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数の三冠王・率の三冠王

三冠王といえば「首位打者」「本塁打王」「打点王」というのは今更言うまでもない。このうち、本塁打と点は記録した数字で評価されるのに対して、打率は安打数ではなく率で評価される。

今更の話ではあるが、イチロー登場以来最多安打がタイトル化され、シーズン最多安打にも注目が集まるようになってきた昨今の状況を踏まえるならば、ひとつ三冠王も数値の記録だけで判断してはどうだろうか。そこでこういった「数の三冠王」を改めて調査したのが本稿である。

といっても本塁打と打点の二冠王でかつ最多安打者を探すだけの話でしかないのだが、この調査によって歴史に埋もれていく選手をピックアップすることができるのではないか、というのが本稿の狙いであり、こういった「新たに三冠王となる選手」と、「結果的に失冠してしまう選手」とを調査抽出していくものである。


初代三冠王の中島治康は最多安打でもあったので、そのまま数の三冠王でもある。この後新たに浮上してくるのは、1949年の藤村冨美男である。本塁打46と打点142の二冠を獲得し、打率.332は小鶴誠の.361に阻止されて首位打者はならなかったが、安打数では小鶴の181安打を上回る187安打で最多安打であった。

この藤村の安打・本塁打・打点はいずれも当時の日本記録を更新するものであり、ラビットボールの影響もあったにせよ、この年の藤村の活躍が頭抜けていたことを示している。チームは8球団中6位であったにもかかわらず最高殊勲選手に選ばれたのも納得である。

この年藤村に次いで安打数2位だった別当薫が、1950年にパリーグに移ってリーグ初代の数の三冠王となった。本塁打43打点105に対して打率.335は大下弘の.339に届かず首位打者を逃したが、160安打は136安打の大下や151安打の飯田徳治を上回っていた。
毎日の主砲として優勝の原動力となる大活躍で、もし2リーグ分立がなかったら藤村と別当の阪神ダイナマイト打線はどうなっていたかと思わせる。

その阪神のセリーグでも小鶴が本塁打王と打点王の二冠で最高殊勲選手に選ばれたが、首位打者と最多安打は前年のお返しとばかり、藤村がタイトルを獲得している。共に首位打者を獲得できずに三冠王を逃した別当と小鶴だが、数の面では結果が分かれる形となった。

表5-1-1 数の三冠王(1950年まで)

次に浮かんでくるのが1953年の中西太である。本塁打36打点86の二冠王も打率は.314と岡本伊三美の.318にタイトルを阻止されたが、146安打は岡本の143安打、堀井数男とレインズの144安打をわずかにかわしての最多安打であった。

この後1955年と1958年には打点1の差で打点王を逃し、1956年には打率.0001差で首位打者を譲ったばっかりに、それぞれの年で三冠王を逃すなど1950年代では三冠王に最も肉薄した打者であったが、わけてもこの年はこれが高卒2年目であったというところが特筆に値する。なお1956年は172安打であったが最多安打は180安打のルーキー佐々木信也に譲っている。

中西が4度目の三冠王のチャンスを逃した1958年、セリーグ初の数の三冠王となったのがゴールデンルーキーの長島茂雄で、本塁打29打点92の新人二冠に輝いただけでも鮮烈であった。打率.305は田宮謙次郎の.320の前にタイトルを阻まれたが、153安打は次点の箱田淳の139安打を大きく上回っていた。
大卒とはいえ中西の2年目を上回る新人1年目で作った記録であるという点、入団前からの期待を上回るものがあったであろう。

この後、1965年に戦後初の三冠王となった野村克也と1973年の王貞治は、いずれも数の上でも三冠王であったが、翌1974年の王貞治は128安打で157安打の松原誠に大きく引き離され、数の三冠王は獲得できなかった。

