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サハロフ

 2021年3月2日、世界は大いなる感慨をもってミハイル・ゴルバチョフの90歳の誕生日を祝った。

 来月、2021年5月21日は、アンドレイ・サハロフ博士の生誕100周年である。


1982年11月 ブレジネフ死去

1984年2月 アンドロポフ死去

1985年3月 チェルネンコ死去

 かように書記長の死があたかも恒例行事化し、ジェロントクラシー、経済の停滞、アフガン戦争が社会の疲弊を浮き彫りにしつつあった。そこへ登場した、54歳の若い書記長は人々に密かな期待を抱かせるに充分な魅力があった。事実、ゴルバチョフが掲げた改革路線は国内の閉塞感を打ち破り、国外ではゴルビー・ブームが到来した。

 1986年12月、ゴルバチョフはゴーリキー市に流刑され監視下に置かれていたアンドレイ・サハロフ博士の解放を決定。サハロフは改革派の重鎮として存在感を高めていく。

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1986年12月、流刑を解かれ、記者に囲まれるサハロフ博士

 ペレストロイカは、ソ連邦の新地平を照らす太陽の王子様だった。(©「パプリカ」島博士)

 しかし、次第に保守派の反発が強まる中、ゴルバチョフは改革派と保守派の間で逡巡が目立つようになる。経済的な疲弊に加え、88年頃から連邦内の民族問題も続々噴出し、対外的には東側陣営の瓦解が加速していた。改革を切望する勢力や国民の間では、次第にエリツィン、ヤコブレフ、サハロフらが改革の旗手として期待を集めていく。

 1989年3月、ソ連初の自由選挙である人民代議員選挙が行われ、サハロフも選出された。5月には第1回人民代議員大会が開かれる。TV中継された大会は、ソ連政治の変革をリアルタイムで伝える迫力のドラマであった。ゴルバチョフと改革派の溝も明確になっていった。

 この大会中、サハロフのスピーチは保守派議員からたびたびブーイングなどの妨害を受けた。これに対し、サハロフの盟友である歴史学者のユーリー・アファナシエフ議員は、保守派議員を「従順かつ攻撃的な多数派」と揶揄して批判した。この当意即妙なフレーズは、ロシア政治史に残る名言として名高い。

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エヴゲニー・キセリョフ。本人のYoutubeチャンネルより

 90年代ロシアのTVジャーナリズムを牽引し、後に現政権と対立して現在はウクライナに拠点を移しているエヴゲニー・キセリョフは、2006年にニュースサイトGazeta.ruに「ヒロイック映画の題材」と題した寄稿で、第1回人民代議員大会におけるサハロフ博士の演説をめぐるドラマチックなひと幕を回想している。その一部をここに翻訳する。サハロフという人物像を描き出す名文である。

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大会最終日の1989年6月9日、演説するサハロフ博士

原典:https://www.gazeta.ru/column/kiselev/645405.shtml 

「ゴルバチョフがサハロフの流刑を解いた1986年12月、我々の前に現れたのは、およそ伝説の英雄とはかけ離れた姿の人物だった(中略)。そこに居たのはやや浮世離れした、典型的なモスクワのインテリであった。ボロボロのウシャンカに着古したコート。野暮ったく内気だが、しかし主張を通す頑固さでは人後に落ちない。サハロフのような人は、今では「デムシザ」(デモクラシーとシゾフレニアを合わせた造語、罵倒語 訳者註)なる醜悪なコトバで呼ばれている。

 しかし1989年の春、サハロフは英雄だった。第1回ソ連人民代議員大会の生中継に、人々はまるで傑作ドラマのように見入っていた。メインキャスト、そしてライバルはゴルバチョフサハロフ。エレガントで雄弁かつ自信に溢れたゴルバチョフに対し、声が小さくつっかえがちなサハロフは、いかにも演説に不向きだった。サイズの合わないスーツに、結び損ねたネクタイ(そのせいで、ワイシャツの襟は常にスーツから無様にはみ出していた)という出で立ちもあって、サハロフは孤独で無力で、敗北を予感させていた。

 大会最後の日、サハロフの敗北は決定的であったように思われた。その日、大会会場で展開された光景はドラマチックというよりも、むしろ悲劇的でさえあった。あの情景を再現できる演出家は滅多にいるまい。大会の終了間際の夕方。会場が疲れ切って話を聴く余裕も失せた頃、綱領を読み上げ始めたサハロフは惨めでナイーブに見えた。サハロフはソビエト憲法の改正、特にソ連共産党の指導的役割を永久に固定する第6条の撤廃を訴えた。サハロフは、連邦を構成する民族や人民などの諸要素の関係性を改めない限り、スターリンの遺産たる帝国は崩壊間近にあると訴えた。そして今すぐ、この件について政治的宣言を採択するよう、会場に迫った。

 会場が手を叩き、足を踏み鳴らす音は次第に大きくなっていった。サハロフは弱々しい声で抗い、ついには両手を天にかかげ、「私は世界に訴えています!」と叫んだ。しかし、ゴルバチョフはサハロフのマイクを切る。そして原稿を手渡そうとするサハロフに対し、乱暴に「原稿は持ち帰ってください!」と言い放った。

 おそらくこの瞬間、心ある人々は察したであろう。サハロフは倫理的な勝利を収めたのだ、と。ゴルバチョフは重大なミスを犯して敗北した。サハロフを侮辱したこと、なにより、あの大会最後の日、増長した議員たちを戒めなかったことは、ゴルバチョフに高くついた。むしろあの時、ゴルバチョフはともすれば「従順かつ攻撃的な多数派」による演説妨害を扇動さえした。この大会を境に、ゴルバチョフは盟友たちに見限られることになる。そのリーダー格であったユーリー・アファナシエフ曰く、「ゴルバチョフの改革者としてのポテンシャルは枯渇した」のである。

 西側との急接近、ベルリンの壁崩壊、チェコスロバキアとルーマニアの革命、ワルシャワ条約の終焉など、自らの予言の多くが的中するのを目撃した後、半年後の89年12月、サハロフは心臓発作で急死した。モスクワで行われた葬儀は、まさに英雄の葬儀であった。
 こんにち、サハロフ博士はある意味で再度、流刑となっている。しかし、サハロフは必ず戻って来る。そして、必ずサハロフが主人公のヒロイック映画が製作されるだろう。」(2006年5月22日)

 (日本語訳文責:露傍の石 文中太字強調は訳者による)

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マイクを切られ、なおも演説を続けるサハロフ博士。奥にゴルバチョフ。

 この記事が公開されて15年が経とうとしている。サハロフ博士は、まだ戻らない。

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