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その一瞬のきらめきを

私の恋人は写真や動画をあまり撮らない。

もちろん全く撮らないというわけではなくて、たまにはぱしゃっと撮っている。だけど彼が私の写真を撮ることは、私が彼の写真を撮ることよりはるかに少ない。

だからだろうか、少し前にお誕生日を迎えた友人の彼氏が、彼女を撮影した動画に「おめでとう」の一言を寄せてInstagramのストーリーにあげていたのを見て、ちょっぴり羨ましい気持ちに駆られてしまった。

恋人が私の写真をあまり撮らない理由は知っている。彼に元々写真を撮る習慣がないということと、私と過ごす時間が最優先だと考えているからだ。

付き合いたてのころ、恋人は今よりずっと頻繁に私の写真を撮ってくれた。

彼はにこにこ笑って私の名前を呼び、携帯電話のカメラのレンズをこちらに向けてきたものだった。私はそれが嬉しくてレンズに向かってピースしたり、にっこり微笑んだりした、まるで幼い少女のように。その時間そのものが綿菓子みたいに甘くてふわふわした特別なものだった。

恋人同士になってから時間が経つにつれ、彼は少しずつ写真を撮ることを私に委ねるようになった。今ではツーショット写真も私が撮影しなくては残らないくらい。

でも最近話してみると、彼は私と恋人になったころ、いっぱい写真を撮るように努めてくれていたらしいということが発覚して、私はそれを聞いてなんだか妙に納得した。彼ががんばってくれていたことが分かったのだ。

でもそれを分かっていてもときどき切ない気持ちになる。私はたぶん自分で思っているよりずっと乙女な21歳なのだ。私の写真も撮ってほしい、というのはわがままかもしれないけど、恋人ならそう感じることもあると思う。

写真に撮ることに夢中になるよりも、今ここにある瞬間を大切にしたい、目の前にあなたがいるのにカメラ越しにばかり見てたらもったいないでしょ、というようなことを、いつだか彼は言っていた。

私はそれをとても優しい理由だと思う。たぶん何より大切なことだと思う。

彼が写真を撮らないのは、私が打ち上げ花火の写真を撮らないのととてもよく似ているのかもしれない。花火は自分の目に焼き付けるものだと思っているから、私のカメラロールには1枚も打ち上げ花火の写真が入っていない。けれど別にそれをかなしいことだと思ったことはない。

でも私はどうしてだかよくばりなので、ときどき「たまには私の写真を撮ってくれてもいいのにな」と思うのだ。ごく軽やかに、ときにはごく真剣に。

彼の言うことはもっともだし、たしかに写真を撮ったからってどうというわけではないのかもしれない。データにせよ物にせよ、死ぬときに持っていけるものは何もないからだ。

でも私は死ぬときのために写真を撮っているのではない。

ただ日常の中にあるすてきな空間やうつくしい時間を切り取って、あとで見返し、その記憶の共有者と話をしたり、ひとりで眺めては過去を愛おしく思ったりしたい。写真に写っている誰かと一時的に、あるいは永久に会えない日々を何とか生きていくために、私は写真が欲しい。

写真を撮るということは、流れていく時間に散らばっている一瞬のきらめきを捕まえて離したくない私たちの、ささやかで必死な抵抗なのだ。

だから今年は打ち上げ花火の写真も撮ってみようかな、なんて思っている。

明日の夜は数年ぶりに地元でお祭りがあり、恋人と出かける予定なので、彼の写真もいっぱい撮ろう。変になっちゃっても後で見たらきっとおもしろいはず。

だから恋人もそういう気軽さで、たまにはぜひ私の写真を撮ってくれたらうれしいな。面倒かもしれないけれども。私は写真に撮られるのがとても好き。あなたの瞳に私がどんな風に映っているのか知ることができるし、ついでにちょっとかわいく写真に撮れていたらもっとうれしいから。

それに明日は浴衣を着るつもりでいる。恋人と会ってからもう5回目の夏なのに、お祭りはようやく2回目で、しかも浴衣は初めてだから、どうか魅力的に思ってもらえますように。



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