最大の原因は日本記録にもなった158四球という膨大な四球数で勝負を避けられたことにあり、この点では打率で見る三冠王の意義も十二分にある一方、124四球にもかかわらず152安打を放って最多安打となった前年の三冠王のスケールの大きさも改めて注目されるところである。

表5-1-2 数の三冠王(1975年まで)

1982年には落合博満、1984年にはブーマーとパリーグで2人の三冠王が生まれたが、これはいずれも数の三冠王でもあった。翌1985年と1986年はセリーグはバース、パリーグは落合博満が連続三冠王となるなど、この頃の三冠王ラッシュはなにがしか時代の象徴のように捉えるべき事象なのかもしれない。

だがその中で、バースは2年続けて最多安打で数の三冠王であったが、落合は2年ともブーマーに数の三冠王を阻止されている。
1985年は52本塁打146打点に対して169安打でブーマーは173安打、1986年は50本塁打116打点に対して150安打でブーマーは173安打、三冠王経験者どうし意地の張り合いという展開であったが、ここにもやはり四球の影響があり、落合は2年続けて101四球と勝負を避けられていた。

表5-1-3 数の三冠王(2000年まで)

この後2004年に松中信彦が三冠王となり、数の上でも三冠王を獲得しているのだが、その前年、2003年にセリーグのラミレスが数の三冠王となっている。40本塁打124打点で二冠を獲得し、打率.333は今岡誠の.340に届かなかったが、189安打は赤星憲広と二岡智宏の172安打を大きく引き離した。

この時には既に最多安打がタイトルとして表彰項目になっており、安打・本塁打・打点の三冠獲得と言っても差し支えない状況であった点で、過去の選手に比べて報われている格好にはなっている。

その後2022年には村上宗隆が三冠王に輝いたが、56本塁打134打点に対して155安打、佐野恵太と岡林勇希の161安打に阻まれて数の三冠王とはならなかった。村上は118四球でうち敬遠四球が25ということで、やはり勝負を避けられるというのが数の三冠王に届かない最大の理由と言えるだろう。

表5-1-4 数の三冠王(2022年まで)

ここまで数の三冠王を見てきたが、意外と出入りがあった印象である。これによって浮かび上がってきた過去の強打者、特に最多安打がタイトルとなる前の藤村、別当、中西、長島といったあたりが、これまで強打者として評価されてきたことの一端が改めて示されたのではないかと思う。またラミレスのように、過去の選手の物差しとしてだけでなく最近の選手の再評価にも寄与している点も指摘できるだろう。

一方数の三冠王獲得を阻む最大の要因が、四球による勝負回避にあったこともまた明らかである。王、落合、村上と、打力のある選手がもう一人後ろに打っていれば、また変わっていたかもしれない。


さて、逆はどうだろう。ここまで数で評価してきたが、打率を率で評価するなら本塁打も打点も率で評価してはどうか、ということでこれすなわち「率の三冠王」である。もっとも、どちらも本塁打も打点も率になおした公式記録などないため、指標を作らなければならない。

本稿では、打率で馴染みのある「3割」という数字を本塁打率と打点率でも同様の指標を用いることにした。

本塁打については打数を本塁打数で割った本塁打率というのが提唱されており、本塁打1本打つのに何打数必要か、という形で示すものがある。これは打率同様に本塁打を打数で割ると極めて低い数字になり比較が難しい、ということで考え出されたものだが、今回は「本塁打を打数で割って3を掛ける」という式で算定される指標を用いた。

一例として、400打数30本塁打なら13.33→.225、400打数40本塁打なら10.00→.300、400打数50本塁打なら8.00→.375というのが目安となる。本塁打1本の違いが分子で3本の違いになるため、特に年度間の比較をする場合など1本の差でも大きな差が生じてしまう点に注意が必要であるが、なじみのある「3割」という数字を基準に評価がすることできる。

同様に打点も率に直すが、こちらは「打点を打席数で割って1.5を掛ける」という式で算定される指標を用いた。打点は、犠飛はもちろん、スクイズや押し出し四球、果ては内野ゴロでも振り逃げでも記録されるためである。

