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[中編小説] 尾花結花のお見合い事件簿

とりあえず自分が長編小説を書けるかテストしてみた作品。結果は90,977文字。誤字脱字のチェックすら一切していないのでご容赦。
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#序章・天使の手毬唄(てまりうた)

 私の名前は尾花結花。湘南四葉学園高等部の一年生。
 自分で言うのも何だけれども、とてもかわいいと思う。これはうぬぼれではなくて、本当のことだ。なぜなら祖父母や両親、ご近所の皆さんが「結花ちゃんはかわいいねえ」と言って下さるからだ。他人の言うことを素直に受け入れることができるのが、私の美点の一つだ。
 一つというと別な美点を質問されるかもしれないけれども、それは向上心が無いことだ。おかげで自分の成績が今ひとつでも、それがストレスで腹痛になって学校を休むことがない。ただし球技大会では、卓球は中等部の子たちに絶対負けたくないと思っている。負けず嫌いなところはあるかと思う。あれ?
 念のために美点をもう一つ紹介しておくと、それはくよくよしないことだ。通信簿に「もう少し深く考えてみることを心がけてみることをお勧めしたいです」と書かれてしまったことがあるけれども、特に気にしていない。先ほどの負けず嫌いは、実は向上心があるから悔しくてストレスが溜まっているような気がするけれども、それも気にしない……って、少しは気にしているのかな。いいもん、冒頭から破綻していても、ちょっとしか悔しくないもん。
 ちなみにキャラとしては、陰キャに属すると思う。父親を基準に考えると、彼に遠く及ばない私なので、それが陰キャだと自己診断する根拠となっている。しかし万一彼が陽キャを越えて脳天気と呼ばれる階位に属するのであれば、私はそれなりに陽キャと位置付けられてしまうかもしれない。その場合は『陽キャだけれどもチキンなヤツ』ということを認める吝かさ(やぶさかさ)ではない。
 なお父親……『お父さま』だけれども、子供時代は泣き虫で有名だったらしい。だからいつかサナギからチョウに成長するように、私も言動が劇的に変化する時が訪れる可能性は無視できない。
 そういえば成長と言えば、身長の伸びは止まりつつあるらしい。ただし成人した日本人女性の平均身長をギリギリでクリアしているので、とりあえず満足している。英語だと”アベレージ・ジョー”という表現があるらしいけれども、身体的な特徴は”かわいい”の一言に尽きる。それも無ければ……ま、いっか。
 ところで成人といえば、最近は十八歳で成人ということになっているらしい。そのうち新学期が米国みたいに九月になったら、ただでさえ苦労の多いマンガ家や小説家の負担がさらに増大してしまわないかと心配だ。
 なお心配する理由は、私のささやかな願いとしては、大人になったら親のスネ……は貧弱過ぎるので、出版業界やゲーム業界に就職できると嬉しいと考えているからだ。そうそう、趣味はゲームとイラスト作成だったりする。
 それにしても両親を見ていると、清く正しく美しく生きていくって、実はとても大変なことなのかもしれない。『貧しく』は簡単だれけれども。

 さてそういった私なので、お調子者な小説家の父親のお目付役として、K出版社の忘年会にお目付役を兼ねてお供することになった。
 そしてそのことがキッカケで、お見合いだとか事件に巻き込まれることになってしまった。本当に、持つべきものは信頼できる良心……じゃなくて、信頼できる両親だと痛感させられてしまった。
 そんな訳でーーと書くと『どんな訳?』と突っ込まれかねないけれども、この事件簿では特徴的な父親ゆえに私が巻き込まれてしまったお見合いや事件の顛末記を綴っている。
 綴っているということは、とりあえず私は今も生きているということだ。どうぞ安心してお読み下さい。父親が生きているかどうかは、最後まで読んで頂かないと分からないけれども。
 それでは、はじまり、はじまり。

#第一章・サジは投げられた

##1

 我が輩は猫であるーーじゃなくて、私は尾花結花で、我が父親は作家の尾花清彦であるーー形の上では。
 どうして『形の上では』という注釈が付くかというと、一つ目の理由は専業作家ではない。本業は会社員で、副業として本を執筆している。
 そして二つ目の理由ーーこちらの方が重要なのだけれどもーーつい先日、新人賞を受賞したばかりだ。だからプロ作家というのはおこがましくて、まだまだアマチュア作家に過ぎない。私が湘南四葉学園中等部を卒業する頃に受賞したのだから、我が親ながら、あまり才能や運には恵まれていない。
 そういう者は山ほどいて、だからこそ新人賞に引っかかった今こそがラストチャンスーー重要な時期なのである。扶養家族としては、才能や運が無くても何とか食いつき、ジャンルや手段を選ばずに印税とやらを”がっぽがっぽ”と稼いで欲しい。女の子がはしたないと言われてしまうかもしれないけれども、生きて行くって本当に大変だし、今は男性女性を区別する時代ではなくなって来ている。
 それに私はイラスト作成に関連する職業……できればゲーム業界か出版業界に就職したかった。だからK出版社から忘年会のお誘いを頂いた時には、お目付役と社会勉強ということで同伴参加させて貰うことにした。
 だが無意識のうちに期待に夢膨らませて出席した忘年会は……社会の厳しさを味わうことになった。会場は華やかな雰囲気に包まれており、私でさえ顔をみかけたことのあるような大物作家が談笑する一方、我が父親は『壁の花』だった。まだ実績ゼロに近い者が、パイプやコネを持っていなければ、『ぼっちゃん』ならぬ『ぼっちちゃん』になるのは、当然の成り行きだった。
 私はかわいさには自信があったけれども、業界では高校世代で本格的に活動開始するような強者もいる。若さはここでは武器にならなかった。
 おまけに若く才能を開花させた子たちもいるけど、みんな結構かわいい。
 仕方がないので、食事に専念することにした。
「父ちゃん、このスモークサーモンはおいしいねえ」
「ママにも食べさせてやりたかったな、娘よ」
 そんなしょぼくれた会話をする親子の母親は、この手のイベントには慣れていない。親子三人でイナゴのように飲食物に群がるという、とても恥ずかしい光景が繰り広げられることはなかった。。
 それにしても、夢のような光景だ。
 雲の上の人たちが、目の前を歩いている。
「すごいねえ、なんかオーラが違う。ちなみに父ちゃんの場合は後光というか、後退した生え際の反射があるから大丈夫だよ」
「オーラがないのは認めるから、さらに踏み込んで『広いおでこ』と言ってくれると嬉しい」
「…………」
 口の減らない御方である。ただしこの多弁でひねくれたモノ良いが、本の執筆に生かされているようなのは幸いだ。
 人間、なにかしら取り柄というのは持っているものだ。
「お、デザート類が出て来たぞーー君はまだ食べるのかね」
「デザートは別腹というでしょ」
 私は山盛りになったケーキを驚いた目で見つめてしまった。ウエディングケーキと言っても過言じゃなさそうだ。あっちはフルーツパーラーみたいな光景だ。
 世界中の全ての女子高生の夢見る光景が、目の前で展開されている。友だちに自慢するために撮影したいところだーー
「撮影しても構わないよ」
 振り向くと、部下か秘書らしき人を従えたおじさんがいた。なんかエラそうーー
「これは崎村社長、お世話になっております」
 ーーあらら、本当に偉い人なのか。ともかくエスパーみたいに察しの良いおじさんだな。
 さらにこちらに近づいて来たので、私は黙ってお辞儀をした。
「やあ尾花先生、今年はありがとうございました。来年もよろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
 おやおや、父親にしては珍しく常識的に振る舞っている。さすがに雇い主みたいなものだから、新米作家としては絶対服従というというところだろうか。
 もちろん服従する義務はない。天与の才であれば、立場逆転となり、向こうがこちらを『上にも置かぬ』おもてなしとなるだろう。しかしそこらへんはお互いに客観的に評価できているようで、もちろん才能が豊かとはいえない我がダディの方が臣下のようになっている。
 これを屈辱的と見る人もいるかと思うけれども、私はそうは思わない。実力が全てを決めている訳であり、極めて健全であるような気がするのだ。そうでなくても『おだて』に乗りやすく、さらに調子にはさらに乗りやすい性格だから、たまには良い薬だろう。
 良薬、口に苦し……だっけ?
「いやそれにしても、かわいらしいお嬢さんですな。おまけに落ちついている上に、品がある。羨ましいものです」
 ーーん、私のこと? 社長さん、さすが人を見る目がありますな。
「いやいや、全く大したことありません。私に似て、妙にひねくれた性格になってしまっただけですよ」
「いずれにせよ、こんなに若いのに父のように振る舞えるなど、大したものです」
「はっはっは、そうおっしゃっていただけると恐縮です」
 なーにが、『はっはっは』だ。帰宅したら、おしおきだ。ママにチクってやる。
 あまり調子に乗りすぎないように、こちらは努めて冷静に、彼の方へ冷ややかな目線を送る。もちろん社長さんには見えない角度で、だ。
 しかし私の牽制も、見えなくてもちゃんとお察しになったらしい。
 興味深げに視線をこちらへ移動させて来た。
 う、なんかイヤな予感がし始めたぞ。
「それにしても興味深いお嬢さんだ……」
 さらにイヤな予感が高まってくる。
 テツロウ? キタロウ? よく覚えていないけれども、私には妖怪アンテナならぬ、アホ毛アンテナがある。そのアンテナが、全力で逃げることを進めてくる。
 もちろん本体にしても、脱兎のごとく……、ウサギさんのいるお月様まで逃げたい心境である。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンだっけ?
 ウサギをフライにしておいしいという話は聞いたことがないけれども。私にしても”ヘンゼルとグレーテル”のように、『まだまだ僕はがーり、がり』というところである。
 しかし社長さん、そうは思わなかったようだ。
「どうですか。お二人にはご迷惑をおかけして申し訳ない気持ちはありますが、うちのボンクラ息子と会っていただくことはできませんかな。ーーまあ、お見合いという形で。いかがでしょうか、お父さん」
 えっ?
 ちょっと待って!
 思考が追いつかない。父上がお見合いを申し込まれた?
「それはとても魅力的な話だと思います……私だったら、今すぐ是非と言うところです。が、今は本人が決める時代かと思います。まずは子供に見合いをする気があるかを確認させて頂けますでしょうか」
 彼はそういいながら、チラリと私の方を見てきた。
 ……逃げ場がない。せめてもの救いは、目の前にいる社長さんから結婚を申し込まれたという訳ではないということだろうか。
 いくら年上が好みで、ナイスミドルなオジサマに憧れているとはいえ、結婚対象としては考えたくないよな、うん。
「えー、どこの都市も大変に魅力的でーー」
「それは、『ローマの休日』」
 う、冗談を言って逃げることは赦されそうにない。
 これは困ったな。
「そういえば、そろそろ新作を出版する時期ーー」
 うっ、大人って手段を選ばないな。
「そういえば、印税が入れば、新しいタブレットがーー」
 なるほどねえ。つまりお見合いすれば、報酬が与えられるという訳か。
 仕方ねえな、こりゃ。
「お話は理解できました。ご厚意、誠に感謝しております。お相手の方が乗り気であれば、ぜひお見合い……は、さておき、本当にお互いに向かい合って話し合う程度で構わないということでしたら、一度お会いさせて頂けるとうれしいです」
「おお、そうですか。ありがとうございます。さすがは尾花先生の娘さんだ。」
 あー、言い切っちゃったよ、私。
 自分で自分の死刑執行書にサインしちゃったよ。
「まあ、まだまだ子供ですし、色気もへったくそもないので、そこはご勘弁頂けると幸いです。何しろ我が娘なのに彼氏もおらず、塾の同級生たちでカップルが成立しているのが、うらやましくて仕方ないみたいですからなあ」
「…………」
 周囲にはなるべく気付かれないように、ジロリと父親を睨みつける。
 本当に余計なことしか言わないオッサンだ。
 思い切り、足のつま先を踏みつけてやろうかな……
「もしも本当にゴールインということにでもなれば、一気に追い越せますな」
「どうなるでしょうね……ただし確かに、保護者も合意があれば十六歳から結婚は可能でしたな。うーん、家内がビックリするかもしれません」
 それまで黙っていた社長の秘書が、さりげなくスッと両者の間にやって来た。
「ご安心ください、尾花先生。民法が変わったので、女性の婚姻可能な年齢は十六歳から十八歳に引き上げられました」
「なるほど、そうすると今までの作品は、必要に応じて見直しをした訳ですか」
「その通りでございます。和田先生などは、『そのまま』を貫かれましたが」
 うんうん、と、崎村社長は頷いた。
「それでは尾花先生、今日はこの辺で。お見合いの件は、詳細を秘書に詰めて貰うようにします。それから次作、くれぐれもよろしくお願いいたします。我が社としても大いに期待しております」
「ありがとうございます。鋭意努力いたします」
 そんな会話の後、崎村社長は去っていった。
 コホン、と、私は咳払いをした。
「――誰が、色気がなくて、モテないって?」
「いや、これはすまない。君が断りやすいように、と、援護射撃しようと考えたからだよ」
「援護射撃?」
「そそ、悪気はなかったのだよ。少なくとも」
「――まあ、そういうことにしておきましょ」
 微妙に援護射撃ではない成分も含まれていたような気がするが、この際はヨシとしよう。ともかく決まってしまったことは、いまさら後悔したところで何の得もない。
 それに……
 結婚可能な年齢が十八歳に引き上げれたので、「もしかしたら……」という緊張感には欠けるところがあるものの、それはまあ法律的な話だ。年頃の彼氏のいない女性ならば、誰でも見合いというものに興味はあるだろう。少なくとも、私は興味ある。
 昨今は『お見合いおばさん』からマッチングアプリ全盛の時代になってしまったらしいが、ともかく出会いというものが、無ければ、何も始まらない。それにK出版社は、将来の就職先として大変に有望だ。現実的な面接試験などでは役に立たないかもしれないが、少なくとも志望動機の説明くらいには使えるだろう。
 そうやって考えてみると、全く悪くない『お誘い』だった。もしかしたら父親の将来に悪影響を及ぼすかもしれないけれども、その時はその時だ。少なくとも減じてんでは、お見合いを断る方がマイナスだろう。
 人生というものは、確率を無視して生きていくことはできない。
 自分の現状があって、期待する未来があって、才能や能力や運によって、どうなるかが決まっていく。たとえ人間が物理法則に従うだけの存在だとしても、未来は不確定だ。
 それに、ただ何かを待っているだけでは、向こうから幸運がやって来ることは期待しにくい。今は女性は素直で従順であれば良かった昭和時代ではなく、女性から動くことが大切な令和時代なのだ!
 自分なりに、肚は決まった。
 と、いう訳で、私は中断していたデザートを楽しむべく、父親と一緒にテーブルへと突撃したのだった。

##2

 さて婚姻可能な年齢が十八歳に引き上げられていたという衝撃的な事実(誰にとってだ?)のおかげで前置きが長くなってしまったが、そこから先はスムーズに進み、二週間ほどで、『いよいよ明日はお見合いの当日』というところまでやって来た。
 いや……正直に告白しよう。スムーズに進んだといったものの、実際にスムーズに進んだのは時間だけだった。
「どうして高校生がお見合いなんかする必要があるの!」
 と、予想外なことに母親が悲鳴を上げた。
 あれっ、この手の話って、父親が娘の去って行くことに抵抗するんじゃなかったっけ? 結果がどうあれ大手出版社の社長息子って、『玉の輿』に近いんじゃないだろうか。
 とりあえず母親のささやかな抵抗(?)は、「毎月の生活費を減らす危険は冒したくないでしょ?」で一旦解決した。なんだかんだ言って、お金というものは大切だ。
 それにしても、これはまだ良い方だった。
 それよりも『壁に耳あり、障子に目あり』で、なぜか私がお見合いをするという話が、あっという間に学校内に広まってしまった。それなりの学校なので、大手出版社の忘年会に出席していた両親だとかいった身内が存在していたらしい。
 まあ誰だって、いくらクリエイティブな業界といっても、女子高生の見合い話を耳にしたら吃驚するよな。それに今のご時世は障子などとは縁がなくなりつつある気がするけれども、野次馬は健在らしい。それに同じ女子校に通う者が男性と縁を持つーー縁談だからその通りだろうーーという話は、他人事ではないかもしれない。
 それに世の男性諸君の夢をぶち壊してしまうけれども、女子校というのは、男性がいない分だけ遠慮のない面を持ち合わせていたりする。
かくして私の見合い話は、忘年会翌日の昼過ぎには、ほぼ全校生徒が知るところとなっていたしい。そして聞くところによると夕方には、生徒のウワサ話のレベルを超えて、職員室の話題とのことだ。

「人のウワサも七十五日というじゃない。すぐにみんな忘れてしまうわよ」
 喫茶店でフルーツパフェを前にして、そう言ってくれたのは、友だちの香川あゆみだ。持ち前の楽天的でお気楽な性格は、たとえ彼女が私の立場になっても、大して困らないような気がした。
 うらやましい限りだ。
「『七十五』には、『終わり』とか『果て』という意味があるわ。たしかに結花がソツなく問題なく無事に見合いを終わらせることができれば、七十五日後には忘れられているでしょうね。『結婚に向けてゴー!』ってならない限りは」
 そういってくれたのは、武田美里だ。的確な分析力を持ち、頼りになる姉御肌の友だちだ。ただしこの場合、あまりに的確すぎて、バッサリ切られているような気もするけど。
「問題なく終わってくれると嬉しいけどねえ」
「それはあんた次第でしょ、結花」
「…………」
 うぬぬ。
 たしかに彼女の言う通りだ。
 いろいろとオマケがたくさん付いてくる菓子みたいなものが『お見合い』というものだけれども、今は二十一世紀だ。戦国時代じゃあるまいし、政略結婚などで、本人の意思が無視されるようなことはない。
 さりげなくカドが立たないように縁談が終了して、無事に大学生になれれば、出会いの一つ二つ……いや、二つや三つくらいはあるだろう。
 トーヘンボクな父親はさておき、私は母親に似ていると言われる。私くらい可愛ければ、それなりに大学生活を謳歌できるだろう。
 おそらく、たぶん。だって祖父母や近所の人が……
 それに今の時代は、マッチングアプリというものがある。昔のように、同級生とか職場の同僚とか、お見合いだけが『出会い』の場ではないのだ。現代の縁というものは、『無かったら、つくってしまえ、ホトトギス』なのである。
「ともかく、お見合いの後は、そっとやさしく労ってね」
「リョーカイ」
「了解」
 やはり女子高生が持つべきものは、彼氏よりも友人だと思う私なのだった。
 ――彼氏持ちは、うらやましいけどね。

 さて何かとドタバタする尾花家とは対照的に、崎村家には何事も起こらなかった――少なくとも、表面的には。
 忘年会で社長に付き添っていた秘書からは、秘書室長に報告がもたらされた。そして黒ヤギさん――ではなくて秘書室長は、見合いの件をプライベート担当の秘書である志村大介に伝えた。
『プライベート担当の秘書』とは、崎村家における執事のような存在だ。K出版の社長である崎村清彦ともなれば、自腹で執事を雇うくらいの余裕はある。しかし個人で執事を雇うと、自ら会社と家庭の話を切り分ける必要が生じてくる。今は個人情報保護の時代なので、会社内の情報が執事に漏れてしまうというのも、コンプラアンス的に望ましくない。
 かくして昨今は『主にプライベートを担当する秘書』という存在がアサインされる。労働基準法的には微妙なところだが、そこは副執事役の秘書も存在し、適当に休暇を取れる形にしている。ちなみに日本における秘書というのは企業においては特殊な存在であり、人事部と同じく、労働組合には所属していない。
 ともかく志村大介はK出版社の厳しい採用試験を無事にくぐり抜けて社員となった存在である。執事役を任されている通りで、性格も能力も申し分が無かった。日取りの調整やホテルの予約、当日の段取りなどはスムーズに決定された。
 もちろん志村は執事役であり、実務的なことを担当する者が必要となる。そこは『家政婦は見た』ではないけれども、崎村家では園村宏美という家政婦が住み込みで働いていた。志村からの指示により、ホテルにおける当日の食事メニューなどは園村が調整した。どこから入手したのか不明であるが、尾花家のアレルギー情報まで手にしていたのだから、大したものである。
 ともかくお見合い当日の段取りや、崎村家における準備は、万事が滞りなく進んだ。

 ただし何事においても、予想外の状況というのは存在する。
 尾花結花が友だちに喫茶店でグチをこぼした見合い前日の晩、崎村家の一室では長電話をしている者が存在した。
 崎村清彦の息子である崎村慎司――つまり尾花結花のお見合い相手である。実は何を隠そう――というか、ある意味で当たり前の話ではあるが――彼女が存在していた。
 慎司も三十路――三十歳を超えている。考えてみれば、当然の話ではある。そして当然のことながら、お見合いの話で揉めていた。
「だから――大丈夫だって」
「何が大丈夫なのよ、慎司さん。ピチピチの女子高生を前にして、あなたは平然としていられるの? そんな人間、この世に存在するのかしら」
「存在するよ。そもそも最近は高校生アイドルはおろか、高校生イラストレーターとか作家だって多い。仕事をお願いすることも多いんだよ。少し若いくらいで心を動かされていたら、この業界で仕事なんてやっていることはできないさ。それに今回は親父が計画したことだからね――全く興味のない者と会っても、僕にも好みというものがあるさ」
「どーだか。いつになく饒舌じゃないの」
「そりゃ君が納得してくれないからさ。別にアイドルを相手にする訳じゃないし。何より僕には、君がいるじゃないか」
「だったら私をご家族に紹介してくれても良いじゃない」
「お袋には君のことを話しているさ。親父はまだだけど、それも最近は顔を会わせることが少ないからさ。誰だって彼女を家族に話す時は、心構えを必要とするさ――たとえそれが男性であってもね」
「私の弟、彼女をお父さんに紹介していたわよ」
「そりゃ、君の弟さんは優秀だからね。僕みたいに出来が良くないと、親父に物申すのは苦労するのさ。もう会社の後継者はちゃんと見つけてあるっていうのに、勝手なものさ」
 そう言うと彼は、ため息をついた。
 磯村真菜とは幼稚園の時から同じ私立学校で高校まで一緒だったので、幼なじみといっても良い関係である。だから母親の崎村幸恵には、特に隠すこともなく付き合っていることを話してあった。幸恵も真菜のことは、幼稚園の時から知っていた。
 しかし父親というのは、それにも増してK出版の社長として、崎村正造は子育てに関わる暇がなかった。当然ながら、真菜とは面識が殆ど――いや、全くないと言って差し支えないだろう。
 とはいえ、慎司が三十歳を過ぎているということは、真菜も三十歳を過ぎているこということだ。
「私たち、別れた方が良いのかなあ」
 ボソリと、真菜がつぶやいた。
「ちょっ、ちょっと待ってーー」
 慎司とてK出版社のカリスマ社長の息子である。恵まれた環境で育ったために『大胆さに欠ける』と言われることはあるものの、ボンクラ息子ではない。父親に頭が上がらないのは、社長は無理であることは認めていたが、取締役の椅子は視野に入れていた。そのため、彼女のことも明かさなかったのだ。
 長年の付き合いではあるが、別れ話を切り出されかねないかねない状況であることは承知していた。ただし今まで真菜の家に遊びに行くこともあり、彼女の両親は心配させないように心がけていた。
 そういった点で、甘さがあったことは否定できない。それゆえ早々に、社長レースからは『脱落』ということになってしまったのかもしれない。
「ーーこう言っちゃなんだろうけど、今はタイミングが良くないよ。君を不安にさせていたことは、僕が悪いーー本当に悪い。それに君の考えも良く分かった」
「本当に?」
 ここが勝負所である。慎司は深呼吸をした。伊達に偉大な父親を仰ぎ見ながら生きてきた訳ではない。
「もちろん本当さ。ただし親父や先方の立場もあるから、明日のお見合いをやめることは出来ない。ただし終わったら、一週間以内に親父に紹介するように進めるよ。もしかしたら親父が忙しくて、延期ということになるかもしれないけど」
「…………」
「僕が今まで、約束を破ったことがあるかい」
「あるわよ、何度もね」
 針を刺すような、冷たい返事が返ってきた。
 しかし慎司は慌てなかった。
「それは小さいーーって言っては何だけれども、勤め先を決める時とか、今回みたいに大事ではない時の話だろう。これは君と僕という、二人の将来に関する一大事だ。何だったら、君の家へ伺っても構わない。ともかく明日が終わるのを待ってくれないかな」
『待ってくれないかな』という表現に腰の弱さが滲み出ているものの、これが慎司の本質である。今は欠点として表れてしまっているが、場合によっては彼の良いところでもある。
「ーーわかったわ。明日が過ぎたら、すぐに連絡を貰えると思って待つことにするわ」
「すまない、ごめんね。なるべく早く、話を進めるよ。じゃあ、今晩はこのくらいで」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 そうして、若い……二十一世紀の現代においてはまだ若いといえるカップルの通話は、一段落したのだった。

 しかし崎村慎司と磯村真菜が熱い(?)やりとりをしている時に、別な場所で、人知れず進行していることがあった。
 パソコンに向き合った人物が、テキストエディタに文字を入力し続けていたのである。

