【プロポ10】能動的感動・受動的感動・共鳴的感動

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

【プロポ10】能動的感動・受動的感動・共鳴的感動

感動は2種類に大別できる。能動的感動と受動的感動の2種類です。この2つの感動は、感動を体験した個人の中でどのような現象が起きているかによって分けられ、感動をもたらした何かが、その個人にとってどのような意味を持つようになるかという結果に影響を及ぼします。

 能動的感動は未設計の感動であり、受動的感動は設計された感動であると言い換えることもできます。まずは、受動的感動のほうを掘り下げてみましょう。受動的感動というのは字に書いたとおり「受け身」のものであるため、感動をもたらす何かが、感動を与えるべく設計されたものであるというのが特徴です。例えば、カップ麺を食べて「美味しい」と感動するのは受動的感動です。美味しいと喜んでもらえるように、商品開発の中で綿密に設計されたものだからです。映画のクライマックスや別れ・隠された事実の発覚など盛り上がるシーンで鳥肌が立ったり、涙が出たり、手に汗握ったりするのも受動的感動です。そこで観客の感情が動くように設計された脚本があり、その感情誘導に合わせて音響・照明・演技・間・アングルなどすべてが設計されているからです。絶景が見えると評判の景勝地での感動も原則として受動的感動に分類できるものです。自然は人工的に設計されたものではありませんが、そこに絶景があり、多くの人に感動を与えると判断され、周辺環境を整備し、観光地として宣伝されているのであれば、そこには感動への設計された道筋が確かに存在するからです。

 受動的感動というのは、より多くの人が対象となるように設計されるものであり、基本的に個人差が出にくいものです。ひとりひとり好みや感性は異なるので、全員が全員漏れなく感動するものを作り出すことはできません。しかし、究極的にはそれを目指す設計思想があります(最小公分母効果など)。受動的感動の利点は、一定以上の感動の期待値をもってそれに触れることができるという点です。美味しいと評判の店に行く、泣けると話題の映画を観る、衝撃の展開が待っている小説を読む、息を吞むような絶景を見に行く。これらの行動からは、一定以上の期待値で感動を得ることができます。身体や頭脳と同様、心と感性も動かさないでいると鈍っていってしまいます。心と感性のストレッチとして、たくさんの、そして自分にとって質が高いと思える受動的感動を体感することは有意義といえます。一方で、受動的感動には欠点もあります。これは裏返して能動的感動の利点にもなるのですが、受動的感動をもたらしたものは、自分のなかで本当に大切なもの、ずっと心の中で大切に抱えていく何かにはなりにくいということです。

 では次に能動的感動について。こちらは設計された道筋に従うわけではなく、自らの知識や感性で感動への道筋を開拓することで得られるものです。つまり共感されにくいような自分だけの感動です。映画や漫才などで自分だけ泣きどころや笑いどころが違ったという経験は誰でもあるはずです。共感できないことは寂しいことと考えることもできますが、むしろそこにこそ自分が宿っているのではないでしょうか。(もちろん映画も漫才も作り手に設計されたものですが、感動が万人とずれた分だけ感動の能動値は高いということです。また、設計されたものについて能動的感動が働くことは大いにあるということも後述します。)そしてその類の感動を共感できる相手を見つけた時はより深く相手と繋がった気がします。また、僕の友人には「知らない道にある家から外にこぼれる室内の明かりを見るのが好き」という人がいます。説明できない安心感のようなものを感じるそうです。言われてみるとわからなくはないですが、僕は彼女にそういう話を聞くまでは意識したことがなかった感覚なので、彼女が自身で開拓した能動的な感動なんだろうと思います。

