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紫野に咲く南アフリカから来た紫君子蘭に見惚れながら自然について考える

朝歩く時間が心の休憩時間だと気付いてから、よく歩くようになった。

今日は紫野の花壇に咲く紫君子蘭(アガパンサス・和名:ムラサキクンシラン)と出会った。


彼らの祖先は南アフリカから来たらしい
元を辿ればなので紫野で咲く彼ら自体が南アフリカで種として生まれたかどうかは知らない。
ギリシャ語の「“愛“agape」「“花“anthos」を併せ持つアフリカ由来の彼らは人に運ばれて育てられた。

彼らは自分を自然と思えているだろうか。

そんな事を考え始める

今日はそんな話


自然とは何か。
映像の中の自然、人工物の自然、東京の自然、子供の中の自然、大人の中の自然、心の中の自然
乱れることが美しい自然
整うことが美しい自然
ただあるのはそれになじんだか,違和感があるかだと誰かが言っていた。

そういえば

受粉して種を作るために花粉を鳥やハチに運んでもらっている

バオバブの種がヒヒに食べられ体の中の温度で育ち糞として外に出て土で還る

マガモに食べられたコイやフナの卵は消化器官で0.2%残り糞として落とされ孤立した湖で孵化し生態系を作る

この違う種から運ばれた育てられた命は

自然ではないのか。

その人だけの自然になると

その人の心の原風景(子供の頃の育った田舎の景色)に偏りやすい。

宮崎駿は東北出身の人に赤土を描いてもらおうと頼むとひたすら嫌がると言っていた。なるほど

きっと人によって自然を違いがあると気付いていないと

相手の自然を壊すことに違和感を感じない。

そしてそれはアニメやテレビでは感じれない“湿度“を子供の頃にどれだけ体験してもらうかが大事だと思う。

よく分からなくなってきた。

アガパンサスはなぜ愛の花なのだろうか。

花言葉をつけた人の気持ちを理解できていない事に

未熟さと道楽の楽しさを味わう







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