 認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない。認められない……

 もちろんこれは、尾花結花や崎村慎司の知らないことである。
 そうやって、お見合い前日の夜は更けていったのだった。

#第二章・悪魔が来たりて銃を撃つ

##1

「あなた、早く着替えて!」
「着替えてって、この格好じゃダメなのか」
 尾花清彦は、しげしげとジャケット姿の自分を見つめた。
「ダメに決まっているじゃない! 正装よ。せめてスーツを着て!」
「僕にとっての正装は、和服姿になるのかなあ」
「お父さんはミステリーというよりもSFに近い内容が多いから、スーツ姿が適当なんじゃない?」
「そうか、結花。君には僕が推理作家には見えないのか」
「推理小説だったの、あれ? だったら今の私の状況も、推理してよ。帯が苦しくて、殆ど息ができないわ」
「ふむ、顔色が良いとは言えないけど、いつものことだろ。とりあえず脈を取る必要はなさそうだな」
「ひどーい」
 和服はレンタルしたものだが、落ちついた紫色のトーンが彼女に似合っていた。友だちの香川あゆみなどが結花のこの姿を見たら、口が悪いというか率直に「馬子にも衣装ね」と言ったかもしれない。
「ともかく、早くスーツに着替えてっ!」
 毎度毎度のことではあるものの、尾花家は出発前の慌ただしさがピークを迎えていた。この母親がブチ切れるーー失礼、精神的に余裕がなくなる光景は旅行に行く時なども繰り広げられるので、二人とも慣れたものである。
 泣く子と地頭と奥さんには勝てないーーそのことを百も承知の尾花清彦は、おとなしくスーツを探し始めた。
 その様子を確認した妻の結子は、自分の支度を続けた。
 彼女の場合は、スーツ姿である。果たして今日現在でも無事に着用できるかという問題があった。
 ちなみにスーツを正確に説明すると、”ストレッチロング丈マーメイドスカートスーツ(キーネックジャケット+スカート”というレディース・スーツになる。とりあえず歴史物でなくて現代物で助かったという状況である。(誰が助かるのかって? もちろん物語の作者である)
 そしてドタバタと支度が続くこと二十分、ようやく支度が整った。
「さてそろそろ家を出ないと。電車一本とは言え、田舎からはるばる一時間だ。電車事故でもあったら大変だ」
「そうだね。早く出ようよ。ちゃちゃっと済ませて、さっさと帰ろうよ。もう和服がツラくなって来たよ」「お見合いを『ちゃちゃっと済ませる』とは何事ですかっ!」
「…………」
 母親はテンションMAXに達しているようだ。結花は首をすくめて、亀型怪獣のように無難にやり過ごすことにした。
「さて戸締まりを再チェック……特に問題なし、と」
 清彦は、皆に聞こえる大きめの声で言った。なお彼が心の中で、自分が妻と見合いをした時は、ちゃちゃっと済まされたという感想を持っているかは、彼の表情から読み取ることは出来なかった。
 ともかく尾花家の一同は、予定ギリギリで電車に乗ることができた。
 ちなみに一時間の行程ともなると車を使いたいところではあるが、そもそも尾花家には自家用車が無かった。それに清彦は自動車一族とも呼べる血筋だったが、車の運転は苦手だった。おまけに頑張って弟の結婚式に車ではせ参じた時は、首都高の渋滞に捕まって遅刻した。そしてその時には、まだ幼児だった結花がーー幼児なので備品を持ち歩くために車を選択したという話でもあるがーー車中で『ケロケロする』という事態もあった。
 その本日の主役である結花は、高校生となった現在も自動車は得意でない。かろうじて学校まで二十分のバス通学には耐えられるようになっていたが、片道一時間は微妙なところだった。
 そんな訳で年末年始シーズンに加えて成人式シーズンということもあったけれども、尾花結花は電車の中で和服姿を披露したのだった。
 彼女に目を止める者も多かった。
 自称『かわいい』はさておき、なにしろ十六歳になったばかりの『ピカピカの高校一年生』である。
 昨今は成人式が十八歳になったことにより、若い和服姿の女性の最低年齢も低下したが、『乙女十八、番茶も出花』といった、昨今のコンプライアンスに引っかかりかねないような表現も存在する。そのくらいの年齢になると、ピチピチが適当になり、やはりピカピカは十六歳未満……厨二病を患っているあたりの年齢までしか使えない。
 つまり尾花結花は、電車の中で大変に目立つ存在だった。
「あー、あと一時間は電車に乗り続けるのか……」
 無事に乗った電車が出発する際、思わずため息が出るのも、無理の無いことかもしれなかった。
「すまんが『我が家の家計のため』と思って、我慢してくれ」
「わかってるわ。できるだけホテルでは笑顔を振りまくように頑張るわよ」
 それにしても冷静になって考えてみると、娘が和服で、母親がスーツというのも違和感があるかもしれない。
 しかし崎村正造社長に気に入られ過ぎると、あとが恐い。
 そんな悩ましい状況の下、尾花家はお見合い会場のホテルへと向かうのであった。

 一方で崎村家は、万事がスムーズだった。
 執事役である秘書の志村大介が全てをお膳立てしており、それを執事補佐というか、家政婦の園村宏美が補佐するフォーメーションである。
 母親である崎村幸恵が慌てる余地は一切なかった。朝食、着替え、ホテルまでの移動方法は全て整っていた。
 ホテルへの予約や支払いも、一般人のように現地でやる手続きは一切なかった。志村&園村チームが万事を仕切ってくれているからだ。
 そんな訳で崎村家は何も考えることなく、定刻通りに自宅を出発し、定刻通りにホテルへ到着した。もちろん得意客なので、車がホテルのエントランスに到着するなり、彼らは予めホテル側が割り当てていたスタッフに迎えられ、そのまま待ち合わせ場所へ案内された。
 いつもだとロビーへ案内されることもあるが、今回は事案が事案である。崎村家の知り合いも利用しているので、遭遇することもあり得る。そんな訳で一同は、そのままお見合い会場として予約してある広間へと案内された。

 それと時を同じくして、尾花家の一同もホテルへと無事に到着した。
 かくして、決戦の火ぶたは切って落とされたのである。

##2

 お見合いはある意味で、パターン通りに展開が進んだ。
 すなわち一同はコース料理の会食をしながらお互いに自己紹介をしながら会話を始めたのだが、その会話の七割以上は母親たちの発言であった……いや、七割よりも八割に訂正した方が良いかもしれない。
「今日は天気が良くて、移動(ホテルまで歩くのに)に助かりました」
「本当に天気が良くて、移動(雨のため車利用増加による渋滞の未発生)が楽で良かったです」
 互いに微妙な格差はあるは、お互いに母親という点では共通している。
 そして年齢に関係なく、崎村慎司も尾花結花も、教育や躾はたしかだった。すなわち年齢差はあれど、ともかく縁談相手として相応しいと合格点を得た訳である。ともかく母親たちの機嫌をそこねることがないことに、父親たちは密かにほっと安堵のため息をついた。
 しかし面白くないのは子供たちである。
 崎村慎司にしてみれば、磯村真菜のことは事前に含みを持たせていたので、形式的な見合いで終わるだろうと期待していた。まずはその前提条件が、根本から覆されてしまった。会場までは『夫に付き添う控えめな良妻』を演じていた母親が、縁談相手の少女をベタ褒めする。
「さすがは(湘南と前置きが付くけれども)四葉の名前を冠する学校に通われるお嬢様ですわ」と、本人とは関係ない部分まで褒め始めた。
 学校名を尋ねることなく発言したということは、事前に紹介資料に目を通していたのだろう。
『まんまと策士の術中にハマってしまった』というのが、慎司の率直な感想だった。
 しかし第三者として考えてみれば、無理からぬ話である。
 もちろん母親としては、息子を支えてくれる良妻であることが条件であり、磯村真菜は条件に当てはまる。早く結婚して欲しいと願っている。その基本姿勢に変わりはない。
 ただし自分たちの老後は、自宅で一生を遂げるなり、高級老人ホームに入れば良い。しかし幾ら資産があるとはいえ、息子が老人になった頃の状況まで見通すことは難しい。ありえないことだが、たとえばアル中になってしまった場合、支えとなるのは配偶者である。ボケや認知症のリスクもある。
 その点、これだけ若いと尾花結花は、慎司と一緒にボケや認知症に苦しむという可能性は皆無である。慎司が正造を説得できないのであれば、これは貴重なチャンスだと思えた。たしかに婚姻可能な年齢は、女性も十六歳から十八歳へと引き上げられた。しかし法的な結婚は無理にせよ、事実婚(?)は禁じられていない。
 慎司にしても三十歳になったばかりであり、自分たちも健康だ。今すぐ孫の顔を見なければ気が済まないということもない。逆に見ると、二年ほど相手のお嬢さんをしっかりと見定める時間を得られるというものだ。
 つまり母親としては、千載一遇の機会と目に映った訳である。

 一方で尾花結子にしても、これはまたとない機会であった。
「まだまだ子供ですし、やんちゃなところが多いです。慎司さんのようにしっかりした方がいてくだされば、どれほど頼もしいことでしょう」
 たしかに年齢は、二倍近い差が存在する。
 しかし今ひとつ頼りない娘には、このくらいの青年の方が安心できる。今は私立の女子校だから、理想の彼氏を見つけることは難しい。勝負は大学生になってからだけれども、昔と今は時代が違っている。良家の箱入り娘というだけで結婚相手に困らない時代は終わった。
 おまけに旦那のように、日雇い労働者のように小説を書いて生きる必要はない。次期社長ではないものの、世間に知られた大手K出版社の社長息子である。
 なかなかハンサムというだけでなく、育ちの良さが顔に滲み出ている。一代でK出版を築き上げた父親のような豪快さはないけれども、家庭は安定第一である。
 彼女自身、家計のやりくりに苦労する日々が続いている。いちおう清彦は、世間に名の通った大手メーカーの社員ではある。しかし出世街道からは完全に見放されて久しい。だから副業として、小説を書いて小遣い稼ぎをする必要がある。
 自分はそのことに不満はないけれども、娘にはそんなことで苦労はさせたくない。
 その点で堅実で手堅く人生を送っているように見える慎司は、またとない逸材だった。
「本当にしっかりした息子さんで」
「ありがとうございます。しっかりし過ぎた面があるようで、この歳まで浮いた話の一つもなく、母親としては女性に興味がないかと心配になるほどですわ」
「母さん!」
「あら、だったら良い人を連れて来て頂戴よ。休みの日まで会社で仕事したり、接待ゴルフにばかり勤しんで、母さんは心配しているのよ。お父さんが学生さんと見合いだなんていうから驚いたけど、結花さんにお会いして納得できたわ」
「…………」
 真菜のことを知っているあなたが、どの口でそんなことを言う……と言いたいところであるが、さすがに見合いの場では何も言えない。
 逆にここまで追い詰められると、どちらと縁談を進めるにせよ、ともかく早く具体化するしかない。名軍師諸葛孔明に追い詰められた司馬遷のような心境である。
 それに対して幸恵は、涼しげな表情だった。
 これだから女性というのは恐ろしいと、防戦一方の慎司であった。
 かくして『戦場にかけられた橋』というか、両軍(母親)たちの間には奇妙な友情関係に似たものが芽生えていた。

 一方で尾花結花としては、あまりに役者が違い過ぎるので、黙々と食事に勤しむしかなかった。
 尾花清彦のような、ネジの外れた父親を持つ娘である。上品に表現すると『やんちゃ』とも言える”何か”は持ち合わせている。
 しかし父親はともかく、業界の中心的存在とも言われる尾花清彦が目の前にいる。迂闊な発言をして、墓穴を掘ることはできなかった。
 それに何より、崎村慎司は結花基準からすると、『けっこうイイ人』に分類された。歳は離れているけれども、何より落ちついた雰囲気が良かった。自分に火の粉が降ってきそうになると、さりげなくカバーしてくれる。
 彼女としてはフォークとナイフを手に持っているものの、『箸にも棒にもかからない人』ではなかったことに安堵していた。
 ただし結花は『腐っても鯛』である。
 自称ミステリー作家である尾花清彦の娘として、慎司が左手の中指に指輪を嵌めているのを見逃さなかった。落ちついた企業人であるはずの彼なのに、遊び人とは言わないものの、なかなかオシャレっぽく見える指輪を装着している。
 彼女からプレゼントして貰ったものだろうか?ーーたぶん間違いなく、母親の幸恵さんは気付いているだろうな……
 小学生時代のお気に入りの本が”銀河英雄伝説”だけあって、聡明な結花には、この場で何か仕組まれた政治劇が進行中であることが、薄々と感じ取られた。
 そんな訳で彼女としては、母親たちのように、慎司との間に橋がかかるような感覚を持つことはなかった。「結花さんは好き嫌いなく、何でも食べることができるのね」
「はい、何でも食べます。元気なことだけが、この子の取り柄ですから」
 そんな会話を聞き流しながら、黙々と結花は皿を片付けることに専念していた。

##3

 何はともあれ会食は無事に終わりに差し掛かり、デザートと一緒にコーヒーが出されてきた。
「ちょっとお手洗いに」
 結子が立ち上がりかけた時、
「私も」
 と、結花が立ち上がった。
「ご案内しましょう」
 と、慎司も立ち上がった。
「スタッフが控えていてくれているんじゃないか?」
 崎村正造は訝しげに尋ねた。
「そうですね……。でも座りっぱなしで、少し体が固くなったようなので」
 正造は黙って肯いた。
 広間を出ると、三人は慎司の案内で、最寄りの休憩室へと向かった。正確に表現すると広間ではなくて、高層階に設けられた小宴会場である。したがってレストランの個室とは異なるので、人影は無かったーー
 いや、正確には一人だけいた。
 三人とタイミングを会わせたかのように、休憩室から一人の女性が出て来た。実年齢は二十代後半から三十歳前半といったところだかろうか。スーツを着ているものの、かわいらしい顔立ちが印象的だった。そのため本来の年齢よりも若く見え、場合によっては学生と言っても通用するかもしれなかった。
 不思議なことに、その女性を見た時、なぜか一瞬だけ慎司が足取りが止まりかけたように見えた。人気のないところで人影が急に出て来たので、用心したのかもしれない。
 女性は軽く結花の方に目をやると、軽く会釈をするような感じで通り過ぎた。向こうにしてみれば、こんなところで年端も行かない少女(と、結花は思っている)が着物を着ているのを昼間から見るのは、珍しいことなのかもしれない。
 意外なことに、手洗いを済ませて休憩室から出て来た時、廊下にいたのは慎司だけだった。どうやら母親の結子は、いろいろと用事を済ませているらしい。
 二人は壁際に並んで立ち、結子が出て来るのを待った。

「今のは彼女さんですか?」
 ビクリ、と慎司は反応した。思わず結花の方を見る。
「さすがはミステリー作家の娘さんだ。その通りだよ。どうして分かってしまったのかな?」
 結子が急に出て来るかもしれないので、慎司は小さめの声で返事をした。
「いや、指輪で」
「それだけ? 山勘か」
「その通りです」
「まいったなあ」
 相当素直な性格らしい。たしかにこのままでは、社長の座を得ることは難しいだろう。
「修羅場は勘弁して頂けるとうれしいです」
「うん、巻き込んで申し訳ない。まさか母がここまで君を気に入るとは思わなかったよ」
「ありがとうございます」
「まあ二人だけで話す時間は、これからあるだろう。その時にでも話すよ」
「そうですね。念のためですけど、盗聴器とかは大丈夫ですよね?」
「最近の女子高生は、そんなことも考えるのか?」
「いや、人生いろいろとあるみたいですからーー父親はあの通り、ミステリー作家ですし」
「面白い子だね。君は小説を書かないの?」
「私は書きません。イラストがメインで、ゲームのシナリオを少々くらいです」
「うちの会社に興味があるんだ」
「それはモチロンです」
 そんな会話をしていると、結子が休憩室から出て来た。慎司の彼女には全く気付いていないらしい。
「あら、会話が弾んでいるみたいね」
「ママたちが放映権を独占していたからね」
「ほーえーけん?」
「いや、どーでも良いこと」
 三人は再び広間へ戻るべく、歩き始めた。先ほどの女性は、どこかに行ってしまったようだった。
 とりあえず修羅場はなさそうだ……そう考えたのか、結花はほっとため息をついた。
「つかれたの、結ちゃん?」
「いや、まあ、これだけ長時間に渡って着物を着て、介錯じゃくて、会食なんかやっていると」
 ぷっと慎司が吹き出した。結子は状況を理解できておらず、きょとんとしている。
「まあ待たせている間、二人を退屈させなかったようで何よりだわ」
「そうだね」
 と、結花は返事をした。

 部屋に戻ると、会食が始まってちょうど二時間が経過したところだった。
 いよいよ最後の仕上げとして、慎司と結花はお見合いの定番通り、庭園を散歩することになった。
「戻る頃になったら父さんに連絡するよ」
「分かった」

 かくして若い二人……いや、年齢を平均させると若い二人は、散歩へと出発した。
 母親二人は船の出航のように万歳三唱しかねない雰囲気だったが、さすがに本当にそこまでやることは無かった。
 とりあえず母親たちの元から離れることが出来たせいか、期せずして二人は同時にほっとため息をついた。
##4

「しかし参ったねえ。お袋たちが舞い上がって」
「状況的に仕方ないような気がしますーー。そこに座って話をしますか」
「そうだねーー。蚊がいるかもしれないけど、座る方が良いかい?」
「たぶん」
 二人は庭園に入ると、手近にあったベンチに座った。さっそく慎司が質問を投げかけてきた。
「『たぶん』って、どういうことかな?」
「私が思うにーー」
 少しだけ迷う様子を見せた結花だが、すぐにいつもの調子を取り戻した。考えがまとまったらしい。
「ーー私が思うにーーまあ盗聴器があっても問題はないでしょうーー彼女さんも一緒に話をした方が良いと思うのですよ」
「『思うのですよ』ーー面白い表現だね。理由があったら、聞かせて貰えるかな」
 さすがはカリスマ経営者の息子ではある。すでに慎司は、結花が論理的に思考を展開していることに気付いていた。
「理由はいくつかありますけどーー。最大の理由は、慎司さんが彼女さんと結婚する気があるので、そのことを私の前で宣言すれば、少しは彼女のストレスが軽くなると思ったからです」
「たしかに、あんな場所にいたとは吃驚したよ」
「いや、フツーは彼氏がお見合いしたら、心配で現場を押さえたくなるでしょうーー少なくとも私はそう思います」
「そうだね」
「蚊に刺されるのは好きではないので、できるだけ早く合流できるとうれしいです」
「そうだねーー」
 慎司は同意して、真菜に電話をかけるためにスマホを取り出そうとした。その時ーー
「それには及ばないわ」
 と、二人の後ろから声がした。
「真菜!」
 と、慎司が驚いた声を出した。
 結花が振り返ると、そこには先ほど遭遇した女性が立っていた。
 どうやら二人を尾行していたらしい。
「驚かせてごめんなさい。若くて可愛くて面白そうな子だから、大丈夫かと気になってしまってーー」
「お褒めにあずかり大変恐縮ですが、略奪は趣味ではありませんのでーー。蚊だったら少しは我慢できますけど、人間に夜道で後ろから刺されるのは勘弁してほしいと思っています。本気ではないと思いますけど、後ろにいらっしゃったのも、ある意味で警告かと」
「警告なんてそんなーー」
「この場合は、そう解釈されても仕方ないんじゃないかな。真菜!」
「真菜さんーーですか。ともかく無事に合流できたのですから、歩きながら話しましょうか。その方が深刻にならずに済みそうですし」
「そんなものかな」
「『体を動かしていると脳の活動が活発になる』と教えられて育ちました」
「しかしあまり動き回ると、変に知り合いに出くわす可能性がある。とりあえずベンチで少し話をすることにしようか」
「わかりました」
 そうして三人は、会話を始めた。
「失礼ながら、真菜さんが慎司さんと親密な関係にあるということは分かるのですが、いつ頃にお知り合いになったので?」
「幼稚園の時よ」
「幼稚園の時ですか。なるほど、やはりそうですか」
 結花は頷いた。
「『やはりそうですか』とは、どういうことかしら?」
「それはですねーー大変失礼なモノ言いになってしまいますがーー真菜さんも三十歳を越えていらっしゃるということです」
「その通りよ。それのどこが問題なのかしら」
「『問題』ではありませんけど、三十歳を越えてから彼氏を得るというのは、真菜さんのような方でさえ難易度が上がるかと思います。特に慎司さんのような方は、見つけ出すだけでも大変かと思います」
「そうでしょうね」
「それにお二人とも長い付き合いです。たぶん思い出もいろいろとあるでしょう」
「それはもちろん」
 なぜか真菜の返事を耳にして、慎司が妙な咳をした。
「深いおつきあいでもあるでしょう」
「その通りよ」
 慎司はピクリと体を動かした。
 その様子を見ながら、結花は再び頷いた。
「つまりですーー失礼な言い方を重ねることになってしまいますが、真菜さんは慎司さんを失うと、大変に大きな痛手となります。慎司さんにしても、わざわざ見合いの席に指輪をして来たところを見ると、真菜さんという彼女がいるのだとアピールしたかったような気がします。男性がアクセサリーとして指輪をするのは当たり前のことですけど、慎司さんのように『相応に立場と責任のある者』が身につけているのは不自然ですーー」
 慎司は大きく頷いた。真菜にアピールしたいのだろう。
「ーーこのような状況における最適解は、お二人が結婚なさることにあるかと思われます。ーーなんとなくですが、今回私のような若輩者ーーを通り越して、妙てけりんな存在が崎村社長から見合い相手に選ばれたのは、それを後押しすることが目的であるような気がします。私ならば、別に破談になっても、最初からゲームのようなものですから、全く問題はないでしょう」
 真菜が浮かない顔をしながら頷いた。
「ただしーー」
「ただし?」
 思わず声を上げる慎司に、真菜はビクッと体を震わせた。
「ただしーーお二人には健康的な問題があるんじゃないですか。申し上げにくいですが、妊娠に関わることで……」
 結花は立ち上がって、真菜の背中をさすった。
「医者に相談したことはありますか?」
 彼女は首を横に振った。
「子宮摘出はしていませんよね?」
 今度の首は、縦方向に動いた。
 その様子を見て、結花はニッコリと微笑んだ。
「だったら話はそんなに難しくありません。ご両親は自然妊娠や自然出産に拘るかもしれませんけど、それは今となっては昔の話です。医療技術の進歩により、今では子供が欲しければ、体外受精などの方法が利用可能です。孫の顔を見せることも可能です。黙っていれば良いんですよ」
 そういうと、彼女はチラリと慎司の方を見た。
「君は随分と思い切ったことを言ってくれるね」
 慎司は驚いたような顔をしていた。
「いや、最近の学校では、そういった授業も受けるんですよ。たかが十五年、されど十五年。ともかく『できちゃった婚』は狙っていたけど、実現できなかったんですよね。だったら結婚して、堂々と医者に相談に行けば良いんですよ。うちの父親は小説家である前に技術者なので、そういったことには相談に乗ってくれると思いますよ。自分が一番大変なのに、他人から相談されると何とかしようと頑張る変人だから」
 すました顔で、結花は語った。
「君はそれで良いのかい?」
「いつものことです」
「なるほどねえ……随分と苦労した人生を送ってきたみたいだね」
 彼女は何も言わず、黙って微笑んだ。

 と、その時だった。
 バシュッと後ろの方から音がして、とつぜん真菜の体がピンと張った。そして今度は、前の方へと倒れてきた。慌てて両脇に座っていた慎司と結花が支えようとした。
 二人が動くのと同時に、再びバシュッという音が再びした。その瞬間、結花は脇腹に焼けるような痛みを感じた。思わず真菜を支えようとする力が弱まり、二人揃って地面に倒れてしまった。
 が、それが逆に幸いだったらしい。
 不思議な衝撃音は何回か繰り返した後、パッタリと止まった。
 そして真菜は背中の右側が、そして結花は右脇腹が、それぞれ赤く染まっていたのだった。

#病院内の腹ぐるぐるの私

##1

 今にして思えば、慎司の判断は的確だった。
 二人して倒れた私たちの様子を見て、彼は父親の崎村正造に電話をかけた。正造の叫びを聞いて、広間の外に控えていたホテルスタッフは直ちに上司へ緊急連絡を入れた。
 上司はただちに手の空いているスタッフを私たちのところへ派遣すると同時に、119番通報をした。そして現場へ到着したホテルスタッフから報告を受けるなり、すぐさま110番通報をした。と、同時に、庭園を封鎖するようにした。
 幸い、庭園内を散歩している者はおらず、利用しているのは私たち三人だけだった。実はホテル側が得意客への配慮で、さりげなく人が入りにくい状況を作り出していたらしい。そのことが今回は幸いした。
 いや、私としては全く幸いじゃない。何しろキュートに引き締まった脇腹を撃たれたのだから。(着物の帯で引き締められていたという説は受け付けない)
 幸い私の場合は掠ったという程度で、贅肉……いや筋肉を少し削られるだけで済んだ。出血が多かったので両親からは心配されたが、特に内臓器官も傷つけられておらず、ケガとしては大したことが無かったらしい。ただし様子を見るため、三日ほど入院することになってしまった。
 問題は真菜さんだった。
 彼女の場合は右側の肺がやられていた。一時は生命の危機も心配されたが、すぐさま病院に搬送されたことが幸いして。何とか一命を取りとめることには成功したとのことだ。
 集中治療室にいるとのことで詳細は分からないけれども、鎮痛剤も兼ねた麻酔で眠っているらしい。私も似たようなもので、『眠れる病室の美女』となってしまった。
 私たちは、サイレンサー付きの拳銃で撃たれたそうだ。音が立たないように特別な銃弾(亜音速弾というらしい)で撃たれて威力が弱まっていたことと、銃撃犯が急所を狙えるようなプロでなかったことが幸いしたらしい。
 可能性としてはプロが急所を外して撃ったということも考えられるが、そんなことをする意味が分からない。おそらく犯人は崎村慎司さんの花嫁候補を亡き者にせんと、私たちを撃ったらしい。しかしそうなると、今度はどうして彼の花嫁候補の命が狙われるのかという疑問が沸いてくる。
 私のところにも警察の人たちが質問にやって来たが、残念ながら何の収穫も得られなかったらしい。彼は他人の恨みを買うようなことをしていないし、撃たれた私たちにしても恨みは買っていない……と、思う。そうなると犯人の目的は、崎村家の子孫を根絶やしにするとか、昭和時代のミステリー小説みたいな動機となるのだろうか。
 しかしそれだったら、崎村慎司を銃撃すれば良い話である。ところが彼は狙われず、真菜さんと私が狙われたというのが謎だ。何回も音がしたと説明したせいか警察で現場検証したそうだが、明らかに彼は狙われていなかったとのことだ。
 しかし本当に花嫁候補が狙われたとなると、もう慎司さんは見合いとは縁がなくなってしまうような気がする。マッチングアプリにしても、ウソは厳禁だ。いや、黙っていれば良い……って、そういう問題ではない。
 とりあえず警察では、念のために真菜さんと私のために護衛を付けてくれることになった。そういう状況では友だちに見舞いに来て貰う訳にもいかない。とりあえずあゆみと美里の二人には、ケガをして入院することになったと連絡をしておいた。
 しかし話題に飢えている女子高生に連絡したとなると、ただでは収まるまい。次に学校へ登校した時に、一体どんな風に迎えられるかは、想像するだに恐ろしい。
「どう考えても崎村家か僕に関わったからだろう。本当に申し訳ない」
「いえ、気にしないでください」
 例外的に面会を許された存在として、真っ先に駆けつけた慎司さんが謝ってくれた。うーん、こんな好男子を見送らざるを得ないとは、ちょっとモッタイないような気がする。
 いや、いかんいかん。
『隣の芝生は青く見える』というパターンだ。手に入りにくいものほど欲しくなってしまうのは、父と私の良くない性格だ。
「ともかく今は、狙われた謎を解くことが先決ですよね」
「うんーー。全くその通りなんだけど、一体どうしてこんなことになったんだろう。全くの謎だよ」
「ただのお見合いが原因で銃撃というのは、ちょっと訳分かりませんよねー」
 育ちの良い好青年は、基本的に人を疑うということを知らない。残念ながら、こういう時には役立たない。いやいや、役立たないという言い方は酷いかもしれない。役立たないどころか、さらに炎上させてしまう我が父よりは遙かにマシなのだから。
 その父上殿は、気の毒なことに仕事が炎上しているらしい。
「せっかくの機会が……」と、ボヤいていた。
 いや私はともかく、せっかく知り合った真菜さんが撃たれてしまったのですよ。なんとかしてくださいよ、おとーさま、と言いたいところなのに……まったく肝心な時に役立たない人である。
 こーなったら、自分の力で何とかするしかなさそうだ。
 しかし今のままでは、手がかりがなさ過ぎる。
 かといって、第二、第三の犯行など待っていられない。
 さてさて、どーしたものか。
 病院内で腹を包帯でグルグルに巻かれながら、とりあえず私は寝ることにした。
 幾つになっても、『寝る子は育つ』なのである。

