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規定未満の強打者たち

(おことわり)
続編「規定未満の好投手たち」に合わせて表題を一部変更しました。(2023.6.18)


2009年10月3日、日本ハム対ロッテ24回戦は2回を終わって8-0で日本ハムがリード、早くも楽勝ムードとなったところで、ロッテは3回から小野晋吾をマウンドに送った。この年の22試合全てが先発登板で、現に9月29日の西武対ロッテ22回戦では完投勝利を挙げていた小野の中3日でのリリーフ起用は、5位の決まっていたロッテとしては極めて異質だった。

小野はこの敗戦処理ともいうべき登板で5回のロングリリーフをこなしたが、代わって8回から登板したのはこれまた先発投手の清水直行だった。小野と同じく22試合すべてに先発してきた清水は1イニングを投げ、試合は10点差の大敗に終わった。

なぜ先発ローテーションの2人を起用したのか、もちろんこれにはちゃんとした理由があり、小野はこれで投球回数が144回、清水も144回2/3となっていずれも規定投球回144に到達したのだ。試合後にバレンタイン監督は「大きな努力を払ってきた2人にできるささやかなお礼」とコメントしている。

さらに10月6日のロッテ対楽天23回戦では、7回を投げた成瀬善久の2番手に渡辺俊介を起用した。ここまで23試合中21試合が先発、10月1日の完投負けから中4日でのリリーフ登板もまた、あと2/3回に迫った規定投球回到達を目指してのものだった。もっともこの年3勝13敗と苦しんでいた渡辺だけにこの日は2四球で1アウトを取るのがやっと、シーズン最終戦である翌7日の楽天対ロッテ24回戦に7回途中から唐川侑己をリリーフし、2アウトを取ってイニングを締めようやく144回1/3として無事シーズンを終えた。

投手に限らず打者にとっても、規定投球回あるいは規定打席に到達することは、防御率や打率の争いというシーンだけでなく、1シーズンを通してレギュラーメンバーであったことの証としてやはり重要な意味合いを持つのだろう。

一方野球を見る側にとっても、規定に惜しくも届かなかった選手というのはいろんな媒体を見ても残りにくく拾いにくい情報である。かろうじて、最近は規定投球回に達することのないリリーフ投手の一覧が見られるようになった程度である。リリーフ投手に代表されるように、規定に届かなかった選手の中にも活躍した選手はいる。そこでそれらを調査してみたのが本稿である。

規定打席または規定投球回未満の選手について、打撃と投手の項目ごとにシーズン記録を調べ、その上位のランキングを作成した。打者なら規定打数、投手なら完投数など、規定の基準については年によって異なっている場合もあるが、それらは各シーズンの基準に従った。ただし1936年春夏シーズンは規定というものがないため、そもそも調査の対象外としている。


表9-1-1 規定未到達者の試合ランキング(上位20位)

まずは打者から見て行こう。試合数では、1956年の大沢昌芳(大沢啓二)が145試合に出場したのが最多である。これで439打席386打数なら一般にレギュラーと言って何ら問題はない成績ではある。

大沢が規定未満となった理由は二つある。一つは当時の基準が規定「打数」400だったことである。大沢は例えば15犠打を記録しており、これが全て凡退なら401打数で規定到達していたわけで、ここに打数を用いることの矛盾がある。

当時は大リーグでも規定打数が基準だったが、四球の多かった選手が規定打数に届かず首位打者を逃したケースもあり、翌1957年より米日共に規定打席に切り替えられた。

もう一つは、この年のパリーグが史上最多の154試合制だったことで、結果的に規定未満の選手の成績も他の年度と比べて数字が大きい傾向にある。例えば試合数の上位5人中3人がこの年のパリーグの選手である。同様に150試合制だった1963年と1964年のパリーグの選手もランクインしており、上位20位(タイ含め21人)中13人がこの3年に集中している。

ランキングを見ると南海の選手が上位10位(12人)中5人いる。その年度こそばらばらだが、たとえば森下整鎭は1963年、1964年と2年続けて139試合に使われながら規定打席を逃しているケースなど、鶴岡一人監督の戦術の一端であったろうことが窺える。

その南海の選手よりもひときわ目立つのが、2010年の金本知憲だろう。シーズン144試合制で全試合に出場しての規定打席未到達は史上初となっている。万全でない状態で連続試合出場記録のために出場を続けたことが48年ぶりの2位タイ記録を生んだ。


