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卒業の悲しさは世間だった

みんな、マスク、外さないな。そんな風に列の最後尾から思っているうちに、卒業式の会場になった体育館に入場していた。ピンと背筋を伸ばし、肩の力は抜いて、ブレない足取りで真っ直ぐ拍手喝采の中を進んで、ようやっと壁に飾られた紅白の幕が強烈に目に飛び込んできて初めて「あ、これ、本番だ。」と実感した。気づかぬうちに始まっているなんて、高校に1年の夏に転入した私をセルフオマージュでもしてるみたいね。
卒業式を迎えてしまった。無性に悲しくて、愛しくて、誇らしいような、無常感に流されたまま、ジッと座っていた。
4度もの転校で、ひとつの学校に最初から最後まで在学したことはなかった。高校が初めて自分で選んで、卒業までこぎつけたかけがえのない居場所だった。全て出し切った。やり切った。悔いはない。私が辛いのは、このクラスという組織が解体し、私たちは所属する世間を共有しなくなるということだった。世間は、その内に共通の同質的な条件を確約する。ここにいる人たちはみな、選んでこの場所にいる。その全員に同質な繋がりはこの度、それぞれの中の過去に仕舞われてしまう。そして同時に社会も私たちを一つの組織として扱うことをやめる。そうして組織としての機能は終了を迎える。それが悲しかった。卒業してもズッ友だよ、とか、生涯の仲間だとか、そんなのはどうでもよかった。本当に悲しいのは、私が失う組織を愛していたからだった。
クラスを覆ううっすらとした仲間意識、懐の深さ、結局最後まで人見知っていたところ、それはある種お互いに尊敬と謙遜の譲り合いをしていたからかもしれないところ、ずっと聞いていたい放課後の変な話とテンション、私服、もっと知りたくて、面白くて、好ましくて、愛おしかった。
な〜んだ。卒業が悲しいのは、みんなのことが大好きだからじゃん。
悲しさを分解して、言葉を尽くして考えた私の回りくどさに呆れ、照れ臭さに苦笑して、涙を堪えながら真っ直ぐ前を向いて退場した私の顔はなんだか笑っていたような気がする。

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