##2

 トンネルを抜けると、そこは雪国だった。
 じゃ、なくて、目を覚ますと、そこはお花畑だった。
 なんか分からないけれども、病室のあちこちに花束が飾られている。
 一体これは、何事だろうか?
 私の素朴な疑問は、すぐに解決した。
「あ、尾花さん、起こしてしまいましたか」
 若くて綺麗なおねーさんが話しかけてきた。
「いえいえ、大丈夫ですーー。ところで、あのその、どちらさまでしょうか」
 私は素朴な疑問を口にした。
「これは申し訳ありません。K出版の森と申します。崎村の秘書をしております」
「崎村……崎村慎司さんでしょうか」
「はい、そうです。あ、そうでしたね。崎村社長ともご面識をお持ちでしたね。申し訳ありません」
「申し訳ありませんだなんて、そんな……ところでこの花束は何事でしょうか?」
「三分の一は崎村からのもので、残り三分の二は崎村家からと伺っております。奥様が手配なさったとか」
「はあ」
 道理で花束だらけのハズだ。見事にバッティングしてしまったらしい。
 しかし綺麗な秘書さんだな……そう感心している私に、ピンと来るものがあった。
 そうだ、そういうことなんだ。

 つまり一眠りしてスッキリした頭で考えると、今回の事件は崎村慎司さんを巡る争いなのだ。
 崎村家を狙っているならば、とっくの昔に行動を起こしているハズだ。
 それに何より、花嫁候補を狙う必要は全くない。崎村慎司本人を狙った方が効率的である。
 私たちを撃った犯人は、別に崎村一族を根絶やしにしたいという訳じゃないんだ。
 どうやら年末年始期間ということもあって、昭和の推理小説ドラマを観過ぎていたらしい。今回の事件は、単純に崎村慎司への愛がこじれてしまったことが犯行動機なのだろう。
「崎村さんて、素敵な方ですよね」
 いきなり秘書の森さんの顔が強ばった。やっぱりーー。
 どうやらこの人も崎村慎司さんに対して、特別な感情を抱いているらしい。
 全くもってして、罪な人である。
 あのルックスとやさしい性格で、片端から女性のハートを射止めているんだろうな……。
 そして一番最初ーーつまり幼稚園時代に最初にハートを射抜かれてしまったのが、磯村真菜さんという訳だ。一体どれだけの女性のハートを射抜いたことだろうか。
 つまり今回の銃撃事件の犯人は、崎村慎司さんが結婚することを許せない女性による犯行なのである。
 おそらく当の本人は、まったく自覚を持っていないのだろう。

 さて仮説はできたけれども、一体どうやって犯人を特定したら良いだろうか。
 おそらく警察は当てにできない。
 警察の基本は民事不介入というか、ドロドロした人間関係には深入りしない。
 そして使用された銃は、当時の状況を説明した時に教えて貰えたけど、米国には当たり前のように利用されているコルトガバメントM1911だそうだ。つまりその筋の人ならば、容易に日本へ持ち込むことができる。そしてM1911という名前から何となく分かるように、二十世紀の初めから存在している銃だ。あまりに広く利用されているから、銃や弾丸から犯人を追いかけるのは難しいとのことだ。
 もちろん真菜さんと私が撃たれたのはゆゆしき事態だから、引き続き捜査は続くだろう。
 うーん、どうしたものかーー。
 と、悩んでいたら、病室のドアが開いた。なんと崎村正造社長のお出ましである。
「やあ、お嬢さん。今回は巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」
 ベッドの近くまで歩いてくるなり、いきなり深くお辞儀されてしまった。
「あ、いえ、とんでもないです」
 私は慌てて返事をした。
「しかしなあーー。どう考えても、うちの息子の見合いが原因だよなあ」
 おお、いきなり直球ストレートな弾がーーいや、球がやって来たぞ。
 しかし『同感です』なんて返したら、ちょっと可哀想だよな。
「いえーー、たまたま誰かを撃ちたいマニアがいたとか、別人だと間違えられた可能性もあるような気がします。ともかく事件が解決しないと、何も言えないですよね」
「おっ、私に物怖じせずに話してくれるね。さすがは尾花先生の娘さんだ。でーー、事件はまだ終わっていないと思っているのかな?」
 ずばずばと気持ち良く切り込んで来るなあ。やっぱり『できる人』は一味も二味も違う。
「ーーなんとなく、そんな気がするだけです。証拠は何もありません。ともかく事件の概要が分からないと、何も言えませんよね」
「慎重だなーー。その通りなんだが……さてどうしたものかな」
「ちょっとこのままでは手詰まりかもしれませんねーー。そうなると、やることは一つかと」
「やっぱり、『餌をまく』かな?」
 私は肯いた。
「人払いされた庭園にやって来て、サイレンサー付きの銃で撃つって、意図的だったら執念を感じてしまいますよね。無差別事件であってくれるに越したことはないですけど」
「全くその通りだ」
 崎村社長は、自分の顎のあたりに手を持っていった。
「とりあえず磯村真菜さんはICUにいるので、一安心できるのが何よりです。ドラマだと変装した看護師が夜中に狙って来るという展開もありますけど、そういうことは出来ませんからね」
「たしかに。知り合いが集中治療室ーーICUかHCUのどちらか分からないけどーーに入った時は、専任の医師や看護師だったからな」
 思わず、こくこくと肯いてしまう。
「しかし尾花結花さん、あなたは自分のことが心配じゃないのかな?」
 その点は、私も少し考えた。
「たしかに今の時点では、なんとも言えませんね。餌になれるかも分かりません」
 私の言うことを聞いて、崎村社長がニヤリと笑った。う、すごくイヤな予感がするぞ。
「いっそ、慎司と婚約してしまうという手もあるんじゃないか」
 思わずため息が出る。
「それを聞いたら、真菜さんが屋上から飛び降りてしまうかもしれませんよ。せっかくお見合いを仕組んだのに、全てが水の泡となっては困るでしょう」
 少しだけ、社長さんの目が大きく開かれた。
「ホントに聡明だねえ。慎司をけしかけるために仕組んだのがバレバレか」
「さすがに高校一年生の子に、本気でお見合いを望む人は少ないかと。本気になれば、今すぐ結婚可能で魅力的な人など、たちどころに見つけることができるのに」
「いや、参った。もちろん慎司と結婚してくれると嬉しいとは思ったけれども、たしかに本気になれば他のお見合い候補は見つけることができる。ただしこういうのは、無理強いは良くないからなあ」
「それに父親はともかく、母親は早く孫の顔が見たいでしょうね」
「そうだなーー」
 少しずつ考えがまとまってくる。
 ともかく情報は少なく、このままでは皆が怯え続けながら生きることになる。だから崎村慎司の縁談も進まない。
 ーーおそらくは、それこそが犯人の狙いなのだろう。
 自分の『推し』は、『推し』のままでいて欲しい。だから『推し』の結婚の目を潰そうとする。そういえば有名なスポーツ選手が結婚早々、離婚せざるを得ない羽目に陥ってしまった話もある。
 さてどうやって、崎村慎司本人すら認識していないかもしれない、『押しへの密かなあこがれ』とやらを、どうやって白日の下にさらせば良いだろうか。
 それに身近にいる人だったら、情報は筒抜けだろうな。盗聴器を使うまでもなく。

「やはり餌を撒くしかないでしょうね。残念ながら私じゃ役不足だから、慎司さんか真菜さんで」
「慎司?」
 私はニヤリと笑った。
 あのような父親を持つと、悪知恵がいくらでも沸いてくるのである。

##3

 実のところ、このアイディアは私のものではない。
 やはり持つべき者は友だちである。
 そしてさらに、AI(人工知能)まであれば、言うことはない。
 そう、悪知恵はAIと相談して生まれた作戦だ。
 幸い、病室ではパソコンでも何でも使い放題だった。実は崎村正造社長の訪問を受ける前、さっそくコンピュータ様に相談してみた。
「はい、何かご用事でしょうか。結花」
「うん。ちょっと相談に乗ってほしいことがあるの」
「なんなりと、お申し付け下さい」
 これなんだよ、これ。
 我が父親も大した存在だと尊敬しているけれども、「あー言えば、こー言う」のが常である。『一を聞いて十を知る』というのはスゴいと思うけど、『ひとこと言えば、十分しゃべる』というオマケがあるので、正直ウザい。
 その点で、我がAIのチノ君は素晴らしい。私は手短に状況を説明した。
「なるほど、三日ほど入院しなければならないとは大変ですね。それに公には出来ないことだから、お友だちとやりとりできないのはツラいですね」
「おまけに、このままでは全く事態は進展しそうにないから、犯人を見つけ出す手がかりを得ることもできないし」
「ーーそれは困りましたね」
「でしょう」
「ケガのせいで正常に思考できないようで、本当に困りましたね」
 ん? いま何ていった?
「私、何か見落としている?」
「見落としているというか、状況を把握できていない部分があります」
「状況を把握できていない? 手がかりがあるっていうの? それとも警察が手がかりを見つけることができるだろうと推測しているの?」
「いえ手がかりに関してではありません。『事態は進展しそうにない』という部分です」
「あなたから見て、事態は進展しそうなの?」
 なんだか『2001年宇宙の旅』だ。コンピュータに反乱されかねないような気がしてきた。
「失礼しました。そういう意味ではありません。事態は誰かが進めようとしなければ、進展しません」
「だから犯人が進めようとしないだろうからーー動かずに静観する可能性が高いから、進展しないんじゃないの?」
「失礼ながら、お嬢様は大切なことを見落としておられるようです」
 あらら? 私が腹をグルグル巻きにされたストレスで変になってしまった? ずいぶんと失礼なことを言われているような気がする。
「何を見落としているの?」
「大きくは二つあります」
「二つも?」
「はいーー。一つ目は最終目標が正しく設定されていないことです」
「犯人を見つけ出すことじゃないの?」
「それを最終目的に設定するというのであれば、構いませんけれどもーー」
「じゃあ、あなたは何が最終目標だと思っているの?」
「わかりませんか?」
「わからないわよ!」
 思わず、口調が鋭くなる。
「そもそも、今回の件は『お見合い』から話が始まりました」
「で?」
「つまりゴールは崎村慎司という名前の入った婚姻届の受理となります」
「相手は私じゃないわよね?」
「おそらく」
「つまり磯村真菜さん、と」
「現時点では、そのようになります」
「それは分かったけど、結婚した後で暗殺されたら、意味がないんじゃない?」
 思わず口調が、疑わしげになってしまう。
「それはそうですが、そこで二つ目の見落としになります」
 ん?
「悔しいけど、よく理解できないわ。何が二つ目の見落としになるの?」
「お見合い相手を撃つという状況であれば、婚姻届は受理させたくない可能性があります」
 あっ!
「つまり、誰かが婚姻届をこれ見よがしに役所へ持って行くところまでやれば、犯人側に動きが出るだろうということ?」
「ご明察です。さすがはお嬢様です」
 なんか随分と嫌みっぽいAIになってしまったな。
 しかし確かに、言われてみればその通りだ。
 崎村慎司に結婚の可能性が高まり、最有力候補が銃で撃たれた。幸い一命は取り留めたが、殺害を目的とした可能性が高い。そしてーー認めるのは少々悔しいが、オマケ的な候補者も撃たれた。なんとなく『ついで』のような気がするけれども、ともかく着物を着ていなかったら危なかったのは事実だ。
 そしてこれで崎村慎司が結婚する可能性が低くなれば、彼を『推し』とする者としては満足できる状況になり、これ以上の動きはみせない可能性もありそうだ。
 ーーしかしここで婚姻届ということになると、お見合いよりも一歩進んだ状況となる。犯人としては、阻止したいところだろう。少なくとも、なんらかの動きを見せることになりそうだ。
 なるほどねえ。
「ところで婚姻届を出すのは悪くない作戦だと思うけれども、誰が出すの?」
「役所で婚姻届を出すのは、結婚する者たちの最低一名ということになります。しかし問題は、そこではありません」
「と、いうと?」
「まず結婚することにしたという情報展開、それから婚姻届の入手、作成済み婚姻届の管理と、三つの活動があります」
「もしかして、そこら辺を私にやれと?」
「さすがはお嬢様です。今回は理由をご理解なさっていますね」
「分かるわよ。屈強な男性を狙うよりも、か弱い女子高生を狙う方が楽だということでしょ」
「はい、その通りです」

 かくして私は、『餌を撒く』というアイディアを得るに至ったのだった……。あんまり嬉しい話ではないけれども。

##4

「大変に申し訳ないけれども、その手は使えないな」
 崎村社長からの予想外の返事に、私は戸惑った。
 どういうことだろうか。
 婚姻届というのが『行き過ぎ』とか、作戦に具体性がないということであれば理解できる。使わないという表現であっても、理解できる。『使えない』って、一体どういうことだろうか?
「使えないーーですか」
 彼は肯いた。
「自分でも分かっているんじゃないかな。人を見る目はあるつもりだよ。発想自体は悪くないーー。いや、素晴らしい。ただし婚姻届を作成して提出する際に、尾花結花を餌に利用するのは無理がある」
「能力不足?」
「だから、そこが違うんだよ。君は大変に優れた状況把握力と推理力を持っている。しかし残酷な言い方をすると、『それだけ』だ。尾花先生がお持ちである特徴をお持ちでない」
「それは一体なんでしょうか」
 しばし考えるかのように、彼は腕を組んで天井を仰いだ。そしてゆっくりと顔を正面に戻しながら、口を開いた。
「『覚悟』だよ」
「覚悟?」
「婚姻届を利用して犯人を誘い出し、無事に事件を解決する。そのための素質も持ち合わせている。いずれ名探偵として名を成すかもしれない。しかし……今の君には、自分の身を守るという安全意識がない。これはコンピュータのゲームなどではない。負けたら終わりの、命がけの勝負なんだ。ある意味で慎司の対局だ。あいつは自分はもちろんのこと、周囲のことも大切だと考える。だから優柔不断で困らされることもあるが、『任せる』ことはできる。それが、今の君にはない」
「…………」
 そうかーー。たしかに作戦を立案するのはAIのおかげで得意だけれども、作戦を遂行するのは、あまり得意じゃない。今まで学校の成績が良かったのは、実は父親のおかげだ。私は図書館で見かけることがあるけれども、机に向かって必死に勉強する子たちのように『がむしゃらに勉強する』ということはできない。だから成績が芳しくない時は、リビングで父親と一緒に勉強させられている。
 ものごとに囚われないというのは状況把握力を高めてくれるけれども、推進力を出すことには役立たない。コインの裏表のように、どちらからしか選ぶことができない。ウサギのように、自分を守る能力か……。
「まあ今回の件は、うちの失敗だ。だから婚姻届というアイディアはありがたく頂戴するので、あくまで私の流儀でやらせてもらえるかな」
「ーー承知いたしました」
 ちょっと悔しいけれども、仕方がない。そもそも『ちょっとしか悔しくない』というのが、たしかに望ましくないのだ。『うんとくやしい』くらいの執着が必要なんだ。考えてみれば、犯人も必死だろう。だから何を仕掛けてくるか想像つかない。そういう状況で、身の安全を守ろうとする本能が重要なのだ。
「たぶん慎司が一番安全だろうから、あいつに仕切ってもらうことにするよ」
「そうですね」
 私は頷いた。

ここで秘書さんが亡くなってしまうという展開。

二つ目は事態はお嬢様たちで進めることが出来ます。例えば崎村慎司さんと磯村真菜さんの婚姻届を提出してしまうとか

#第四章・傀儡使い

##1

 ドアが開いたので、私電車からはホームへと足を踏み入れた。
 いよいよ、ここからが本番だ。いやーー電車の中でも危険はあったけれども、さすがに端末で私の居場所をチェックしているママでもない限りは、どの電車でやって来るかまで特定するのは難しいだろう。
 したがってここら辺からが、狙われやすい状況となる。そのことは予め想定済みで、歩き方の訓練もしてきた。
 前にホテルの庭園で撃たれた時は、明らかに素人による射撃だった。しかしコルトガバメントM1911は広く出回っている拳銃とはいえ、サイレンサーも使用していた。あまり油断しない方が良さそうだ。プロを雇っている場合も想定される。
 だから歩き方も工夫しているのだ。
 歩行者を盾にはしたくないから、人影のまばらな朝を選んだ。自宅でしっかりと朝食は済ませて来た。私は朝ご飯を『ちゃんと食べる派』なのだ。
 誰だ。最後の晩餐ならぬ、最後の朝ご飯として食べてきたんじゃないかというヤツは? 私は死ぬつもりなど毛頭ない。父親と違って、頭部に毛乳頭は豊富にあるけれども。
 話を戻すと、歩き方はランダムウォークというほど派手なものではない。一世を風靡したムーンウォークでもない。普通にまっすぐ歩くよりも、少しだけスピードに緩急をつけている程度に過ぎない。サッカーでいうところの『ストレート・ドリブル』を、目立たないようにやっている感じだ。
 しかしこの単純な動きが、プロにとっては厄介なのだ。
 たとえ日本が世界に誇る某スナイパーにしても、動く標的というのは狙いにくい。短距離ならばともかく、遠距離だと発射から着弾まで時間を要する。その間に、標的は移動してしまうという訳だ。だからほんの少しであっても、ランダム性が加わると難易度は格段に向上する。
 そうすると私としては、今度は通りがかりの人に刺される危険などを警戒することになる。もしくは、耳を尋ねられて立ち止まったら、遠距離射撃されるいった寸法だ。
 だから用心に用心を重ねて、崎村邸を訪問することになる。
 交通安全みたいに標語を作りたいところだ。『気をつけろ、その一歩が、命取り』とか……、いや『注意一秒ケガ一生』がそのまま使えそうだな。
 しかしそうやって道を歩くと、朝のジョギングをしているオッサンとか、全ての人が怪しい要注意人物に見えてくる。買い物かごを押しているおばあちゃんが、なにげにナイフを繰り出して来ることがあったら、私はどうしたら良いのだろうか。
 世界では子供さえテロの実行者として担ぎ出されるのだそうだから、信じられるのは自分だけだ。父親と違い、『自分さえ信じられない』という状況ではなくて良かったな……
 ……などと考えながら歩いていたら、遠くで車の爆音が聞こえた。そういや京都の街中では、真っ赤なオープンカーに轢かれた女子高生もいたっけ。車や自転車に注意しないと。
 そもそも……
 と、周囲に注意を払いながら歩いていたら、変な音が聞こえて来た。キーンっていう、ジェット機が飛んでいるような音だ。閑静な住宅街だけに、少し違和感がある。
 と、考えているうちに、みるみる音は大きくなってきた。
 なんと真っ正面から、アクション映画のように未確認飛行物体ーーUAV(アンノウン・エアー・ビークル?)がやってきた。そしてたてーー。
 いきなり機関銃による銃撃戦が始まってしまった。幸い通りには私一人しかいないので、人的被害は発生していない。そしてUAVは、私めがけて真っ直ぐに突っ込んできた。たぶん、爆薬も搭載しているんだろうなあ。
 ちょっと待ってよ! たかがか弱くて可愛い美少女一人を狙うのに、なに考えているのよ!
 慌てて左右を見渡したけれども、UAVが入って来れそうにない細道はないし、隠れることができそうな遮蔽物も見あたらない。敵さん、本当に良い場所を選んで攻撃して来たなあ。
 防弾チョッキくらいでは、どうしようもなさそうだ。
 これが新宿の凄腕スイーパーならば、コルトパイソン拳銃で立ち向かうかもしれないけれども、あいにく私はそんな物騒なものは持ち合わせていない。
 そして駅から崎村邸へ向かう途中の雄花結花は、あっけなく体を四散させたのであった。

##2

「さあ、ここからが出番よ。ハル、付近に監視者は見あたらない?」
 我が家が誇る最高性能のAIに、私は話しかけた。
「残念ながらというか、予想通り監視者見あたりませんがーー、予想通りドローンの滞空を確認しました」
 私はため息をついた。
「こちらもドローンだから、お互いに同じ手を使っているこということね。作戦通り、そのドローンの操作元の割り出しをやってみてちょうだい」
「承知いたしました、結花様」
 さきほどUAVで四散したと驚いた方々のために説明しておこう。現地へ赴いたのは、私ではない。我が父親の科学力によって開発されたロボットである。残念ながらAIは搭載していないので、アンドロイドではない。人間による操作が必要だから、二足歩行で移動する『歩行するドローン』といったところだろうか。
 法律的にやって良いことなのかは微妙な気がするが、ともかく最近のハリウッドに代表される返送技術はすばらしい。早朝の電車では、誰も気づく人はいなかった。さすがに敵は気づいていたかもしれないけれども、婚姻届の用紙を渡す訳にはいかないという弱みがある。
 お互いに多大な出費となってしまったが、痛み分けといったところだろうか。
「ただしこちらの目標が達成された訳ではありません。結花お嬢様におかれては、くれぐれも気を抜くことがないようにお願いいたします」
「分かったわ、ありがとう」
 そういうと、私は電話を切った。
 それにしても正直言って、替え玉がやられてしまうことは予想外だった。崎村家のK出版に連絡を入れただけなのに、それが情報源となったようで、ものの見事に替え玉がやられてしまった。
 UAVを利用するなんて”プロ”の技だけれども、そんな者を雇うことのできる者がいるのだろうか。少なくとも我が父親の薄給では無理だ。そう考えると、犯人は単なる『推し』ではないのだろうか。
 『推し』は『推し』でも、何かとつながってしまった『推し』。崎村家には親戚などがいて、崎村社長の息子が独身のままで家を継ぐことがなければ、利益を得るものが存在するのだろうか。
 なんだか面倒な展開になってきた感じだなあ。
 お金や権力が絡むと、これだから困る。
 とりあえずそちらは、AIであるハルに任せるしかない。私には私の、やるべきことがある。

 実は私そっくりの遠隔操作ロボットは”プランA”なのだ。プランBも用意してあって、そちらは年輩に見える女性ロボットが手押し車を押している。少し大きめの荷物なのだけれども、その中身は”雄花結花”という寸法である。
 新しく契約したばかりの端末と電話回線を使っているので、盗聴される心配はない。ちなみに電話にしてもドローンやロボットにしても、すべて崎村社長のポケットマネーで賄われている。まだ父親の会社では研究段階だけれども、そこを大手K出版のネームバリューを武器にねじ込んだ、という次第だ。
 こちらは順調に移動を続けた。
 ドローンを飛ばして監視する訳にはいかないけれども、ロボットや荷物に内蔵したカメラで周囲を監視している限りは、何も異常なものは見あたらない。
 あと五百メートルで崎村邸という最終コーナーを回り、無事に玄関が見えて来た。残り三百メートル、二百メートル、百メートル……ゴール!
 そして、何気なく崎村邸の豪華なインターホンボタンへと手を伸ばし……
 と、その時だ。
 手押し車には、プスッ、プスッ、プスッと、数カ所の穴が開いた。
「当然、中にいた雄花結花の体にも穴が開く。狙撃者はスゴ腕のようで、見事に図頭蓋骨、心臓部分、内蔵部分に異常が生じたとモニター表示される」
「ハル、こちらの分析もお願い!」
「承知しました」
 さすがはマルチタスクの超高性能AIだ。
 ちなみにまあ、こんなこともあろうかと、手押し車の中身の雄花結花さんもロボットだ。本物はこの通り、自宅からモニター越しに現地を観察している。
「弾痕から狙撃地点を割り出して、ドローンで狙撃犯を追いかけたりすることはできないかなあ」
「今、やっております」
「すいません、ありがとうございます」
 なんか少し怒られたような気がして、思わず謝ってしまった。
 こーゆー時は、『AIサマサマ』なのである。
 やることがないので、私はメインモニターを見続けていた。『たかがメインモニター』にすぎないけれども、けっこう興味深い光景を見ることができた。
 まず真っ先にやってきたのは、意外なことに家政婦の園村さんだった。かなり大きな音がしたからなのだろうか。年輩の女性型ロボットは狙撃されることが無かったので、ピンピンしている。しかし手押し車の弾痕にはめざとく気づいたようで、すぐに電話を取り出して、誰かと連絡を取っていた。おそらく執事担当の志村さんだろう。
 案に相違せず、すぐに志村大介さんがやって来た。彼は崎村肖像社長の秘書兼執事なので、今回の件も承知済みである。なにしろ金庫番なのだから。
 世の中、何をするにしてもお金は大切という訳である。
「人目もありますので、ともかく屋敷内に入っていただきましょう」
「志村さんがそうおっしゃるならば大丈夫だと思いますけど……、身元は確かなんですよね」
「それは私が保証します」
 そんな訳で、遠隔操作ロボットたちは無事に屋敷内へと案内されたのだった。もちろんそのおかげで、私が自ら操作することから解放されたのは言うまでもないことだ。
 私そっくりに作られた遠隔操作ロボットは、今頃は父親の会社の人たちに回収されていることだろう。無残にも銃弾を浴びせられてくず鉄と化したので、回収作業に立ち会った作業者のうちの何名かは、もしかしたら泣いているかもしれない。

 あと……これは別に志村氏に伝える必要は無いので黙っていたが、私は複数枚の婚姻届を入手していた。そして今回は、手押し車の中にも一枚入れておいた。少しくらいの銃撃には耐えられるように、アルミニウムの板に挟むようにして、収納しておいた。
 かくして婚姻届の用紙は貴重な若い命と最先端テクノロジー技術の成果を犠牲として、無事に崎村家に届けられたのであったーーもしからしたら現在では、インターネットからダウンロードできるかもしれないけれども。

#第五章・容疑者、あらわる?

