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ゲームと人生


私はゲームが好きだ。
"ゲームが好き" と言うと恐らく、"ゲームをプレイするのが好き"と捉えられる方が大半だと思う。
プレイするのも勿論なのだが、それ以前に"ゲーム"というジャンルが包含する要素全てが好きなのだ。

「ゲームをプレイする」
「ゲームのアイデアを出す」
「ゲームに関する書籍を読む」
「ゲームをプログラミングする」

など、ゲームに関してできる行為は枚挙に暇がない。

そんなことを考えていてふと、こんな事を思った。

「なぜ僕は、これほどまでにゲームが好きなのか?」

いや、もっと一般的に言おう。
「なぜ人はゲームに惹かれるのか?」

今日はこのテーマについて論じていきたいと思う。


ゲームの歴史

ゲームには人を惹きつける力がある。
これは人類の歴史を遡ってみる事からも伺える。

実はゲームの歴史は非常に深く、ゲームは常に人類にとって身近な存在なのである。

「セネト」というゲームは世界最古と言われており、これが誕生したのはなんと紀元前3500年だ。
紀元前3500年と言えば、メソポタミア文明が発祥した時代である。
この頃から歴史の記録が始まったと言われているから、確認できていないだけでこれ以前にもゲームのようなものは存在していたかもしれない。

時代時代でゲームは変容しているが、その本質は変わらない。
戦略を練りながら勝ち負けを競う。その結果に一喜一憂する。
それを愉しむ人間の本質も変わらない。


ゲームの定義

そもそも、ゲームとは一体何なのか。

一般的には、
「守るべきルールがあり、環境または他人との相互作用を元に行われる活動である」
と定義されている。

この定義は広義だとは思うが、これをゲームの定義だとすると、この世界に存在するあらゆる過程・現象の多くは、"ゲーム"と定義できることになる。

国には法律というルールがある。会社には社内規定というルールがある。スポーツにも当然ルールがある。
これらはみな、広義の"ゲーム"という営みに属しているのだ。

逆に言えば、狭義の"ゲーム"、つまり我々がイメージするテレビゲームやアナログゲームなどは、世の中のあらゆるものをより良く理解するための方法・道理を、私達に教えてくれると言えるはずだ。本質的には同じゲームなのだから。


ゲームが人にもたらすもの

ゲームが人に与える効果は計り知れない。
人はゲームに熱中する。それはゲームにそれだけの魅力があり、それだけ人に愉しさ・悦びを与えるのだ。

そう言うと、こう言った反論が自然と生まれてくる事は想定できる。
「ゲームはただの娯楽だ。
そんなのは、ゲームを楽しんでいるときにしか味わえない。
その後には何も残らないだろう」

確かにその通りである。
ゲームは生産性という意味では一般的に低いとされている。

けれど本当に、ゲームをすることは生産性が低い行為なのだろうか。

仮に生産性が低いとして、人々がこれ程までにゲームに熱中する理由は何なのか。

それは、
「ゲームは人生の縮図だから」
これが私の主張である。

ゲームをしていて一喜一憂するという感覚は、人生に於いて一喜一憂するのと、性質上はなんら違わない。
ゲームというのは選択の連続、意思決定の連続だからだ。
そしてそれらの選択は全てゲームの勝ち負けを左右する。

人生も選択の連続だ。
選択肢を間違えればお金を失う。友人を失う。究極的にはいのちを失う。人生という名の最大の"ゲーム"に敗北する。
そういった意思決定の大切さを、ゲームは教えてくれるのだ。


ゲームが身近である理由

何故ゲームの歴史はこれ程までに深く、人類にとって身近であるのか。
そして何故ゲームは多様化し、その度に人気が根強いものとなるのか。

その理由が、ただゲームが人の幸福度を挙げることのみにあるとは思えない。

それよりももっと根本的な、人が人たる所以がゲームの中には隠されているのではないか。
人の無意識の中には、ゲームが潜んでいるのではないだろうか。
もっと言えば、人はそもそも、ゲーム(或いはゲームだけが人に与える快楽・安らぎ・感動・その他諸々の感情)に惹き寄せられるように造られているのではないだろうか。

「小さな人生」であるゲームは、
人生という名の最大にして最高のゲームを豊かにするためにあると、私は考える。

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