それで結婚はするの?」
「それは愛の気持ちの問題もあるからここでは答えられないけど僕は愛と結婚したいと思っているよ」
「子どもは欲しいの?」
「正直、僕はいらないと思ってる」
「愛ちゃんは欲しいって思ってるんじゃない?」
「……うん」
 ここで僕と香織の会話が途切れた。なぜか香織が深呼吸している。
「昇君に話したいことはね、実は子どものことなの」
「子ども?」
「そう」
「どういうこと?」
 香織は唇をぎゅっと噛みしめて、力強い視線で僕を見つめる。
「覚悟を決めて聞いてね」
「僕は別に子どもなんてどうでもいいから、覚悟も何もないよ」
「でも愛ちゃんは子ども欲しいと思うよ」
「だから何。早く言って」
「じゃあ言うよ。昇君と愛ちゃんの病気はね、遺伝の影響があるの。それは絶対って訳じゃないんだけど、統計が出てるの」
「それがどうしたの?」
「両親がふたりとも昇君と同じ病気だとして、生まれてくる子どもが同じ病気になる可能性は50%なの」
「ふーん。それで何なの?」
「だからね、もし昇君と愛ちゃんが結婚して子どもができたとしても産まれてくる子どもが50%の確率で病気を持って産まれてくるの」
「そんなの別に関係ないやん」
「それでね、もし片親が昇君と同じ病気で、もうひとりが健常者だとしたら、病気で産まれてくる可能性は10%まで落ちるの」
「へえ」
「それでね、両親が健常者だとしても1%は昇君と同じ病気で産まれてくるの。まあ統計学なんだけどね」
「そうなんだ」
「きっと愛ちゃんにとっては大問題よ」
 そんなものかな、でも50%の確率で病気の子どもが産まれてくるとわかってて子どもを作る気にはならないのは確かだ。僕は子どもが欲しいなんて思ったことがないから別にどうだっていいけど。
 そして伏見稲荷の駅で僕たちは別れた。先に香織が京都方面への電車に乗る。残された僕は朱色に染められた駅の柱を眺めながら愛のことを思った。
 とにかく愛に会いたい。

   25
 
 それから何事もなく一ヶ月がたった。愛と会えることもなかったし、香織と会うこともなかった。
 吉報は突然やってきた。
 愛の母親から僕に「愛があなたに会いたいといってるから会ってやってください」と電話があった。僕は嬉しさのあまり飛び跳ねた。「六月二十三日午前十一時に三室戸寺に来てください」と伝えられる。三日後のことだったが、その日が待ちきれなかった。
 香織に愛と会えることをメールで伝えたら「愛ちゃんの見た目が変わっていても、しっかり受け止めてあげるのよ」と諭される。

 六月の三室戸寺は混雑している。三室戸寺は紫陽花が有名なので梅雨時は観光客で賑わっているのだ。
 どこに愛がいるのか最初わからなかった。時計の針は十一時五分を指している。もしかして中にいるのか、僕はチケットを買って中に入る。ちょうど見頃のようで艶やかな紫色や青色の花びらが華やかな集まりとなって僕たちを魅了する。
 それしてもすごい人だ。どこに愛がいるっていうのだろう。
「ハート型の紫陽花があるんだって」
 どこからともなく女の人の声が聞こえた。これは愛の声だ。
「どこにいるんだ、愛」
「うしろ向いてみて」
 僕は慌てて後ろを向いた。そこにはスレンダーになった愛がいた。ちょっと照れくさそうである。
「おはよう。あれからね私、昇と会うために頑張ったんだよ。ダイエットもしたよ」
 以前の愛に戻ったというより、新しい愛の誕生である。あれだけ荒れていた肌はつやつやになり、たるみきっていた腹は見事にへこんでいた。
「ここに咲いている紫陽花より愛の方が綺麗だよ」
 なんてキザなセリフを吐いてしまったのだろう。だがその言葉に嘘偽りはなかった。見た目で惑わされてしまう自分が情けなかったが、男とはこういうものなのだろうかと、悲しい気持ちにもなった。でも嬉しいのはそんな僕の気持ちをくみ取って、愛が綺麗になってくれたことだ。その気持ちが一番嬉しい。
「ねえ、昇もハート探してよ!」
 愛は自信にあふれていた。
「愛、すごく元気になったね。本当に良かった。でさ、お母さんとは一緒じゃないの?」
「お母さんは先に帰ったよ」
「そうなんだ」
 僕は信頼されているのであろうか。
「ハートの紫陽花を見つけられなかったのが残念そうだったけどね。『昇君と見つけておいで』っていってはったよ」
 お母さんが僕たちのことを認めてくれている。その事実に僕の喜びが倍増する。
 ふと視線を左に流す。
「ねえ、そこにあるのってハートなんじゃない?」
「えっ、あんなに探してもなかったのに、昇ったらすぐに見つけちゃうんだからっ」
「ごめんごめん」
「私たちの間にハートマーク、だね」
「うんうん、そだね」
「写真とってもらおうよ」
 写真を撮ってもらうなんていつ以来ぶりなのだろう。僕はたじろぎながらも愛と一緒にピースサインをしながら、携帯の画面に収まった。
 
 三室戸寺の紫陽花を堪能した後、僕たちは誰もいない公園でブランコに揺られていた。影は長く、西日は赤く眩しい。低空にある雲が高速で夕日の前を横切っていく。僕はその様子を目で追っていて、ふと愛の方を見ると愛も同じように流れゆく雲を眺めていた。高速で動いていた雲が大きな雲の塊に吸収されていく。さっきまで高速で移動していた雲がまるで初めからなかったみたいに思えた。
「私ね、小さい頃、フルート吹くの嫌いだったんだ」
 以外だ、という顔を僕がすると、それを予想してたかのように愛は同じトーンで続ける。
「親のエゴなの。親は私にフルートを習わせたかった。だから私は期待に応えて吹いてただけ。いい子にしてただけ。だからずっと苦しかった。フルートなんて吹きたくなかった。でも吹けない今の方がずっとずっと苦しい。苦しいの」
 突然ダムが崩壊したかのような言い草に、慌ててフォローの言葉を頭の中の引き出しから探し出す。
 親を許せない自分を責めないでね。
 また吹けるようになるさ。
 今が思い通りにいかないかもしれないけどめげるなよ。
 いろいろ思いついたが僕の口から出てきた言葉は全然違っていた。
「病気だから仕方ないよ」
 愛は首をこくりと縦に振った。
「この病気は人生の全てを奪ってしまう。ただ生きるということがものすごく難しいものになってしまう」
「親の教育が悪かったからこんな病気になったんよ」
「それは違うよ。育った環境とかそんなの関係ないんだ。親を恨む気持ちはわかるけど」
「私は親のせいだと思う」
「僕もそう思ったことあったけど、病気になったことを一番気に病んでいるのは親だと思うんだよね。自分の育て方が悪かったとか思い悩んで苦しんでいるんだよ。そんな親をこれ以上責めるのはあまりにも可愛そうじゃない?」
 愛は僕の質問に答えない。愛の沈黙が重たかった。愛はブランコを下りて滑り台の方へとぼとぼと歩んだ。愛が乗っていたブランコが一定のテンポで金属の摩擦音を発している。
 キーコ、キーコ、キー……コ。カー、カー、カー。
 止まってしまったブランコの音を繋ぐかのようにカラスの鳴き声が耳に入ってきた。まるで僕が沈黙に耐えられないことを世界が知っていて、わざと何らかの音を発生させているみたいだ。
 ぽつんと水滴が空から落ちてきた。僕は目を瞑って昼間の紫陽花を思い浮かべた。そして紫陽花の葉に水滴が落ちる風景を想像してみた。
 頭の中にスローモーションの映像が浮かぶ。
 一滴の雨水が紫陽花の葉の上で弾く。清らかな水の跳ねる音が脳の中に響く。その瞬間僕ははっとした。
 ――病気も僕の一部だ。だから病気と共に生きていくしかない。病気だけを切り離して考えるからうまくいかないんだ。
 僕は今悟りを開いたような気分だった。このことをいち早く愛に伝えたかった。
「全てを病気のせいにしてしまってもいい。でも病気になったことも含めて僕たちの人生なんだよ。それを好きで選んだ訳でなくても、僕たちは一生病気と共に生きていくんだよ」
 滑り台を下から見上げながら愛は冷静に反応した。
「私は病気になんてなりたくなかったし、病気を治したいよ。病気なんだから治るんでしょ」
「治らないって言ってた」
「誰が?」
「知り合いの看護学生が言っていた」
 愛はすっと振り向いた。
「治らないなら何を希望に生きていったらいいの」
「寛解を目指すのが一番いいみたい」
「カンカイって?」
「服薬をしながらではあるが健常者と同じ生活ができる状態ってこと」
「そうなんだ。希望はあるのね」
「あるさ」
「私、自分のフルートを吹こうとすると発症したときのことを思い出すの。だから怖くて吹けない。他の楽器なら大丈夫なんだけど、私やっぱりフルート吹きたいの。寛解したらフルート吹けるようになるかな」
「そうだね。きっと吹けるようになるよ。なんなら神様にお願いしてこようか」
「神頼みかあ。でもこの病気はよくわからないし神頼みが一番いいかも」
「ほんとに」
「平等院にお参りしたい」
「でもお金がないよ」
「大丈夫。私手帳あるし」
 何の手帳? と聞きそうになって言葉を飲み込んだ。障害者手帳のことだとわかったからだ。手帳があると割引がある。時には拝観料が無料になることがあると香織から聞いていた。
「わかった。明日行こう」
 僕は愛を家まで送ってお母さんに頭を下げて家路に着いた。
 