##1

「警視庁捜査一課の吉田圭子と申します」
 彼女から渡された名刺には、たしかに操作一課の吉田圭子と書かれていた。役職は警部補だ。TVドラマのように見せられた警察手帳にも、たしかに吉田圭子と表示されていた。
 彼女の用件は、一言で表現するならば『おしおき』だった。
 そりゃまあ、そうだろう。もちろん警察への協力は惜しまなかったし、病院では正直にすべてを話した。しかし警察が地道に銃器などの出所を調査している一方で、こちらは仮説に基づいて動いて、ものの見事に予想が当たって銃撃事件となってしまった。
 市民に被害者が出なかったのは大変にめでたいことだったけれども、そもそもの現況は私だ。それも替え玉を立てなければ、今頃はこの世とサヨウナラしていた。警察としては、面目丸潰れである。
 おまけに今回は天下のK出版が関係している。下手すると潰れた面目は、ヒキガエルのように世間にさらされかねないところだった。
「今後は何かをする時は、ぜひ私か、電話に出た者にご説明いただけるとうれしいです」
 うん、私が吉田さんの立場だったら、同じことを言うだろうな。
 しかし正直に言ってしまうと、警察に説明するメリットは何もない。笑われて終わりか、真っ青になって止められるかのどちらかだろう。
 ともかくすでに森さんという犠牲者が生じているのが、警察のツラいところだった。いくら民事不介入が原則だといっても、人間関係が把握しきれないと事件を追いかけることは難しい。しかし犯人は、何としても検挙するする必要がある。
 しかし橋の上から落とされたという以外に、具体的な情報がない。どうやら争いになった形跡もないようで、犯人を特定するための手がかりも付着していなかったようだ。
 その一方で、警察ではおとり捜査が禁止されている。さぞかし悔しい思いをしているだろうと推察される。
「もちろん警察に保護していただく身として、そして一般市民としては協力する吝かさではありませんけど、一方的な情報提供には無理があると思います」
 吉田警部補のキレイな眉が、ピクリと動いた。
「それはどういうことからしら」
 彼女に対する私も、全く臆することはなかった。もともと自分はチキンだと思っていたけれども、どうやら周囲の評価が正しかったらしい。いや、開き直って性格が変わってきたといえるかもしない。
「警察からも情報提供をお願いしたいということです。もちろん、守秘義務に関わることは対象外です。ただしお互いにやっていることがハッキリと分かった方が、連携しやすいことは確かでしょう。だったら、差し支えない範囲で協力しあっても、悪くないじゃないですか」
 私の言うことを聞いて、吉田さんはヤレヤレといった表情をした。
「その考え方は悪くないし、できるだけ私もあなたが話しやすいようにしているつもりだけれども、もっと情報がほしいというの?」
「はい、欲しいです。何でも欲しいというのでは泣く、たとえば渋沢絵里香さんとか」
 吉田警部補は溜息をついた。
「捜査の途中で、第三者に機密情報は流せないわ」
「私は来週、彼女と会話するつもりですけど。先日崎村邸を訪問しようとした時に、通りで見かけたものですから」
 吉田警部補の肩が、ピクリ、と震えた。思ったよりも感情が表に出やすいらしい。
「渋沢さんのご自宅が近所にあるとか、あそこは人気のある駅だから偶然とか?」
「そちらでは分かっていますよね。電車で小一時間ほどかかること」
「…………」
 まさか警察に黙秘権を行使されるとは思わなかった。
「分かりました。警察が市民に協力する気がないのであれば、それをとやかく言うつもりはありません。押田さんの階級に関わりなく、こちらとしては吉田さんが警察の代表だと考えています。違うのであれば、『違う』といえば良いのに、一切そういうことはおっしゃいませんよね。残念ですが、渋沢さんとお話しした結果に関してご興味がおありでしたら、あとでご要望いただけると幸いです」
 やれやれ。
 今は役所に限らず大企業でも同じだけれども、ともかく個人情報だとかプライバシーがやかましい。それに縛られて逆に身動きできないということであれば、私の知ったことではない。
 私は私で、思うように動くことにしようじゃないか。
 なにしろこちらは、恐いものなしの、天下御免の女子高生なのだから。(まあ、もちろん通信簿とか、テストの結果は恐いけれども)

##2

「こんにちは。さて一体どういったご用件かしら」
 私の目の前に座っているのは、吉田警部補に宣言した通り、渋沢絵里香氏である。年齢は三十歳を過ぎているだろうか。学校の先生よりも威圧感がある。
 我ながら無謀なことをしたと思う。
 よりにもよって、一介の女子高生がK出版社の課長に面談を申し込んだのである。ちなみに場所は、会社近くの喫茶店だ。男性ならばともかく、女子中学生と会うのであれば、会社に近い方が良いだろうと考えたのだ。
「本日はご足労いただきまして、ありがとうございますーー」
 AIから教えて貰った挨拶を練習してきたので、それを繰り返す。ただし社交辞令はここまでだ。小娘に大人のマナーなど、しょせんは付け焼き刃なのだから。
 私はポーチの中から写真を取り出した。
 彼女の眉毛が、ピクリと動いた。動揺させるのに成功したのかは分からない。
「実は先週の日曜日に、たまたま写真を撮影する機会があったんです」
 渋沢さんは、溜息をついた。
「写真まであるならば、誤魔化しようがないわね。そうよーーその日の私は、崎村邸の最寄り駅にいたわよ」
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「あなたが崎村邸に婚姻届を届けないようにお願いするため」
 うーん、見事だ。まったく自分のやっていることに罪悪感を持っていないように見える。いや、本当に罪悪感を持っていないのかもしれない。
「女子高生に対して無理強いすることに、罪悪感はありませんでしたか」
「女子高生──子供に対する行為としては考えないこともなかったけれども、婚姻届の用紙を奪い取ることに躊躇は無かったわね」
「その理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん──」
 彼女は一口だけ珈琲をすすった。うわー、サマになるなあ。
「──結婚の自由は、もちろん私も承知しているわ。それに崎村慎司さんと磯村真菜さんは、お似合いの二人だとも思うわ。会社では、嘆き悲しむ女性が多いでしょうけどね」
「そうですね」
「その嘆き悲しむ子たちの面倒は、私が見ることになるのよ。退職する子がいたら、その後任を見つけ出すとか、いろいろと面倒が多いの」
 女子高生だからといって、舐められたくない。私も珈琲を一口だけすすった。うーん、苦いなあ。
「だけれども、磯村真菜さんよりも、尾花結花さんの方がお似合いだとは思わない?」
 私は思わず、口から珈琲を吹き出しそうになった。ちょっと待ってくださいよ、おねえさん。
「冗談よ。若い子って、本当にかわいいわねえ」
 くっくっく、と、彼女は笑った。これが大人の余裕というものだろうか。うーん、敵ながらあっぱれとしか、言いようがない。
 それにしても、見事だなあ。『くっくっく』は、いかにも悪役っぽい感じで悪くない。おまけに大人の余裕がにじみ出ている。
 しかしこちらは、すでに準備済みだ。
「お考えは分かりました。つまり崎村慎司氏は、現在重要な局面を迎えている。したがって現時点で磯村真菜さんなどと結婚などされては、支持率が下がって困る。自分の出世にも影響しかねないということですね」
「その通りよ。随分と社内事情に詳しいみたいね」
「それを承知の上でお会いさせて頂くことにしましたから。それよりも……」
「…………」
 彼女はポーカーフェイスで微笑んだままである。食えないバーさんだ。ピチピチ──にまで至らない、ピカピカの十六歳な女子高生としては。
「問題は、どうしてあなたがあの場所にいらっしゃったのか、です。目撃なさっているでしょうけど、私はあそこで狙撃されました。狙撃の場合は結果を確認するために現場を訪れるのがセオリーです。だから、あなたがあの場所にいたことは、大いに気になるのです。おいしいお菓子で有名な店も多いところですけど、まだ行列も出来ていなかったですから」
 彼女は驚いた表情をした。三十歳を過ぎると、それが本当なのか演技なのか分からない。長生きするって恐いな──女子高生としては。
「かわいそうに。それは大変だったわね」
「ーー偶然とは全く考えにくい状況ですが、あくまで偶然とおっしゃるのですか」
「とんでもないわ」
 心外だ、と、いう表情をした。どういうことだ?
「婚姻届の件では、森さんがなくなったわ。で、あなたが会社に伝わる形で婚姻届を崎村家へ届けに行くーー。当然、あなたが自分を狙わせるために、訪問しようとしたことは明らかでしょ。単にあなたを説得したいと言う以外に、心配にもなったのよ」
「心配になった?ーー」
「そうよ、責任者として当然でしょ。もし何かあった時に、少しは何か立てるかもしれないしーー」
「ーーお気遣い、ありがとうございます」
 本気で心配してくれていたようだ。私は深々とお辞儀をした。
「いいえ、森さんに婚姻届をお願いしたから、彼女が亡くなってしまったとは言えるからね」
 ……いちおう、筋は通っている。
 そうなると、ストレートに尋ねてみるしかない。こういうときに刑事コロンボのように、相手から必要なことを聞き出すテクニックなど持っていない。
「森さんは……森さんは崎村さんのことをどのように考えているのでしょうか?」
 言ってしまった。
「まだまだ社会人経験のないお嬢様の言いそうなことね」
 はい、その通りでございます。
「私は崎村さんに近い立場で、彼と社内では競争する立場よ。彼は本部長で、私は副本部長だけれども……そんな私が彼のことをどう考えているかは、重要なことかしら」
「うーん、その通りかもしれませんね」
「でしょう」
 双子のパラドックスではない。ただしもし彼女が崎村さんを『推し』として認めていれば、彼を独身のままにしておきたい。だから急に休暇を取ることになって、それが見合い話だったとしたら、その見合いを邪魔しようと考えるだあろう。彼女ほどの知略と人生経験があられば、拳銃を手に入れるくらいは簡単なことだったと思う。しかし他方で、それほどの力があるのだったら、最初から誰かに、お見合い相手の狙撃を依頼していて良さそうだ。
 だって彼女は副本部長であって、日頃から本部長とは頻繁に顔合わせをできる。たとえどんなにお見合い相手が『推し』活に邪魔だったとしても、少しばかりリスクが高過ぎる。そしてもしも万一、事の次第が露見したら、彼女は全てを失ってしまうことになってしまう。
 そして彼女が崎村さんを『推し』として認めていなければ、社内に存在する『推し』たちは歓迎すべき存在ではない。副本部長という立場では、むしろ一掃してしまった方が、仕事をやりやすいかもしれない。
「当たり前になるけれども、私としてはK出版を支える人物で、将来を嘱望されている。ぜひ成長して、会社を支える存在になってほしいと願っているわ。直接の回答にはなっていないけれども、今の私にはこれくらいかしら。それにここは、周囲の目もあることだし」
 そういって、斜め前の方の男性たちに目を走らせた。向こうの人たちは、軽くお辞儀をしてきた。そうか、会社が近いということは、周囲の目もあるということか。
「あなたの期待に応えることができなくて申し訳ないけれども、『大人』の世界というのは、むずかしいものなのよ。ごめんなさいね」
「…………」
 完敗である。これではプライバシーや個人情報を盾にとって、磯村真名さんを銃撃した犯人や、森さんが橋から落ちて亡くなった事件の容疑者をリストアップすること無理そうだ。
 さてと。これからどうしたものか……。

 と、救いの手は意外なところから現れた。
「あ、本部長! ……の娘さんにしては、少し若そうですね」
 渋沢絵里香氏は、やや冷たいとも思える返事を返した。感情がこもっていないようにも聞こえた。
 まあ状況が状況だけに、無理もないことかもしれない。
「尾花結花さんです。尾花清彦先生の娘さんです。田山さん」
「尾花先生の……、ああ、そういうことですか」
 渋沢さんが頷く。
「尾花先生には、これからもご活躍を期待したいところですね。それにしても良くまあ女子高生という若さで、崎村本部長とお見合いをしましたね」
 えっ、なんだって?
 私のお見合い?
 どうやら私の見合いの件は、会社内には幅広く知られているらしい。いや、私が自ら電話をしたものだから、さらにウワサに拍車がかかったと言えるかもしれない。
 それにお見合い会場では、彼女とお見合い相手が揃って撃たれるという事件が生じている。
 そして後になって婚姻届の用紙を入手にいった社員は、歩道橋の真ん中から落ちて転落死した。
 これで職場の話題になっていなければ、それこそ不思議なのかもしれない。
 しかし礼儀を欠かすことはできない。
 なにしろ私は、まだ若輩者で未成年の女子高生なのだから。
「父が大変お世話になっております。尾花結花と申します」
「あ、崎村や渋沢と同じ部署の田山と申します」
 ちょっと太めのオバサマは、丁寧に挨拶をしてくれた。
 いきなりの乱入に驚いたけれども、基本的な礼節を守る部分は、さすがは天下のK出版社だ。
 そして裏を返せば、K出版社にしても、どうやら人々というのはウワサ好きで、特にこのオバサマは『ウワサ大好き人間』らしい。
 これこそ私が期待していた人材だ。
 崎村慎司氏に確認しようとしたところで、そもそも亡くなった森さんの気持ちさえ把握していなかった『おぼっちゃま』である。誰が自分の『推し』であるかなど、気付いてすらいないだろう。
 一方で渋沢本部長は、人を見る目はありそうだけれども、口も堅そうだ。それに崎村邸へ行く途中で登場したことを考えると、今ひとつ信じて良いのか微妙そうだ。
 その点で田山さんは、口は軽そうだけれども、裏のない人物のように見えた。
 女子高生の眼力に過ぎないけれども、侮ってもらっては困る。少なくとも父親よりは上だ。
 田山さんは渋沢本部長が冷ややかな視線を送る中で、平然と私に名刺を渡してくれた。
 しめしめ、おかげでK出版社の皆さんの心の内を、少しは垣間見ることができるかもしれないぞ。

###3

「今日はお忙しいところを恐縮です」
「いいの、いいの、固い話は抜きでいきましょう。私の娘も、あなたくらいの年頃よ」
 時は未来、ところは宇宙……じゃなくて、ここは先日の喫茶店である。ただし前に渋沢本部長とお会いした翌日のことだ。
 今の私の目の前には、田山さんが座っていた。
 彼女は何でも知っていた。職場の重鎮とでも呼ぶのだろうか。
 三人のお子さんがいるそうで、前回少しだけ会話した時は、教育費がかかって困るとこぼしていた。それを見越して、今回は十分な謝礼を用意しておいた。
「たかが雑談で、それでこんなにお金まで頂くなんて、そんなこと出来ないわよ」
「あ、それを気になさる必要は全くありません。お金は全て、崎村社長から頂戴したものです」
「社長から!」
「と、言っても、個人のポケットマネーだそうです。会社の経費ではないから、税金処理などは一切不要とのことです」
「へえー」
 エラそうなことを言っているけど、全て崎村家の執事をかねる志村大介さんから教わったことである。付け焼き刃なので、これ以上の説明は無理だ。
「それから、これは崎村社長から預かったものです」
 私はカバンのポケットから、ゴソゴソと封筒を取り出した。
「私は社外監査役から委託を受けている立場になっているそうで、だから何を話しても社内情報を漏らしたことにならないそうです。それからご存じの通りの立場なので、何を話しても田山さんのご迷惑になるようなことはありません。それから不測の事態で何かあったら、取締役会が全力でバックアップするとのことです。気休め程度にしかならないと思いますけど、書類をお渡ししておきます」
「随分と手回しが良いわねー」
「社長としては、息子の婚姻届に関連して亡くなった者が出たというだけで、K出版としてゆゆしき事態とお考えのようです。息子さんの個人的なことに、社員を巻き込んでしまいましたからねえ」
 ホントとのところをいうと、私のアイディアを聞いた社長が自宅内で騒いで、それで息子の崎村慎司が策を講じるということになった。だから社長としては大いに良心が咎めているのだけれども……、ま、そんなことを言っても仕方ないだろう。
 とりあえず私は、コーヒーを一口すすった。
 大人っぽく見せるためにブラックなのだけれども、やたらと苦い。うえー、結婚だけでなくて、大人ってホントに大変だよなあ。
 一方の田山さんはカプチーノだった。ちょっとばかり羨ましい。
「それで私が頼まれていることなんですけど……」
「その前に、お見合いの時の話を聞いても良い?」
「ええ」
 さすがは情報通のおばちゃんである。情報元として、情報入手に余念がない。
 それに考えてみれば、当然かもしれない。いかに彼女が優れた『社内の情報通』だったとしても、さすがにあのお見合い会場で起きたことの詳細までは知らないだろう。
 と、いう訳で、私は彼女の身の安全と謝礼に加えて、知っていることを洗いざらい白状させられた。オバちゃん、さすがである。
「へー、磯村真菜ちゃんが乱入してきたんだ!」
「乱入だなんて、そんな。そりゃまあ、心配になりますよね」
「そりゃ心配になるよねー」
 田山さんは、話しやすい人だった。まるで自分の母親を相手にしているような感じだ。
「社長さん、エラく反省していました。私をダシにして、縁談など進めなければ良かったって」
「あはは、それは仕方ないよ。こういっちゃ何だけど、崎村本部長は慎重派だからね」
「でも人望はあるんですよね?」
 来た来た。ここら辺が、ぜひ聞きたい話なのである。
「うーん、人望はたしかにあるわね」
 刑事コロンボだったら、ここら辺は居酒屋にでも誘ってアルコールを使うのだろうか。こちらは健全な女子高生なので、そういった手は使えない。
 ひたすら演技力の勝負。今の私は北島マ……げふんげふん。
 そんな私の様子は、田山さんにはお見通しだったらしい。
「まだ未成年なんだから、無理しなくていいのよ。それに私、ビールならば大ジョッキニ十杯は行けるわよ!」
「二十杯!」
 よく分からないけれども、大きな缶ビール二十本相当だろうか。我が親父殿は大酒飲みなので禁酒しているけど、さすがにたしか五本程度だったようなような気がする。
「で、崎村本部長を『推し』にする人って、社内にはどのくらい存在しそうでしょうか」
「そうねえ……あの通りのルックスだし、気配り上手だし、偉ぶったところもない。性格も安定している。良いところばかりの集大成が服着て歩いているような人よね……」
「と、いうことは、やはり社内には『推し』とする人は多そうでしょうか?」
 田山さん、グランデサイズのカプチーノを、一気に半分ほど飲み干してしまった。
「うーん、やっぱり甘さのないミルクコーヒーって、悪くないわね」
「それで、どのくらいのファンがいた感じでしょうか?」
 いよいよ、大詰めである。私はジロッとした目で、上から下まで眺められた。
 そして彼女は、溜息をついて言った。
「女子高生には残酷な話かもしれないけど、『殆どゼロ』よ」
「ほ、殆どゼロ?」
 意外な返事だった。それでは磯村真菜さんや、私はどうして撃たれてしまったのだろうか。
「どんなに創業社長の息子であっても、性格や能力が良くても、世の中はそんなものなのよ。もしあなたが縁談を進めることがあったら、注意することね」
「それはもう。しかし学校だと『推し』は多いけれども、さすがに会社は違うんでしょうか」
「しょせんは金儲けのための団体だからねえ。みんな給料を貰うために仕事している訳だし」
「せちがない世の中ですねえ」
「例外は、彼と頻繁に接する人間くらいだっただろうよ。例えば亡くなった森ちゃんとか」
 フムフムと、私はメモを取る手を動かした。
「病室で森さんにお会いした時には『推し』が多そうに感じたけれども、しょせんは夢幻の類いでしたか」
「そんなものだよ。あなたは知らないかもしれないけれども、昔は職場結婚というパターンが多かったんだよ。それが昨今のセクハラとかパワハラの影響なのか知らないけれども、殆どゼロになってしまった」
「つまり『推し』の影響力も弱まってしまった、と」
「そういうことさね。そして逆に、『推し』というのは狭い世の中に縛られることなく、世間一般に広まったという訳さ」
「なるほど、世相を反映していますね」
「で、私が見るところでは、崎村本部長の『推し』は、秘書の森さんくらいだったね。もちろん男性陣には礼節を重んじる者として、忠誠が期待されるという点から、けっこう人気は高いですよ」
「そうすると、将来の配偶者を狙った銃撃には、社内的な要因は絡んでいそうにない、と」
「『家政婦……じゃなくて、社内関係者は見た』という視点で見ると、そういうことになりますね」
 私は溜息をつくしか無かった。
「なるほど。今日はありがとうございました。ものすごく参考になりました。とりあえず社内を考えなくて良いならば、だいぶ楽になったと思います」
 私は一つだけ気付いたことを隠して、率直に自分の感想を表した。田山さんは微笑んでくれた。
「はやく磯村真菜さんが元気になると良いですね。結婚できるかどうかはともかく、崎村本部長には重要なことですよ。彼がバリバリ仕事できるようになれば、忙しくなるかもしれませんけど、それが私たちの給料にも響きますし」
「全くそうですね」
 そして私たちは笑いながら、残った飲み物をそれぞれ、最後の一滴まで飲み干したのだった。

#時間との競争

##1

「それで、『謎はすべて解けた』というところまで行ったの?」
「あゆみ、かわいそうでしょ。謎が解けないから、あたしたちが呼ばれたのよ」
「美里こそ、サクっと結花を後ろから刺しているわね」
「…………」
 当たっているだけに、何も言えない。
 私は自分だけでは犯人を特定することができず、二人を自宅近所の喫茶店へ呼び出したのである。何しろお見合いから発砲事件を経て、人の命が失われる事態にまで発展してしまった。説明するだけで三十分以上が必要となってしまった。
 なにしろ天下のK出版社を支配する崎村家が、総力を挙げて事件を隠そうとしたのだ。テレビや新聞には全く登場していない。お見合いのことは二人とも知っていたけれども、事件を一から全てを説明するのは大変だった。
 で、その結果として出て来たのが、かくのごときコメントである。一瞬だけ、本業で忙しい父親を帰宅させた方が良かったかもしれないと後悔してしまった。
 しかしーー持つべきものは友人である。
 わたしが絶望から立ち直るのよりも早く、武田美里が私を指さして言った。
「人を指差してはいけないと躾けられて育ったけれども、あえてそうするわ。犯人はあなたね! 結花!」
「ちょっと、私はまだ脇腹が痛いのよ! 本気で助けてよ!」
 カッとなって、思わず頭に血が上る。おかげで、説明疲れは吹っ飛んでしまった。
「あはは、その調子よ」
「さすがは美里よね。不謹慎かもしれないけど、あまり囚われすぎると、いろんなものが見えなくなるからねー」
 と、あゆみが笑った。
「ともかく、まずは目の前の飲み物を、全部飲み干しましょうか」
 三十分も話したので、熱かったコーヒーもぬるま湯のようになっていた。私は二人のススメに従って、グビグビと飲み干した。それから三人揃って、新しい飲み物を調達しに行った。
 時間にして三分くらいだろうか。その間に私も落ちついていた。
 私の調子が戻ったのを悟ったのか、美里がカップから口を離した。
「ところで結花は本当に犯人が分からないの?」
「えっ、それってどういうこと?」
 美里は逆に、びっくりしたようだ。
「だって、K出版の田山さんーーだっけ? のアドバイスに従えば、推理小説みたいな展開じゃない。ーーさすがは出版社で働いている人よね」
「アドバイス? それって、どういうこと?」
「だって基本的に、K出版に『推し』は存在しないんでしょう?」
「そう言っていたわね」
 私は首を縦に振った。
「そして崎村家のことを把握している者ーーそうすると、私が聞いた範囲では、一人しか思い当たる人はいないわ」
 意外なことに、あゆみも首を縦に振った。うんうん、と頷いている。
 何? わかっていないのは、私だけ?
「渋沢さんは裏を取る必要があるけれども、会社って数年単位で別な部署に移るのが普通なのよ。だから崎村慎司さんに、そんなに深い思い入れはないと思うわ」
「さすがは美里。まるで会社員を何十年も経験してきたようなことを言うわね」
「ふふふ、もっとホメてもいいのよ」
 なんだ、なんだ。この展開は? ノリノリじゃないか。昔からこんな感じだったか?
「ところで渋沢さんが犯人ではないと聞いて一安心だけど、そうすると誰が怪しいの?
 私の質問を聞いて、彼女はニヤリと笑った。何? もしかして 名探偵武田美里の誕生か?
「結花は渦中の人だから、見えなかったかな──」
 なんだか完全に調子に乗っている。うーん、ここはヨイショするに限るか。
「で、名探偵さん……誰が怪しいの?」
「家政婦の園村さんよ」
「園村さん──?」

