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ひそやかな雪の日に

ときどき、悪意がないということ以上に悪意のあることが果たして存在するだろうかと思う。

SNSはときどき私の心を深くえぐったり、自信をなくさせたりする。投稿をした人は楽しい思い出を記録するためにそれらを使っているけど、受け手はそれを見てなんとなく、ふわっと大きな不安感や焦燥感に包まれてしまうことがあるのだ。

例えばInstagramの投稿はときどき、私の凪いだ心の湖にどうしようもないさざなみを立てる。SNSは、誰かが持っていて、私は持っていないものをよりくっきりと際立たせる効果を持つからだ。

だから私は同級生たちが恋人と過ごしている投稿を見ると、胸の中がぐちゃぐちゃになってしまうときがある。私は簡単に好きな人に会うことができないからだ。それが悪いことなわけないのに、私たちには私たちなりの歓びや哀しみが存在しているというのに、それらがまるであたかもかわいそうでさびしいものだという気になってしまうのだ。

おそらくきっと、私の投稿を見てそのような気持ちになっている人もいるのだろう。羨ましいとか淋しいとか、あの人はこうなのに自分はどうしてそうじゃないのだろうとか、そんなことばかりで頭をいっぱいにしてしまう。

けれど少しSNSから離れてみると、私がいかに今幸福で、満たされていて、健やかに日々を生きているのかが分かる。私は痛いほどに幸せだ。誰かのSNSへの投稿ひとつで心が乱されるなど、なんて滑稽なのだろう。なんて無駄なことに時間を費やしているのだろう。

私はSNSの使い方や受け取り方を少し間違えているかもしれないな、自分を幸福にするために使えないのなら、傷つけるためにしか使えないなら、それは全く私にとって意味をなさないものなのだ。いつそれを忘れてしまったのだろうか。

今回の寒波で大気は冷えきって海は冬の色に染まり、あたりは雪で真っ白になった。きれいなつららや木の梢に積もった雪、真っ白な景色の中淡い青さを秘めた空。

雪はいつでも静かに降り積もる。風のようにびゅうびゅう唸ったり、雨のように屋根を激しく叩いたりしない。冬、起きて窓の外を覗いたとき世界が真っ白になっている、あの美しい魔法のような朝に幾度心を動かされたことだろう。

私はそのような生き方がしたい。ひそやかに幸福を享受し、味わい楽しんで、ひとりでもうふふと笑っているような。雪のように静かに、たくさん幸せが降り積もるような。

今年はなかなかできなかったけれど、来年はもう少しうまく生きられるようになりたいな。SNSから少し離れて、囚われすぎないで、けれど大切な人たちとの仲を取り持つ道具としてうまく使えたらいい。全てを得ようとせず、適度に失ったままいることも忘れてはいけないのだと思う。

そのようなことをこの1年、ずっと思っていました。私の2021年はもうすぐ終わる。どうかこれから先の未来でこの年を振り返ったとき、さびしかった思い出はそうでない思い出に混ざり、その輪郭を失っていますように。

そして私は自分にもう少し優しく、そして賢く日々を生きられるようになっていますように。

みなさんもあたたかくして、ゆっくり身体を休めてください。今年1年間、本当にお世話になりました。いつも私のつたない文章を読んでくださり本当にありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

おやすみなさい、よい夢を。

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