   26

 平等院はこの日、静かだった。
 てっきり修学旅行生で賑わっていると思っていた僕は肩すかしを食らった。厳かな空気が静かに広がっている。
 平等院は十円玉に描かれているだけあって湖面に映る姿が美しかった。僕たちはシンメトリーになっていないところを指摘しあって、間違い探しをして楽しんでいた。
 内部は鮮やかな色彩に彩られている。数百年前の貴族たちが過ごした空間に迷い込んだかのような錯覚に陥った。
 本堂にある大きな仏道に病気が良くなりますようにと力強く願いを込めて祈る。病気が良くなりますように。病気が良くなりますように。病気が良くなりますように。
「こんなに素敵なところだったんだね。近いからいつでも行けると思ってて今まで行けてなかったよ。次は本堂から池を眺めたいな」
 愛は昨日より明るかった。
「私ね、病気だけど前向きに生きていく。前進あるのみ、やね」
 少し元気になった愛を見てぼっとする。
「病気に囚われないのがいいかもしれない。病気と戦うのではなくて、戦わないのがいい。お友達になるのがベストかなって最近思うよ」
「気狂いとお友達になるのは嫌よ」
「僕たちに選択の余地はない。ただそこにあるものを受け入れるだけなんだ」
「もう仏の領域やね」
「悟るしかないんだよ」
 愛は池の方へ身を乗り出して覗いている。
「ここ、はまったらおぼれちゃうかな」
 気まぐれな発言は元気になっている証拠かなと考えつつ返事を考える。でも僕が考えている間に愛の興味は別の物に移った。
「あの鐘鳴らしたいな。あの鐘を鳴らすのはあなたーなんて」
「随分機嫌いいじゃない」
「自分じゃコントロールできないの。ハイになったり、逆に気持ちが沈んじゃったり。これも病気の症状だとしたら、そんな自分と仲良くしなきゃね」
「そうそう、その調子」
「私ね、自分の人生全うしたいの」
「どゆこと?」
 愛は鐘と池を交互に見ながら僕の質問に答えた。
「ちゃんと昇と結婚して、子どもを産んで育てたいな」
 子どもの話になると僕の気持ちが沈んでしまう。僕にとって重い話だった。
「元気な赤ちゃん産んで育てるの。それが私の夢」
 元気な赤ちゃん……。香織が言っていたことを思い出す。この病気の者同士の子どもは五十%の確率で同じ病気になるということを。それを愛に言ってもいいものだろうか。言うと子どもをあきらめてくれるだろうか。
「ひとりでいい。私と血が繋がった子どもが欲しいの」
 愛は子どもの話になると引かないから困る。それでもなんとかなだめるしかない。
「子どもなんて無理だよ。経済的にも」
「お金なんて何とかなるわよ。補助金とかも出るんだからね」
「そんなお金、貰えないよ。子どもを産んで育てるのって社会に対する責任があるんだよ」
「そんなことわかってるわよ。私どんなリスクがあっても子どもを産むことを諦めない。絶対に、絶対に」
「現実的に無理なものは無理だよ」
「どうして無理って決めつけるの」
 香織から聞いた話を言っていいものか。それで愛が納得してくれるとは到底思えなかった。それでも言わずにはいられなかった。
「健康な子どもが産まれてくるとは限らないじゃないか」
「それ、どういう意味で言ってるの」
「だから心身に障害がある子が産まれてくる可能性だってあるじゃないかって話だよ」
「何でそんなこと急に言い出すの。何か根拠でもあるの」
 僕は香織に聞いた話を話さなければこの場が収まらないと思った。だからオブラートに包んで話すことにした。
「僕たちは病気なんだよ。遺伝で子どもが病気になることだってあるんじゃないかな」
 平等院鳳凰堂が静まりかえった。
「根拠はあるの」
 僕は嘘を吐くことができないのだとこの時に思った。
「この病気の者同士の間に、この病気の子どもが産まれる確率は、五十%なんだ。健常者とこの病気の人となら十%、健常者同士でも一%この病気の人間が産まれる」
 愛は小さいが、はっきりとしたしゃっくりをした。厳密には呼吸の乱れが激しすぎてしゃっくりをしたように聞こえただけだったのかもしれない。目をひんむいて足元はおぼつかない。ショックを受けているのは明らかだった。
「そんな確率で病気の子どもが産まれるなら、私、昇の子ども産めないじゃない」
「だから子どもは諦めてほしい」
「嫌よ!」
「じゃあどうするってのさ。こればっかりはどうしょうもないよ」
「子どもを産めないなんて絶対に嫌!」
「大きな声出さないで」
「嫌ったら嫌! 絶対嫌!」
 静寂を切り裂く愛の泣き声が切なかった。こんなときどんな慰めの言葉をかければいいのだろう。現実を現実として突きつけることの残酷さを、愛を傷つけてから初めて知った。取り返しのつかないことをしたと思ったが、この問題が僕と愛の関係において本当に取り返しのつかないことになるとはこのときは微塵も感じていなかった。