表9-1-2 規定未到達者の打数ランキング(上位20位)

次は打数である。最多は試合数の項で取り上げた1964年の森下の421打数で、打席数では457、規定打席に8打席足りなかった。不足数が4打席以下という、「あと1試合フル出場していれば」という選手が上位20位(20人)中4人というのは意外と少ない印象もある。

ランキング中、四球が30を超えたのは1964年衆樹資宏(6位タイ410打数33四球)だけであり、逆に20四球以下の選手が9人いる。選球眼の良し悪し、または積極的に打ちに行くスタイルが、この部門でランキングに入る選手の特徴である。


表9-1-3 規定未到達者の安打ランキング(上位20位)

安打数の記録は長らく1956年玉造陽二と1964年長田幸雄の116安打であったが、2006年に吉村裕基が123安打で50年ぶりに更新したものを、2007年の川崎宗則が1年で126安打と追い越したのが最多記録となっている。

筆者の手元には1950年から2019年の70年間に規定打席に到達した全選手の平均値(以下「平均値」)のデータがあり、これによると規定打席到達者は平均で125.3安打を放っている。したがって川崎は平均的な規定打席到達選手と同等以上の安打を放っているわけだ。

打数の少ない選手としては、2013年ルナの115安打(13位タイ)が85試合329打数での記録というのが目立つ。規定打席より90打席も少ないおかげで打率もランキング中最上位の.350を記録しているが、仮に規定到達まで出場がかなっていれば、これを90打数15安打の打率.167しか記録できなかったと仮定しても、130安打は到達が十分考えられる数字であったろう。

この130安打というラインに到達するという視点から見ていくと、川崎が19打数4安打の打率.211、吉村で36打数7安打の打率.194でいずれも130安打に届くことになり、この二人はルナ同様に到達が十分考えられる。

ただ他には1999年佐藤真一が53打数15安打で打率.283、2017年松山竜平は56打数16安打で打率.286だと届くというラインで、他は各自のシーズン打率を上回らないと130安打に届かない、という点から、この5ケースが総合的に見て上位に評価できるところと言えよう。

西川と牧原大成が2022年には同時に吉村の記録に並ぶなど2000年以前の記録は7件だけ、しかも全てが10位タイ以下となっている。近年になって続々と記録が生まれているのも、一つの傾向である。


表9-1-5 規定未到達者の二塁打ランキング(上位20位)

この傾向は二塁打でも同様で、上位20位(20人)中2000年以前の記録はやはり7件だけである。古いところでは1959年に町田行彦が27二塁打を記録して、1961年に柳田利夫とブルーム、1963年にニーマンが仲良く並んでいたのを、2001年に鈴木健が29二塁打と42年ぶりに更新、これを片岡篤史が2003年に31二塁打と塗り替えたものである。二塁打の平均値は20.6本なので、ランキングに入っている選手はいずれも平均以上の数字を挙げているわけである。

片岡は唯一の30本越えとして目立っているが334打数での数字であった。これでも少ないほうだが、2007年橋本将は280打数87安打で28二塁打を放っている。10打数に1本という割合は1984年の吉村禎章が260打数89安打で26二塁打というのが匹敵する程度で、安打の32.2%が二塁打というのは鈴木の31.9%、片岡の31.3%を抑えてトップ、他に30%超えがいないことからも、橋本の二塁打マニアぶりがうかがえる。


表9-1-6 規定未到達者の三塁打ランキング(上位20位)

三塁打は最多が1952年小島勝治の10三塁打という、その本数の少なさゆえタイ記録の人数が多く11位タイの7三塁打には実に19人が並ぶが、上位20位(29人)中2000年以降はわずか7人しか食い込んでおらず、古い記録が目立つ。もう一つ目立つのがリーグ最多三塁打になった選手の数で、29人中8人を数える。

ランキング上位中では1950年東谷夏樹の9三塁打が244打数59安打中での数字というのが際立っている。250打数を切っているのはランキング中3例あるがいずれも1リーグ時代のもので、2リーグ制下では唯一の記録である。

その1リーグ時代の中では1946年田中宣顕は46試合182打数、1940年木村勉は46安打の中でそれぞれ7三塁打であり、この辺りが三塁打マニアな記録として目立つところである。


