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めんどうくさいけど、ポストコロニアリズムを批判する

ポストコロニアリズム(略称ポスコロ)を批判しなければなるまい。

ポスコロの正義感には、部分的に共感するところもある。

しかし植民地問題を、ああかしらん、こうかしらんと、悩みながら思索するためには、ポスコロではムリなのだ。
有効ではないのだ。
だから批判しておかなければならない。

だって、そもそもポスコロは「あらゆる植民地主義は悪である」という、確固たる「答え」を既に持っている。
けれども、それなら、悩んだり思索したりする必要はないだろう。


① 道徳至上主義

ポスコロ(特に日本のポスコロ)は、現代の自らの道徳観から、過去を裁き、旧宗主国を悪人とみなし鞭打ち、旧植民地をかわいそうな善人とみなし涙する。

しかし植民地問題は善悪だけの問題ではない。もっと複雑だ。

重要なのは、植民地主義を、道徳的に攻撃するよりも、科学的に分析して理解することではなかろうか。そしてそのためには、謙虚に過去と対話する姿勢が大事である。


② 変化の軽視

ポスコロは、大航海時代以降、西洋は、ずっと一貫して、植民地主義であったと唱える。

しかし時間の流れの中の、変化の断層を明らかにすることも、重要だろう。
例えば15世紀の人種差別と20世紀の人種差別とでは違うはずだ。
そこには何らかの変化があったのではないか。
その意味を読み解くことも、また重要だろう。


③ 交流の軽視

ポスコロは、旧宗主諸国である西洋と、旧植民地である非ヨーロッパ地域との、二項対立を、その思考の基盤とする。
かくしてポスコロは、二つの地域の分断を固定化し、深刻化する。

しかし彼らは旧宗主国と旧植民地との交流に注目しない。
これはゆゆしき問題ではなかろうか。


④ 国民国家を相対化できない

ポスコロは、国民国家を植民地主義の「主犯」として弾劾したことで、国民国家は実在するという主張を助けている。

そもそも国民国家は想像上の共同体に過ぎないはずである。
日本の国粋主義者は「そんなことはない、国民国家は実在する!」と言って、国歌を歌い、国旗を振る。
しかしポスコロはまさにその国歌・国旗を「植民地支配の象徴だ!」と糾弾することで、逆に国民国家は実在するという主張を助けている。
国粋主義者とポスコロの違いは、国民国家の正義を語るか不正義を語るかであって、両者の主張の根拠が国民国家の実在性にある点では同じなのである。

かくしてポスコロは、国民国家とは別のところにアイデンティティーを置こうとするマイノリティー(例えば地方主義)の運動と、共闘できない。


⑤ その反差別主義政策の失敗

フランスにはFNという、人種差別主義の極右がいる。
ポスコロは、20年以上前から、これをずっとバッシングしてきた。
しかし極右は強大化した。
つまりポスコロの反差別主義政策は失敗した。

失敗の要因は、差別主義者の心を無視した点にある。
差別や偏見をどれだけバッシングしても、差別主義者の真の改心には結びつかない。
むしろバッシングは、バッシングされた側を意固地にするだけだ。

そもそも偏見が皆無の人間など存在しないだろう。
だから問題は、程度の問題なのである。
ある程度、差別主義者の心を変えなければならない。
そのためには北風よりも太陽である。

差別主義者の心を、弾劾するよりも、分析して理解するべきである。
そして差別主義者の心の奥底にある、他者への不安を解消するための、差別主義的ではない政策(例えば異文化教育政策など)を提言するほうが、建設的ではなかろうか。


・蛇足

べつに、ポスコロさんを全否定したいわけじゃあないんです。
誤解しないでくださいね。
ポスコロさんにも、「オリエンタリズム」とか、面白い発想はあると思う。
ただ僕は、もっとひとにやさしく、そして生産的でありたいだけなんです。

破壊とか、攻撃とか。
もう、こわいの、うんざり。

ポスコロさんは「コロニー(植民地)」という言葉が憎くて、
フランス語の「コロニー・ド・ヴァカンス(林間学校)」という言葉まで攻撃しているらしいじゃないですか。
どんだけ?と思う。

それじゃあ、「スペースコロニー」も、ダメなの?

徹底的に排除しなければダメという、潔癖症みたいの、それはそれで如何なものでしょうかねぇ。

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