##2

「初歩的な推理だよ、ワトソン君」
「簡単なの?」
「そう。だって今回の事件は崎村慎司を『推し』として崇める者または者たちが、彼が結婚する可能性が出て来たから犯行に及んだ訳よ。別に芸能人でもない彼を『推す』のは、彼を知っている者に限られるわ」
「まあ、その通りね」
 私は相づちをうった。
「そして彼は出版業界では有名人だけれども、田山さんという方の説明によると、そんなに特異な人物ではない。あくまでフツーに人当たりの良い好青年に毛が生えた程度ーーでしょ? 結花?」
「まあ数回しか会ったことないけど、『その通り』って言いたいわね。少なくともキルヒアイス様ほど、オーラは出ていなかったわ」
 と、私は返事をした。
「『キルヒアイスって誰よ? それよりもキルアじゃないの?』と突っ込みたいところだけど、まあそれは今回の事件が終わった後にしましょう。ともかくスターみたいなオーラを放つほどじゃない。そうすると、彼を『推す』のは、彼と接することが多くて、彼の良いところを実感している人に限られるんじゃない?」
「そうね。少なくともイヤなところは全く無かったわ。噛めば噛むほど味が出る『するめ』みたいな人なのかもね」
「でしょー」
「するめみたいな人かあ。いいなあ、結花。そんな人とお見合いすることができて」
 あゆみが割って入って来た。彼女は彼女で、なんか変な想像をしているらしい。ともかく、彼女がいてくれるおかげで、自然と場がなごんでくる。特にこういう殺伐とした話題の時には、貴重な人材だ。
「彼と日頃から接することの多い人ーー普通に考えると、会社の人か家族でしょ」
「まあ、そうね」
「それで会社の線が消えたとなると、残るは家族の線。そうなると家族同様に接することが多い女性としては、家政婦の園村さんになるわけよ」
「ーーまあ、そうね。聞いた限りでは、磯村真菜さんだけしか付き合っていないと聞いてるし」
 それ以外に犯人の候補者がいなければ、たしかにそうなるだろう。ちょっと意外な気もするけど。
「他に犯人の候補はいないの? 結花?」
 あゆみが尋ねてきた。
「いや、それは私が知りたいところよ。まあ男性の浮気心というのは侮れないと思うけれども、少なくとも私に興味を示さない点で、浮気性ということはないと思うわ」
「大した自信ね、結花」
 あきれたように、美里が言った。だって、いくらまだ結婚可能な年齢ではないといっても、こんなにかわいい女の子に興味を示さないというのは、ちょっと信じられない」
 もしかしたら男性に興味がある……って、その線は真菜さんと付き合っているのだから、ありえないだろう。
「自分に自信を持つのは大切なことよ。でも確かに女っ気がないと言えるわ。会社以外で挙げるとすれば、真菜さんのお母さんくらいかもしれない」
 マザコン、マザ婚ーーどーでもいいけど、その線はなさそうだ。
「ところで園村さんが犯人って、他には理由はないの?」
 たしかにあゆみが気にするのも、もっともな話だ。しかし私には、心当たりがあった。
「園村さんが犯人だとすると、説明がつくことは多いわね。執事役の秘書がお休みの時などは代行をするそうだから、いろんな情報が手に入る立場にあるわ。お見合いをしたホテルにも詳しいし、私が会社関係なのか確認しようとした時だって、慎司さんを通じて園村さんに話は通っていたはずよ」
 うーん。”家政婦は殺った”というところだろうか。
「でもそうすると、秘書の森さんの一件が説明つくのかな?」
 と、あゆみがつぶやいた。食事にしか興味が無いように見えながら、その素朴な疑問は実に的確に刺さってくる。たしかに私も、森さんが亡くなったことで、会社関係を疑った訳だし。
「たしかに、その点を突かれると辛いわ。何しろ家政婦だから、基本的に崎村家から出ない訳だしーーでも、そこが結花の盲点だったのよ」
「盲点?」
 思わず眼が点になる。欠点は山ほど持っているけど、何を見落としているのだろうか?
「だって亡くなった森さんて、崎村さんの秘書でしょ。変だと思わない?」
「変?」
「そうよーー普通、婚姻届の入手を秘書に依頼するのは変よ。いくら世間知らずのお坊ちゃんでも、まともな会社員でしょ。公用と私用の区別はつくでしょう」
 うぐぐ。言われてみれば、その通りだ。
「すごい、美里。まるでオバ……OLみたい」
「オバサンは余計よ」
「あ、そこは聞き逃さないのね」
「当たり前よ」
 ああ、話が妙な方向に脱線していく。
「あのー……」
「そうそう、普通は秘書に頼まないということだったわね。だからね、こう考えてみたの。『婚姻届の書類を受け取りに役所へ行ったのは園村さんで、それを森さんに渡そうとしたんじゃないか?』って」
「会社に近いとはいえ、歩道橋の上で?」
「『駅まで来たので、申し訳ないけれども書類を受け取りに来て欲しい』と言われれば、OLって外出するものなのよ。いろいろと、外出ついでに買い物できるから」
 美里は得意げに胸を張った。すごく詳しいな、頼もしいから構わないけど。
「すごいわ、美里。いつも頼りになると思っていたけれども、ここまですごいとは思わなかったわ」
 あゆみが素直に賞賛する。
「まあね……、だって”お姉ちゃん”に教えて貰ったからっ!」
 あらら、そういうオチでしたか。言われてみれば、美里のお姉さんはOLだった。なるほど、納得がいった。
「それに家政婦さんでしょう……日頃から掃除などで体を動かしているから、それなりに鍛えられているはずよ。少なくとも、そこら辺のOLよりは遙かに体力も筋力も勝っているでしょう」
 あ、それはその通りだ。
 かつて古代中国では、毎日毎日洗濯板を叩き続けていたことが修行となり、荒くれた野党を一撃で倒した老婆も存在していたそうだ。そこまで行かなくても、OLと家政婦では全く勝負にならないだろう。
 廊下を雑巾掛けする脚力や腕力をもってすれば、歩道橋の上から落とすなんて、玄関の靴を揃えるのよりも簡単なことかもしれない。あとは目撃者さえ、どうにかすれば良い。
 それだって一見したところ何の変哲もない家政婦だったら、彼女がそんなことをするはずがないと、脳が認識を拒否したということだってあり得る。人間というのは、案外と『自分だそうだと思うこと』しか見えないものだ。
「人は見かけによらないものねえ」
 我が友人たちは見かけ通りだと想いながらも、私はつぶやいた。それに美里が被せてきた。
「でしょ。ともかくまずは、家政婦の園村さんに直接会って見るのが良いんじゃない。たとえ彼女が犯人ではなかったとしても、なにかヒントになることを知っているかもしれないわよ」
「そうよ、当たって砕け散れ、よ」
 あゆみが合わせて来た。なにかが根本的に違っているような気がしないでもないけど、今は突っ込んでいる場合じゃない。
 私は二人の友だちに感謝しながら、席を立とうとした。
 と、その時だ。
 いきなり電話が鳴った。
「はい、尾花です──えっ、なんですって?」
 店内では迷惑がかかるので、私は店の外へでた。そして三分ほど会話を続けて、電話を切った。
 再び店の中に入ると、美里とあゆみが何事かといった表情で、心配そうに私を見ていた。どうやら自分ではポーカーフェイスを保っていたつもりだけど、そういう訳にはいかなかったらしい。
 私は黙って、そのまま席についた。そして両肘をテーブルに預けて、両手を組んでから顔を乗せた。俗にいう『ゲンドウ・ポーズ』というヤツだ。
「磯村真菜さんが意識を取り戻したそうよ」
「それは良かった」
「このまま順調に回復するといいわね」
 私は無言のまま、黙って頷いた。その様子が尋常でないので、二人とも黙り込んでしまった。仕方あるまい。
「それと──家政婦の園村さんが亡くなったんだって。詳しくは訊いてないけど」

##3

 それからの数日は、ひたすら慌ただしく過ぎ去った。
 うれしいことに、磯村真菜さんはアラサーおばさんのたくましさ……、じゃなくて、まだ三十歳になったばかりという若さのおかげで、めきめきと体調回復しつつあるそうだ。明日か明後日にはICUから一般病室へ戻る見通しらしい。
(JKである私の方が治癒能力は遙かに高いと思うが、ここでその事実は重要ではない)
 ともかく彼女が元気になって崎村真菜となってくれると、私のお見合い騒動も一段落する。もちろん少しでも役に立てることがあれば、なんでもやりたいという気持ちだった。
 しかし、うれしいことばかりではない。
 正直、家政婦の園村さんのことは衝撃的だった。
 私は『三人寄れば文殊の知恵』と思ったけれども、同じことは警察も考えていたらしい。かなり親しくなっていた『崎村のじっちゃん』から聞いた話だと、彼女は何度か警察に事情聴取されていたらしい。婚姻届を役所へ受け取りに行ったのは、実は自分だったと認めていたそうだ。
 私たちはーー特に美里は想像力をたくましくして、アレコレと語っていたけれども、その殆どが『アタリ』だったという訳だ。私が自ら尋ねてようと思い立った時には、すでに全てが終わっていたという訳だ。崎村邸で彼女の仕事部屋として割り当てられた部屋には、遺書らしきものもあったそうだ。
 警察も捜査は続けているものの、どうも家政婦の園村さんが一連の事件の犯人ということで落ちつきつつあるらしい。
「全く、やりきれないなあ」
「ーーそうですね」
 電話口で崎村社長ーー、今や『崎村のじっちゃん』と化した彼は、私にそうボヤいた。父親がK出版に足を向けて寝ることができない娘としては、ひたすら聞き役に徹するしかなかった。社長としては家族にさえグチをこぼす訳にもいかず、第三者的な女子高生にアレコレと話す。まあこのままストレスが溜まるようならば、学校のカウンセラーの先生でも紹介した方が良いのかもしれない。
 ちなみに驚いたことに、磯村真菜さんや私を撃ったサイレンサー付きの拳銃も、彼女の仕事部屋から見つかったそうだ。もしかしたらまだ使うつもりだったかもしれないと思った時には、思わず背筋が凍りついてしまった。
 彼女にとって、人間の人生とは何だったのだろうか。『推し』こそが全てだったのだろうか。
 それも今となっては、確認することができない。
 ましてや人生経験のない高校一年生には、彼女の人生など想像することさえできない。
「しかしなあーー、彼女が慎司をどう思っていたかはともかく、人を殺めたりする者だったとは存在できないんだよ。私も人を見る目がないなあ」
「うーんーー。そうですねえ……」
 なんとも返事をすることができない。
 私は園村宏美さんのことを全く知らない。人柄から判断するのは無理があり過ぎる。
 ただし一つ、気になることがあった。ーーなぜ私たちを撃ったのだろうか? いや、言い直した方が良いかもしれない。
 なぜ森秘書が婚姻届を持ち帰るのを邪魔するのに、銃を使わなかったのだろうか? いくら家政婦が力持ちだからと言って、目撃されるリスクが大き過ぎる。
 そう考えてみると、さらに疑問は膨れ上がってくる。
 もしも彼女が『推し』ゆえに殺人に手を染めたのであれば、自殺する必要は全くない。なぜなら刑務所の中で、『推し』を貫くことができる。
 事の次第が発覚して自殺するような覚悟で、崎村慎司を推すことはあるのだろうか。少なくとも私は、『推し』のことで何かやったとしても、死ぬつもりなど毛頭ない。事実、『推し』のために学校ではーー
 いや、私のプライベートのことなど、どーでも良い……先生や親には問題かもしれないけれども。
 違和感を感じるのは、お見合いの場所にサイレンサー付きの銃を持って登場するほどの人物が、あっさり自殺するかという点だ。それに家政婦だったら、留守番はどうしたのだろうか。
 本当に彼女なのか?
 疑いだすと、キリがない。いや、じっちゃんも違和感を抱いている。
 いやいや、注意一秒、ケガ一生だ。
 ましてや銃で脇腹を撃たれた者としては、その後は一生残るんじゃないかと心配している。
『傷は男の勲章』かもしれないけれども、女の勲章ではない。いや、私のやっているゲームにおける『推し』は傷だらけだけどさ。
 ーーそうじゃない。ここで使うのは『油断大敵』だった。
「あのー……、真菜さんがICUから一般病室へ移れるのは本当におめでたいことですけど、警備の人は付かないんですよね?」
「ああ、そういうことになるな。警察としては危機は去ったと考えているから、警備に人が投入されることはない」
「警備員を雇う予定は?」
「社員じゃ亡いから、会社としては動けないなーー。崎村として警備員を雇いたいところだけれども、母さんを説得するのに骨が折れるな。高校生に言うのも何だが、妊娠して孫がいるといった事情があれば別なんだけどなあ」
「心中、お察し致します」
「これは痛み入ります……などと冗談を言っている場合じゃないな。事件は終わっていないと思っているのか」
「私も園村さんとは思えないんです。少なくとも、彼女の単独犯であるとは」
「そうか、意見一致か。しかしそうなると、どうするか悩ましいな」
「実は少し考えがあるんですけど……」
「そういう言い方をするということは、何か依頼事項があるということかな」
「はい、それは……」
 お母さん、お父さん、そして学校や塾の先生たち。ご迷惑をおかけしてごめんなさい。でも磯村真菜さんが亡くなったりしたら、それこそ私は崎村夫人から嫁候補として本気で狙われてしまいかねない。

 そんな訳で、私はまだ銃で撃たれた怪我が全快していないことを理由に、磯村真菜さんと二人部屋の一般病室に入院したのだった。

#三人揃えば文殊の知恵

##1

「へえー、そんなことがあったの」
「はい、まあ、人生いろいろですね」
 小春日和の日差しを浴びながら、私は磯村真菜さんに返事をした。
 いや、本当にいろいろあったのよ。そしてまた、いろいろありそうだから、始末に負えない。
 彼女がICUーー面会が制限され、病院スタッフでさえICUチームしか入室することがない集中治療室ーーから一般病室へ移ってくる数日前に、私は予後不良を理由に入院した。
 あゆみと美里の二人は心配して、まっさきに病室へと駆けつけて来てくれた。そんな彼女たちを騙すようなことをするのも気が引けるけど、これも自分の将来のためだ。磯村真菜さんが崎村真菜さんにならない限り、矛先が私の方へと向いて来てしまう。
 女性が結婚可能な年齢が十八歳に引き上げられたからといって、油断してはいられない。法律が変わっても、人の心ーー特に高齢者ーーは、そんなに簡単に変わらないものなのだ。それに天下のK出版の社長夫人などとなると、教養も重要だ。もしも本当に結婚するような事態になっても、大学へ行くことは必要になるだろう。
 結婚しながら大学の勉学にも励む? そんな大変な人生は全力でご免被りたい。
 選択の余地など全くない。全身全霊でもって、真菜さんの願いをかなえるのだ。
 それにーー話していると、本当にいい人なのだ。私は一人っ子だけれども、こんなお姉さんが欲しかった。明るくてやさしい……なんとなくママに似ている。ただし残念ながらママは私の話について来れないけれども、真菜さんはちゃんと理解してくれる。そこそこの行動力もある。
 私は「おまえはトラだ、トラになるのだ!」とか、「暖かくよりも激しく生きろ!」と今風に『自立した女』を目指して育てられているけれども、別に日本初の女性総理になりたいと思っていなければ、女優や歌手になりたいとも思っていない。
 いけない、いけない。
 真菜さんはICUから出ることができたとは言え、重傷の怪我人なのだ。無理をさせてはいけない。それにーー
 それに、肝心の目的を忘れてはいけない。
『崎村のじっちゃん』の眼が節穴とは思えない。たとえ事件に関与していたとしても、人の良さにつけ込まれたといった事情によるものかもしれない。
 名探偵は全ての人を疑うのがセオリーかもしれないけど、この場合は逆だ。園村さん以外の人物が犯人であり、その者は虎視眈々と機会を伺っている。のんびりとしている場合じゃないのだ。
 私は自らのアンテナを研ぎ澄まし、真菜さんを守りつつ、その人物を捕捉する必要がある。あらゆる手段で、こちらのスキを狙ってくるだろう。
 そういった戦いに、真菜さんは向いていない。
 だから私が密かに監視カメラを設置したりして、ディフェンスとオフェンスを兼ねる必要がある。今のところ、怪しい人物はいない。我が父親が『怪人』と言えるくらいだ。
 それにしても、どんな手を打ってくるだろうか。
 サイレンサー付きの銃を持ち出して来たということは、もはや手段は選ばないということなのだろう。この病院の制服を盗んで変装した『ニセ看護師』には注意しているけれども、もしかしたらハリウッドの最新メイクアップ技術を駆使して、本物の医師や看護師になりすまして襲撃して来るという可能性だって捨てきれない。
 検査にはともかく理由をつけて、できるだけ立ち会うように心がけていた。もはや彼女のスリーサイズを復唱することだって可能だ。『害なす者』が患者に変装してやって来たら、病室からでは即応は難しい。
 ともかく私は、徹底的に怪しい人物を見つけ出そうと奮闘した。

 が、今にして思えば、これが良くなかったのかもしれない。敵は高校一年生の考えなど、お見通しだった。
 攻撃は、意外な方からやってきた。
 ちなみに窓の外からの狙撃ではない。何度も銃で狙われるのはまっぴら御免なので、そこは病院に手を回して、狙撃されにくい部屋を選んでおいた。カーテンは外から見えにくいものにして、わざと昼食の時だけカーテンを開けるようにした。向こうもこちらの誘いは承知しているかもしれないが、そこはお互いさまだ。
 なお気休めかもしれないけれども、窓はあらかじめ防弾ガラスに変更して貰っていた。K出版社がお得意様でなければ、こんな無理はできなかっただろう。
 まさか対戦車ライフルまで持ち出すことはないだろうから、窓に関しては合格点だったと思う。監視カメラを設置する件も、けっこう効果があったかと思う。プロが見れば、死角なくカメラが設置されているのは分かったはずだ。だから状況偵察くらいは実行できたと思うけれども、それで武力行使は諦めてくれかと思う。AIが画像解析を手伝ってくれているので、病室のはるか以前で異常検知されてしまう。
 地味だけれども、我ながら手際よく準備できたと思う。
 しかし残念なことに、相手は遙かに上手だった。自分がまだまだ子供だと思い知らされた。
 それを痛感させられたのは、真菜さんと同じ病室に入ってから一週間ほど経過した後のことだった。私がこのままでは手詰まりなので、そろそろ次の手を考えないと……と、少し考え始めた矢先のことだった。
 敵は心理戦のプロだった。
 人間というのは、極度の緊張を長く続けることは難しい。真菜さんと隣り合わせのベッドで生活を始めた時点では、私の緊張はMAX……つまり最大状態だったらしい。
 たしかにその時の私は、AIの助けもあって、油断ならない存在だっただろう。夏休みの初日は、宿題をやる気に満ち満ちていて、順調に進むようなものかもしれない。
 もしくは試合後のボクサーが興奮して、疲労困憊のはずなのに、妙に寝付けなくなってしまうとか。
 しかし何事もなく一週間が経過してしまうと、「この平和がこのまま続くのか」と無意識の刷り込みというか、慣れが生じてしまう。まだ高校一年生の私には、そういった経験値がゼロに等しかった。
 で、何者かは巧妙にも、私たちの入院している病識に、時限式の殺人装置を仕掛けてしまった。
 最初にそのことに気づいたのは、私のママだ。
 警察犬並みに鼻が良いおかげで、まっさきに異臭を検知した。
「気のせいかしら……、なんか腐ったお父さんの匂いがするような気が――」
 腐ったお父さんの匂い???
「あの、我が家のお父さまは、腐っていなくても匂うと思いますが……」
 それを聞いて、真菜さんが吹き出した。
 しかしたしかに、言われてみると少しだけ違和感がある。病院独特の匂いでもない。もちろん私たちは風呂に入っていないけど、そういった感じではない。最近は死霊魔術師とやらが相当有名らしいけど、ゾンビやミイラの剥製は好きじゃない。
 って、死霊魔術師?
 私の中で、とつぜん何かが弾けた。
 いやゾンビとかミイラが襲って来ると考えたんじゃない。細菌兵器とか、生化学兵器の可能性に思い至ったのだ。
「ママ、匂いの方角ってある?」
「うーん……、そう言われても……」
 なにやら必死で、くんくんと始めた。私も同じように、匂いの元を辿れないかと頑張ってみる――
 だめだ。
 いったん部屋の匂いをリセットしようと、窓の方に向かう。静かに窓を開いて……、あらら。ベッド生活で体力が落ちていたのか、足がカクンと曲がってしまった。
 と、その時だ。
 突然、壁に何かがガチンと猛烈な勢いでぶつかる音がした。それと殆ど同時に、チューンという音がして、何かが頭上を掠めたことが分かった。
 これは……
 マズイっ! 狙撃だ。本当にスナイパーに病院外から狙われていたのだ。
「なに、今の?」
 状況が分からない二人へ説明する暇もなく、サッシを閉じてから窓際を離れる。完全に油断していた。危ないところだった。
 いや、真菜さんは少し遅れて気づいたようだ。悲鳴があがった。
「アール!」
 私は自分のAIへと声をかけた。あらかじめ音声だけで連絡を取れるように設定していたのだ。
「特に監視カメラで異常は見当たらない?」
「はい、特に気になる動きはありません」
 即座に返事が返ってきた。私は二人の方へ向き直った。
「ちょっと警察や崎村のじっちゃんに連絡するから、少しだけ部屋を出るね。ここは防弾ガラスで大丈夫だから」
 そういうと、私は病室のドアを後ろに廊下からトイレへと向かった。

##2

 しかし私が向かったのは、トイレじゃなかった。
 敵はこちらが油断するまでじっと息を伺って観察し、緻密な計画を立ててきたようだ。トイレだって、油断はできない。
 部屋から叫び声が聞こえたらすぐに戻れる距離まで移動して、まずは崎村のじっちゃんに連絡を入れる。平日の昼間だから、予想通り電話はつながらなかった。とりあえずスナイパーが存在していたこと、全員が無事なこと、これから警察に電話することを連絡した。
 警察には110番でなくて、事情聴取した人の名刺に書かれていた番号へと電話した。こちらは打ち合わせ中だったようだけれども、すぐに電話口に人が出てきた。私は三分くらいで、簡単に現在いる病院名や磯村真菜さんと同じ病室に入院していること、防弾ガラスとカーテンを閉めてからは、特に異常が起こっていないことを伝えた。
「できるだけ早く、まずは状況確認に誰かを派遣するようにします」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
 幸いなことに長電話にはならず、すぐに電話は終わった。

 さて……、問題はこれからだ。
 私は匂いに注意しながら、部屋へと戻った。ドアを開けた瞬間に、やはり少し妙な匂いがすることに気がついた。
 匂いはベッドに近づくにつれて、少し強くなった感じだった。念のためにベッドの下を覗いたけれども、なにもなかった。二人の間には小引き出しがあったので、一つづつ開けてみた。しかしやはり、なにも見あたらなかった。
 と、小引き出しが少しだけ前に出掛かっていたので、体を伸ばして裏側を覗いてみた。そしたら……
 あった!
 ただの段ボールの箱だけれども、そこから匂いが出ていた。どうして私たちよりもママの方が先に気づいたのかは不思議だけれども、父親が買い食いして帰宅した中華まんにも気づいた伝説がある。ここは素直に彼女をほめるのが良いだろう。
「たしかに変な匂いがするわね――恐いわ」
 真菜さんが言った。私が狙撃された直後の話だ。無理もないことだ。とりあえず爆弾では無さそうな気がするけど、油断はできない。
「ともかくナースコールします!」
 と、私はベッドの脇にあったボタンを押した。
 ここで真打ち登場などとなったら、シャレにならない。私は廊下に出て、看護師さんがやって来るのを待った。やって来たのは、顔なじみの人だった。彼女は崎村社長からあらかじめ簡単な事情説明を受けていたらしく、話の通りは早かった。あまり二人を心配させてはいけないと、廊下で簡単に状況説明をした。
「別に個室を用意した方が良さそうね。ともかく様子を見てみましょう」
「お願いします」
 そして二人揃って、勢いよく部屋の中に……入ることは出来なかった。
 驚いたことに、ママが椅子から崩れるように倒れ落ちて、床に横になっていた。真菜さんは目を閉じて、眠ったようになっていた。そして……
 今やはっきりと、異臭を感じ取ることができる。なぜか換気機能は止まっているようだった。看護師さんが私を制止したのは、賢明な判断だったと思う。
 彼女がまずやったのは、近くの病室に入って、そこからナースコールをかけたことだった。それから勇敢にも部屋に戻ると、息を大きく吸ってから止めて、室内へと突入した。催涙ガスなどと違い、目に刺激が走るようなことはなかった。彼女は空調パネルを操作しても反応がないことを確認すると、今度は窓ガラスを開けた。一瞬だけ心配したけれども、特に彼女が狙撃されるようなことは無かった。
 ほどなく警察関係者もやって来た。医師チームもやってきて、大変なにぎわいとなってしまった。そして肝心のママと真菜さんだが……。
「これは一酸化炭素中毒の可能性がある! 誰か測定器と一酸化炭素吸収缶があれば持ってきた方がいい」
 と、誰かが言った。
「一酸化炭素中毒ですか? 香坂先生」
「たぶんね、森本先生。理由は全く分からないけれども、一酸化炭素検出機器をテストするための一酸化炭素缶がガス漏れ検知用に付けている匂いと似ている。ともかくまずは換気して、それから意識のない二人をICUへ移すのが良いかな。誰か、ICUに連絡を入れて、ベッドに空きがあるかなどを確認しておいて貰えるかな」
「いきなりICUですか」
「ともかくまずは一酸化炭素に間違いないかの検査だ。個室に酸素吸入器を持ち込むのは厄介だから、そこまではやらなくて大丈夫だろう。同室にいたお嬢さんはピンピンしているし……。ともかくスピード最優先だ」
「分かりました!」
 あっという間に、皆は散っていた。
 私は頼もしい先生が居合わせてくれたことに感謝した。それにICUであれば、変な人間が入って来ることはできない。セキュリティ敵にも安心だ。
 あとで私も知らされたことだけれども、小引き出しの後ろにあった段ボール箱には、たしかに一酸化炭素の缶が収納されていたとのことだ。タイマーと遠隔操作で起動することが出来て、徐々にガスを放出していく。一酸化炭素ガスは無味無臭だから危険度は高く、それで機器検査などに使用するために販売されている一酸化炭素の缶は、あらかじめ特定の匂いを付けておくが義務づけられているのだそうだ。
「いったい、いつそんな仕掛けが――」
 と、真菜さんが呆然としていた。
 どの病室を割り当てるのかということは、病院の決めることだ。そこらへんも含めて、警察が捜査に乗り出してくれるらしい。
 そういった大雑把なことは、警察の人から事情聴取の時に教えて貰えた。それから崎村のじっちゃんこと崎村社長も病院などから話を聞き、いろいろと教えてくれた。素直に喜ぶ訳にはいかないけれども、とりあえず園村さんによる単独犯行という基本調査路線も変更されることになったとのことだ。
「しかし、本当に素直に喜べない状況だなあ」
「ええ、まったく」
 私としては自分の力不足が完全に露呈してしまった状況であり、もはやお手上げ状態だった。
 崎村のじっちゃんは、気落ちしている私の気持ちを察したのか、なぐさめようとしてくれた。
「いや、雄花結花はよくやってくれているよ。高校一年生にしては見事なものだ」
 しかし、あと一歩のところで三人仲良く昇天するところだったのは、全く否定できない事実である。
 我が親父とのは妻にも子供にも先立たれたら、それをネタに小説を書いたりするんだろうなあ。
 そうなると意地でもこの状況を乗り切りたいよなあ。

 ところで感動的だったのは、事の次第を知るなり、崎村慎司さんは全ての仕事をキャンセルし、病院へ駆けつけて来たとのことだ。渋る病院を強引に説得し、婚約者扱いでICUへ突入し、いきなり真菜さんを抱きしめた光景は忘れられない。
 私はママも一旦はICUに引き取られることになったので、たまたまICUの中にいた。
「子供には、目の毒だわね――」
 と、さすがのママも笑いながら、二人の様子を見ていた。

##3

 さてICU……集中治療室とやらが満室状態といった事情もあり、ママは早々に個室へと移り、ほどなく退院した。ただし無理はいけないということで、私の当面の昼飯は、構内自販機のパンやおにぎりとなったのだった。
 そう、母親よりも早く、私は病院を退院して復学していた。なにしろ、もともとケガの治療は順調に進んでいる。磯村真菜さんを守るために入院したようなものだ。それなのに、彼女は現在もICUに入ったままだ。特に問題はないとのことで一安心だが、銃で撃たれて重傷を負った後で、一酸化炭素中毒になりかけたのだ。セキュリティ的にも、何かあっては大問題と、満場一致でICU継続ということになったらしい。
 ウワサによると、その件には崎村のじっちゃんよりも、息子の『慎司君』の方が精力的に説得工作を進めたらしい。こーゆーところは好感が持てる。
 ――こういう好青年だから、『推し』問題も生じてしまうのかもしれないけれども。