   27

 それから愛は会っても僕と打ち解けようとしなかった。どこかよそよそしく、心ここにあらずという感じで何を話していていつも上の空だった。
 子どもの話は一切出なかった。愛が意識しているのが鈍感な僕にでもわかった。心が通わないことは、引き離されることよりずっと辛かった。
 そのうち愛を誘っても、誘いに乗ってこなくなった。僕と会ってくれないのだ。こんなことは今まで一度もなかったからどう修復していいのかわからなかった。愛の心が僕の方を向いていないことが信じられなかった。
「子どものことがショックだったのね。少しそっとして見守ってあげるってのも愛情じゃない」
 伏見桃山駅の近くにあるガード下のラーメン屋で香織に相談に乗ってもらっていた。
「僕は子どもが欲しいなんて思ったことがないんだ」
「あ、私も」
「そういう考え方の女の人もいるんだね」
「今時いっぱいいるよ。キャリアの邪魔になるだけじゃない。でも結婚はしたいな」
 愛と香織の考え方の違いに、ついていけない。
「キャリアって?」
「仕事に響くってことよ。私が循環器の認定看護師になりたいのは知ってるよね。子どもを産むってことはそれだけ仕事を休まなければならないじゃない。それって困るから」
「精神科は?」
「興味はあるけどね。私はねおばあちゃんを心臓の病気で亡くしたの。だから同じ病気の人たちを救いたいと思って。でも自分に勤まるかどうか」
「仕事は大変だもんね」
「私はまだ学生だけどね。歳はいっちゃってるけど」
「香織さんっていくつだっけ」
「三十ニよ。ってか失礼よ、女性に年齢聞くのは。特に私みたいな年増には」
「年増なんてとんでもない。香織さん年上だったんだ。見えないからびっくりした」
「お世辞言ったってラーメン奢らないんだからね」
「そんなつもりはないよ。話聞いてもらってるんだし僕が出すよ」
「昇君、働いてないのに?」
「……少しおこづかいもらってるから」
「だめよ、ちゃんと昇君が働いて得たお金じゃないと出してもらうわけにはいかないわ。私の方がお姉さんだし、私が出しておくね」
「いや、そんな悪いよ」
「いーの。昇くんは今いろいろと大変なんだからこれくらいのサポートはさせてね。昇君の作戦、大成功だねっ」
 自分より三つ年上の女性というのは落ち着きというか、絶対にかなわないという絶対的敗北感を感じさせる。それが心地よくて精神的にも経済的にも不安定な今の自分にとってとても助かっていた。
 ラーメンを奢ってもらったことを悪いなと思って歩いているとすぐに駅に着いた。
 僕は電子切符ですっと桃山御陵前の駅の改札を通過した。
「今日はありがとう、話聞いてもらって楽になったよ」
 香織は顎に指を添えて「50%は健康な子が産まれてくるんだけどね」と切ない笑顔を浮かべた。
 僕は香織のプラス思考に感心した。愛は50%の闇の方、香織は光の方を見ている。生き方のスタンスの違いを痛く感じた。もちろん、子どもが欲しいと思ってリスクがあることを知るとマイナスの要因を排除したい気持ちは分かる。でも病気だったとしても生きていけるんだ。もし闇が訪れても、光はあるんだ。
 どうして愛は僕を避けるんだ。悲しすぎて涙すら出てこなかった。
 愛のことを考えるのは辛かった。愛の意志で会ってくれない現実が辛くて辛くて日々を耐えることができない。ただ幾度となく困難を乗り越えてきた僕たちであったから、心の底ではなんとかなると思っていた。
 梅雨が明けた日、街中で偶然愛の姿を見つけた。そして目を疑った。
 愛は僕の知らない男の人と仲良さそうに歩いていた、
 僕は視線を大きく逸らし、身体が自然と愛に見つからないように道の陰に動いた。物陰から愛の方を見つめる。愛はずっと一緒にいる男の方を見つめていた。こちらに気づく気配すらない。
 横にいる奴は誰なんだ!
 激しい怒りが腹の底から沸き上がってくる。脳天が熱せられて頭がくらくらする。それでも愛の前に出る勇気は湧かなかった。愛の笑顔が悲しかった。こんな愛の笑顔を久しく見ていない。どうして……
 僕は気配を消して愛が立ち去るのをじっと見ていた。
 雪山で遭難したかのように、今どうしたらいいのかわからなかった。人は流れて次々に知らない人の顔が通っていく。なぜこの無数の個体の中から愛を見つけだしてしまったのだろう。愛を見つけてしまった自分に罪の意識を感じてしまう。そうすることによってしか現状を受け止められなかった。
 梅雨が明けたはずなのに雨が降ってくる。
 僕の涙雨というには悲しすぎるほど、冷たい雨だった。

   28

 街中で知らない男と歩いている愛を見てから三ヶ月が過ぎた。僕はストーカーと思われない程度に電話をかけて愛を誘う。愛はただの一度も会ってくれなかった。
「それってすでにストーカーなんじゃない?」
 香織は無神経に僕の行動をなじる。
「でも電話しないことには会うこともできないし」
「ここでお参りしときなよ。確か安産の神様かなんかだよ」
 と御香宮の本殿前で手を合わせる。
「安産か」
 愛の赤ちゃんに対する思いを改めて思う。
「十月だから、来週は御香宮のお祭りだね」
「そうなんだ。お祭りがあるんだね」
「えー、知らなかったの? 信じられなーい」
「宇治と伏見ってちょっと離れてるから」
「めっちゃ近いしー」
「そやけどー」
「ほんま地元民なん?」
「だから宇治市民なんだって。伏見区民じゃないんだって」
「宇治伏見ウォーカーってのもあるぐらいだし、そんなに違わないわよ」
「香織さんは宇治のこと知ってるの?」
「県祭りに花火大会、くらいは知ってるよ」
「宇治の全てを知っているんだね」
「昇君の全ても知ってるわよ」
 思わずふたりで吹き出してしまった。
「僕の何を知っているんだよー」
「だ・か・ら・全・て・よっ」
「全然知らないってー」
「昇君冷たいんだからっ」
 ポンと背中を叩かれる。僕は可笑しくて笑いが止まらなくなっていた。その場にうずくまって腹を抱える。
「なーんでなんよー」
 と香織も笑い転げながら僕に覆い被さってきた。
「重いって」
「自分で言うのもなんだけど、私スタイルいいんだからねーしーつーれー」
「マジ重いって」
「マジムカつくって」
 香織の胸の膨らみが僕の頭部を柔らかく刺激する。重いっていったのは照れ隠しというか、恥ずかしくて早くどいてほしくて言っていた。
「昇君勃起してるんじゃない?」
 図星で恥ずかしくて赤くなるしかなかった。香織は世に言う美人という存在であり、密着する前からそうなっていたかもしれない。
「愛ちゃんのこと、忘れてみる?」
 そう言われてはっとした。香織とのやりとりが楽しくて一時の間、愛のことを忘れていた。一番ショックだったのは愛のことを忘れている時間がすごく楽しかったという事実だ。最近は愛のことを考えるだけで気が滅入っていた。少し愛のことばかり考えることから離れてみようと思った。香織もそういう提案をしたのだとその時の僕は思っていた。
「ちょっと忘れてみようかな」
 さっきまでふざけていた香織が真面目な顔になった。その表情を見ても鈍感な僕は香織の真意をくみ取れなかった。
「私を知ってみる?」
 香織を知る? ぴんとこなかった。香織さんは看護学生で循環器の認定看護師を目指している。すでに知っているではないか。呆然としてると香織の表情がほころんだ。
「冗談よ。あなたって本当にうぶね」
 それでも僕には香織の真意がわからなかった。あほ以外の何者でもなかった。
「昇君ってそーゆーとこ可愛いんだから」
 きっと心の奥底では香織が誘っていることをわかっていたのだろう。でもそのことに気づくことが怖かった。愛との関係、香織との関係、そのどちらもが崩れてしまうのではないかという底知れぬ恐怖が根底にあった。愛との関係の修復が僕の望むものなはずなのに、香織と会わずにはいられなかった。誰もいない森の中にひとり置き去りにされたような淋しさがまとわりついて離れない。それを癒してくれる唯一の存在が香織だった。愛が会ってくれない今、僕は香織を必要としていた。その事実に気づこうとしなかった。いや、気づくのが怖かった。