表9-1-7 規定未到達者の本塁打ランキング(上位20位)

次は本塁打である。こちらのランキングは安打のように近年隆盛型でも三塁打のように懐古的でもなく、ややばらけている印象である。さすがに戦前などの記録がないのはともかく、ラビットボール時代の1949年や1950年、飛ぶボールの1979年や1980年の記録が上位20位(21人)には一つも入っていないのは意外の感がある。これらの時代に本塁打を飛ばした選手はいずれも規定打席に到達していたということだろう。

1965年に黒木基康とパリスがセパそれぞれで25本塁打(現在ランク外)したあと、1968年には矢野清が27本塁打、1971年に伊勢孝夫が28本塁打と少しずつ更新が進んだのを、1983年に田淵幸一が30本塁打の大台到達で12年ぶりに塗り替えた。だが6年後の1987年には「ホーナー効果」のホーナーが31本塁打、さらにわずか1年でブライアントの34本塁打に首位の座を明け渡した。これに2003年のペタジーニが並んで、最多記録タイとなっている。

ブライアントは1988年に中日に入団したが出番がないところを近鉄に移籍し、一軍初出場が6月29日という遅いスタートであったがそこからの打棒爆発でチームの優勝争いを最後の最後まで支える大活躍を見せた。74試合267打数82安打での34本塁打は驚異的な量産ペースであり、規定打席に100以上不足している選手の30本塁打超えは、唯一無二の記録である。

もっとも翌年のデストラーデは83試合292打数でブライアントには劣るものの、75安打での32本塁打はブライアントをしのぐ割合でもあった。これに先のペタジーニとホーナー、史上初の規定未満本塁打王となった2012年のバレンティンが上位五傑となるなど、上位20位(21人)中外国人選手が14人と過半数を占めているのは他の安打項目とは大きく異なるところである。

一方の日本人選手も、7人のうち田淵、山崎武司、中村剛也、村田修一の4人が規定未満で25本塁打以上というのを2回達成している。この反復性も他種の安打にはあまり見られない本塁打の特徴となっている。


表9-1-8 規定未到達者の打点ランキング(上位20位)

次の打点については、上位20位(21人)中12人は本塁打とメンバーが共通であり、21人中15人が外国人選手というのも本塁打との関連の深さを感じさせる。もっともその中でも打点の1位は20本塁打にとどまる2000年ロペスの88打点であり、2位も21本塁打の2009年デントナの83打点と、本塁打ではランク外の選手が上位を占めている。

ロペスはこの年5月下旬にチームに加入したため出場は93試合だが、その中でほぼ1試合に1打点というハイペースで打点を量産したことになる。これに匹敵するのはロペスに更新される前の日本記録だった1989年デストラーデの83試合81打点で、こちらも6月の来日という途中出場組だった。特に打点数より少ない75安打での数字というところが驚異的である。

このデストラーデの81打点は、1949年藤井勇の77打点を50年ぶりに更新した日本記録だった。久しぶりの更新というのは安打や二塁打に似た傾向であるが、他の項目ではせいぜい1960年代の記録しか残っていないところ、打点ではこの藤井の1949年の記録が未だに上位10位に食い込んでいるということは、ラビットボール時代の数字とはいえ驚かされる。

他に面白いのは6位の2017年エルドレッドの78打点と7位の2017年松山竜平77打点はチームメイトで、揃って同年の優勝に貢献している。


表9-1-9 規定未到達者の塁打ランキング(上位20位)

次は塁打である。1965年のパリスの204塁打がしばらく最高記録だったが、1987年のホーナーが207塁打で22年ぶりに書き換えた。この記録も16年君臨したが、2003年にペタジーニが226塁打で更新したのを2006年に吉村裕基が227塁打ときわどく上回って最多記録となっている。

本塁打や打点に比べると塁打数がどのくらい凄いのかはちょっと分かりにくいところだろうが、例の平均値では195.5塁打となっているので、上位10位辺りまでは規定打席到達者をしのぐ数字を残しているわけだ。

本塁打や打点同様、外国人選手が上位20位(20人)中14人という状況で、2012年バレンティンや1988年ブライアントなど他の項目でもおなじみの選手が見える。その中で2019年のグラシアル、2021年のオースティン、2022年のウォーカーが僅差で3位から5位に食い込んできており、そのうち吉村の記録も更新されそうな勢いである。

