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津山訪問記 -交わりを求めて

真夏の津山へ

東京から新幹線に乗って岡山で降りる。
そこからさらに、二両編成の津山線に乗る。
このひなびた路線は一部の鉄道愛好家にとっては有名な線らしい。

冷房機がうなりをあげている。
列車が動き出せば、乗客は緑一色の風景にひたされる。
さほど高くない山々が密集しており、その合間合間に、小さな田んぼがぎっしり詰め込まれている。
東京生まれ東京育ちの僕にとっては、まるで外国に来たような感がある。
 
一時間もすると、小さな盆地にたどりつく。
津山市だ。
田んぼばかり見ていたおかげだろうか。さいわい、さほど疲れてはいない。
あれが田んぼじゃなくて、けばけばしい看板だったら、さぞかし疲れたことだろう。

津山の魅力

津山の魅力をひとことで表現するのは難しい。
たしかに山奥に位置する。
なにせ八つ墓村のモデルとなった、あの陰惨でそれがゆえに実に日本らしい、津山事件が起きたところである。

けれども津山市は、かつて津山藩10万石の城下町であった。
(だからこそ旧津山藩煙硝蔵跡もちゃんと残っている。煙硝蔵とは火薬庫のことだが、歴史に興味のあるひとは、絶対、行ってみたほうが良いだろう。一見ノ価値アリ。)

もちろん津山藩は10万石にすぎない。
加賀100万石とは比べものにならない。
豪華絢爛ではない。
でも質実剛健である。武士らしいと言えば、武士らしい。

ただ10万石に過ぎないとはいえ、津山は交通の要所であった。
出雲街道があったし、吉井川を利用した水運業が盛んであった。
津山は鳥取・松江・姫路を結ぶ「交叉点」だったのだ。

「交通」という概念から、津山を考えてみるのも良いかもしれない。
津山郷土博物館に行けばよく分かるが、
津山では、朝鮮半島から渡来したガラス玉が発掘されている。
まさに古代から、海外との交通があった証である。

もちろん常にひっきりなしに交通にさらされていては、独自性あるものは存在しえない。津山の場合、いい感じに、ある程度、閉鎖的だったのが、つまり「半開き」だったのが、結果的には良かったのかもしれない。
例えば津山は、第二次世界大戦中、空襲を免れた。
爆撃機との交流に対して、閉じていることができたのである。
そのおかげで昔ながらの日本らしい街並みがちゃんと残っている。
そのレトロな雰囲気は、はっきり言って、おしゃれである。

翻訳という作業

さらに津山は、江戸時代から、蘭学・洋学に抜きんでていた。
西洋の大量の書物が翻訳された。
この翻訳の作業にしたって、「半開き」でなければできない。

そもそも「全開」ならば、翻訳の必要はない。
外国語をそのまま使えば良いだけだ。
実際、完全なる植民地には、母国語が存在する意味がない。

あるいは交流を全面否定して、外部に対して「完全閉鎖」するならば、内部は「尼寺化」するだけである。交わりから生じる痛みや苦しみもない代わりに、生命力いっぱいの産声を聞くこともない。つまり進歩もなく開発もない。

交流にとっては「半開き」が大事であり、「半開き」が翻訳の必要を生む。
そんな翻訳という作業に、津山がどのようにかかわってきたのかをいまに伝えるのが、津山洋学資料館である。
所蔵品の量と質、そして展示の仕方という点で、実に優れた資料館である。
そもそも翻訳というものを展示するのはとても難しい。
例えば、戦争というものを展示するのは簡単だ。武器や軍服など、「絵になる」展示資料に事欠かない。
しかし翻訳というものをどのように展示せよというのだ。
どれだけ本を積み上げられても、シロウトには面白くもなんともない。
しかしこの難題に果敢に挑戦しているのが、この津山洋学資料館なのである。
敬意を表したい。

さらに現在、津山は、共に蘭学・洋学の歴史を持つという点に注目して、津和野および中津と「三津同盟」を締結して、学術と観光の振興を目指しているという。
なんともたのもしいチャレンジ精神である。
三つの津の交流が何を生み出すか、今後を見守りたい。

B’zを口ずさんで

B’zの稲葉さんも、津山のご出身だという。
そう言えば、B’zの歌も、英語と日本語を交ぜ合わせたものだけど、そこがウケて、まさに国民的歌手になっている。
「過ぎた時間はすべてDestiny いまの君を産んでくれた」
「踊ろよLady やさしいスロウダンス わらわれても あくまでマイペース」
「幸も不幸も Easy Come, Easy Go!」

僕らは歴史の重荷の下で押しつぶされる必要はない。
歴史の上に立ってしなやかにやさしいステップをふもう。
津山のシャッター商店街を見ながら、そう思った。

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