 祭りの夜。
 おみこしが香織の横顔の彼方からやってくる。今僕の隣にいてくれるのは、愛ではなく香織だった。一週間という期間で僕は自分の気持ちを見つめることができるようになっていた。これ以上香織と仲良くなることが良くないことは明白で、このまま香織と会い続けたら愛にも香織にも失礼であることはわかっている。いや、きっと心の底ではわかっていないのだ。
「おみこし見る振りをして私の顔のぞきこんでるでしょ」
 それが図星なのかどうかわからなかったが言われてみれば香織の目や頬、唇ばかりに目がいっていたかもしれない。
「昇君ってむっつりスケベね」
 夜ということもあり、下心がめらめらと燃えたぎってくるのがわかった。愛のことを忘れたわけではなかったが、今自分の横にいてくれる香織がいとおしくて仕方なかった。そして僕は濡れた犬が身を震わせるように頭を振った。
「僕は愛のことが好きだ。それなのに香織さんに欲情している。そんな自分を受け入れられないでいる。僕おかしいんだ。愛がいるのに香織さんと会ってること自体がおかしいんだ」
 おみこしが笛や太鼓の音と共に近づいてくる。
「愛ちゃん会ってくれないんでしょ」
「うん」
「それってもう終わってるんじゃない?」
「そんなこと……ないよ」
「愛ちゃんはもう他の男の人がいるんでしょ」
 香織には愛が知らない男と並んで歩いていたことも話していた。
「その人は健常者やと思うわ」
 目の前までおみこしがやってきた。笛と太鼓の音で香織の声があまり聞こえない。
「病気の者同士結婚しても共倒れになるだけよ。それならそれぞれ健常者のパートナーを探すべきよ」
 笛や太鼓の音で聞こえにくいはずの香織の言葉が強く胸に刺さる。おみこしが通り過ぎていくと高揚した気持ちも収まっていくように思えた。
「香織さんにはお世話になってる。でも愛のことを忘れることなんてできないよ」
 香織はげんこつを作ってパンチをするように見せかけてそっと僕の頬にげんこつを当てる。
「ねえ、金魚すくいしたい。付き合って」
 香織のげんこつが少しずつ頬にめり込んでくる。
「断っても無駄なんでしょ」
「付き合ってくれるくせに」
 僕の唇がタコの口になる。香織がげんこつをより強く頬に押し当ててくるからだ。僕は香織のげんこつをはらって、平静を装って答える。
「看護学校が忙しくて金魚の世話なんてできないんじゃない? やめときなよ」
 子どもの大群が騒ぎながら僕たちの脇を走り抜けていく。子どもに注意を奪われていると、体が何かに締め付けられる感覚があった。香織が僕を抱きしめたのだ。僕は抵抗しなかった。
「金魚すくい、してもいい?」
 耳元で囁かれる吐息は、セックスを連想させるに十分な刺激であった。
「駄目だよ。僕だって男なんだ。香織さんみたいな素敵な人に言い寄られたら断れないよ」
「金魚すくいが駄目なの?」
「だから金魚すくいはいいんだって」
「今駄目って言ったやん」
「だから香織さんが誘惑するのが駄目なんだって、もう駄目なんだって」
「勃起してるんじゃない?」
「もう! 僕をからかわないで!」
 僕は香織を突き放した。
 香織は膝から崩れ落ちるように地面に倒れた。
「だ、大丈夫ぅ?」
 僕は焦った。女の人を転ばせたのだから、悪いのは僕である。
 香織は黙ったまま立ち上がって僕の方を見た。
 そしてげんこつを作って怖い顔をした。
「私、怒っているように見える?」
「本当にごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんだ」
 げんこつで殴られるのかと思った。でも違った。
「あなたのそういうとこに惹かれるの。うぶで不器用でそれでいてちゃっかり女好きなとこが好き。病気のあなたを守ってあげたい。自然とそう思えるの」
「僕は愛が好きなんだよ」
「今は愛ちゃんのこと想ってくれててもいいの。いーい? 人生を長い目で見てみて。あなたは病人なんだよ。それを守れるのは健常者だよ。病人と病人がくっついても不幸になるだけよ」
「なに? 病人と病人は共に生きたら駄目って言ってるの? それって酷くない? そういうのって差別だよね」
「そういうつもりで言っているのではないの。現実問題としてすごく大変ってことを言ってるの」
「病気を持っている者同士で共に生きている人もいっぱいいるよ」
「生活保護と障害年金を貰って、でしょ」
 僕の動きが止まった。止まらざるを得なかった。僕は社会の負担になりたくない。確かに愛と共に生きるには絶対的に生活費が足らなかった。僕にとって生活保護と障害年金を貰う行為は社会の負担になることとしか映らなかった。
「愛ちゃんのこと本当に考えてるなら、忘れてあげるのが一番よ。ちなみに私のことは気にしないで。なんだかお祭りの雰囲気に飲まれたみたいだから」
 僕は愛が幸せになるために身を引くという選択肢があることを今になってわかった。でもすぐには受け入れられなかった。
「まずは愛ちゃんと話し合うことね」
「電話しても出てくれないんだ」
「嫌われているのかもね」
「そんなこと言われたら傷つくよ」
「私だって傷ついてるよ。昇君が傷つけたのよ」
 香織といると楽しいというのは事実だ。そして僕がその気になれば恋人になれるという手応えもある。でも愛のことを忘れることなど到底できなかった。
「昇君が私に惹かれてるのは、単に私がセクシーだってことだけだからね」
「自分で自分のことセクシーって言うか」
「じゃあなんで勃起してるの?」
「だから立ってないって」
 愛のことを好きでいながら、こうして香織と楽しく時間を過ごしてしまう自分がものすごく悪い人間のように思えた。淋しさを紛らわすことは罪なのだろうか。
「抱いてみる?」
「またそんなこと言って」
「あそこにある熊のぬいぐるみをね」
 なんだかおちょくられ過ぎて感覚がおかしくなっている。
「ちょっと休んでくる」
 屋台の隙間をぬって石段まで辿り着き、そこへ腰を下ろした。遠くで金魚すくいを楽しんでいる香織を見ながら僕は考えた。
 もし香織が恋人なら――
 可能性が一気に広がる気がした。
「出目金掬っちゃった」
 黒い出目金が一匹、赤い金魚が二匹、合計三匹が袋の水の中で泳いでいる。
「私水槽の使い方わっかんないなー。どうしよう」
「僕がやってあげようか」
「お願い!」
 夜の闇が深まる中、僕は香織の家に向かった。

   29

「大丈夫、襲ったりしないから」
 水槽をセットしたらすぐに帰ろう。あまり長居をすると変な気を起こしてしまう。僕は愛のことが好きだ。だけど香織にはお世話になってるし、これくらいしてあげても罰は当たらない。
「って何で私が襲う側なのよっ」
 香織は金魚を眺めならスキップしていた。
「危ないよ」
 僕の言うことお構いなしに香織は飛び跳ねながら香織の家のあるという方角に向かっている。
「この上が私の家。水槽セットしてね」
「了解」
「ねえ、昇君。賭をしない?」
「賭って」
「もし昇君が私を襲ったら私と付き合う。私を襲わなかったら」
「襲わなかったら?」
 鈴虫の音だけが静寂を阻んだ。
「私ともう会わないで」
 鈴虫の音が止まった。無音の闇が重くのしかかった。
「そんな……」
「とか言っちゃって」
「水槽セットしたらすぐに帰るよ」
「うん、わかった」
 オートロックの扉をくぐり抜け、広いエレベーターに乗って香織の部屋の前に辿り着いた。
 パタンと重厚な扉が閉まる。
「電気電気ー」
 部屋の闇が僕を狂わせようとする。もしここで香織を押し倒したら香織が自分の物になることに興奮を覚えた。それを自制するのが愛への気持ちだった。早く水槽をセットして出なければ香織を襲ってしまうかもしれない。
「水槽ってどこにあるの?」
「まだ電気も付けてないのにー焦りすぎだよ」
 香織が電気のスイッチを探り当てる気配はなかった。
「電気ってここじゃないの?」
 玄関のすぐ近くにあったスイッチを入れると周りが明るくなった。香織はとぼけた表情で笑っている。
「水槽は向こうの部屋の押入に入ってるんじゃないかしら」
「じゃあ取ってくるね」
 部屋を開けると、その部屋は寝室だった。香織ひとり寝るには広すぎるベッドだった。僕は押入を開ける。そこには女性用の下着が綺麗に整理整頓されておかれていた。
「本当に水槽がここにあるの?」
 下着を見ないように探すから、何も見えない。
「もっと奥の方にあるの。前にある物全部出さないと取り出せないわ」
「え、これ僕が触っていいの?」
「別にいいよ。私と昇君の仲だし」
「駄目、無理。香織さんが奥から水槽出してよ」
「もうっ、役立たずなんだからっ」
「そんな言い方ないよ。僕だって頑張っているんだよ」
「じゃあ一緒に取り出そう」
 香織が僕の隣に来る。ベッドが大きすぎるせいか、部屋の空間があまりなかった。
「昇君は上で見てるといいよ」
 上と言われて捜し当てた先は、ベッドの上だった。空間がないから僕は仕方なく移動した。
 ふとんの柔らかい感触が僕の心の何かを刺激する。僕は香織の方を見ようとしたが、得体の知れない興奮が襲ってきそうであさっての方向を眺めていた。
 香織の立てる音に意識を集中した。しかし音はすぐにしなくなる。香織に何かあったのかと思い、香織の方を向くと、僕の目の前に香織の顔があった。平然とした表情だった。
「す、水槽見つからないの?」
「ええ、見つからないわ」
「見れていない箇所とか、死角になっているところとかない? それにここにしまったのじゃないのかもしれないよ」
「ないの」
 まじまじと僕の瞳孔を見つめる香織が艶っぽい。ベッドの上で男と女が見つめ合って、それでどうにかならないなんておかしい。でもどうにかなってしまうと困ってしまう。
「ちちちち違うところにあるんじゃないのの?」
 しどろもどろになる僕の口調とは裏腹に、香織の口調は輪郭がしっかりとしていた。
「だからないの」
 香織が片足を僕の方へ進める。一歩距離が縮まるだけで香織から伝わってくる色気が二倍になる。もう唇を突き出したらキスができてしまうのではないかと言うほど至近距離に香織は迫ってきていた。
「ちがちが違う押入にも?」
「水槽なんて始めからないの」
 平静を装った表情をたもったまま、香織は言い放った。
「どゆこと?」
「私、昇君を騙して部屋に誘い込んだの」
 僕の思考回路が停止する。僕は騙されたのだ。なのにどうしてこんなに心地がいいのだろう。
「金魚どうするの?」
「看護学校の友達にいっぱい金魚飼ってる子がいて、その子にあげる」
 数ミリ香織がにじり寄ってきた。僕は騙されたのだろうか? 騙された振りをして香織と近づきたかったのではなかろうか。そう思えるほど今の僕は香織を欲していた。愛のことが好きだ。でも香織に言い寄られて悪い気分はしない。
「ねえ、昇君。キスしようよ」
 香織の表情は変わらない。僕は誘惑されることを心地よく感じる。
「だ……めだよ」
 かろうじて僕の口が香織を拒む言葉を発した。
「じゃあ、セックスしようよ」
 熱せられたトーストにバターが溶けるように、僕の魂が香織の誘惑の熱に溶かされてゆく。
 香織とセックスしてもいいじゃないか。愛とはもう何ヶ月も会っていないし、連絡すら取れない。僕が香織とセックスしても何も問題ないじゃないか。いいじゃないか、こんないい女とセックスできる機会なんてもう一生訪れないかもしれない。これはチャンスなんだ。男としての生殖機能が正常に働いているだけなんだ。やってしまえばすっとするのだ。セックスすることは悪いことではない。欲望に負けてしまって後から後悔してしまったとしても香織とやれるんならいいじゃないか。それにここまで迫られて断るのも香織に悪いし、失礼に当たる。