OPSが注目されるトレンドの中で長打率が重視されるようになってきたことで、塁打を稼ぐことを意識した選手が増えてきているのかもしれない。


表9-1-10 規定未到達者の盗塁ランキング(上位20位)

盗塁は、1951年土屋五郎の52盗塁が未だに最多記録に座っており、上位20位(23人)中2000年以降の記録は7人と、古めの記録が幅を利かせている点や盗塁王が8人いる点など、同様に走力の影響が大きい三塁打と類似した傾向にある。もっとも三塁打と盗塁は両立しづらいせいか、ランキングの選手の三塁打数は決して多くはなく、トップの土屋からして0三塁打である。

古い記録が幅を利かせているだけに、2020年周東佑京が50盗塁と肉薄したのは記録更新の点では惜しいところであった。この土屋と周東、そして1995年緒方孝市の47盗塁は、次点が35盗塁ということもあり頭一つ抜きんでた記録となっている。

土屋の記録は75試合での記録という点でも抜きんでており、上位20位でも80試合はおろか90試合を切る出場者が土屋だけである。もっとも打席に立たずとも代走でも数を稼げる盗塁のことゆえ、打数で見ると他の項目と比べてはるかに少ない選手もいる。例えば1954年の栗木孝幸は29盗塁に対して92試合147打数、1966年の山本公士は32盗塁で盗塁王ながら代走38試合で15盗塁を決めるなど106試合140打数であった。


表9-1-11 規定未到達者の犠打ランキング(上位20位)

ところで、盗塁に頼らずランナーを確実に進めようとすれば、送りバントをすることになるだろう。そして盗塁とは作戦的にあまり両立しないゆえか、犠打は盗塁に比べて最近の記録が多い。上位20位のうち原拓也が現在最多である51犠打を記録した2011年に5人が入るなど2010年以降で12人、2000年以降では実に16人がランクインしている。

ランキング中最も古いものは1986年袴田英利の34犠打、これを翌年渋井敬一が35犠打で更新したが1992年に川相昌弘が42犠打と大きく伸ばしたのが長らく最多記録となっていた。それが2009年に森本稀哲が43犠打で17年ぶりに更新し、2011年に原が51犠打ともう一伸びさせて最多記録としたものである。

原の0盗塁に代表されるように、盗塁数が多い選手がほとんど見当たらないのは意外のようにも見えるが、メンバーを見れば伊藤光や甲斐拓也、炭谷銀仁朗など捕手が多いのも一因だろう。上位20位(20人)中16人が300打数を超え、100試合未満の出場はわずかに2人しかいないなど、年代の件と併せてもやはり盗塁とは相反するような傾向を見せている。


表9-1-12 規定未到達者の犠飛ランキング(上位20位)

犠飛のほうは記録されていない時代もあるからやや参考記録寄りとせねばならないかもしれないが、最多は2008年北川博敏の10犠飛、2位が1958年川合幸三9犠飛と三塁打並みに本数が少ないため、やはり後半はタイ祭りの様相で8犠飛が3位タイで5人、7犠飛が8位タイで14人いる。それにしても北川は川合の記録を50年ぶりに更新していたことになる。

犠飛でちょっと目立つのは、前年の好成績が一転不振にあえぐ、という選手がちらほら見受けられるところである。例えば9犠飛の川合は打率が.268から.208と大幅ダウン、8犠飛も1956年大下弘は打率が前年の.301から.259と急降下、同じく2006年サブローも打率.314が.218である。また2011年山崎武司は本塁打が前年の28本から11本に半減以下、7犠飛組でも本塁打数が半分程度に減っている選手が少なくない。

不調でもそれなりに期待されて起用された結果、最低限の仕事である犠飛が記録されてこのような形になって表れる、という一面があるように思われる。


表9-1-13 規定未到達者の四球ランキング(上位20位)

続いて四球に移ろう。最多は1942年に楠安夫が記録した82四球である。ただし規定打数300にわずか1不足とあっては、この稿で取り上げるには割り引いて考えないといけない。仮に試合数×3.1を規定打席数とすると、楠はゆうに規定打席をクリアしてしまう。

同様に、規定打数が採用されていた1956年までの選手のうち山田潔と山本静雄はそれぞれ5打数不足と3打数不足で、規定打席になおせばいずれも到達者になる。唯一、1955年の蔭山和夫は規定打席になおしても54打席不足しており、本稿の基準における評価に値する。

