【ざっくり古典】土佐日記【テキスト版】

今回の「ざっくり古典」は「土佐日記」です。

男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。という書き出して有名な、日記文学のさきがけとなる作品です。

作者は紀貫之平安時代前期(934年ごろ)の成立といわれています。

で、書き出しの文章に戻るのですが、「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」現代語にすると、「男も書くという日記というものを、女も書いてみようと思って書いています。」え?紀貫之って女だったの?と思うような書きだしですが、紀貫之は男性です。

平安時代前期には、まだ漢字が主流でした。公文書は漢文で書かれていたし、仮名は、プライベートな場面で使われることの方が多かったのです。ですから、漢字のことを「真名」と言い、「仮名」は「仮のもの」という意味で「仮」という文字を使っていました。

「仮」とはいっても、奈良時代に成立した万葉集などでは、すでに漢字を崩した「万葉仮名」と呼ばれる文字も使われていました。和歌の世界では仮名が使われていたのです。ですから、紀貫之は帝の命によって「古今和歌集」を編纂したときに、漢文の前書きである「真名序」と並べて、平仮名で書いた「仮名序」というものも載せることにしました。和歌のようなやさしいしらべを持つものには仮名が相応しいと思ったのでしょうね。

それでもまだまだ仮名でものを書くということは一般的ではありませんでした。特に男性にとっては。

そこで貫之は自分を女性のように見せかけて、仮名による日記を書いてみたのだと言われています。

中身を読んでいくと、「いや、男やってバレバレやん」という部分もたくさんあるんですけどね

さて、そんなわけで、平仮名で自分のプライベートな話を書いていくという「日記」というものが、ここで成立しました。

貫之は、西暦930年から5年間、土佐国(今の高知県)の国司として赴任していました。任期を終えて京都に帰る道中のことが、この日記には書かれています。今なら車で4時間半で着いてしまいますが、平安時代前期ですから、舟の旅となります。藤原純友の乱が939年ですから、貫之が舟で都に戻る934年には、瀬戸内海には海賊たちが跋扈していました。それを避けながらの旅ですから、55日もかかったそうです。

土佐日記には、土佐で亡くした自分の娘を思う気持ちや、都への思いなどがユーモアを交えて書かれています。

と解説本などには紹介されているのですが、さっと読んだ感想を言うと、長い船旅が退屈だったオッサンが暇に任せて書いた感じ。船頭や同行した人たちの和歌もたくさん収録されていますが、大しておもしろがっているわけでもなく、良い歌だから収録したというわけでもなく、ただメモしておいた的な。

でもこの作品以降、さまざまな日記文学が書かれるわけですから、その功績は大きかったと思います。

オッサンとさっき言ったのですが、例えば教科書にも載っている部分で、「馬のはなむけ」というくだりがあります。今では「はなむけ」としか言いませんが、この時代はまだ「馬のはなむけ」と言っていたんです。旅立つ方向に馬の鼻面を向けてその方向に進みやすくしてあげる、ということから、旅の安全を祈る、別れの場面で思い出の品やお金を贈る、という意味に変わった言葉なのですが、

「舟旅なのに、あいつときたら『馬のはなむけ』って言ってたよ。馬じゃないって。舟だって。舟のはなむけって言えよ。いや、舟には鼻がないからどう言えば良いんだろうな。それにしても、舟で行くのに『馬のはなむけ』ってのはおかしいだろ」みたいなことが書いてあるわけです。「一文字も知らないような子どもが足を十文字にして遊んでるよ。『一を聞いて十を知る』とは言うけど、一も知らない子どもが意味もわからずに足を十文字にして遊んでるんだよ、可笑しいなあ」とか。いや、オッサン、笑いの沸点低すぎるし…💦みたいな感じで、愛想笑いをしてあげようにも笑顔がちょっとひきつってしまう。でも、それもオッサンの日記だからこんなもんか、と思えば納得できる気がします。平安時代の人はみんな雅で、それを読む現代人はみんな背筋を伸ばしてきちんと読まなきゃいけないなんてことはないんですよ。平安時代だってオッサンもオバハンもいたし、セクハラもパワハラもあったし。そこに「生身の人間」がいたと思って読む方が、身近に感じられるし、楽しく読めると思うのです。

土佐日記。作者は紀貫之。平安時代前期成立。日記文学・かな文学の最初として、後の平安文学に大きな影響を与えた。紀貫之は、古今和歌集の編者としても有名。


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