 それでも――

「僕には愛がいるんだ」
 え? と香織が目を大きく開けて驚く。
「僕には愛がいるんだ!」
 香織が僕を押し倒す。そしてキスをしようとする。僕は必死で香織の唇を避ける。
「僕には愛がいるんだ!」
「愛ちゃんはもうあなたの方を向いていないのよ」
 香織は押し倒した状態をキープしながら話しかけてくる。
「僕には! 愛が! いるんだ!」
 僕は香織に見つめられながらも必死で反発する。
「私には昇君しかいない」
「僕には愛しかいない」
「私が愛ちゃんのこと忘れさせてあげるね」
「愛と一緒になりたいんだ」
「そういう一途なところが好きなの」
「愛を愛している」
「愛ちゃんはもう戻ってこないわ」
「愛は戻ってくる」
「愛ちゃんは他の男の人とセックスをしてるのよ」
「そんなの! わかんないじゃないか!」
「昇君も次の人探すべきだわ」
「例え愛が他の男とセックスしていたとしても僕は愛を許す」
「じゃあ、昇君が私とセックスしても愛ちゃんは許してくれるんじゃない」
「自分自身が許せないよ」
「昇君、水槽なんてないの薄々気がついていながら私の家に来たのに」
「だからそんな自分が許せない」
「セックスしたら全て忘れられるよ」
「僕は絶対しない!」
「立たないの?」
 すっと香織の右手が僕の股間をつかむ。
「ふふ、すごく立ってるじゃない」
 勃起しているのは事実だった。ここまでされて勃起しない男なんていない。体はイエスと言っても、どうしても心は動かなかった。
「勃起するのは仕方ないだろ、男なんだから。でもどうしても愛のこと忘れたくない。だからごめん。香織さんのプライド傷つけてしまうことになるけど、許して」
 すっと体が軽くなった。香織が退いたからだ。
「昇君ってほんと一途。ますます好きになっちゃった」
「じゃあ、片思いでいてよ」
「昇君も今は片思いなのよ」
「だからはっきりしてないんだって」
「じゃあはっきりさせようか」
「どうやって?」
「私が仲介してあげる」
「そんなの駄目だよ。何言ってるんだよ」
「それじゃあ待ち伏せするしかないね」
「ストーカーになるよ」
「あのねえ、ストーカーストーカーって敏感になり過ぎなのよ。そりゃあね何回も待ち伏せしてたら通報されるかもしれないけど、一回だけならストーカーでもなんでもないよ。ちゃんと話し合ってくれなきゃ私にまで響く問題なんだから」
 待ち伏せ。
 いったいどこで待ち伏せすればいいのか。
「明日、愛ちゃんの家の前で待ち伏せね。私がついて行ってあげる。大丈夫、私は愛ちゃんに会ったりしないから。そこんとこ心配しないで」
「また騙すんでしょ」
「もー信用ないなあ」
「信用なくすようなことしたんじゃない」
「でもそろそろはっきりさせなきゃ昇君だって溜まる一方じゃない?」
「どうしてエッチなことばっかり言うの」
「今のはそんなつもりで言ったんじゃないって」
「信用できないなあ」
「信用してよ。だって私キスひとつしてないじゃない!」
「押し倒しておいて?」
「キスしていないんだから何にもないのと同じよ。はいはいまずは愛ちゃんとのこと片づけましょうね」
「なんか別れるの前提みたいに話すのやめてくれる」
「じゃあそろそろ看護学校の課題あるから、昇君帰って。精神の実習がもうすぐあるのよ」
「自分勝手だなあ」
「女ってそんなもんよ。私は自分に正直なだけ」
「ひとりで待ち伏せしてみるよ」
「ちゃんと話し合うんだよ」
「うん」
「送っていくよ」
「いや課題あるんじゃないの?」
「道わかるの?」
 暗闇の中ここまで来たのでどう帰ってよいのかわからなかった。
「あー!」と香織が大きな声を出す。
「どうしたの?」
「終電もうないよー」
「えっ」
「ほらもう一時だよ」
「どうしよう……」
「タクシーで帰る? お金は責任を持って私が出すから」
「いやそれは悪いし」
「じゃあ泊まっていく?」
 泊まる。そのフレーズはセックスを連想させるに十分なキーワードであった。
「いや歩いて帰る」
「えー、歩いてって、伏見から宇治までって歩いたら結構あるよ」
「これがリアル宇治伏見ウォーカーなんつって」
「そんなとこでうまいボケしないでよー。笑うに笑えないじゃない」と香織が笑う。
「笑ってるじゃない」
「ここから歩いて帰るなんて、昇君ってアホね」
 とキュートな笑顔で毒を吐く。
「一時間半もあれば歩いて帰れるよ」
「御香宮まで送るよ」
「いや、それだと香織さんが帰るときひとりになるから危険だ。地図を書いてほしい」
「あ。携帯で見ればいいやん。GPSがあるやん」
「何それ?」
「わかった。じゃあ地図アプリをダウンロードしてあげるし、それを見てひとりで帰ってね」
 こんな便利な物があったんだ。僕は感心しながら真夜中の旧二十四号線を歩いた。観月橋を渡って、向島ニュータウンを越えて宇治まで着くのに、やはり一時間半かかった。家路についても寝付けなかった。
 待ち伏せをする。
 そのことにものすごく抵抗があったからだ。でもそうしなければ愛と話し合うことすらできない。
 僕はストーカーと思われてもいいと覚悟を決めた。

