見出し画像

臆病者の支配VS夏休みのスピリット

「安全安心」、無理です

現代人は明日におびえ、「安全安心」を求め、一生を終える。

「安全」は大事だが、
事故が起きると、「未然に防げずに、怪しからん」と現代人はヒステリックに叫ぶ。
べつに事故を起こしたくて起こすひとなどいないはずなのだが。
もちろん事故後の責任の追及、そして原因の解明は大事だろう。
しかしそれでも事故は起きる。
僕たち歴史家が、異口同音に、胸を張って堂々と言えることが一つあるとすれば、
「未来は予測できない」。

「安心」は心の問題なので、
なにをしても、臆病者には手に入れられない。
手に入れられないものを求めるのは、求めるほうが悪い。
ほんとうはそんなものを求める臆病者たちなど放置しておけばよいのだが、彼らをお客様としてつけあがらせてきた結果、社会は彼らの声にまともに対応することを余儀なくされている。

未来のことなど、あんまり考えすぎないほうが良いのだ(ちょっとは考えたほうがいいけど)。

明日を思いわずらうことなかれ。明日は明日自身が思いわずらうことだろう」とイエスさまもおっしゃっていらっしゃる。

原発処理水が怖いかい?
中国の台湾侵略が怖いかい?
安全の保障ならばちょっとは可能だろうさ。でもリスクゼロはありえないし、安心の保障に至っては絶対に不可能だろうよ。そもそも臆病者は安心したくないのだから。

静かに、現実を直視して、まずは自らの恐怖心と対峙したい。

「安全安心」を求めるリスク

未来の安全安心に配慮し過ぎると、当然のことながら、予想外の歓びを得ることもなくなる。
家にひきこもっていれば、確かに安心安全だ。しかしそれでよいのか。
偶然を忌避するひとびとよ。
「犬も歩けば棒にあたる」。
生きるとは危ないものだ。

しかし危ないからこそ、ドキドキワクワクが生まれる。
そのドキドキワクワクをエンジョイできないひとは、生きる歓びもまた知らない。
たまたまぶつかったひとと恋に落ちるなんて話は、少女漫画の定番ではないか。

ドキドキワクワクを忘れた連中の顔を見てみればいい。ふてくされて、不満ばかりで、足りることを知らない、貧相な顔をしているじゃあないか。暗くて怖い、気持ち悪いやつだよ。だからだれも近づきたがらないよね。

そもそも彼らの精神の根幹は、不信と猜疑で成り立っている。
誰も信用できずに、裏切られることを恐れて、孤独に「安全安心」を得ようとしている。

まずは自信を身につけよう

他人を信用できないのは、自信がないからだ。
他人が裏切ったさいのダメージを回避できるという、自信がないからだ。
つまり自分自身の能力を信用できないからだ。

能力。おそらく人間として最も大切な能力は、愛される力であろう。
実際、自分は愛されているという自信があるひとは、自分の存在を肯定できる。
この自分という存在には、意味とか使命があるはずだと信じることができる。
だからその使命を果たすべく、頑張る。勉強する。
そういう好循環をつくるのが自信なのだ。

いずれにせよ、ウジウジ怯えているだけの、根暗なひとは愛されない。
朗らかでニコニコしているひとは、馬鹿だと思われるかもしれないが、愛される。

愛されているるひとは、ゆるぎない自信とともに、危険をかえりみず、明日にチャレンジする。
暗闇に向かって跳躍する。
明日何が起きるのか。明日にウキウキワクワクできる。
何が起きても何とかやってゆける気がする。

そう、夏休み、扉を開けて眩しい野原に走っていく子供のように。
思いっきり遊んで、遊び疲れて、また明日を夢見て眠る子供のように。

夏休み。冒険だ。勇気だ。これぞ人生ではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?