以上のように見ていくと、2003年ペタジーニの77四球が実質的な最多記録と考えてよいだろう。この年のペタジーニは本塁打や打点、塁打の項でも顔を出しているとおり、規定打席未満の選手としてはまず第一等の成績であり、5月から6月まで1か月余の故障離脱がなければと、惜しまれる。

もう一人特異なのが60四球を記録した2017年の近藤健介で、57試合167打数の出場と試合数を上回る四球を記録している。シーズン10試合以上に出場して四球が試合数を上回ったのは、戦後では王貞治が4回、丸佳浩が1回記録しているほかはこの近藤だけの記録である。これも3か月の欠場期間がなければどうなっていたかと思わせられる。


表9-1-14 規定未到達者の死球ランキング(上位20位)

次の死球は個々の記録が非常に特徴的である。記録更新の各記録を見ても、1968年高田繁の12死球は新人、1971年竹之内雅史の14死球はわずか54試合更新、1978年黒田正宏の17死球はプロ入り7年で1死球、2006年ラロッカの20死球は規定打席以上を含めても当時歴代4位の数字、とバラエティに富んでいる。

竹之内やラロッカはデッドボールを語る際には必ず出てくる名前である。竹之内は通算166死球が歴代2位、11シーズン連続2桁死球という死球の申し子で、この11シーズンの中に件の14死球の他、規定打席未満で11死球というのが3回含まれている。

ラロッカの歴代4位というのも、上位3つのうち1つは自身が2004年に記録した23死球であり、それらをまとめて2007年に28死球で自力更新しているほか、2005年と2009年はやはり規定打席未満で2桁死球を記録している。

もっとも竹之内の54試合で14死球というハイペースは、2004年にキンケードが12死球をわずか26試合で記録したので少し霞んでしまっている。日本での出場8試合目で8死球、15試合目で11死球と重ねたが、以後11試合では1死球と比較的おとなしく?なった上、その12個目で指を骨折したのが響き以後ほとんど一軍出場がなかった。

このように死球は怪我に結びついて出場試合数を大きく減らす要因ともなるため、規定未満の選手にも大型の死球記録が生まれやすいともいえる。ただ、上位20位(25人)中100試合未満の出場は8人しかおらず上位8位(10人)に絞ればわずかに3人となっており、怪我に強い選手が少々休んだとしてもすぐに復帰するなどして数字を稼いでいる様子がうかがえる。

ちなみに上位20位中11人がリーグ最多死球になっている。三塁打王や盗塁王など他のリーグ最多者輩出項目と比べても、少し多いようである。


表9-1-15 規定未到達者の三振ランキング(上位20位)

打者編の最後は三振であるが、これがまた極端で上位20位(22人)すべてが2000年以降の記録である。1969年に矢野清が106三振をし1995年に垣内哲也が107三振できわどく更新(いずれもランク外)していたのを、2003年に古木克明が131三振で一気に最多記録の座を奪ったが、2022年に杉本裕太郎が135三振で19年ぶりの新記録とした。

単に三振が多い選手は起用されなくなって徐々に数字の伸びが鈍るため、攻走守何がしか優れたところがあればこそ起用もされ三振も増えるというものである。それも長打力を発揮している選手が同時に三振も量産しているというケースが非常に多い。事実上位20位中1桁本塁打は2017年石井一成のみ、逆に20本塁打以上が12人と過半数を占める。

さらには116三振の2006年吉村裕基はこの年打率3割を超えていた。3割超えは他に2021年のオースティンがいるだけだが、3割を記録するような選手でもランクインしているという点、三振数を見ただけで直ちにネガティブな判断ができないことの証左であろう。


本稿でしばしば取り上げるとした平均値だが、ここに全てを載せると以下のとおりである。

表9-1-16 規定到達者の平均値と規定未満選手の成績

平均値を紹介しなかった打撃項目は、上位20位ぐらいだといずれも平均値を大きく上回る数字になっており、平均値を超えた選手が少ないのは本当に安打と塁打くらいのものである。それだけ、規定打席未満の選手の中には埋もれるには惜しい成績を残している選手が少なくないということであろう。

これが投手記録ではどのようになるか、これはまた、稿を改めて触れることとしたい。

(注記)
表番号の修正を行いました。(2023.7.14)

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