   30

 雨が降っていた。
 僕は傘も差さず、電信柱に隠れて愛を待った。どうしてこんなことをしているんだと、五分経っただけで自分が不憫に思えた。一方的な電話、待ち伏せ、どう考えてもストーカーそのものだった。それでもどうしても愛と話し合いたかった。それで拒否されたら愛を諦めよう。
 愛が家から出てくる気配はない。
 時間が経つにつれ自己嫌悪が頭の中を支配していく。もう帰ろうか。こんなことしたって愛は喜ばない。
 ギギギという低い音が耳に入る。玄関が開く音だとすぐにわかった。玄関から出てきたのは見覚えのある男だった。あの街角で愛と一緒に並んで歩いていた男だった。
「健二ー、おいてかないでよー」
 聞き覚えのある声が耳に刺さる。愛が違う男の名前をなれなれしく呼んでいる。しかも早朝に愛の家の玄関から一緒に出てくるのである。
「愛、気をつけなよ。いっつもそこの段差でこけるんだから」
「もうっ、子どもじゃないんだからねっ」
 耳を塞ぎたかった。
「愛はさ、子どものままでいいんだよ。俺が守っていくから」
「そんなこと言うから、甘えちゃうんだって」
 胸が音を立てて張り裂けてしまいそうだった。回れ右をして引き返えそうと音を立てないように足を踏み出した。
「誰?」
 愛は低い声をこちらに飛ばす。
「もしかして、昇?」
 僕は愛の方を振り向けずにいた。眉間にしわを寄せた愛の顔なんて見たくなかった。
 いやそうじゃない。ストーカーじみた僕の行動を愛が許してくれるなんて到底思えなかった。通報されても仕方なかった。
「ねえ、昇なんでしょ。電話出れなくてごめん。ちゃんと話しなきゃと思ってて。ねえ聞こえる私の声?」
 聞こえている。でも他の男と一緒にいる愛と話すことなんて何もない。もうこのままこの場を立ち去りたい。
「ちゃんと話そうよ。昇は私の話、聞いてくれないの?」
 何度も電話して出なかったのは愛の方じゃないか。僕は今まで何度も話し合いの機会を得ようとしてた。それを拒んでいたのは愛の方だ。それなのに、僕がまるで聞く耳を持たないみたいな言い草でいいやがる。
「その男は誰?」
 僕は怒りにまかせて言葉を投げかけた。
「ちゃんと話すから」
 愛が男の手をふりほどきながら僕の方へやってきた。
「僕にはもう何がどうなっているのかわからないよ」
 とへなへなと地面に崩れ落ちた。
「昇!」
 意識が遠のく寸前に愛の顔が目に入った。その表情は僕のことが心配で仕方がないという、僕にとっては心から救われるものだった。

 目が覚めると愛がいた。穏やかな愛だった。ここはどこなのだろう? そんな疑問がどうでもいいと思えるほど、愛と空間を共有している事実が心地よかった。愛と一緒にいる、ただそれだけで幸せだった。空気が七色に光り、重力がないかのように身が軽くなる。不思議な感覚だった。
「昇、ごめんね」
 何がごめんなんだ。謝ることなんて何もないよ。そんな思いを表情で伝えた。そしてゆっくりとベッドから半身を起こした。愛と見つめ合う。
「私、健常者と一緒になる」
 空気が、止んだ。
「だから昇も健常者と一緒になって」
 意味が分からなかった。
「私ね、さっき一緒にいた男の人と仲良くなったんだ」
 だから? それで? なぜそんなことを僕に言う?
「だから、それで、ちゃんと話し合いたかったのよね」
「何自分勝手なこと言ってるの?」
 愛は一呼吸おいて諭すように話し始めた。
「私たちは障害者なの。それはわかるよね」
「うん」
「障害者同士が一緒に生きていくことってとても難しいの」
「好き同士ならそれでいいじゃない。一緒に過ごしていけるよ」
「でもお金はどうするの?」
「働いたらいいじゃないか」
「昇は今働けてるの?」
「今は……働いてないけど、働こうとしてるんだよ。でもクローズでいっても全然採用されないんだ。面接どころか書類選考で弾かれるんだ」
「私も働けないの。昇も働いていないとなると生活費はどうするの?」
「だから働くって」
「ちょっとでも空白期間があると生活に響くの」
「……わかってるよ」
「障害者同士は、現実的に難しいのよ」
「僕は愛が好きで、愛は僕を好きなんじゃないの? 違うの」
「違わないわ」
「じゃあなんで」
「私は健常者と生きていく。昇も健常者と一緒になって」
「どうして好き同士一緒にやっていけないんだよ。おかしいよ」
「好きだけじゃ乗り越えられない壁があるの」
「その壁をふたりの力で乗り越えようじゃないか!」
「私たち金沢で生活してたでしょ」
「してた」
「あの繰り返しになるの、わかる?」
「わからない」
「どんどん状況が悪くなっていって最終的には再発するの。私と昇が一緒になる未来はそれの繰り返し」
「そんなのわかんないじゃないか!」
「わかるわよ!」
「わかんないよ!」
 僕たちは睨み合っているのか見つめ合っているのかよくわからない視線を交わらせていた。
 愛は可愛かった。きらきらしていた。それは僕と話しているせいなのか、それとも健常者の男のおかげなのか、僕には判断が付かなかった。
「好きなんだ」
「私もよ」
「じゃあどうして」
「好きだから、昇には幸せになってほしいの」
「愛と一緒じゃなきゃ幸せにはなれない」
「昇は私と一緒にいると幸せには決してなれない」
「再発したっていいじゃないか! 一緒に生きていければそれでいいじゃないか」
「私はもう再発は嫌なの。訳も分からず保護室に閉じこめられて、時間を無駄にして、何のために生きているのかわかったもんじゃないわ」
「僕は再発したっていい。愛と一緒にいられたらそれでいい」
「私は嫌よ!」
 あまりの剣幕に僕はたじろいだ。
「昇が再発したら私はいったい誰を頼ったらいいの?」
 何も答えられなかった。
「私が再発で長く入院しているとき、昇は辛くなかったの? そんなことが何度も何度も起こるのよ。私には耐えられないわ」
 一切の言葉が口から出てこなかった。
「健常者なら私たち障害者を支えられるわ」
 何か言葉をかけないとこのまま僕たちは終わってしまう。でも何も言い返せない。
「悲しいよ。愛がそんなこと言うなんて」
「それに私は……子どもが欲しいの」
 これ以上僕を責めることを言わないで欲しい。苦しかった。
「昇と私の子どもだと50%の確率で私たちと同じ病気の子どもが産まれるのでしょ。そんなの嫌よ。私は好きでこの病気になったんじゃない。だから自分の子どもに同じ十字架を背負わせたくない」
「僕だって好きで病気になったわけじゃないよ」
「健常者との間だの子どもだと10%なんでしょ。だから90%の確率で健常者が産まれるの。私はその可能性にかけたいの」
 どうして僕は病気の子どもが産まれてくる可能性のことを愛に伝えてしまったのだろう。愛の態度が変わったのは子どもがこの病気で産まれてくる確率を伝えてからだ。
「50%の可能性にかけようじゃないか! 50%の確率で健常者が産まれてくるんだよ!」
「50%もこの病気の子どもが産まれてくる可能性があるのよ。そんなの無理だわ」
「50%の可能性があるんだよ」
「50%しかないじゃない」
「悪い方の可能性が50%しかないんじゃない。そう考えられない?」
「サイコロを振ってね、偶数が出るか、奇数が出るか、そんな可能性に子どもの将来かけられると思う?」
「愛は僕を愛してくれてるの」
「愛してるわよ! それはこれからもずっと変わらない!」
「おかしいよ。言ってることがめちゃくちゃだよ」
「昇ならわかってくれると思ってた。私たちもう会わない方がいいわ」
「え、何言ってるの?」
「私は健常者と一緒になる。だから昇も健常者と一緒になって」
「頭おかしいんじゃね」
「病気だからね」
「なんでも病気のせいにしたら許されると思ってんじゃねえよ」
 僕は思わず声を荒げた。
 すると扉が開いてあの男が部屋に入ってきた。男は自信ありげにゆっくりと歩みを進めてくる。そしてその隙に愛は部屋から出て行ってしまった。
「昇君、俺と話をしないか。俺は田中健二という者だ。会社員をしてる」
「あなたといったい何を話せというのですか」
「愛のこれからについて、だ」
「そんなの愛が決めることじゃないですか」
「愛は俺を選んだんだ」
 それを言われると何も言えない。
「悪い。そういうことを言いたいんじゃないんだ」
「結局、僕から愛を寝取ったってことでしょ」
「そう思われても仕方ないかもしれない。でも俺は俺なりに愛のことを想ってるんだ。その想いは決して昇君に負けない」
「僕は愛を離さない」
「愛は昇君と別々の道に進むことを望んでいる」
「僕は望んでない」
「昇君では愛を守りきれない。現に金沢で愛を発狂させてしまってるじゃないか」
「それは……」
「でもそれは仕方ないことなんだよ。病気の人が病気の人を支えるというのはとても難しい。共倒れになってしまうんだ」
 共倒れ。金沢で破綻した生活はまさにその言葉がぴたりと当てはまる。
「生きていくってことは並大抵なことじゃないんだよ。昇君は自分が生きていくことで精一杯なんだよ。愛を守れる余裕なんてないはずだ」
 図星だった。
「僕には愛を守っていける精神力と経済力がある。だから愛を僕に任せてくれないか」
「任せるってペットじゃあるまいし、言ってることおかしいよ」
「昇君の無念な気持ちはわかる」
「わかんねえよそんなもんは! お前にはわかんねえよ!」
 健二は微動だにもしなかった。
「昇君には愛を守れない。俺なら愛をずっと守っていける」
「愛は僕のことが好きなんだ。お前はそれでもいいのか!」
「――それでもいい。昇君のことを好きな愛を、僕は愛しているんだ」
 言い返す言葉がなかった。心の広さ、度胸の良さ、経済力の有無。そして僕が病気だという事実。何をとっても勝てる見込みはなかった。
「愛がいない人生なんて考えられないんだ。頼むから愛を返してくれ。お願いだ。お願いします」
「昇君、君は本当に心から愛のことが好きなんだね。昇君の気持ちはよくわかった」
「お前なんかにわかってたまるか」
「でもな、愛が俺を選んだという事実は変わらないんだ」
「あーい! あーーい! あいいいいい!」
 それから後の記憶はなかった。

