絵本の再読について

「絵本は最も心に近い芸術である」というのが私の主張だ。現在執筆中の卒業論文は、科学と情報化の進展により資本主義が終焉に向かうさなか、主観的価値判断を求められた現代人に提示された精神的課題(人は何のために生きるのか・無気力化、無責任化、無関心化)とその救済としての絵本を考えるといった内容である。

絵本が最も心に近いと述べる理由に(1)”絵”と”ことば”の相互作用(2)ページの連続性による能動的な記憶と想像(3)特異な鑑賞方法としての読み聞かせ(4)再読・反復容易性を挙げる。これらすべてを踏まえた論考は現段階では見つかっていないが、(1)〜(3)については、個別に充実した研究が行われている。本稿では、絵本の特性としてあまり注目されていない再読・反復容易性が時代に適うことを述べていく。

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情報と思索

我々は「情報の海」と呼ばれる程に日頃から多量の、散乱した、避けられない情報に触れ生活している。気になることがあればインターネットで検索し、見放題・聴き放題のサブスクリプションサービスの利用を楽しむ我々は、むしろ自らその海へ飛び込んでいるとも言える。
アルトゥル・ショーペンハウアーは「思索」を

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。(ショーペンハウアー, 1983, 5)

という文章から始めた。彼が『読書について』で放った勤勉な読書家に対する数々の箴言は、現代人にとって「情報について」と受け止めることが出来る。情報をかき集めることは、「精神的廃疾者」、「軽薄な模倣者」もしくは「夏のはえのような連中」へ近づくことを意味するのだ。
アトム化、人工知能の台頭、価値の生まれる場所の変化(市場から個人の内面へ)…。人類史上最も各々が思索しなければならない今日、我々は短絡的な快楽に誘われ、思索の機会を奪われていることに自覚出来ないでいる。

そして、我々の情報に対する消費欲求は加速するばかりだ。文字、画像、音楽、映像、形態が何であれ「情報消費とは、一面、時間消費活動に外ならない」(佐藤, 2021, 127)。立ちはだかる24時間の壁を前にした現代人は、オーディオブックや動画の倍速視聴等、できるだけ片手間で、できるだけ短時間で、情報消費に効率を求め始めた。
娯楽や感動の享受にタイムパフォーマンスを求めることには甚だ疑問で、情報消費の効率志向には様々な危険が考えられる。一方で、情報量の増加は思索のための「良い情報」を増加するという側面もある訳で、これまで以上に効率を求める傾向はあながち否定出来ない。

絵本の再読

絵本の再読・反復容易性は時代に適った特性と言える。絵本は限られたページ数で構成されているため、一度読み終えるのに必要な時間はわずかだ。この特性はタイムパフォーマンスを求め、再読による思索が必要な現代人に相応しい。また、絵本との邂逅に早すぎることはなく、幼児期から老年期まで読み続けることが可能である点が再読・反復容易性をさらに価値づける。
我々は、絵本から「一つの対象を違った照明の中で見るような体験」を享受し、人生を真に見ることが出来るようになるのだ。
例えば、生きるとは何か、愛とは何かを問いかける『100万回生きたねこ』(佐野洋子・講談社)は、読者の人生経験と読むタイミングや回数によって様々な解釈が生まれる好例だろう。

個人の精神世界で普遍的な体験を繰り返すこと、同様に人類が精神世界への探求の歴史を繰り返すことは、今後ますます意識しなければならないように思う。絵本を再読すること、絵本を子に伝えること、その繰り返しが貧寒した精神への救済かもしれない。

思索のよすがに絵本を。

ー参考ー
佐藤典司(2021)『資本主義から価値主義へ 情報化の進展による新しいイズムの誕生』新曜社
アルトゥル・ショーペンハウアー(1983)『読書について』岩波文庫



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