500打席80打点なら.240、500打席100打点なら.300、500打席120打点なら.360、というのが目安である。こちらも打点1点が1.5点の違いとなるが、そこまで増減幅は大きくならないので、感覚的に捉えても大きな問題はないと考える。

なお本塁打率・打点率ともに、打率のルールに合わせて規定打席を設定し、規定打席未満の選手については規定打席まで打数または打席を加えて計算した上でなおリーグトップの率であるかどうかを判断する。実際に計算してみると、これが結果に影響することがあった。


この率の三冠王にしても、初代三冠王の中島治康はそのまま率の三冠王である。打率.361に対して本塁打率.194で打点率.329、本塁打率が低いのはそもそもの本数の少なさ、何より環境自体の原因に倍率の大きさが影響したもので、これを以って低いというものではない。

次に率の三冠王となったのは中西太である。数の三冠王のほうでも述べたが、中西は1953年、1955年、1956年と1958年の4回三冠王のチャンスを逃している。このうち首位打者と本塁打王を獲得して打点王を逃した2回がいずれも率の三冠王であった。

1955年は打率.332、本塁打率.222、打点率.268で、中西の98打点に対し山内和弘が99打点と1打点差で打点王を逃したが、率にすれば山内は.254にとどまるため中西が逆転した。
1958年は打率.314、本塁打率.171、打点率.269で、この年も84打点に対して葛城隆雄が85打点と1打点差でタイトルに届かなかったが、率になおせば葛城は.248で中西が逆転という、まったく同じパターンであった。数と率で併せて3回の三冠王という結果に、中西の強打者ぶりが存分に示されている。

この後1965年の野村克也は、打率.320、打点率.295に対して本塁打率は.258で、.281のスペンサーに負けて率の三冠王を逃している。本塁打数は野村42本に対してスペンサー38本だが打数では80打数近い差があり、交通事故でリタイアしたスペンサーがもう少し打数を伸ばしていたらあるいは三冠王自体危ぶまれたのではないか、というところである。

ちなみに野村が本塁打を46本打っているかあるいはスペンサーが34本に終わっていれば、本塁打率は逆転する。すなわちあと4本の差ということである。本塁打率の差と実際の本数の差はこのような割合の関係である、という目安としてほしい。

次いで、1973年と1974年の王貞治は2年とも率の三冠王にもなっている。1973年は打率.355に本塁打率.357の打点率.305、1974年は打率.332に打点率.290で本塁打率は.382にもなる。

本塁打率の高さは四球の多さによる打数の少なさが最大の要因であろうが、それにしても他の三冠王と比べても数字が突出している。1973年の全部門3割クリア、あるいは両年の三率合計10割超えというのは、その値自体に特に意味はないにしても、レベルの高さを象徴するフレーズだと言えるかもしれない。

表5-2-1 率の三冠王(1975年まで)

パリーグの三冠王は受難が続く。1982年の落合博満は、打率.325、打点率.269に対して本塁打率は.208で、ケージの.216の前に届かなかった。本塁打数で言えば落合32本に対してケージは31本、とはいえケージは打率.233と1割近く低く、一発屋の底力に泣いた格好であるが、この率を逆転するにはあと2本の差というのは、かなり競り合った結果ということができる。

1984年のブーマーも、打率.355、打点率.355に対して本塁打率.230で、門田博光の.249に敗れてしまった。この年門田は脱臼の影響もあり30試合近く欠場して120打数の開きがあった一方で、本塁打数はブーマー37本に対して門田30本。ブーマーが3本足して40本に届くか門田があと3本少なければ、本塁打率は逆転していた。

一度は泣いた落合だったが、これに奮起したか1985年と1986年はいずれも率の三冠王となった。1985年が打率.367、本塁打率.339、打点率.386、1986年が打率.360、本塁打率.360、打点率.333で、両年とも全部門3割クリア、合計10割超えのスケールの大きな連続三冠王である。

