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「だんじりよ、永遠に」(二)

機動、RIJINDA


「だんじりは嫌いやねん。」



幼い頃はブロックでだんじりを作った。
小学校の3,4年にもなると、版画用の6本入りの彫刻刀を使って見よう見まねで木板にだんじり彫刻を彫っていた。

四つ車輪のついているものは曳き回すだんじり馬鹿だったのは中学時代。

高校入学と同時に青年団に入団し、ますますのめり込む。

だんじり彫刻師(木彫師)になりたいと親に打ち明けたのは高校卒業の頃だったが、その時は親に反対されて泣く泣く大学進学。
親は大学のうちにほとぼりも冷めるだろうと考えたのだろう。

しかし、大学1年の時に後の師匠となる岸田恭司氏と出会う。
岸田氏の工房に毎週顔を出し、作品を見る度に弟子入りへの思いは膨らみ続ける。
それでも18歳までに弟子入りが当たり前と思いに蓋をした。
結局、大学4年で会社から内定をもらう。

「これもな、だんじりの時に休ませてくれるのが条件やってん。」と笑いながら教えてくれた。

しかし、内定先の研修で使っていた地下鉄の本町駅にある鏡に映った自分の全身を見る。

「なんやこれ、おっさんやん。」

覇気も精気も何もない。こんな姿で俺の人生が終わるのか。
そう考えた瞬間に父親に電話をした。

ただ事ではない様子の息子。
父親は帰った息子と膝を突き合わせる。

「やっぱり彫り師になりたいんや。」

だんじりのために生まれ、だんじりと共に生きてきた男。
この男からだんじりを取ってしまったら何が残るだろうか。

岸和田からの旅立ち


「例えて言うたらな、平成ていうのは木ぃ彫れたら仕事あってん。平成の終わりはいいものが彫れんかったら仕事けぇへん。令和になったらいいものを安く彫れんかったら仕事けぇへん。」

平成までは祭りのある10月が終わると、親方は殺到する依頼を断るのが仕事と言われるくらいに新調が続いていた。
おまけにだんじりの新調に支払われる金は、一時言い値で1億3千万円まで上がったという。

神棚に手を合わせてから仕事を始めるという前田氏。
木曽や吉野の深山で育った数千万円の欅材を前に座す。
何度も紙に頭に描いてきた絵を思い浮かべながら神の来訪を待つ。

しかし今、その値段からはおよそ2千万から4千万円近く下がっているという。

それでも、「良いものを安く彫れてなんぼ」という職人の業といってもいいような意識で多くは仕事を続け、ますます新調にかかる費用は下がり続けていると前田氏は語っている。

そして、「カローラしか買われへん金持ってレクサスなんか買われへん訳やんか。」と言う。

そんな「下げ合戦」の中でも仕事が可能な理由は、もう一つある。
それは徒弟制度だ。

師匠が弟子に仕事を教える代わりに安い賃金か無給で働いてもらう制度。
前田氏自身も21歳の時に弟子から入り、32歳で独立した。

早めに自分がこの仕事に向いているかを見極めてもらい、向いていなければ次の仕事に行ってもらうという長所も、時代の変化と共に永続的ではなくなったことも、分かっていた。

また、少し前から業界では彫刻の仕事を海外に出していた。
「枡」という小さな部材などは特にそうだ。

例え小さな部材でも自らの手で彫れる方が良い。
それでも、「良いものを安く」という相手の言い値に応えるためだった。

このままでは木彫師だけでなく、木彫師に仕事を発注する工務店や刃物などの道具職人といった祭りを支える人、それに技術も日本から消えてしまう。

前田氏は不安に駆られた。

そして機動

危機感を覚えた前田氏は、岸和田から大阪市内の天満に本拠地を移す。

折しもコロナ禍真っ最中の2021年だった。
それと同時にもう一つ大きな一手を打った。

「法人化したんや。」

こうして「木彫前田工房」は「株式会社木彫前田工房」に、弟子は従業員となり前田氏は師匠から社長になった。
それに伴い、前田氏は、「従業員」の生活を支えるだけの給料を支払うために経営を学び、自ら仕事を売り込むことに注力することとなった。
仕事の売り込みは、長らく日本の職人が苦手としてきた部分だ。

そこで立ち上げたのが「RIJINDA」というブランドだった。

この名前、一度声に出して読んでみてほしい。
気付いただろうか。「だんじり」をひっくり返している。

そこには「一度だんじりを離れてもまた戻ってこれるように」という前田氏自身の切なる願いが込められていた。

RIJINDA「ヒノキオイル」(アロマオイル)(前田氏提供)
RIJINDA「枡」(家紋や漢字、梅や桜などの日本らしい柄を彫り込んでいる)(前田氏提供)

業界の変革と存続に向けて何手も先を読み、次々と繰り出される手。
傍観者にとどまることなく自ら変えようと舞う姿はさながら大工方。

業界に前梃子を入れるには十分だった。

日本からの出帆

国内でも木彫教室を開き、だんじりの製作に使う彫刻鑿とだんじりを絡めた展示会も開いた。
大阪のものぐくり看板企業やなにわの名工といった賞を受け、国外でも2021年のスペイン美術賞展で優秀賞を受けるなど、国の内外にだんじりの工芸としての美しさを広めた。

ブランド自体の売り上げも良かった。
数々のメディアにも出演し、自らの注目度も上がった。

順風満帆に見える。

しかし、従業員に技術を受け継ぎ、後継として育てるには仕事の受注が足りないのが現状だった。
おまけに関西は値切り文化というのも語っていた。

そこで海外に目を向けた。

「ベトナム行こう思てるんや。」

前田氏の作品は、かねてより海外向けと評判だった。
アラブ首長国連邦での展示会を皮切りに海外にも積極的に出向くようになり、それは実感した。

一番大きな転機は、ベトナムのダナン三日月(ホテル三日月グループ)に置く神輿の製作を依頼されたことだった。


ダナン三日月に置かれている「日光東照宮分霊三日月神輿」(前田氏提供)


2023年に同ホテルで開かれた将棋の棋聖戦五番勝負で藤井聡太七冠(当時)と佐々木大地七段(当時)の対局でも前田氏の木彫りが花を添えた。

ベトナムに新たな舞台が整った。

勿論それだけがベトナム進出の理由ではない。

平均年齢が若く木彫りや芸術への評価も高いベトナムが今後、市場を伸ばすという目論見もあった。
ここ最近の円安を受けて、現地で木材を調達して彫った方がよいという考えもあった。

日本から海外へと漕ぎ出そうとした前田氏。

生粋のだんじり男はしかし、ここで立ち止まる。

では、肝心のだんじり祭りはどうか。

前田氏が「だんじりは嫌いやねん」と語ったのには、実はもう一つの理由があった。

―― 「不易流行」に続く。

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