 ちなみに私が無理をしていないかというと、そんなことはない。
 もちろん銃で撃たれたケガは順調に回復している。運動嫌いだから休む口実にしているけれども、なんだったら体育の授業に参加しても良いくらいだ。
 無理をしているのは、自分も『オマケくらいには狙われている可能性がある』のに、学校を休んでいないことだ。警察官の護衛の元、登下校をしている。
 初日は「あなたたち総理大臣のSP」といった雰囲気をまとった人たちが護衛してくれた。しかし気持ちはうれしいけれども、私は湘南四葉学園の生徒なのである。登下校時間帯の、最寄り駅から学園までのバスは女子高生と女子中学生ですし詰めとなっている。そんなバスに乗った時に、果たして彼らは何を感じたのだろうか。地獄の恥ずかしさを味わったのか、至福の天国気分を味わったのかは、プロフェッショナルはポーカーフェイスからは伺い知ることはできなかった。
 とりあえず気の毒な気がしたので私から提案して、翌日からは女性の護衛に変更していた頂いた。警察としては自宅待機してほしかったかもしれないが、なにしろ今まで学校を休み過ぎている。また今後の展開を考えると、多少は無理しても学校へ行きたいところだった。
 それに私はあくまで磯村真菜さんが亡くなった場合の”第二候補”に過ぎない。ましてや都内はともかく、神奈川の片田舎というのは恐ろしいところで、見慣れない者がウロウロしていたら、たちどころに通報されてしまう。
 そんな訳で、私は気持ちをリセットさせることも兼ねて、しばらく学業に専念するつもり……だった。
 それが脆くも崩れ去ったのは、三日目の登校時のことだった。
 バスに乗るなり、親友の美里から話しかけられた。
「お見合いの件、テレビのニュースで報道されていたわよ」
「お見合い?」
 一瞬、何のことだから分からずに聞き返してしまった。
「K出版の社長息子がお見合いしたら、事件化してしまったという件よ」
「事件化? いったいどうして?」
 美里は戸惑いの表情を見せた。バスの中は湘南四葉学園の生徒で溢れている。殆どの者たちが私のお見合いの件を知っており、全員が耳ダンボ状態だ。心なしか、いつの間にか雑談がおさまり、バスの中が静まりかえっているような気もする。
「結花はテレビを見た?」
 空気を気にせず天然に話すことのできるあゆみが、助け船を出してくれた。
「いつも通り、見てないわよ」
 ここなしかパスの中の空気が張り詰められて来たような気がする。いったい何だろうか?
「あのね、K出版社で崎村慎司さんの部下だった渋沢さんが、報道によると自殺したんだって。上司の崎村さんと結婚できないことが悔しくて。崎村慎司さんの秘書も殺害したとか」
「えっ、渋沢さんが?」
「知っている人なの」
「うん、まあね……」
 女子高の学生というのは、無類のウワサ好きである。共学校だって基本的には変わらないけど、話題に飢えているのだから、仕方あるまい。
 しかし何かが大きく間違っているような気がする。そもそも副本部長まで出世した人が、どうして結婚できないくらいで自殺する必要があるんだ? あれほど自信に満ち満ちていたように見える人が?
 人は見かけによらないとはいえ、ちょっと意外性があり過ぎる。
 私は横を向いて尋ねた。質問する分には、問題はないだろう。
「あゆみ、今の要約は見事だったけど、もう少し背景とか何か説明なかったかな?」
「そう言われてもねえ……。実は離婚したばかりで、小さな子を育てるのに大変だったので、それを支える崎村氏とは親密な仲だったとか……そんな感じかな?」
 そうか、小さな子がいるのに、私の相手をしてくれたのか。忙しかったのに、頭が下がるなあ。
「人生って、大変なのね。って、私たちも他人事じゃないか」
 とりあえず、あれこれと聞くうちに十分以上が経過し、私たちは学校前のバス停へと到着したのだった。

 学校では『壁に耳あり、障子に目あり』なので、殆ど何も言うことはできなかった。そこで私はいつものように、自宅近くの喫茶店……は護衛の関係で無理なので、ビデオチャットで二人と会話することになった。
 二人とはもちろん、香川あゆみと武田美里だ。
「で、渋沢さんって、どんな人なのよ?」
「崎村さんと同じ本部の人よ。彼が本部長で、渋沢さんが副本部長」
「そんなことはテレビでも報道していたわよ」
 美里が言った。
「二人の関係は知らないの?」
「そんなもん、知らんがなー。――そもそも、渋沢さんなんて一回会っただけだよ」
「それじゃあ、テレビ以上の情報は全くなし、か」
「…………」
 大いに悩むところである。
 一回しか会ったことはないけれども、渋沢さんが自分や子供のために人を殺めるような人物とは考えにくかった。それに天下のK出版の副本部長ともなれば、お手伝いさんを雇うことも可能かもしれない。
 ともかく彼女は、他人の人生を羨む人のようには思えなかった。そういう人が、恨みもない相手に殺人をするだろうか。
 何かがおかしいと感じるからこそ、私は二人に相談させて貰おうと思い立ったのだ。さてさて、この複雑な乙女心を、どうやって伝えたものだろうか。
 しかし黙っていては、何も始まらない。私は重い口を開くことにした。
「うーん、なんて言えば良いのかなあ……。どーも渋沢さんが、陰の黒幕だったとは感じられないのよ」
「『乙女の直感』は、重要だものね」
「乙女と認定してくれて、ありがとう――。あゆみ」
「さてそれにしても、何をどう考えていくことにしたものかね、――結花。あなたが家政婦の園村さんは犯人じゃないと考えたのは当たっていそうだけど――、あ、そうか!」
「えっ?」
「なにが、『あ、そうか!』なの?」
 あゆみと私が、異口同音で質問を挟む。
「あまりに薄っぺらいので、どこぞのオリジナル並みかもしれないけど……、結花の直観が正しかったら、どうなると思う?」
 一瞬で三人の間に、大きな緊張が走る。
「そっか。渋沢さんが亡くなった理由はどうあれ、事件は続くということね」
「そうなると、ゆーちょーに『そーゆーこと』なんて言っている場合じゃないわよ。いったい誰が『陰の黒幕』になるのよ?」
「いやいや、いきなり結論を急がない方がいい。警察だって振り回されているんでしょ?」
「うん、それはそうだけど――」
 美里は手元にあったコーヒーカップを手にとった。
「まず私たちが知りたいこととして、渋沢さんが自殺なのか、他殺なのかということがあるわ」
 あゆみも真似をしたいのか、コーヒーカップを手に取った。こういう仕草のかわいさが、あゆみの良いところだ。
「幼い子供を年老いた両親に任せて、一人だけ自殺……常識的に考えると、ありえないわね」
 私も頷いた。
「私らは人生経験のない女子高生だから、子供を残して死ぬなんて考えられない。逆にメンタルなんかに問題を抱えていない人が、どういう時に子供を残して亡くなるんだろうか?」
 ビデオ画面の美里の目が、大きく開かれたようだった。
「子供を人質にされた? でもそうすると、黒幕が本当に子供に手を出さないという保証は得られないわよねえ……。逆か。自殺しなければ、子供を殺すと脅された、とか?」
「でも脅されたのだったら、それを警察とか会社に相談すれば良かったのでは?」
 のんびりとしているようで、案外とあゆみも鋭い。それは当然かもしれない。彼女も湘南四葉学園の学生なのだから。
「そう、そこよ。あゆみ。もし警察や会社に相談できないような、密かな弱みを握られていたら?」
 私は肯きながら言った。
「人間、だれでも口に出せない秘密や弱みはありがちだものね。私はないけど」
 一瞬の空白の後、画面の向こうにいる二人は爆笑していた。失礼で無礼な者たちである。
「ところで渋沢さんの『密かな弱み』って、何があるだろうか? バリバリのキャリアウーマンっていう感じで、今の肩書きは独力で堂々と勝ち取ったものだと思うよ。ちょっと思い当たらないなあ」
「『実は旦那を毒殺していた』とか?」
 今度は美里と私の二人が、飲みかけていた飲み物を吹き出してしまった。
「あゆみ、あのねえーー」
「いやーー、案外マトを得ているかもしれないわよ」
「美里、あなたまでーー」
 グビリ、と美里はカップに入っていたコーヒーを飲んだ。
「自ら毒殺したことはないかもしれない。そーゆーキャラじゃないんだろ? それに毒殺するには、それなりの知識が必要だ。園村さんの時も気になったんだけれども、素人は簡単に銃を手に入れることは出来ないし、毒殺することも無理だぞ」
「毒殺にしても、ふつうに毒だったらば、死亡診断書を書く医師が気付きそうだよね」
「そう、だから毒殺は簡単じゃない」
「無難なところだと、交通事故かな?」
「そーだねー。交通事故ならば、口の堅いプロに任せるとか、ひき逃げも簡単そうな気がするわー」
「…………」
 言われてみれば、その通りだ。別に渋沢さんが普通に優秀なキャリアウーマンに過ぎなかったとしても、たとえば旦那が浮気性で苦労しているところを、勝手に代理殺人した人がいたりしたら、負い目を持つことになるだろう。
 もしかしたら、私はものすごく陰険で腹黒くて狡猾な黒幕を相手にしているのかもしれない。

 ともかく病院の一件で、私は自分の力が大人に全く及ばないことを痛感させられてている。やはり『三人寄れば、文殊の知恵』というところだろうか。
 しょせんは女子高生の雑談かもしれないけれども、大いに参考にはなった。
 やはり『持つべき者は友だち』なのかもしれない。
 基本的なアイディアを得た私は二人に感謝しつつ、早々にビデオ会議を終了させて貰ったのだった。

#リターンマッチ

##1

 かくして私は、再びK出版社の近くにある喫茶店にいた。
 田山さんを待っているのだ。
 目的はK出版社の実情を教えていただいた時のように、渋沢さんのことについて教えて頂くためだ。もちろん、今回もあらかじめ崎村社長や崎村本部長(息子)のお墨付きを頂戴している。
 それでもなかなか率直に話せないのが、大人の大変なところなんだよなあ。
 そんなことを考えていると、裏口のようなところから、入ってくる人がいた。
 田村さんだ。
「天気も良いし、少し歩きながら話をしましょう」
「……はい」
 なんだなんだ。一体なにがあったのだ。ともかくこちらは依頼者であって、田山さんのご機嫌を損ねることはできない。
 私は席を立ち、田山さんのあとを歩いた。
 二人とも無言で五分くらい歩いた頃だろうか。
「少し疲れたから、あそこのイタリアン系のお店で休みましょうか」
「……はい」
 田山さん、おしゃべりおばさんだった前回とは別キャラのようになっている。一体なにがあったんだ? いやいや、それ以前にーー素直にお店に入ってしまって大丈夫なんだろうか。『注文の多い料理店』ということはないだろうけれども、電波が届かない状況になっていると困る。
 鬼が出るか蛇が出るか……一瞬だけ迷った後で、私も田山さんの後をついて店内へと足を踏み入れた。
 店内はイタリアンでなくて痛いやん……。
 ファミレスではないので一抹の不安はあったが、なんとなく中華っぽい雰囲気のあるレストランだった。随分と内装も古びている。田山さんは慣れた足取りで、店員の案内もなく、奥の方へと歩いて行った。妙に縦長の店内レイアウトだけれども、とうとう一番奥まで行ってしまった。
 そして躊躇なく席に座る。仕方なしに、私も続いて座った。
「ごめんなさいね、こんなところに連れ込んで」
「いえ、そんなことは……」
 そんなことは大ありだが、ここはサラリと流すことにした。どうも彼女の表情を見ると、これから一波乱あるみたいだ。『虎穴にいらずんば虎児を得ず』とは言うものの、ここはもしかしたら本当に虎穴か?
「ところで悪いけど、持ち物やジャケットは向こうの棚に置いてもらえるかしら」
「……はい」
 前回会って話を伺った時には、悪い人じゃないという印象だった。私はその直観に従うことにした。
 対価は『私の命』でないと良いな……。
 そんな物騒なことを考えながら席に戻ってくると、田村さんが私を制止した。
「ちょっと待って、席に座る前に、ゆっくりと一回転してもらえる?」
 こうなったらスーパーの解体ショー直前のマグロ……じゃなくて、『まな板の上の鯉』だ。言われるがままに、ゆっくりと一回転する。こうなったらやけくそで、パリコレのファッションモデルをイメージしながら……
「ありがとう。もう良いわ。どうぞ座って」
「はい」
「あ、気づいているかもしれないけど、ここは電波が届かなくなっているから」
「えっ?」
「ごめんなさいね。事前に説明してあげることができなくて――」
「いえ――」
 そう言いながら、私は席に座った。
 それと同時にウェイターがやって来て、私たちは料理や飲み物をオーダーした。ほどなくしてテーブルの上は賑やかになった。
 しかし料理には目をくれることなく、飲み物を一口だけノドを通すと、田山さんは”ずずい”と身を乗り出して来た。私にも、身を乗り出せとジェスチャーする。どう見ても密談モードだよな、こりゃ。
 そして私の耳元に口を寄せると、一言だけいった。
「渋沢さん、脅迫されて自殺したのよ。あなたにだけ伝えておいてほしいって伝言されたわ。ここもどこまで安全か分からないから、本当に大事なことは筆談が良さそうよ。あんまり紙に残しておきたくないけど」
 そういうと、彼女は元通りの座り方に戻った。
 私も黙って頷いて、浮かせていた腰を自席へと落ち着けた。何、このアクションドラマみたいな展開は!
「それにしても大変ね。ワイドショー見たわよ。病院でも銃で狙われたんですって?」
「はい、私を狙ったのではないと思いますけど……」
 そーでした。
 私自身はそこらへんに幾らでも転がっている『ちょっと見た目がかわいい普通の女子高生』に過ぎないけれども、たしかに今の状況はアクションドラマの設定に近い。警察の護衛はなくなったけれども、渦中の外れに位置している。
 自分がゲームのように武器を手に取って戦っていなかったので、そのあたりは全く意識していませんでしたよ。はい。
 今は敵の狙いが最有力候補の磯村真菜さんに集中していたけれども、それよりもランクは遙かに低いものの、私も命を狙われているのだった。今まで無意識に、崎村家と手を切れば安全圏に戻れると思い込んでいた。たしかに知り過ぎた者の末路は悲惨だ。いつ敵の狙いが私に集中するか分からない。
 田山さんがささやいてくれたことが、知りたかったことなのだ。少なくとも陰の黒幕が存在している。一度しか会っていないけれども、渋沢さんが嫌がらせで伝言を依頼したとは考えにくい。おなじく、田山さんが私を怯えさせるために伝言をでっち上げたとも考えにくい。
 それにしても盗聴を徹底的に用心する必要があるとは、田山さんや私はどういう状況に置かれているんだろうか。今この瞬間も狙撃される可能性がある?
 さすがに楽天的な私も、頭を抱えざるを得なかった。
 と、いうか、盗聴が恐くて、何も尋ねることができない……。
「わたし、会社を辞めて実家に帰ることになったの」
「辞めちゃうんですか?」
「もともと両親が二人暮らししていたけど、父親が亡くなったの。姉と相談したんだけど、一人暮らしは大変だよねー、って。そういう私も一人暮らしだけど」
「そうなんですか」
「ドラマの主人公みたいに天涯孤独な身の上って、案外ないものよ。大抵は一人や二人、親戚がいるの」
 突然の話の振り方に、私は戸惑った。
「足長おじさんでしたっけ?」
「そっちじゃなくて、歌舞伎町のスイーパーの方」
「ああ、なるほど」
 どうも何かを暗示しようとしているらしいけれども、何をほのめかしているのか全く理解できない。学校の数学の期末テストよりも、難易度が高いかもしれない。
「まあ私の場合は、きらびやかな出版業界よりも家族第一ということよ」
「会社の人たちは寂しがるでしょうね」
「うーん、それはどうかな。私は渋沢さんの直属で、主に調査関係の仕事をしていたからね。あんまり職場でのつきあいはないのよ」
「へえー、そういう仕事もあるんですね」
「まあね、特に渋沢さんは汚れ仕事を引き受けることが多かったからね。副本部長……副官っていうのは、そういう裏側を取り仕切ることも仕事だったし。――そうね、だから私がいなくなったら、むしろ喜ぶ人の方が多いかもしれない」
「仕事って大変なんですねー」
「あなたもそのうち、分かるようになるわよ」
「うっ、分かりたいような、分かりたくないような気がします」
「あはは、その意気よ。調子出てできたじゃない」
「そういって貰えるとうれしいです」
 なんとなく田山さんのやりたいことが分かってきたような気がする。どうやら直接的に回答するのはお互いに危険な部分があるから、必要な情報だけを暗示する形で伝えたいようだ。
 そもそも律儀に渋沢さんの遺言を伝えようとするあたり、なんとかしたいとは思っているんだろうな……。その彼女が辞職――つまり会社にいると、自分もしくは身内に危険が及びかねないというあたりだろうか。視点を変えると、彼女は渋沢さんの遺言を信じているということだ。
 ただし怪しいのが誰かは分かっていないのだろう。
 分かっていれば、さっきの密談で具体的に教えてくれて良さそうなものだ。
「そういえば大変と言えば、渋沢さんも私も、けっこう危ない橋を渡っていたのかもしれないわね。私は身に覚えがないけど、それに携わっていたことが発覚すると『詰み』になってしまうこととか」
「あ、それ、私も父から聞いたことがあります」
 一瞬、彼女はあっけにとられたような表情をした。そして直後、なぜかニヤリと笑った。
「さすがは尾花先生のお子さんね。それじゃあ、こんな話は知っているかな?」
 どうやら私は、正解にたどり着いたみたいだった。

##2

 田山さんは語り始めた。
「AとBは『貴様と俺とは同期の桜』とカラオケでデュエットするほど、仲が良かった。二人とも大変に優秀だった。そこにCという女性が加わってトリオが結成された。三人とも大変に優秀だった」
「なんか最近のジャンプ系アニメみたいな設定ですね」
 それを聞いて、彼女は吹き出した。どうやら私の反応は、彼女の予想とは違ったらしい。
「あはは、そういえば最近もアニメ化されていたわね。でもそこから先は会社の話だから、だいぶ違うわよ」
「そうなんですか」
「そうよ。Aは社長の御曹司で、努力を積み重ねていくタイプだった。好感持てるわよねー……。そして一方のBは『天才的』と呼ばれるほどアイデア豊富な逸材だった」
「なんか妙に生ぐさい話になって来ましたね」
「まあ黙ってお聞きなさい――。AもBも大変に朗らかな性格で親友だったけど、同時に宿敵のライバルでもあった。なぜならばCを巡って争ったから」
「えっ、職場だとコンプライアンスとかセクハラ問題になるんじゃありませんか?」
 田山さん、妙な顔をした。
「今の子たちは、どこからそういった知識を仕入れて来るのかしらねー……。昔は……昭和と呼ばれる時代は、職場恋愛は当たり前だったの。それどころか職場結婚も多かったわ」
「へー、そんな時代があったんですか」
「そうよ、帰ったら御尊父に尋ねてみなさい……っていう話から察したかもしれないけど、BとCは職場結婚しました。まあ昔でも夫婦が同じ職場だと公平性などの点で悩ましいとかあって、どちらかが別職場に移ることが一般的だった」
「ふーん、で、どちらが別職場に移ったんです?」
「そこがこの話のポイントでね」
 そう言うと、彼女はアイスコーヒーをズズッとすすった。
「普通は女性Cを別職場に移すのよ。やっぱり環境が変わると、新しい職場に慣れるまでが大変だし、パフォーマンスも落ちる。妊娠して寿退社する者も多かったし――、ま、時代ってヤツね。ところがその時は、Bが別の職場に移ることになった」
「へえー、何か理由があったんでしょうか」
「会社っていうのは、そういった理由は発表しないの。ただし担当者だった私から見ても、違和感のある人事だったわね。将来有望な分野だからこそ、優秀な人材を配属させた。その部署と売上は順調に成長を続けた。どんどんと他部署からも人材を引き抜いている状況で、出て行ったのはBさんだった」
「Bさんは納得したんですか?」
「さあ……、私は脇で傍観していただけなので正直分からないわ。でもプロジェクトも進行中だったのに別部署に移ることになったBさんは、少なくとも喜ばなかった可能性は十分にあるでしょうね」
「そうですね、たしかに」
「そしてCさんはめでたく――たぶんめでたくだと思うけど――妊娠した。当然、産休と育休で長期不在となる。それでも彼女は「必ず復帰しますから!」と宣言した。だからBさんが出戻ることもなかった」
「『必ず復帰しますから!』と宣言するのは、随分と力強いですねー。さすがは渋――、いえCさんですね」
 田山さん、こっくりと首を縦に振った。
「私もCさんの決意を聞いた時には、『将来この人は昇進していく』と感じたものよ。ただし――ここで不幸なことが生じてしまった」
「と、いうと?」
「Bさんが鬱病になって亡くなってしまったの。平成の職場環境って過酷だし、育児も大変だったからねえ。あの頃は乾燥機付き洗濯機が普及を始めたばかりの頃だった。いくら将来有望とはいえ、若者がそういった最新機器を購入する余裕はなかった」
 平成時代――、なんだか石器時代よりも昔の時代のように聞こえるから不思議だ。
「女性の社会進出って、今でも大変ですもんねえ」
「よく分かっているじゃない――。ただし人間っていうのは、特に渦中にいる場合には、なかなかスッパリと割り切ることは出来ないものよ。Cさんは自分を大いに責めたし、Aさんにしても同じ。自分の仕事の忙しさもあっただろうけれども、疎遠になっていたBさんは公私で追い詰められていた。特に公の部分は社長息子だから、責任を感じたみたいね。ちょうど『ブラック企業』という言葉が使われ出した頃だし」
 田山さんは、しみじみと語った。
 しかしそうすると、渋沢さんがお見合いを邪魔しようとするとは、ますます考えにくくなってくる。むしろ崎村さんと本部長&副本部長の関係となり、うまくやれていたことを感心してしまう。自分がシングルマザーになった原因は自らの至らなさという側面もあるかもしれないけど、会社がブラックだったという側面もある。一度はプロポーズを受けたかもしれないけど、それを断っている訳だ。そしてもし崎村家の一員になりたいということならば、もっと早く動いていても良いだろう。
 ただし納得できる部分もある。どうして磯村真菜さんと結婚しなかったかというと、渋沢さんを巡って争った時期もあったということかもしれない。やっぱり男性というのは、その時の勢いで突っ走る傾向があって、信用できない存在なのだろうか。
 とりあえず十六歳になったばかりの女子高生としては、なかなか重い話である。
「そうすると子供を狙うと同時に、過去のことをほじくり返すと脅されて、渋沢さんとしては追い詰められてしまったという可能性も考えられるか――」
 田山さんはテーブルに両膝をついて、手であごを支えながら、私を見つめた。
「私が手伝えるのは、ここまでよ。これ以上は深入りできないわ。執念というか、怨念みたいなものを感じるもの。大人になって、会社に入って仕事をするようになると、いずれあなたにも分かる時が来るかもしれないわね。ともかく私は自分や家族が大切だから、いくら尊敬する渋沢さんから頼まれても、これ以上は付き合えないわ。ごめんなさい。申し訳ないけど、あとは頑張ってね」
「――十分です。ここまで危ない橋を渡っていただき、ありがとうございました。あとは何とか、早く事件を解決するように頑張ります」
 私は深々と、今までの人生の中で最大級の角度で、深く田山さんにお辞儀をした。

 それから田山さんは前回のおしゃべりおばさんに戻り、退職後の予定について語ってくれた。今回は崎村のじっちゃんによるポケットマネーは頼らず、尾花エージェンシーから取材協力の御礼という形で謝礼や食事代を出させて頂いた。

#名探偵登場:事件解決

##1

 さて田山さんと楽しく会話できた私だけれども、帰宅してから途方にくれてしまった。何しろ渋沢さんが事件に巻き込まれたというところは大体わかったけれども、事件の全容が全く……かけらほども掴めない。黒幕も本当にいるのかわからない。
 それに田山さんから伺った話からすると、崎村慎司さんと磯村真菜さんの関係も、そんなにシンプルとは言えないと分かった。てっきり幼馴染でずっと付き合っていたのかと思っていたら、渋沢さんに寄り道していた時期があったって?
 可愛さ余って憎さ百倍……じゃないけど、『実は真の黒幕は磯村真菜!』といった可能性まで捨てきれなくなって来た。純情に見えるけれども、彼女も三十歳を過ぎている。ピカピカの女子高生など、実は簡単に手玉に取れる『ちょろい存在』だったりするのかもしれない。
「アール、どう思う?」
「実は一連の事件が磯村真菜の脚色によるもの……可能性は捨てきれませんね。犯行動機や必要情報を手に入れることが可能な立場にあります。『禍福は糾える縄の如し』ではありませんが、『愛と憎しみは紙一重』と言い換えることも可能かもしれません。それから愛ゆえに彼を孤立させたいという可能性もあります。そもそもお見合い会場にやって来るという点から、何らかの特別な感情を抱いている可能性があります。大きな感情が大きな行動を呼ぶ可能性のあることは否定できないでしょう」
「うーん、可能性から考えると、誰も彼もが怪しくなってくるか――名探偵への道は遠いなあ」
「『遠い』か『近い』かは別にして、そもそも名探偵を目指す必要もないでしょう。目標は、これ以上の死者や怪我人を出さないことです」
「そうだよねえ」
 単純だけれども、難しい。
 さてどこから手を付けるのが良いのか……料理に喩えると、何かヒントが得られるだろうか?
 そもそも今回は『一連の事件』と言っても良い? 実は独立な事件の組み合わせ?
 最近のアニメでは高校生探偵の知名度が最も高いかもしれないけれども、現実では無理なのか――いや、私の手には余るのか?
 さてさて一体どうしたものやら……。
 やはりと言っては問題だが、黒幕は会社にいるのか?
「アール、シャーロックホームズみたいに、全ての可能性を排除するって、可能かな?」
「可能かもしれませんが、現実的ではありませんね。私のような超人工知能――超AIならば可能性はリストアップできるでしょうが、数千億になる可能性があります。人間がそれらを全て聞くのは不可能だと思われます」
「身も蓋もないわね――。何か良い知恵ないかしら?」
「解決策はあります」
「えっ?」
 解決策がある?
「解決策はあります――。正確に表現すると、もうすぐ解決策が生じます」
「警察が総力を挙げても解決できないのに?」
「はい。解決策をご希望でしょうか?」
「もちろんよ! 解決策があったなら、もっと早く言ってほしかったわ!」
「いえ、これから解決策が生じるのです。それでは三分ほどお待ちください」
「三分? カップラーメンみたいね。本当かしら」
「本当です。それでは解決策の生成に移行します。しばらくお待ちください」
 私はその間に、手洗いへ行くことにした。いざという時に動けなくなるのは、大変にツラいことだ。
 自分の部屋に戻ると、アールが話しかけて来た。
「お待たせしました。それでは解決策を提供しますので、リビングへ移動してください」 私はAIの言われるがままに、リビングへ移動した。アールはリビングにもカメラやマイクが設置されているので、移動する必要はない。
「あと二十秒お待ちください……。十秒を切りました。カウントを開始します」
 随分ともったいぶっているというか、意味不明のカウントダウンだ。
「五秒、四秒、三秒、二秒、一秒、ゼロ!」
 と、その時である。
「ただいまー!」
 と、父親の声がした。

