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カウンターでのたたずまい

KIRINが「いい時間とお酒」というテーマで投稿を募集している。
消費者がどこでどんなふうに何を飲みながら何を考えているか、知りたいのだろう。
実に健全な好奇心である。


カウンター

私がカウンターでの飲み食いを覚えたのは、パリに留学していたときだった。
通常、ブラッスリーでは、カウンターを利用すると、値段が少し安くなる。
貧乏学生だった私は、しばしばカウンターを利用した。
そのせいか、私は「カウンターが似合う人間」になったようである。

先日も、都内某所のふつうのバーで止まり木に座っていると、給仕が言うには、「お客さん。ひとりで飲むの、似合っているね。落ち着いていて。いいと思う」と。
褒め言葉、お世辞だったのかもしれない。
けれどもそれは要するに「孤独が板についている」の意であろうに。
果たして褒めるに値することなのか。
「個が確立している」と言い換えることも可能かもしれない。
それは近代人としては大事なことだろうが、それが楽しいか否かはまた別問題だ。

たたずまい

なにはともあれ、しばしば止まり木に座る。
たまたま席を同じくした見知らぬ客との、何気ない二言、三言の会話も、面白い。
私の場合、不思議と若者から声をかけられる。
それは私の自尊心をくすぐる。
若者は不潔で威張っている酒飲みには話しかけないものだ。おそらく私はそれなりに優しそうに見られているのだろう。悪い気はしない。

というのも、私は昔から威張る老人が嫌いだった。威張るという行為の裏側から透けて見える卑屈な劣等感が気持ち悪かったからだ。
ああいうふうにだけはなりたくない。もっとフランクに、隣人を自分と平等の、自由な市民としてみなす友愛の文化をこの国にも育みたい、そう思って、フランス革命を勉強してきたし、今でも勉強し続けている。

ところでカウンターは、自由と平等が支配する空間である。

ひとはカウンターで、隣席の客の「たたずまい」を感じ取り、そして判断する、このひととは分かり合えるか否か。

この「たたずまい」というものを構成する要素は果たして何なのだろう。
AIが、ある人物のたたずまいを認識しようとしたら、なにから分析を開始するのだろう。
着ている服?仕草?学歴?職業?家族構成?それとも飲んでいる酒の種類?

知らぬが仏?

以前、あるバーテンさんに「ホッピーって、なあに」と尋ねたら、「西願さんが飲むものではありません」と返された。
こういうことはよくある。
女友達に「回転寿司って、なあに」と訊いても、あるいは「江頭さんって、どんな芸人さん」と訊いても、いつも答えは同じ、-「あなたが知らなくてもいいものよ」。

かくして私が知っている世界、あるいは知っても良いとされている世界は、どうやら限定されている。
でもそれであんまり損をした経験もないので、「ま、いいか」と思っている。

むしろ知っているからこそ、悲しくなる経験の方が多い。
例えば日本では、Suzeを置いていない店がある、モヒートを作るときにシロップを入れる店がある、などなど。

畢竟、こんなふうに自分自身と、自分自身の知と向き合う時間、それがカウンターでの私の飲み時間なのだ。
自分自身を忘れがちな日々、それは貴重なものである。

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