見出し画像

私はiPhoneで音楽を聴かない

高校1年生のとき受けた「情報科学」の授業で、担当の先生がこんなことを言っていた。

「僕はこの時代、近いうちに家庭からどんどん物や家具がなくなっていくと思います。今は携帯1台で何でもできますね。だから音楽を聴くときに音楽プレイヤーも要らない、映画やテレビも携帯で見れるからテレビも要らなくなるかもしれないし、予定管理もできるからカレンダーもいらないでしょう。そうやってどんどん物がなくなって部屋に何もないような時代が来るかもしれません」

そのときは話を聞きながら「なんてオーバーな!」と思っていた。音楽プレイヤーはともかく、家具ならソファや机も必要だ。その少ない具体例だけで「家庭から物がなくなる」とまで言ってしまっていいのだろうか、いや、言えるわけない、と思っていたのだ。

けれどいま考えてみると、そこまではいかないとしても、必要とされていたはずのものがどんどん減っていくというのは納得いくなと思う。

私の妹や友人はみんな、iPhoneの中にアプリを入れ、それを使って音楽を聴いている。家族みんなの予定も便利なアプリを使って共有している。私の友人や恋人はPay PayやLINE Payで代金を支払う。気に入った本や漫画だって電子書籍で買えるし、そうすればどこへでも持っていける。この時代、携帯を1台持っていればある程度のことは出来てしまうのだ。

けれど私はどうかと言えば、あいかわらず手帳を持っているし、携帯でお金を払うというのはよく分からなくてまだ現金で会計を済ませている。本も手元に欲しいから、本屋へ行って実物を買う。音楽だって、私はiPhoneで聴かない。

でもCDで聴くわけでもない。もちろんレコードやカセットテープで聴くわけでもない。ここだけは少し皮肉なことに、私は音楽をiPodで聴いているのだ、中学生のころからずっと。

私は高校生になるまで携帯電話という道具を持たせてもらえなかったのだけど、その代わりに音楽を聴く機械は持っていた。中学生のお正月にお年玉を持って家族で家電屋さんへ出かけ、iPod nanoを買ったのだ。色はレモンイエローを選んだ。自分だけの電子機器なんて持っていなかったのでとても嬉しかったし、新しい曲をダウンロードするたびにわくわくした。少しずつ曲の数が増えていくのはなんとも言えず嬉しかった。

妹もその数年後に自分専用の青いiPod nanoを買っていたけれど、最近その小さな音楽プレイヤーを使って音楽を聴いているところはほとんど見ない。携帯を使って聴いているからだ。

わざわざお金をかけて音楽を買うのは、アプリを使えば無料で音楽が聴ける世の中では馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない。でもそれならば、私の黄色いiPod nanoはどこへ行くのだろう。

あらゆることを1台の機械で行えるのはすごく魅力的だ。新しいものや技術はそれだけで人々の心を惹きつける。

けれど私は1台だけで完結できてしまうのがなんとなく、少し恐ろしいのだ。携帯電話はもう単なる連絡を取り合うための機械ではない。それは今ではまるで私たちにとってもうひとつの心臓のように、なくてはならないものとして機能している。

だから私は、もしそれが何らかの理由で突然奪われるような日がきてもきちんと生きていけるよう、無意識のうちに備えているのかもしれない。

それに私はそれぞれの用途のためだけに作られた道具を愛している。カメラを使って写真を撮ることや、手書きの言葉を添えたアルバムを作ること、日記やメモをペンで紙へ書く機会が少しずつ減ってゆく、そのゆるやかな、しかし大きな流れは止められないのかもしれない。けれど便利だからという理由だけでそちらへ流されてしまうのは少々やるせない。

だから私はこれからも自分の音楽プレイヤーで音楽を聴くだろう。多少古ぼけたように見えたとしても、機械が壊れぬうちはずっと使い続けるだろう。どんどん突き進んでいく情報社会へのささやかな抵抗として、しかし皮肉なことに、その社会が発達してゆく過程の時代にできたひとつの機械を。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?