 能動的感動は上記に示したような、周囲との反応のズレや、日常の何でもないものに覚える感動以外にもたくさん存在します。最初に、能動的感動は未設計の感動であると書いたせいで、設計されたものに関して覚える感動はすべて受動的感動のように読まれているならそれは誤解です。能動的感動は設計されたものに頻繁に発動します。というよりも、能動的感動と受動的感動の間を分かつ明確な線があるのではなく、グラデーションのように各感動に能動値と受動値のバランスがあるように捉えるのが適切に思えます。カップ麺を食べて「美味しい」と思うのにも、その美味しさが実現されるまでのストーリーや開発者の技術力、日本社会に与えた影響などの想いを馳せて勝手に感動しているなら、それは立派に自分が開拓した能動的感動です。映画の盛り上がるシーンで感動するのも、シーンを盛り上げるために集約された撮影・音響・演出の技術などに目を向けて感服しきっているならそれは能動的感動です。(設計されているのは映画であって、技法に感動させるための設計がそこにあるわけではないので、例として微妙かもしれませんが。)

 このように、能動的感動は自分で感動への道筋を開拓したというプロセスを経ているので、感動が自分事になります。ただの観客や消費者ではなく、感動の対象を相互干渉して新しい領域をその場で生産しているような感覚です。もちろん同じようなプロセスで同じような感覚を得ている人間はたくさんいるのかもしれません。それでもひとりひとりが「これは自分が自分で見つけた価値なんだ」と思えてしまうくらい自分の中に入ってくる。これが能動的感動の持つ特徴です。だから能動的感動を通したものは、自分の中の大切として、ずっと抱えていくようなものになりやすいのです。突き詰めて言えば、このような体験の集積が自分の個性になっていき、感性の豊かさになっていくのだと思います。

 能動的感動の多さや大きさは、感性の豊かさと鋭さに依存しています。よって人生の活動を通してこれらは後天的に拡張したり変質したりします。能動的感動を増やすには感性を育てるのが近道なわけですが、人間は何も知らないこと、やったことがないことには興味を持てませんし、感動もできません。だからまずは広く好奇心を持ち、活動的に飛び込む。そしてそれについての知識をどんどん吸収してしまう。そのようにして能動的感動は増やしていけるものなのではないかと思います。

 最後に、能動的感動、受動的感動と合わせて提示したい3つめの感動について言及して終わります。その感動を僕は「共鳴的感動」と呼びたい。これは何かに感動したときに、そこに対象との「一体感」を伴く感動のことです。能動的感動・受動的感動とは角度の違う切り口での話になるので、最後に付与する形で記載することにしました。

 共鳴的感動が、最も個人の心に近い・深い位置での感動ではないかと思います。人間は世界と繋がるために知覚し、他者と繋がるために創作します。そして感動には、世界や他者との一体感を伴う類が確実に存在します。あなたが一番好きな本はきっと、あなたが心の奥底で感じていたけれど誰との共有していなかった何かを書き上げていたはずです。あなたを救った音楽は、あなたがひとりで抱いていたと思っていたとのまさに同じ苦しみを歌っていたはずです。まさに自分のために創られたのではないかという作品、そういうものと出会うと、作品の向こうにいる人間と心の底から繋がったような一体感を覚えます。また、ある風景をみたときに、これまでに同じ景色を見た人や、別の場所の違う景色からでも同じ感覚を味わった人のことが、時空を超えて自分の印象に入り込んでくるようなことがあります。これは決して高尚なスピリチュアルな話をしているわけではなく、山道でぼんやりと歩きながら「ああ、そういえば本当は地球ってこういう自然が普通で、人類はずっとこんなとこで活きていたんだよなあ。」という気持ちが浮かんでくる程度のこともあります。しかしそのような感覚は、共鳴的感動として自分の中に深く染み渡ってきて、長期間自分に作用し続けるのです。この風景の例は、Sense of aweやSense of wonderとして表現されるものに近いかもしれません。芸術でも自然でも、ここでは一体感を伴う感動をすべて「共鳴的感動」として再定義してみました。

どの感動も人生には欠かすことのできないスパイスですが、普段「感動」という一語で括ってしまっている現象を分解して探っていくというのは楽しい試みでした。ここに示した3種類でも、そのプロセスや自分の中で起きる現象、そしてその後の自分への作用は全く異なります。これからも折に触れてこの分類を思い出し、見直しつつ、他にも抽象的な語句によってブラックボックス化した概念を展開してみるという試みも続けていこうと思います。

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