 気が付いたら木目調の壁に囲まれていた。
 そう、ここは保護室。僕はまた再発してしまったのだ。

   31

 閉じられたドアをじっと見つめている。暴れる気すらおきない。なぜならそんなことをしても無駄とわかっているからだ。愛の家で暴れたのかどうか記憶にはないが、腕に見覚えのない傷がたくさんあることからして、暴れてしまったのだろう。
 愛はあの男に奪われた。重い文鎮が心にずしりと、のしかかるような感覚に襲われる。文鎮に挟まれた僕の心は身動きひとつ取れず、呪縛霊のようにこの保護室に押し込められている。
 ここでは自殺したくてもできない。ベッド以外何もないのだ。冷たいお茶とプラスチックのコップ、診断書のような紙切れだけだ。時計すらない。トイレもナースコールをしなければできないし、トイレの水を流すときも看護師の確認後、流さなければならない。若い女の看護師が僕のうんこを確認して流すのだ。
 絶望しかなかった。
 生きていても意味がなかった。
 愛を失い、再発して保護室に入れられ、この先何の希望があろうか。このまま灰のような人生を歩んでいくと思うと、悲しくて辛くてとても耐えられたものではない。
「殺してくれ! 誰か僕の首を絞めてこの命絶やしてくれ!」
 誰も何も反応してくれない。この狭い部屋で生かされている意味がわからなかった。誰かの叫び声が聞こえる。ナースコールを押しても看護師はやってこない。時間もわからず、ご飯もおいしくない。夢も希望もない。一刻も早く死にたかった。次に扉が開いたら「殺してくれ」と直訴しよう。
 朝の検温の時間、扉が開くのを待つ。扉が開いた瞬間に僕は「殺してくれ!」と叫んだ。
「あらー神崎さーん、大丈夫ですか? 実は今日はいいニュースを持ってきたんですよ」
 年輩の看護師が何の緊張感もなく話しかけてくる。いいニュース? それって。
「愛が来てるの?」
「ごめんね、来てるのは愛ちゃんではないの」
 もう、どうでもよかった。
「帰ってくれ」
「愛ちゃんじゃないけど、すっごくいい学生さんがあなたの担当になるのよ」
「そんなのどうでもいいよ」
 一瞬、目を疑った。よく知っている人物が白衣を着て目の前にいた。
「学生の山本香織です。今日から神崎さんの担当になりました。誠心誠意尽くして頑張りますのでよろしくお願いします」
 ストレートの黒髪の香織が目の前にいた。精神の実習があると言っていたが、まさか自分が当たるとは。しかし香織の方は全く動揺していないように見えた。
「ではまた後でお話聞かせてくださいね。失礼します」
 香織が去った後、僕は唖然としてしまった。
「いい学生さんが付いてよかったわね、神崎さん」
「は、はい」
「あらまあ、すっかりおとなしくなっちゃって」
 年輩の看護師さんが大きな笑い声をあげる。下品な声ではあったが、なぜか僕は不快に思わなかった。
 香織がいてくれる。そう思うと生きる活力というものが湧いてくるのだ。
 遠ざかっていく愛と、近づいてくる香織。
 流れに身を任せても、いいのだろうか。僕は裏切り者にならないのだろうか。
 お昼ご飯の前に学校の先生と共に香織がやってきた。
「神崎さんお話聞かせてくださいね」
 と口では丁寧な話し方をしている。先生がいる手前、知り合いだとばれることはよくないのだろう。
「いったい何を話せばいいのかわからないです」
「もしよければ今のお気持ちをお聞かせくださいませんか」
 かしこまった香織は、なんだかものすごく大人に見える。そして自分が酷くちっぽけに思える。
「死にたいです。僕の未来には夢も希望もありません。再発を繰り返し、何度も入退院を繰り返す人生にいったい何の意味があるのでしょうか」
「意味のない人生なんてないんですよ。こうして神崎さんと私が出会えたことにだってきっと意味があるんですよ。なんでも話してくださいね。私でよければいつでも話し相手になりますから」
 香織からは柑橘系の香りはしなかった。実習なので香水を付けることは厳禁なのであろう。そのかわり、シャンプーの清純な香りが僕を包み込んだ。口調といい香りといい、ストレートの黒髪といい、普段の香織と全然違うから、そのギャップに僕は魅せられた。
「僕には僕のこれからの人生が全く見えません。闇の中を手探りだけで前に進んでいくことはあまりにも無謀に思えます」
「一歩一歩前に進んでいきましょうね。今の神崎さんは夜明け前の闇の中にいるんだと思います。今は真っ暗かもしれませんが、もう少し時間が経つと東の空から少しずつ明かりが射してきます。明けない夜はないんですよ、神崎さん」
 香織が僕に射す唯一の希望に思えた。でも香織のことを好きになることは愛に対しての裏切りそのものだった。
「そろそろ時間ですね。また明日もお話を聞かせていただけませんか。では失礼しますね」
 香織が去り、僕はまた保護室に閉じこめられた。でも不思議と息苦しさというものがなくなっていた。心の上に乗っていた文鎮はいったいどこに行ってしまったのか。まさか香織が持って行ってしまったのでは、と思わずにはいられなかった。