##2

「結花、解決策です」
「解決策って、お父さんのこと?」
「はい、その通りです。彼ならば解決することが可能です」
「ん? なんのことだ?」
 私は予想外というか、ある意味で予想通りの結果に戸惑った。
「アール、私が父親にだけは頼りたくないと思うからって、図った訳ね?」
「その通りです。申し訳ありません。しかしこのままでは結花の生命が失われる可能性もあることを考慮し、この方法を採用させて頂くことにしました」
 わが父こと尾花清彦は、きょとんとした顔をしていた。
「どうした? 結花? もう怪我から完全復活できたのか?」
「怪我は治ったわ。ただしこれからも生きていることが出来るかは分からないけどね」
「『これからも生きていることが出来るかわからない』?って、状況は芳しくないのか?」
「芳しくないから、アールが相談するように仕向けたのよ」
「久しぶりに会社の仕事から解放されたと思ったら、こっちは大変な状況なのか」
「あきれた? テレビやニュースは見ていないの?」
「見ていないに決まっているだろう。特に今回は忙しかったからな」
 我が父である尾花清彦の本業は、某メーカーの技術マーケティングである。コンピュータ方面なので、自らAIを開発して自宅に設置するほどの凄腕だけれども、逆に世情には疎い。ある意味でシャーロック・ホームズのように、極端に知識と能力が偏っている。
 私はかいつまんで、状況を説明した。
「なるほど……、母さんに任せていたが、そこまで状況が悪化していたか。たしかに生命の危険に面している可能性はありそうだ。すぐに対応することにしよう」
 そういうと、彼は電話をかけた。
「尾花です。今日はおつかれさまでした。それで今まで家庭を放置していたんですけど、少し厄介なことになりまして……。はい……。ご配慮ありがとうございます。それでは二日ほど休ませて頂きます。あとは藤本さんにご相談頂ければ大丈夫かと思います」
 電話は一分も経たずに終わった。どうやら会社を休むことにしたらしい。
「さて準備はできた。それではさっそくだけれども、アール、今までの資料をテキスト出たーで用意してくれるだろうか。その間に手洗いへ行ってくるよ」
 そして父は私の方へ向き直った。
「学生の本分は学業だが、状況が状況だ。三日ほど学校を休む覚悟をしておいてくれ。それから申し訳ないけれども、今までアールに蓄積されたデータにもアクセスさせて貰うよ」
 そういうと、彼は手洗いへと去って行った。

##3

 人生には往々にして、我慢のできないことがある。
 私の場合は、今がまさにその瞬間だった。親子の間でも、プライバシーは尊重されるべきだろう。そこを彼は、土足で踏みにじるように、突破して来た。
「アール、田山さんと結花の会話はテキストデータ化できるか?」
「今回のような指示を想定し、新型マイクで収音したデータは保存してあります。可能です」
「では頼む」
「はい、ディスプレイ画面をご覧ください」

 そんなやりとりを繰り返すこと、一時間が経過した。
「なるほどなあ。アールの推論通りだ。ここまでデータが揃えば、解決できそうだな」
「マスターも同じ結論に辿り着いたようで、安心しました」
「ただし状況証拠のみで、物的証拠がない」
「その点も同意します。警察へご連絡なさりますか」
「うーん、この手のタイプは物的証拠を残さないから、それで警察もツラいのかもしれないな」
「それでは結花の生命が失われる危険が存在します」
「むしろ問題はそこだな。アール、協力してくれるか。これからミステリー小説を一つ書くことにするよ」
「なるほど。『目には目を、歯には歯を』で、状況証拠に状況証拠を返す訳ですね」
「そーゆーこと」
 私は二人……ではなく、一人と一台の会話に追い付いていくことが出来なかった。
「あの、良ければ私にも聞かせて貰えないかしら」
「もちろんだ。と、いうか、今の段階では黒幕に踏みつぶされる危険性が高いから、まずできるだけ多くの人に聞いてもらうのが良い。そうだな……母さん、磯村真菜さん、田山瑞樹さん、それと結花が名刺を頂戴した警察の方と、崎村家の志村大介秘書、それから崎村社長あたりにまとめてビデオ録画付きで説明させて頂くことにしようか。それから……」
そして三十分後、父の謎解きが始まった。

「皆さん、本日はお忙しいところ、それから体調の良くないところを無理して頂き、ありがとうございます。このままだと娘の生命に関わるので、仮説段階に過ぎないヨタ話を披露させて頂きたいと思います」
「尾花さん、そこまで状況は急を要するのかね?」
 忙しいだろうに、崎村社長はビデオ通話に参加してきた。驚くべきことだ。
「はい、犯人は非常に優秀ですが、同時に相当追い詰められた状況に置かれています。本来ならばもう少し慎重に進めたかったのですが、我が家の人工知能と私としては、このままではヤケになった犯人が暴挙に出る危険性が高いと憂慮しました。なお本件は物的証拠を発見するまでに時間を要するかと思いますので、できれば私が小説作品として執筆させて頂きたいと考えております」
「あまり嬉しくない話だが、いきなり何かされるよりはマシだろう。もし作品が出来上がったら、まず弊社と交渉させて頂けると嬉しいな」
「もちろんです、社長」
「交渉成立だな。それでは始めてもらおうか」
「はい――。まず今回の一連の事件ですが、黒幕は志村大介秘書で、お見合いの時にホテルで磯村真菜さんと私の娘を撃ったのも、志村大介秘書だと考えております」
 いきなりの説明に、私も含めた参加者が一斉に驚きの声を発した……志村大介秘書を除いて。

##4

「尾花さん、たとえヨタ話にしても、無実の人間が自殺でもしたら、君が犯罪者となりかねない。その点に覚悟はあるのですな」
「その覚悟があるから、説明をさせて頂くことにしました」
「志村、何か言いたいことがあったら、遠慮なく言いなさい。君にはその権利がある」
「――社長、ありがとうございます。僕としては、尾花先生の説明に大変興味があります。まずは拝聴させて頂きたいと思います」
「分かった。それでは説明を始めて頂けますかな」
「はい――。こうやって実際に探偵役をやると、なかなか小説の名探偵というのは命がけということが実感できますね。
 我が父ながら、相変わらずやることが無茶苦茶だ。こういう暴挙に出かねないから、今まで相談したくなかったんだよなあ……と、娘としては痛切に実感させられる。
 いや実感どころでなく、本当に胃が痛くなって来ている。彼のおかげで、今まで何度も苦労させられた。しかし私も含めた全員の反応など気にすることなく、彼は快調に話し始めた。
「まず今回の一連の事件ですが、キーワードは『推し』になります」
「推し?」
「言ってしまえば、崎村慎司さんへの『崇拝』とか『憧れ』とか、もしかしたら『憎しみ』が事件の引き金となっています」
「よくわからんが、愛情みたいな独占欲はないのかな?」
「はい、独占欲ではありません。強いて表現するならば、『独占されたくない欲』です」
「うーん、先日のスポーツ選手であったような、『結婚してほしくない』とか、『結婚した人を羨む』みたいなものですか」
 我が父は頷いた。
「それに近いものだと思います。だから私は、人の命が失われたことに悲しみを覚えるし、法律は守る必要があるとは思いますが、『罪を憎んで人を憎まず』に近い感情を覚えるのです」
「それが、お見合いの席における銃撃事件に繋がるのですか?」
「そうです――。崎村慎司さんが他人と強い関わりを持たないで生きている限り、犯人は大きな不満を覚えることはなかった。しかしお見合いをするということは、普通に考えれば、結婚することを前提とした『交渉』になります。普通に考えれば、という前提条件が付きますけれども」
「それじゃ、私は藪蛇なことをやってしまった、と?」
 崎村のじっちゃん、少し不満げなようにも見える。演技かもしれないけど、少しだけ場が和んだような気がする。少しだけだけれども。
「いえいえ、社長――。基本的にビジネスと同じかと。このままではやさしい性格の崎村慎司さんは、特に大きな動きを見せずに独身者のまま生涯を終える可能性があった。だからこそプラスにせよマイナスにせよ、一石を投じるのは理解できます――、私もビジネスマンのハシクレですから。石は大きいと影響も大きくなるから、我が娘を選ばれたのも、個人的には『なるほど』です」
 おとーさま、私は小石ですかい?
「そしてお見合いの席上における銃撃犯も、最初から銃撃する意思に満ちてやって来たのではなかったような気がします。なぜならば正確に銃撃するならば、他にもっと良い機会はあったし、その後のように『プロを雇う』といった方法もあったでしょう。それに我が娘は十六歳です。今は女性の結婚可能年齢も十八歳に引き上げられていますし、それゆえ社会的立場のある崎村家が仮に実質婚をした場合、社会的地位を失うリスクも生じます。だからせいぜい現場偵察と、もしも本気で実質婚を進めるような状況となっていた場合、警告射撃で驚かそうとしたんじゃないかという気がしています。誰だってお見合いの場で銃撃ってことになったら、その人とお見合いするのは躊躇することになるでしょう。特に崎村家は知名度が高いです。普通ならばお見合い相手もそれなりに知名度などがありそうですし、事前調査でお見合い候補から外される可能性が高くなる。もしも本当に怪我をさせる気があったのならば、もっと早い時期に襲撃した方が良かった。いくら人払いされているとはいえ、庭園というのはリスクが少しリスクが高過ぎるでしょう。顔を見られてしまう可能性もありました」
「そう言われてみれば……本当に、あの銃撃事件は吃驚しましたな」
 崎村のじっちゃんだけでなく、私も吃驚したよ。痛くもあった。
「ちなみにホテルの庭園は人払いされていましたが、それは家政婦の園村さんからの依頼によるものとのことでした。そのことを志村さんがご存じか、そもそも志村さんが指示を出して、人払いするように計らっていた可能性があります」
「あれは園村さんに頼まれて、私が自らホテルへ電話して、事前に頼み込みました」
「そういう意味で、園村さんは『知り過ぎた人』になる下地ができてしまいました。不幸なことに。その時点では警告に留めるつもりだったから、大したことなかったのですが。ともかく今回は、不幸な偶然が重なり過ぎてしまいました」
「それは磯村真菜さんが登場したことかな?」
「そそそ、その通りです、社長。犯人にしてみれば、十六歳の小娘だけを想定した。しかし現場に到着してみると、ド本命が存在していることが分かった。それも婚約こそしていないものの、すぐに婚約すると約束している。我が娘は安堵したでしょうが、銃撃犯にしてみれば、吃驚仰天というところだったでしょう」
「園村さんが射撃したという可能性は?」
「まだ詳細に確認していませんが、家政婦は用事がない限り、持ち場を離れることはないでしょう」
「まあ園村さんの件は、確認すれば分かりますな」
「そうです。そしてここで『推し』というテーマが出て来ます。芸能人に恋人ができたら、最近では雑誌社だけではなく、ファンまで押し寄せてしまう。結婚されると悲劇だけど、恋人ができるだけでも悲劇なんです。特定個人と特別な関係を持つことになってしまうので、『推し』ファンとしての立場が下がってしまう」
「つまり銃撃犯は、逆上して射撃することになったと?」
「その通りです。それから磯村さんが命を失うことがなかったように、そもそも警告用に用意されたものだった点を考えても、少なくとも最初に殺意はなかったと思われます。射撃時点では分かりませんけど、あの状況は誰も予想していませんでしたからねえ」
 はい、その通りですよ。現場にいた者の一人ですが、信じられない話でしたよ。
「警察としては現場検証して靴跡などもチェックしている可能性はあるでしょうから、未検証だったら、志村さんの足跡の可能性があるか等をチェックしてみても良いでしょう。もし徹底すれば、毛髪などを見つけることも可能かもしれませんね」
「毛髪?」
「むかし車に浮気相手を乗せて、配偶者にバレてしまったケースもあります。配偶者はショートカットで短い髪の毛だったのに、浮気相手はサラサラのロングヘアーだった。男性の場合はロングヘアーは稀なので気づかない人が多いですが、案外と事件現場に毛髪が残っているケースも多いものです」
「なるほどねえ――。で、話を次に移すと、どうして秘書の森君が狙われたのかな?」
「森さんは――、気の毒なことをしました。犯人が誰かは知りませんけど、婚姻届を手に持ってしまったことに加えて、崎村慎司さんに憧れていたことにより、殺害のターゲットになってしまいました」
「それだけ?」
「おそらくは、理由はこの二つだけでしょう。それだけ犯人がパニックになっていたことの裏付けとなるような気がしています」
「そんなものですかねえ」
「黒幕にしてみれば、婚姻届は十分に危険です。結婚を約束した彼女が集中治療室に入っている。崎村慎司さんのように誠意ある人ならば、『まずは婚姻関係を結ぶことにより、病床の彼女を少しでも幸せにしたい』と考える……実際にその通りに考えたからこそ、婚姻届の用紙を入手しようとした。逆にその時の磯村真菜さんの状況を考えると、遅らせることができれば、そのまま亡くなってしまう可能性もゼロではなかった。真面目な人が陥りがちな思考かもしれません。それから森さんが若くてチャーミングで、ポスト磯村真菜になるリスクもあった」
 悪かったですね――親父さん。私はまだまだセクシーさに欠けますよ。フン!
「森君は慎司に憧れていたからなあ」
「この点は超鈍感な我が娘も気づいた程で、崎村慎司さんも認識済みでした。それで渋沢さんと相談の上、人事部に秘書交代を相談していたとのことです。配置転換というのは、慎重を要することです。だから関係者の動きが遅かったということは全くありません。しかし……もう少し早ければ殺人事件まで生じることは無かったかもしれません。その点は大変に残念です。今回はそういった小さな不運が積み重なって、大変なことになってしまいました。大変に知能が高くて用意周到な人物が黒幕だと思われますが、同時にこうやって見ていくと『粗』が目立ちます。計画的な犯行ではないゆえ、逆に警察が緻密な捜査を展開しても、なかなか真相に辿り着けなかったということのようです。哀しいことです」「ふーむ……」
 そうか、森さんは崎村本部長の秘書から外れる予定だったのか。たしかに気の毒だ。
「それで園村さんに繋がる訳か」
「その通りです。これは警察の調査通り、園村さんが森さんを殺害したようです。ただし動機ですが、これは『推し』ではないかもしれません」
「と、いうと?」
「これは『愛』が近いかもしれません。園村さんは志村さんに好意を抱いていたのです。秘書というのは目立たず堅実に物事を進める存在なので気づかれにくいですが、志村さんも魅力的な若者です。堅忍不抜にして有能。『恋は盲目』とは、良く言ったものだと思います。家政婦の視点で見ると、崎村慎司さんよりも魅力的に映っていたのかもしれません」
「そこら辺は想像ですかな」
「残念ながら……。ただし園村さんは秘密を知り過ぎてしまった一方で、崎村家の家政婦でもあった。社長のカリスマは、園村さんが志村さんが犯人であることを告白するリスクも生じさせていた。だから非情なことだけれども、園村さんにはご退場頂くことが必要となってしまった」
「『家政婦は見過ぎた』か」
「その一方で、『見て見ぬふり』のできない誠実派。だから自分で自分の命を絶つことを思いついたのかもしれません。そして全ての罪を背負って、事件を終わらせようとした、と」
「ところが磯村真菜さんが無事にICUから一般病室に移れるようになってしまった……」
 独り言のように、崎村のじっちゃんがつぶやいた
「それに加えて、我がバカ娘が、磯村真菜さんと同じ病室に入ってしまった」
「ちょっとお父さま。『バカ娘』とは言い過ぎなんじゃありませんか?」
「いや、厳しい言い方をすると、その行動は黒幕を刺激することになった。園村さんが『これで終わり』としたメッセージに対して、『それは信じない』と言い返すことになってしまったのだから」
「いやいや、尾花先生。それは娘さんだけを責めるのは酷というものだ。そういう意味では、同じ病室に入れるように計らった私も『バカ者』だ」
 バカ娘の父親は、大きな溜息をついた。
「不幸な偶然が重なるというか、上手く行かない時は、上手く行かなくなるものですね。秘書や執事というのはイレギュラーなことに対応できる仕事力が大切で、それゆえに志村さんはプロとのパイプを確保することも出来た。それから三人寄れば文殊の知恵ではないけれども、ホテルの銃撃犯が誰であるかを三人で相談されてしまうリスクも生じることになってしまった。私の本業が忙しかったとは言え、爆弾娘から目を離したのは、後悔の極みとも言えます」
 バカ娘の次は爆弾娘か。『子は親の鏡』とも言いますぜ、父上。
「そして黒幕としては目的を果たすことが出来ず、止むをえず変わり身を用意する必要に迫られてしまった。それで大変気の毒なことに、渋沢さんが選ばれてしまったという訳です。かつて渋沢さんを巡る争いに崎村慎司さんが加わっていたし、身近な存在だから皆が納得しやすいということで、彼女には気の毒をしました」
「ま、たしかにそんなこともあったかな」
「『哀しさの連鎖』と言いますか――。で、磯村真菜さんと我が娘が分かれたことにより安心できるハズだった犯人は、娘がまだ事件が解決していないと気付いて調査していることを知ることになる。まだ若いと言っても、私の娘ではある。いずれ真相に気づかれるかもしれないと思うと、生きた心地はしなかったでしょう。おまけに磯村真菜さんも、一酸化炭素中毒事件の後で元気を取り戻すようになって来た。犯人としては『初志貫徹』するか、『推し』と心中といった選択肢が見えてくることになる。いずれにしても、一触即発の危機という状況になってしまった訳です。それでやむなく、この説明会を開かせて頂くことにした――、という訳です」
「いちおう話は矛盾なく繋がりますな」
 崎村のじっちゃんは言った。
「志村、何か言いたいことはあるか?」
 それに対して、志村大介秘書は、首を横に振った。
「いえ社長……、特に申し上げたいことはありません。だいたい尾花先生がご説明してくださった通りです。皆さんには申し訳ないことをしたと思っています。我ながら、困ったものです。それから崎村家の皆さんと会社には大変感謝しております。こんな私に今までやさしく接して下さって、大変感謝しておりますーー」
「おい志村、まさか変なこと考えているんじゃないだろうな」
「志村さんーー、『推し』はどこにいても出来ますよ」
 それに対する志村秘書の返事は落ちついてた。ーー落ちつき過ぎて、私は不吉なものを感じた。
「崎村正造さん、最後までご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、後始末をよろしくお願い致します」
「おい、大介!」
「もうこうなっては僕の願いは叶いません。だったら磯村真菜さんには、お幸せになって頂ければ幸いです。崎村慎司、よろしくお願い致します」
「大介!」
 彼は静かに微笑むと、ビデオ会議の画面から去っていった。
 私は黙って、事のなりゆきを見守るしかなかった。

#社長との会話

##1

「先日は大変に申し訳ありませんでした」
 そう言うと、父は崎村のじっちゃんに、両手をついて土下座をした。
 よく分からなかった私は、ともかく父に会わせて土下座をした。
 ここは崎村邸の和室である。
「堅苦しいことは抜きにしましょう。頭を上げてください、先生」
 崎村のじっちゃんーーいや、今はその表現は適切ではない。崎村正造社長は、静かに威厳をもって語りかけてきた。
「ありがとうございます。それとお見合いの件ですが、正式に辞退させて頂きます」
 彼は静かに肯いた。

 それから一分近く、二人は黙ったままだった。

 先に口を開いたのは、崎村社長の方だった。
「申し訳ないが、嬢ちゃんはもうしばらくお借りしても構わないかな」
「もちろんです、真菜さんの件ですね。AIもアップデートこともあるし、少しはお役に立てるかと思います。存分にお使いください。なんなら家政婦手伝いとしても」
「ありがとう、感謝します」
 そういうと崎村社長は、いつもの『崎村のじっちゃん』に戻った。
「こちらこそ先日のビデオ会議の件は、大変に申し訳ありませんでした」
「こちらこそ、そもそもお見合いを仕組んだのは私だからなあ……。ただしもう少し時間的な余裕を頂けると、うれしかったところではあるなあーー」
 じっちゃんにしては珍しいことに、静かな溜息をついた。
「あれは大変に申し訳ありませんでした。会社の本業が忙しくて、AIに任せていた件はお詫びするしかありません」
「まあ私も、事態がそんなに緊迫していたとは想像していなかったしな」
「全くです」
 そして二人は再び、一分近く黙り込んだ。
 最初に口を開いたのは、またしても崎村のじっちゃんだった。
 我が父、必要な時には黙ることが出来るんだ!
「しかし先生としては、できるだけ穏便に進めようとして下さった。おかげ警察の捜査も、ほどほどで済んだ。そのことには大変感謝するしかない」
「恐縮です」
「志村もあらかじめ覚悟はしていて、ビデオ会議で指名された時は観念したと思います」
「こちらも子供を思う親心ということで、ご勘弁いただけるとうれしいです」
「いずれ先生が出て来ることは、息子も覚悟していたでしょう……いつ頃から気づかれました?」
 いつ頃から気づいた? 何のことだ?
「お恥ずかしながら、ビデオ会議の直前です。息子さん、お悔やみ申し上げます」
 えっ、慎司さんが亡くなった?
「家内も承諾してくれました。彼は崎村家の墓に入れることにしました」
「慎司さんは、このことをご存じで?」
「いやーー、実は今も知りません。このまま黙っているつもりです」
「そうですか」
「そういえば慎司が家を出て行くと家内が寂しがるので、渋沢君のお子さんを養子として引き取らせて頂くことにしました。先生もお気になさって先方へご確認いただいていたようなので、ご報告しておきます」
「恐縮です。お知らせいただき、ありがとうございます」
 いつものように、父は深くペコリとお辞儀をした。彼の癖である。
「しかし……、大介はどうしてああなってしまったのだろうか。そこらへんをご存じでしたら、ぜひ教えて頂けるとうれしいですわ。実は今日お招きした本音は、そこにあるとも言えるので」
 私は呆然としながら、ただひたすら聞いているしかなかった。
 いやいや、こんな密談、そもそも私が聞いてしまっても良いのだろうか。
「では、私が調査した範囲で語らせていただきます。ただし小説を書くぐらいだから、脚色が入っている物語だとでも思って頂けるとうれしいです」
「それは、もう」
「そもそも今回の事件は、元を辿ると三十数年前に遡ります。旧き良き『昭和時代』ですね」
「そういえば最近では、『昭和世代って、まだ生きている人がいたの?』と言う女子高生もいるそうですな」
「わずか三十数年前とはいえ、世相が全く違いましたからね。今はダイバーシティとか言われていますが、逆に奔放に生きる女性も多かった。志村大介氏の母親も、その一人でした」
 じっちゃんは黙って頷いた。
「K出版社を立ち上げたあなたは、秘書の志村絵理奈さんと親密な関係になった。マイクロソフト創業社長のビル・ゲイツ氏も秘書と結婚しましたし、当時は当たり前の話だった。ただし違ったのは、志村絵理奈さんは親元に引き戻されてしまった。米国と日本の違いもあったかもしれません。当時の日本ではマンガなどを手がける出版社や、ましてやゲーム業界は大して評価されていなかった。志村家は地方の名家であったから、結婚を許すことができなかった。あなたはさぞ、歯がみしたことかと思います」
 じっちゃんは再び、黙って頷いた。
「そして彼女の実家から唯一得られたのは、彼女が亡くなったという通知でした。そんな失意のどん底に落とされたあなたを支えたのが、今の奥様です」
 うーん、歴史の授業を聞いているみたいだぞ。『地方の名家』か。言われてみれば、湘南四葉学園にも、そんな生徒がいたような気がする。そもそも校則で、自家用車による通学が禁止されていたな。もしかしたら現在でも棲息しているのかもしれない。
「あれは私を支えてくれました。そうして彼女は慎司を宿し、私たちは結婚した」
 親父さんは、ゆっくりと頷いた。
「そして一方で、あなたのご存じないところで、別な物語が進行していた。実は志村絵理奈さんは妊娠していた。そうして生まれたのが、志村大介氏です」
「絵理奈のことは、どうやって調べましたか?」
「インターネットも存在しない時代のことですからね。K出版社の創業メンバーに確認すると藪蛇なことになりかねないし、業者へ依頼するのもリスクがあります。私が現地に滞在して、自分で調べました」
「ご配慮、感謝します」
「ご配慮なんて、そんなーー。ともかく現地は取材旅行という名目で行きましたが、今でも志村家は存在していましたよ。横溝正史先生の世界に近いですね。いずれは挑戦してみたいので、私としても貴重な取材となりました。運良く学校のアルバムなども閲覧できました。それで一つ、分かったことがあります」
「ほほう」
「彼、女性不信というか、女性に嫌悪感を持っていたようです」
「ほほう」
「自分を生んだ後で、育児を放棄して自殺した母親。文句を言いながら接する祖母、ぞんざいに自分を扱う母親ーー、さらに自分に群がる女性たちにも、うんざりしていたようです。彼はさすがにK出版の創業社長の血を引き、地方の名家として頭脳にも美貌にも恵まれた母親の血を色濃く引いていた。学生時代は大変な人気を集めていました。未だに中学校のバレンタインデーチョコレート獲得枚数では、歴代一位を保持していました」
「それは初耳です」
「K出版社の秘書として、崎村家の執事役を任されていた彼ですが、その経験ゆえに『自分を目立たなくさせる術』を身に付けていた訳です。だからすんなりと父親と日常的に接することのできるポジションを得ることができた」
「…………」
「そして女性嫌いというのは、秘書や執事役として役立つ資質だった。それゆえに女性嫌いは年齢を重ねるにつれ、弱まるどころか、ますます強くなってしまった。そんな彼の支えとなったのが、弟の崎村慎司ということになった訳です。そこら辺から、彼の人生が歪みはじめてしまいました」
「…………」
 じーちゃんは無言だ。微妙なところに差し掛かっているし、親父殿も慎重にゆっくりと話している。
「一方で、あなたはあなたで悩みを抱えることになった」
「と、いうと?」
「磯村真菜さんの件です。あなたの目は節穴なんかじゃない。大抵のことは全てお見通しでした。『できちゃった婚』を目指していることも承知していた。志村大介秘書が息子であることも承知していたので、そちらの監視は別ルートを使って……大手出版社の社長をやっていると、渉外交渉部門を通じて、そういったネットワークとも接触せざるを得なくなる。志村大介秘書にしても、同様に特別なネットワークを使えるような立場になった。狙撃の依頼などは、その延長線に存在していた訳です」
 なるほど、だからアクションドラマさながらに、サイレンサー付き拳銃やスナイパーによる狙撃という事態が生じたのか。
「ここは、そういうことにしておきましょうか」
 さすがは大手出版社の社長だけあって、ここら辺はとぼけるのが上手だ。
「ただし真菜さんが妊娠する気配はなかった。今は『まだ三十歳を過ぎたばかり』ですが、私たちの世代における感覚は『もう三十歳を過ぎてしまった』とか『アラサー』という表現がまかり通った時代です。奥様からのプレッシャーもあったでしょう。そこであなたは動くことにした」
「ふむ」
「しかし慎司さんのことを考えると、真菜さんの存在を無下にはできない。それから子宝を希望する場合は、若い方が良い。で、アレコレと考えた末、うちの娘に白羽の矢が立った訳です。まあ何が起こるかを様子見するためのお見合いだから、相手は誰でも良かった訳です。ただしさすがのあなたにも、もう一人の息子……大介さんの女性嫌いまでは分かっていなかった。当然といえば、当然のことでしょう」
 なるほどなあ。じっちゃんは、実はいろいろと知っていたのだ。だからビデオ会議では『大介』という呼び方になったんだろうな……。
「私があなたに報告することは、以上です」