一方のセリーグでも、バースが同じく2年連続で率の三冠王となっている。こちらも1985年が打率.350、本塁打率.326、打点率.353、1986年が打率.389、本塁打率.311、打点率.302と両年とも全部門3割クリアで合計10割超えだから、この2年間の二人の旋風はやはりすさまじかった。

表5-2-2 率の三冠王(1990年まで)

この次の三冠王は2004年の松中信彦だが、その前1992年に率の三冠王が誕生している。それがセリーグのハウエルで、打率.331、本塁打率.295に打点率.300というものである。
首位打者に加え38本塁打で本塁打王の2冠を獲得したハウエルだが打点は87打点で、100打点のシーツに打点王を譲っていたが、率になおせばシーツが537打席で打点率.279となり、435打席のハウエルが逆転することとなった。

さてその2004年の松中はというと、打率.358と打点率.313はリーグトップだったものの本塁打率は.276で、セギノールの.298に後塵を拝し率の三冠王とはならなかった。同じ44本塁打でタイトルを分け合った2人で、打数の差があったとなればやむを得ない。逆転するにはあと4本の差であった。

そして最新2022年の村上宗隆は、打率.318、本塁打率.345、打点率.328で率の三冠王にも輝いた。合計10割超えは惜しくも逃したが全部門で3割をクリアしており、ハイレベルの三冠王だったといえる。

この間にもう一つ、率の三冠王を逃したケースがあった。2012年の阿部慎之助は首位打者と打点王に輝いたが本塁打は27本で、31本のバレンティンにタイトルを譲っていた。これを率で見ると、打点は556打席で打点率.281とリーグトップであったが、本塁打のほうは467打数で本塁打率は.173となる。

方やバレンティンは422打席353打数と規定打席447に届いていないため不足の25打数を足さなければならないが、それでも本塁打率は.246であった。バレンティンが10本少ないか、あるいは阿部が12本塁打しなければこの差は逆転できず、これではさすがに阿部の力負けである。

表5-2-3 率の三冠王(2022年まで)

余談になるが、このように規定打席未満の選手が本塁打率や打点率でトップになったケースを見ていくと他に3例ある。

2000年のセリーグでは松井秀喜が108打点で打点王、590打席で打点率.275だったが、ロペスが377打席88打点で、不足の45打席を加えても打点率.313と逆転する。

2003年のセリーグも、本塁打王はタイロン・ウッズとラミレスで40本だったが、479打数と少なかった方のタイロン・ウッズにして本塁打率.251であった。ところがペタジーニが331打数34本塁打で、不足の20打数を加えても本塁打率.291となって逆転してしまう。

さらに2009年のセリーグでも打点王は110打点のブランコだったが打点率では.268で、580打席で107打点の小笠原道大が打点率.277でトップと思いきや、428打席で83打点のデントナが不足の19打席を加えても打点率.279となり、打点になおせばあと1点の差という僅差の大逆転が生じている。

表5-3-1 規定打席未満で逆転した率のタイトル争い

こうして数の三冠王と率の三冠王を見てきたが、特に印象的だったのは中西太の活躍ぶりだろう。本来の三冠王としては僅差に泣いた中西も、見方を少し変えるだけで数と率で計3度の三冠王に輝くなど、当時のリーグ最強打者としての存在感が浮かび上がってきた。

また数でみても率で見ても三冠王だった1938年秋の中島、1973年の王、そして1985年と1986年のバースは、シーズン単位で見れば史上最高の打者と呼んで差し支えないだろう。

スケールの大きさで言えば同じ1985年と1986年の落合が抜けており、全部門で.333を超えるのはこの2例しかない。数の上でこれを阻止したブーマーも、三冠王経験者としての実力は高かったと評価できるだろう。

表5-3-2 三冠王・数の三冠王・率の三冠王


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