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【牧師エッセイ】祈りはコミュニケーション

1月中旬頃、全国的には「どんど焼き」と呼ばれるお祭りが行われています。地元の熊本では「どんどや」、今住んでいる長野では「三九郎」や「道祖神祭」と呼ばれています。
正月の飾りや書き初めなどを燃やすことで、厄落としをする儀式として親しまれているものです。

門松やしめ縄は、家族に繁栄と息災をもたらす神様が来る目印として飾るものですが、同時に悪いもの(厄)も当然やってきます。
厄を家の中に入れないのが道祖神の役割であり、厄を留める依代としても、しめ縄などが用いられているのでしょう。

人々は繁栄と息災をいただくために準備し、それに応えて降ってこられた神様を迎え、どんど焼きをもって天へと見送っていく──。
それらは本来、人の祈りによって引き起こされる神様との関係を表していると言えるかもしれません。

旧約聖書は人々が繰り返し争いあい、傷つけあう人間の罪の姿を描き出しています。それは、人々に命をお与えになった神様の望むところではありませんでした。
だからこそ、そのような自ら罪から逃れることのできない人々を救うために送られたのが、救い主イエス・キリストであったのです。
ヨハネ福音書はこのキリストを「言(ことば)」と表現しています。
それは、神様の側から「ことば」をもって私たちに語り掛け、祈りをもって対話してくださる存在として、キリストが来られたことを意味しています。
そこには、私たちの罪の苦しみに無関心ではいられない神様の、愛と私たちへの祈りによって、私たちは救いへと招かれていることが示されているのです。
聖書の言葉と祈りによって私たちが絶えず導かれていることをおぼえつつ、新しい一年を踏み出してまいりたいものです。

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