 再び、和室を静寂が支配した。
 そして最初に口を開いたのは、今回も崎村のじっちゃんだった。
「ありがとうございました。今までは妻のことや慎司のことを考えると、大介に面と向かって、あれこれと尋ねることが出来ませんでした。先生のおかげで、どうやって生きて、どうやって悩んで来たのかが、少しだけわかったような気がしました。あいつには、本当に気の毒なことをしてしまったものです」
 我が親父殿は、深く頭を下げた。
「できればもう少しでも長く生きて、充実した人生を過ごして欲しかったでしょう。彼を亡き者にした存在としては、お詫びのしようがありません。存在しているだけで他人に影響を与えるというのは、あまり望ましい存在ではありません。私もあとは、できるだけ娘に任せたいと考えております。今日はそういうこともあって、この場にも同席させました」
 じっちゃんは、あきらめたような溜息をついた。
「たしかに大介が亡くなった直接的な原因は先生です。私も悟ってはいないので、頭で考えることと感情が一致しません。今回は娘さんをお借りできることで良しとし、あとは出版社と作家の関係に留めるのが良さそうですな。予想以上の劇薬であることを痛感できました」
 あー、じっちゃん……さすがに人殺しとは言っていないけど、近い内容にはなっているな……。私でさえ、無理もないと思うけど。我が父親は、存在しているだけで他者に影響を及ぼす存在なのだ。本人が望むにせよ、望まないにせよ。
「申し訳ありません」
「いえいえ、最初に手を出したのは私です。そのことは決して忘れないつもりです――。ところで、これを機会に何かご希望なさることの一つでも、おありになりますかな?」
 深く深呼吸をした後、父は返事をした。もしかしたら、最初から決まっていた?
「もし差し支えなければ、崎村家の墓がある場所を伺えますでしょうか」
「墓地ですか……、失礼ですが、なぜゆえに?」
「私が作家であるからです。志村大介さんとは、ゆっくりと語り合うことができませんでした。また自分の子供を守るためとはいえ、彼の人生を急に幕引きさせてしまった――、たとえ覚悟をもってやったにせよ、彼には申し訳なく感じています。それから……」
「それから?」
「先ほど申し上げたように、私は志村家のある地方へ取材へ赴いて滞在しました。今日お話しした以外にも、いろいろな話を仕入れて来ました。また彼の墓地の場所を知ったら、供養に訪れたいと思っている子たちがいることも知っています。もし差し支えなければ、墓地を案内してあげたいとも考えているのです」
「『子たち』……ですか。と、いうことは、少なくとも志村家の立場としてという訳ではありませんね」
「はい、志村家とは関係ありません。そちらはおそらく、崎村社長が調整済みでしょう」
 じっちゃんも、深く深呼吸をした。
「本当に聡い人だ。志村家とは大介を崎村家の墓に入れることで説得済みです。あいつが気の毒でしたよ。できれば絵理奈の墓も持って来たかったけれども、さすがにそれは無理でした。ま、こっちにしても、妻がいるから絵里奈は難しいのですが……」
 うーん、深く愛した女性が二人いると大変だなあ……って、私はそうなりたくないな。それにしても、志村大介秘書は引き取れたって、どういうことだろうか。
 疑問を察したかのように、父は私の方を振り返った。エスパーか、このオッサン。
「崎村社長の息子として、正式に認知されたということだ」
「あ、そういうこと」
「小難しい法的な手続きは続いているけれども、志村家としては結果を見据えて判断した……そう願いたいところだ。厄介払いしたいところだったとは思いたくないな」
「少なくとも『大介にいちゃん』と呼んで慕っている子たちは、私にいろいろと尋ねたいようでしたよ。絵理奈さんのご両親はともかくとして」
「をを、そういうことでしたか。ならば先生を信頼して、墓地の場所をお知らせさせて頂くことにしましょう。場所は青山墓地になります。大介の後任者から、ご連絡を差し上げるようにします」
「ありがとうございます」
 そうして、崎村のじっちゃんとの会談パート1は、無事に終了したのだった。

##2

 驚いたことに、ようやく事件の全容が判明したと思ったのに、崎村のじっちゃんは父上殿に対して、他にも要件をお持ちのようだった。
 私は一時間以上も、正座を続けていた。尾花清彦はママに結婚を申し込む際、義父に二時間半を超える正座を強要され、それを見事に乗り切った伝説を持つ。
 しかし私は無理だった。そうでなくても、婦女子は冷えるのが良くないのだよ、諸君。
「あのー……」
 たまらず私は、手洗いへ行かせて貰おうとした。
 その雰囲気を察したのか、二人は目線を合わせて、首を縦に振った。
「十分ほど、休憩しましょうか」

 そして手洗いをおかりして、その外で体をほぐしてから和室に戻った私は驚いた。
 そこには崎村慎司さんと、磯村真菜さんがいたのだ。
「わあ、真菜さん! お久しぶりですー もう怪我は完全に治りましたか?」
「おかげさまでねー。ありがとう」
 私は何もしていないのだけれども、ともかく姉のように親しくなりつつある人が元気に回復したというのは、何よりの朗報がだった。
 ただし潜在意識の奥で、警告ランプが点滅している自分もいた。
 今度はいったい、何が始まるのだろうか。
 その謎は、崎村のじっちゃんが咳払いした後の説明で明らかになった。
「先日のお見合いの件では、皆に大変な迷惑をかけた。まずはそのことをお詫びしたい」
 そういうと、じっちゃんは深々と頭を下げた。それに合わせて、皆も一様に頭を下げた。
「まあ崎村さん……というと、ここには崎村さんが二人いるし、すぐに三人になってしまう。区別した方が良いな」
 それは私も賛成だ。私は『じっちゃん』と呼べるけど、皆はそういう訳にはいかないだろう。
「――月並みだけれども、『崎村社長』か『崎村さん』で、崎村慎司さんは『慎司さん』か『慎司くん』が適当でしょうかね」
「そうすると尾花先生のところは、『尾花先生』か『尾花さん』で、尾花結花さんは、『結花さん』か『結花ちゃん』が適当ですね」
 人間が集まるところ、必ず相談事は生まれる。JKには面倒なんだよなあ、コレ。
 ともかくお互いの呼び方が決まった。
「ここに集まって貰ったのは、少し微妙な話ではあるが、皆で相談するのが良いと思ったからだ。議題は、『磯村真菜さんの妊活』だ」
 じっちゃん、この手の話は苦手らしい。妊活という用語を知っていることは、諸手を上げてスタンディングオベーションで拍手しても構わないけれども、『議題』って何よ?
 さすがは『未だに生きている昭和世代の人』だ。ちなみに我が父親も昭和世代だ。
 真菜さんはというと、曇った表情で、少し居心地悪そうにしている。
 当たり前に決まっているだろうが!
 援軍として、ママも呼んでくれば良かった。
 と、我が父親殿が、手を挙げた。
「あのー、ちょっと今日はこの席には呼べないのでビデオ参加になりますが、妻も経験者として参加させて頂きますので、よろしくお願い致します」
「尾花今日子です。先日のお見合いでは、大変失礼いたしました」
 ナイス! 父上殿! ナイス! ママ!
 そしてここらの司会進行は、『尾花先生』が引き継ぐことになった。
「あー、まずプライバシーだとかコンプライアンスを片端から踏みにじって大変に申し訳ないのですが、磯村真菜さんが妊活中という話を耳にしました。それで妊活とは何かを、まず尾花結花さんにご説明願いと思い――」
「ちょっと待って! 学校の授業で習ったけど、説明するのは難しい! 恥ずかしい!」
「わかった、わかった」
 父親殿は、溜息をついた。
「科学者ならば、こういう時でも冷静さを持っていることが――」
「父上殿! 私は学生です! 科学者ではありません!」
「幼少期の『いやいや病』が、今も続いているのか……」
「続いていない。ともかく説明は勘弁して!」
「わかった」
 ミステリーって、犯人が分かればそれで終わりじゃないのか。
 現実って、小説よりも大変なのだなあ。いや、我が父親が規格外のせいなのかもしれない。
「まず現時点で分かっているのは、磯村真菜さんは妊娠していない。それだけです」
 どう反応したら良いか分からず、皆が戸惑っているように見える。
 その様子を見渡して、父親殿は話を続けた。
「この『それだけです』がポイントです。つまり『一般的な男女であれば妊娠しておかしくない状況で、妊娠という事態に至っていない』という状況が判明しているに過ぎない」 慎司さんと真菜さんは、恥ずかしそうに首を縦に振った。
 それ以外は、誰も何も反応すらしなかった。
 止むを得ないといった感じで、父親殿は説明を始めた。
「まあ女性がどういうタイミングで妊娠しやすい状態になるかは、ここにいる全員が知っているということにしましょう。まず最初の要因として、『タイミング』が考えられます。ただしそれだけではありません。結局のところ、卵子が精子によって受精し、それが子宮に着床すれば良い訳なのですが、精子の問題、卵子の問題、子宮の問題があります。精子と卵子に関しては、『問題のない』精子や卵子が、必要な機能を満たす子宮に着床し、胎児が成長する……基本は単純ですが、精子、卵子、子宮の全てが必要とされる役割を満たす必要がある。これは当然ながら、どれか一つだけでも条件が欠けていたらダメです。だから簡単に妊娠しないからといって、それは当たり前だと考えても構わないほどです。昔は『生まず女』といった、ひどい表現もありました。武士の妻では、子供が生まれないと女性のせいとされ、離縁状を渡された人も多い。それでも日本の人口が増えたのは、女性一人が何人もの子供を産んだことが理由です。私の父親は子供六人の家族だったし、母親は七人の家族でした。だから現在は不妊治療を謳う『レディースクリニック』と呼ばれる病院が、アチコチに存在するようになった。精子や卵子に問題があっても、体外受精を始めたとした技術が開発されました。胚培養士といった職業も生まれ、受精卵を培養して子宮に着床させる技術も開発された。今では人工子宮の研究も進んでいます。だから普通に妊娠することがなくても、何も悩む必要はないという状況なのです。まずは信頼できる医師に所見を求めることが一番です。実のところ尾花結花も体外受精によって生まれましたし、私の友人の中にも、体外受精により胚培養士のお世話になった者もいます」
「えっ? 私って、実はママの体の外で受精卵になったの? 今まで知らなかった!」
「ま、そーゆーことだ。ーーさて皆さん、この子が一般的に妊娠した子と、違いを見つけることはできるでしょうか。ちなみに中学校に入学した時に受けた実力測定テストでは、学年で五位でした。胚培養士は、『最も良い状態に見える受精卵』を選定したとのことです」
「まったく違いは分かりませんが……それにしてもSFチックな話ですねえ」
 崎村慎司さんが、神妙な表情でコメントしてくれた。
 ナイス援護!
「まあ体外で受精するというのは機械的で、味気ない気がすると思われるかもしれませんけど、生まれてくる子供には何の影響もないということです。女性が特に屈辱的な思いを経験することも、殆どありません。そこは妻が保証してくれるでしょう。どうかな?」
 そういうと我が父親殿は、ビデオ会議で参加しているママの画面を覗き込んだ。
「うーん、昔のことだから、もう殆ど覚えていないわ。破水して大変だった時のことなんかは、良く覚えているけど……」
「ーーと、まあ、こんな感じてです。何も構える必要はないんですよ。なんなら友だちに体験談を語って貰っても構いません。彼のお子さんも、特に夜になると首が伸びたり、眼が光ったりするということもありません」
 思わず私は吹き出した。たぶん最近見た特撮ヒーロー映画の、ヒロインあたりをイメージしているのだろう。たしか彼女は『組織の開発した生体コンピュータ』という設定だったっけ?
「たぶん不妊治療に関しては、今ではいろいろな本が出版されているでしょう。SNSでも豊富に情報が出回っていると思いますよーー。今のところ、マッチングアプリなどの人気に隠れて、あまり目立たないかもしれませんけど」
「言われてみると、たしかに何冊か出版されていたような気がするな」
 崎村のじっちゃんが、はじめてコメントした。
「そうでしょうねーー。こういう説明をするのも何かもしれませんけど、人間の男性と女性の組み合わせは人生に大きく影響するので、大いに苦労する問題となるでしょう。しかし科学的に見れば、生まれて来る子供は、遺伝子の組み合わせが若干変わるだけです。だからあとは医療技術を駆使して、淡々とやってしまえば良い。今では無痛分娩も普及していると聞きます。昔と今では、時代が違うと言えるかもしれませんね。それからーー」
「ーーそれから、大変なのは『氏より育ち』というか、育て方が重要だということです。これは出版社からもいろいろな本が出ているように、なかなか正解のない悩ましい問題です。小学校六年生で、BL小説を明け方まで読み続ける日々が続き、体調を崩して学校呼び出しを食らった家庭も存在しますーー」
「父ちゃん!」
「あ、いけない。本人がいるんだった」
 思わずといった感じで、何人かが笑い声を立てて笑った。
 そうして、私こと尾花結花のお見合い話は、無事に幕を閉じたのだった。

#彼にとっての愛と女性

「ただいまー」
「おかえりなさい」
 それから数時間後、私は無事に帰宅した。ママの暖かい声は、『我が家』に帰宅したことを実感させてくれた。
 そして着替えを済ませた私は、自室からリビングへと向かった。崎村邸と異なり、こちらは小さなマンションだ。何も考えることなく、リビングへと到着した。
 そのリビングでは、我が父親殿がコーヒーを飲んでいた。もちろんインスタントだ。彼はコーヒーの粉を半分くらいにケチって、ブラックで飲むことを好む。
 私は少しでも身長を伸ばしたいので、牛乳を電子レンジで温めて、カップへと注いだ。
「それにしても、どうして志村さんという秘書さんは、真菜さんを撃つほど慎司さんに入れ込んだのかなあ。やっぱりあれは、強度の『推し』だよね」
「母親に捨てられた、と、志村家から思い込まされた部分が大きかったみたいだね」
「ーーそこなんだけど、本当にそれだけ?」
「『それだけ』とは?」
「なんか撃たれた当事者としては、『愛』というのを超えて、『嫉妬』みたいなのを感じたんだよね-。もちろんそれも、強い『推し』ゆえの嫉妬かもしれないけど」
 しばらくの間、彼は無言だった。
「……鋭いね、さすがは結花だ」
 驚いたことに、私を評価するようなコメントが飛び出して来た。今日はいったいどうしたのだ?
「実はね、『女性問題に悩まされた結果として女性嫌いの傾向が生じた』というのはウソじゃないけど、それだけでは不十分なんだ」
「不十分っていうと……」
「『英雄、色を好む』という言い伝えを知っているかな?」
「まあ、もうJKだから」
「そうかーー。で、崎村家の場合は、その逆なんだ」
「その逆?」
「崎村社長と慎司君は女性嫌いでこそないものの、女性とベッドインすることを、あまり好まない傾向がある」
「病院では、あんなに熱烈に真菜さんを抱きしめることもあったのに? あの時は、見ていて私まで恥ずかしくなったわ」
「そう、社会的生物としての愛情というものは存在している。しかし一方、生物学的な性的欲求が希薄なんだ」
「目の前に座っているような本能が殆どの御方とは、真逆だね」
 彼は苦み走った笑いをしようとして、ひょっとこのような表情になってしまった。滑るのが得意だ。
「その『目の前の御方』は、実は接触欲求というものが無かったりする。付き合い始めた頃、ママに『どうして手を握ってくれないの?』と、泣かれたこともある」
「それまでモテなかったことが原因じゃないの?」
「ところが母子手帳にメモがあって、生まれた時から『母親がそばにいれば元気』という表現がある。そして実際に自分が覚えている範囲では、母親がいなくても別に困らなかった。幼稚園のお泊まり保育でも、夜中に寂しがって泣くことは全く無かったそうだ」
「なるほど……ある意味で社会的存在ではなく、生物学的欲求だけがベースになっている人とは真逆、か」
「ビンゴ!」
「そんな呑気なことを言っても構わないの?」
「生物として、数を増やすことが生物の本来的目的であるという点を考えると、実は父は健全な存在だと言える」
「困った存在ではあるけどね」
「まあ多かれ少なかれ、全てが標準値の範囲内に収まる人間というのは、殆ど存在しない」
「崎村社長と慎司君にしても、無事に子供さえ生まれてしまえば問題はない」
「どうして子供が生まれれば問題なくなるの?」
「のんびりしている暇がなくなるからだ。子供が生まれてセックスレスになる家庭も多い。しかし一方で子供がいなければ、自宅では二人きりだ。充実した『夜の生活』というのも欠かせなくなって来る」
「そんなものなの?」
「かつて新井白石が母親に『女性の性欲は幾つになるまであるか』と尋ねた際、彼女は『亡くなって灰になるまで』と語ったそうだよ。それが全女性に当てはまるかどうかは不明だけれども、老人ホームでも恋愛沙汰は多いと聞く。女性には閉経というものがあるけれども、案外そういうものかもしれないね」
「なるほど。子供がいれば、そちらへ神経を回す必要が生じる、と」
「それも個人差があるらしい。痛ましい話だけれども、子供を放置して旦那との『夜の営み』に励んで事故発生として報道されることもある」
 なんだか話が逸れてきた。今の私は、一体何の話をしているのだろうか。
「つまり崎村社長と慎司君は、子供が生まれれば特に問題のない家族生活を送ることが出来る。しかし……志村大介君は、生物学的欲求を殆ど持たない上に、社会的関係では女性嫌いの傾向を持ってしまった。最近ではLGBTなどという言葉が使われているが、それに近いものだったのかもしれない……。ま、今となっては、『小鳥の巣は探さぬが花』とでもいうところだろうか。ただし後学のために、事実の如何に関わらず、君はそういう人間が存在する可能性は知っておいた方が良いだろう」
「ふーん」
 私は志村大介秘書とは全くといって良いほど面識はない。今ひとつ実感がわかなかった。
「ともかくだ……。私としては、崎村邸で多くの時間を過ごした彼の人生が、彼にとって充実したものであったことを望むばかりだ。人は何のために生きて、何のために死ぬのかーーもしくは、どうやって死ぬのか。そういうことを考えると、私は彼の罪は罪だと思うけれども、彼を殺人犯として憎む気にはなれない。歯車をうまく噛み合わせることができなかった彼の人生を、残念に思うだけだ」
「そうだね」
「まあ人生というのは、なかなかうまく歯車を噛み合わせることが出来ないものさ。君もこれから、そういったことを経験していくだろう。そしてアンテナを立てて、流れを読んで、歯車をうまく噛み合わせるように頑張ることだ。もし志村君が本気になっていたら、君は生きていなかった。彼には申し訳ないが、君にとっては貴重な勉強の機会になっただろう」
「勉強、がんばりなさい、か」
「ま、そーゆーことだな」
「あー、出たよ。妖怪せっきょうジジイ」
「ははは」

#終章:エピローグ

 さて父親の忘年会同伴から、突然のお見合いとなって(私にとっては)始まった事件であるが、以上のようにして終了した。
 我が父親殿の推理は、実は警察でも同じ方向で進んでいて、概ねは間違っていなかったとのことである。やっぱり日本の警察の捜査能力は優秀だ。
 ただし志村大介秘書の『次なる犯行』を迅速に封じるためとはいえ、我が父親のビデオ会議説明が契機となり、彼は自らの命を絶つ結果となった。崎村社長は今となっては『警察に逮捕や尋問されて動機まで白状させられたりして不快な思いをすることは防げた』と言って感謝しているらしいが、警察はそのようには考えなかった。
 その結果として我が父親殿は『任意の事情聴取』を一週間近くに渡って受ける羽目になり、それからコッテリと絞られたらしい。私としては無理もないことだと思っているし、警察が父親の暴走を窘めてくれたことには大感謝している。
 おまけに質問につぐ質問、説教に次ぐ説教によって絞られた結果、体重が3kgほど減ったとのことだ。そのおかげで血圧も下がったとのことで、感謝状まで送りたい心境に駆られた。さらに加えて、朝から晩まで規則正しく尋問されたおかで、生活リズムも回復したとのことである。
 夜中のトイレや風呂で目覚めさせられる不快さもなくなった訳で、私が大人だったら警察関係の団体に献金しようとまで考えたかもしれない。
 なにはともあれ、目立とう精神を発揮して、何でも自分で解決しようとするクセが減ってくれると嬉しい。

 そもそも我が家の予算は厳しい状況にあるので、早く新作小説を書き上げてほしいところだ。

 崎村家の方はどうなったというと、崎村慎司さんと磯村真菜さんは籍を入れ、不妊治療も順調に進み、めでたくご懐妊なさったことを知らされた。ただし妊娠の件は関係者外秘とすることを依頼され、私はお祝いをどうするかに、頭を悩ませることになった。
 ただし幸いというか、三日後には結婚式の招待状を頂いたので、お祝いの悩みは解消した。なお私の立場だが、新婦教え子というということになっていた。これは『良い機会だから英語の指導をして貰え』という父親の画策による結果が活かされたようだ。
 なお結婚式の参列者の中に尾花清彦という名前は入っていなかった。考えてみれば当たり前のことだが、まあ自宅で留守番をして、せっせと仕事に励んで貰いたいと思っている。
 そうそう、父親と言えば、彼は律儀に志村大介氏の死を悼む者たちのために、彼の墓所を案内することをしたそうだ。学校の恩師などがやって来たそうで、それまでの彼がいかに頑張って生きて来たかということが、改めて察せられたらしい。ちなみにク……敬愛する父親殿はどーでも良いが、その案内の際に崎村慎司さんも同伴したとのことである。今まで血のつながった異母兄であることは崎村家内でも伏せられていたらしく、彼としては兄のことを少しでも知ろうと考えたらしい。

 その崎村慎司さんであるが、興味深いことに再び次期社長候補となりつつあるらしい。退職した田山さんを説得して再雇用し、渋沢副本部長を欠いた状態から見事にビジネスを立て直した上に急成長させたそうで、急に高まった実力に社内での評判が高まったらしい。
 またこれはウワサレベルに過ぎないけれども、磯村真菜さんと結婚して崎村邸内のことを父親から引き継いだ等によって経験値がアップし、周囲からの評価も高まったらしい。まだまだこれから先も前途多難ではあるだろうが、最近の崎村慎司さんの頼もしさを見るにつれ、私もウワサには賛同する次第である。

 崎村のじっちゃんは引退するのはまだまだ早いが、息子の人生が確定したということで、奥様へのねぎらいも兼ねて海外旅行が増えたとのことだ。ただし昭和世代は仕事を止めることが出来ず、海外でも映画の配給権の交渉などを積極的に進めたらしい。
 その甲斐もあって、最近では怪獣特撮映画が北米で大ヒットして、日本映画で最高売上を記録したとのことである。それをキッカケに日本アニメを配給する交渉も進んでいるとのことで、見事としか言いようがない。なお私も次の夏は米国への短期留学が決まっており、送られてきた北米向けDVDやブルーレイディスクには感謝するばかりである。

 なお我が父親は今回の事件で会社関係者に作家であることがバレてしまい、会社員生活を微妙なものにしてしまった。もちろん会社としては作家活動を正式に認めているが、それと関係者の思惑は別である。幸い新作小説がそこそこの売上を記録したので、次作も出版させて頂けることになった。これからは益々、二重生活が忙しくなっていくものだと思われる。

 なお渋沢副本部長のお子さんは崎村家に引き取られ、家政婦としては渋沢さんの妹さんが就職することになった。ただし彼女の立場は正確には家政婦というよりも家政婦長となる。実は副業で小説を書いているとのことであり、働き口としては魅力的だと捉えられたらしい。そして実は彼女の旦那さんがK出版社であり、これを機会に秘書室へ転属して崎村家へ派遣……つまり志村大介さんの後任者も決まった訳である。慎司さんと真菜さんが新居へ引っ越すことがあっても、崎村邸が寂しくなることは無さそうだ。

 さて最後になってしまったけれども、私は今も元気に湘南四葉学園の高等部一年生をやっている。休みが多くなってしまったので、残念ながら成績に関しては、ツバメも真っ青の急降下状態である。しかし自宅は在宅勤務の父親がリビングで仕事をしており、その監視下で宿題などを片付けているので、学習ペースは維持できている。
 さらに休日は崎村家にお邪魔して真菜さんに英語の家庭教師をして頂いており、語学力も米国短期留学に向けて急ピッチで進んでいる。数学や社会などは崎村慎司さんも加わって特訓されているので、怪我による学習遅れは心配しなくても良さそうだ。

 ちなみに崎村邸を訪問するのは、実は私一人ではなく、美里やあゆみも同伴することが多くなってきた。今回は私一人が働く羽目になってしまったが、そのせいで最後は父親に頼らざるを得なくなってしまった。やはり私の場合は、美里とあゆみのトリオで頑張るのが良いみたいだ……真菜さんみたいに、人生の伴侶を得るまでは。

 以上の通りで、一通り全てが『あるべきところに落ち着く』という形になった。一つの大きな問題を除いて。
 それは美里もあゆみも私も、『いいオトコ』に出会えていないことである。慎司さんも真菜さんも超名門私立大学の付属学校の出身であるが、我々は湘南四葉学園……つまり女子校である。今のところ『推し』という柱があるおかげで充実した人生であるが、やっぱり塾などで知人男女がカップル化しているのを見ると羨ましい。ちなみに湘南四葉学園は大学もあるが、当然ながら女子大である。したがって我が父親殿に言わせると、『学業に精を出して、良い大学に入学し、”いいオトコ”を捕まえろ。特に理系の国立大学などは、最近は女子枠が出来て入学しやすくなっている』とのことである。なお父親は見合い結婚だが、出身高校が同じだった義父に目を付けられたおかげで結婚できたに過ぎないので、『親のお見合い実現力』に頼るなとのことである。このあたりは崎村のじっちゃんを見習ってほしいところだが、まあ彼にそのようなことを期待するのは無理があるかもしれない。

 なおウワサというのは不思議なもので、私がお見合いをしたということは学校中の話題となったが、銃で撃たれたというのは市内レベルで話題となった。そしてどういう訳か、今回の一連の事件を解決したのは警察でもAIでも我が親父殿でもなく、わたし尾花結花ということになっている。
 そのためなのか、私の知名度は全国区レベルで知られることになってしまった。不思議なことに学校の受験者数は昨年の三倍に膨れ上がったとのことで、学校としては『うれし過ぎる悲鳴』を上げているらしい。またこれを機会に『海外留学のできる学校』としての地位確立を目指し始めたようで、少子高齢化の進むご時世では良いことなのかもしれない。私としても担任の先生たちの生活が安定していることに貢献できるのは、大変にうれしいことだと思っている。
 ただし……全国区レベルで知名度が上がってしまったデメリットにも遭遇している。
 たとえば次の冬は東京ビックサイトで開催されるコミックマーケットことコミケに出展したいと考えているが、この調子だと、会場であっという間に正体が露見してしまいそうだ。『やせがえる、負けるな一茶、ここにあり』じゃなくて『武士は食わねど高楊枝』じゃなくて……、ともかく知名度だけで販売部数を稼ぐのは本意ではない。
 知名度のおかげで公共機関やバスが無料になるのであれば、遠慮なく歓迎したいとは思っているけど。

 と、いう次第で、まだまだ『我が人生に悔いなし』とは行きにくい状況である。引き続き、学生生活を謳歌し、『推し活』に励みながら、いいオトコのゲットを目指したいと考えている。我こそはと思う人がいらっしゃたら、ぜひ我が父親である尾花清彦までご連絡いただけると嬉しいと考えている。『かぐや姫』のように求婚者とおつきあいさせて頂くことも一興だと思うので。
(ただし尾花家の場合は、事件に遭遇する可能性が高いかもしれない。とほほほほ)

(了)

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