   32

「小説を書かれるんですね」
 次の日から看護学生、山本香織との交流が始まった。
「ええ、でも最後に書き上げたのは随分と前です」
「ぜひ読ませていただきたいです」
「原稿は家のどこかにあります。彼女との理想の恋を描いた恋愛小説です」
 香織は少し喉を詰まらせた。
「どんな話なのか気になるわ。読んでみたいです」
「機会があれば是非」
「新作は書かれないのですか?」
 香織の質問に僕は、はっとなった。新しいものを今の自分が作るイメージがまるで湧かなかったから、目から鱗だった。
「し、新作ですか。全く考えていなかったです。それに今の僕に新作を書くだけのエネルギーがないです」
「今はエネルギーがないかもしれませんが、回復していくとまた書きたくなりますよ。書いている神崎さんは素敵ですよ」
 書いている自分の姿が思い浮かばない。もういつ以来書いていないのかわからなかった。このままでは朱美に顔向けができない。朱美は僕の可能性を信じてくれた。その思いを僕は完全に不意にしている。朱美の言っていた「書くべきは不幸」という言葉を思い出し、僕はもう一度筆を執ってみようと思った。愛との苦愛を描くのだ。今まで経験したことは決して無駄ではない。僕は書くために愛と大恋愛をしたのかもしれない。そう思うことが僕のこれからにとって一番いいことなのかもしれない。
「とっておきの重い話を書きます。僕には書くべきことがあるんです」
「執筆頑張ってくださいね」
 香織とのやりとりはまるで良質のカウンセリングを受けているかのような感覚だった。心の状態が目に見えてよくなってきている。香織にはいくら感謝したってし足りない。
「また明日も来ますね」
 僕の頭の中は、愛との恋愛で経験した痛い思い出でいっぱいになる。思えば障害だらけの恋愛だった。
「それでも愛のこと思ってる」
 保護室での、ひとりごとは誰にも聞き入れられることなく消え去る。僕の想いは届かなかった。愛は健常者をパートナーに選び、僕の前には健常者の香織がいる。
 それでいいじゃないか。愛が望む未来がここにあるんだ。何を苦しむことがあるんだ。苦しむことなんてないんだ。なぜ苦しいと思うんだ。愛が望んだことなんだ。それを受け入れるのも愛情じゃないか。例え別々の道に行こうともお互いにとってよい方向に進むのならやむなしだ。
 愛は僕のことを好いてくれている。それだけでいいじゃないか。
 僕も愛を想い続ける。いつまでも、いつまでも。
「おはようございます神崎さん。今日もいっぱいお話聞かせてくださいねっ」
 香織の元気な声が僕の希望となって木目調の部屋に響き渡っている。

 エピローグ
   33

 あれから二十年の歳月が流れた。
 僕は小説家になっていた。
 愛との苦愛を描いた小説は大手出版社が主催する新人賞を受賞した。本は出版後も増版を繰り返し、映画にもなった。その後も僕は愛のことを書き続けて、今も書いている。本名とは全然違うペンネームで顔は表に出さずに書いている。だから街中で顔を指差されることはなかった。本が売れることによって暮らしは成り立った。作品を通じて社会の役に立てたと自負はしている。
 愛のことを一時たりとも忘れたことはなかった。妻はそんな僕を許してくれた。もちろん表向きには愛をまだ想っていることは一切言わなかった。妻も愛のことについて一切触れなかった。それは妻の優しさだった。
 毎日、朝霧橋まで散歩に出かけ、愛がフルートを吹いていないか見て回った。今もこうして朝霧橋の真ん中で上流の方を眺めながら思いふけっている。
 再発して入院しているとき以外はずっと見て回っていたが、愛が現れることは一度もなかった。あれから再発が何度あったか数えたことはなかった。ただ両手では数え切れないくらい再発を繰り返した。
 入院しても妻が僕を看護してくれる。僕の人生は健常者の妻によって支えられていた。妻にどれほどの苦労をかけたのかわからない。いつ捨てられるかびくびくしていたが、いつもそれは杞憂に終わっていた。妻の深い愛によって僕はこの歳まで生きながらえた。
 時には「僕は君のペットじゃない!」と生意気な言葉を投げかけた時もあった。妻は「あなたはペットなんかじゃない。立派なひとりの人間よ」と僕の目を真っ直ぐ見て諭した。なぜ僕みたいな人間と、こんなにいい人が一緒にいてくれるのだろう。不思議で仕方なかった。妻は僕のために自分の進路まで変えてしまった。循環器の認定看護師になりたいという夢を捨て、僕が通院している精神科の看護師になった。「大好きだからよっ」という答えだけでは納得ができなかった。他人を想い、重い病に伏している僕をどうして見捨てなかったのだろう。わからない。それはきっと僕がいくら考えてもわからないことなのだろう。
 プロポーズも妻からだった。いわゆる逆プロポーズってやつだ。妻はこう言っていた。あなたのことほっとけないのよ。お願いだから私とずっと一緒にいて、と。
 僕と妻の間には子どもはいなかった。僕も欲しくはなかったし、妻も欲しがらないからだ。そういうところも今こうして一緒にやってこれた糧となったのではないか。
 
 ふと気がついた。朝霧橋の袂からフルートの音が聞こえるではないか。

 僕は反射的に走り出した。距離にしてほんの三十メートル、全力で走った。転けてもすぐ起き上がり音色のする方へ走った。
 そこにはあの日の愛がいた。
 幻覚か、一瞬そう思った。こういう幻覚を見て再発したことが何度もあったから、にわかには信じられなかった。耳に届いている音色も幻聴かもしれない。でも僕には見えるんだ。あの日の愛が同じ場所で同じ着物を着てフルートを吹いている。流れてくる曲もあの日の曲『カプチーノ』だ。いよいよ僕も本格的に気が違えてしまったか。
 なぜそう思ったか。見えている愛があの日の愛そのものだからだ。年齢が20歳ぐらい。今の愛は40歳を超えている。ギャラリーは僕以外にもたくさんいる。それらも僕の幻覚なのだろうか。
 愛はフルートを吹きながら横目で僕を見つめる。そしてフルートを吹く手を止めて、僕の方へ向かってきた。
 幻覚もここまでくれば現実と変わらないな。もう幻覚でも何でもいい。あの日の愛と話せるなら、それでいい。
「昇さん、ですよね? あなたのことを探していました」
 と愛は笑う。
「愛、どうして」
「私は琴美といいます」
「君は愛じゃないのか」
「愛は私の母の名前です」
 母? 愛が?
 琴美がすっと写真を見せた。それは紫陽花をバックに撮られた僕と愛の色あせた写真だった。
「私は昇さんのことをずっと母から聞かされて育ってきました」
 反射的にフルートを見た。そこには見覚えのある傷が光っていた。愛のフルートに間違いなかった。
「母はずっと昇さんのことを想っていました。最初、それは私にとってとても辛いことでした」
「それは申し訳ない」
「いいえ、今の私は大丈夫ですからあまり心配なさらないでください。母は再発を繰り返しています。今も大阪の病院に入院しております」
 愛も再発を繰り返していたという事実は僕にとって辛いものだった。だがそれ以上に気になることがあった。
「き、君は病気ではないのか?」
「私は幸いにも母と同じ病気ではありません」
 愛の想いが天に届いたのだ。愛は望んだものを手に入れていた。
「こうしてあの日の母と同じ状況を作れば、昇さんはきっと来てくれると思ってました。母の愛した人を一目見たかったのです」
 愛の娘をあの日の愛に重ねて、過ぎ去った月日を想う。これでよかったんだ。僕は喜びの涙を流した。
「母と生き別れて辛かった気持ち、お察しします」
 違うんだ、僕は君がこの世に生を受けたことに対して喜びの涙を流しているんだ。涙は止まらなかった
「こんなことまでしてしまって、思い出せてしまってごめんなさい」
 嬉しいんだよ。君とここでこうして会えたことが。本当に嬉しいんだ。嗚咽はどんどん大きくなっていった。
「嬉しいんだ。嬉しいんだよ」
「こんな真似して本当にごめんなさい」
 これ以上大声を出して泣いてしまうと、とめ金が外せなくなってしまって気がおかしくなってしまうことは明白だった。それでも僕は泣き止まなかった。このまま永遠に泣き続けても決して涙が枯れないほどの衝動が僕の中に存在していた。僕は気狂いのようにずっと、ずっと泣き続けた。完

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静寂といいます。メンヘラ小説書いています。 ただいま無料で読めますのでよかったらどうぞ。