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【プロポ4】わかりにくいものはわかりにくいままに理解する

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

【プロポ4】わかりにくいものはわかりにくいままに理解する

わかりにくいものをわかりやすく説明するという商売がたくさんあります。教師はわかりにくい科目を生徒にわかりにくい形に変えて説明し、医師は専門知識がないとわからない身体の仕組みを患者が取るべき行動に落とし込んで教えてくれます。コンサルタントはクライアントを取り巻く状況を整理して従うべき指針を示し、スポーツインストラクターはスポーツ科学や栄養学の難しい知識を駆使してアスリートの生活をサポートします。わかりにくいものをわかりやすいものに変換するという能力には価値があり、わかりやすい形になった情報にアクセスして利を得ようとする人々は、たくさんお金を出してでもそれを欲する。故に商売として成立する。彼らはわかりやすくなった情報だけが欲しいのです。

 情報化社会という言葉は、普通はICT(Information and Communication Technology:情報通信技術)やDX(Digital Transformation:デジタルへの移行)の文脈で使われることが多いですが、現代はこれまでのどの時代よりも情報そのものに価値が認められている時代で、それはアナログだろうとデジタルだろうと同じことです。情報を集めて・整理して・切り分けて・組み合わせて・分析して・解釈して・意味づけするという営みの需要は右肩上がりに増えていくはずです。上に挙げたどの職業も「わかりにくい情報をどのようにわかりやすくして他者に与えるか」というのが主要業務のひとつである点で共通しています。どれも人の役に立つ、立派な仕事です。

 しかし、わかりにくいものをわかりにくいものに変えることは、常に望ましく、価値があることなのでしょうか?僕たちは何の疑問も持たずにわかりやすい形になったものをお金で買いながら生きていて良いのでしょうか?近頃、本屋さんを歩いていると平積みにされる売れ筋の本のなかに「わかりやすさ」を全面に推しだした書籍がたくさん目に付きます。ネットでも古典や有名な哲学や理論をわかりやすく解説した動画などが溢れています。これら自体が必ずしも問題とは思いませんが、これらの情報が溢れることで、僕たちがわかりにくいものと向き合う機会が、僕たちの有限の時間から追い出されてしまっているのなら、それは問題だと思います。

 ひとつには、わかりにくいものがわかりやすいものに形を変えるとき、必ず欠落したり歪曲されていたりする部分があり、その欠落や歪曲は、わかりやすくなった情報を受け取る人からは見えないところに隠されているという問題。ひとつには、わかりやすい形にされたものだけを飲み込みなれた僕たちは、いずれわかりにくいものを自分を解する咀嚼力を無くしていくだろうという問題。

 まずは前者から。わかりにくいものがわかりにくいものに姿を変えるとき、僕たちは必ず何かを見落としたり、不適切に単純化したりしています。例えば僕たちは自分自身の心を観察することで、または近しい人々の振る舞いや彼らとの記憶を思い返すことで、人間というのは複雑な生き物であることを理解しているはずです。すべての人間に善性と悪性があり、思考はよく間違えるし、発する言葉がいつもその言葉のそのままの意味で発せられるわけではない。それでも僕たちは、ニュースやワイドショーで犯罪や不祥事を見ると、善悪の二元的なものの見方を押し付けたくなるし、言葉の裏を読まずに発言を文字通りに捉えて揚げ足を取ったりする。それくらいわかりやすいものは僕たちの心を引き付けるのです。

 しかし僕たちには、複雑なものを複雑なままに、難しいものを難しいままに、わかりにくいものをわかりにくいままに理解する懐の深さも必要です。その複雑系が、僕たちが相対するものの本来の姿なのです。上では人間の性質の例を出しましたが、これは何かの法則とか、理論とか、技術とか、芸術とか、すべてのもので同じく言えることだと思います。わかりやすい鋳型に押し込めて何かを断じたくなる魅惑を退け、わかりにくいものを自分の理解の中で抱えている状態は決して楽ではありません。それでもこの状態を受け入れることでしか適切に理解できないものが、本当はたくさんあると思うのです。

 もうひとつ気を付けなければいけない点は、こうした単純化が行われるときに何がどう欠落され何がどう歪曲されたのかが見えないこと。それを知ろうとすると、結局わかりにくい素の状態の全容を掴む必要があります。わかりやすいものには、誰かが勝手なフィルターを通して自分に都合の良い形でわかりやすく変換したかもしれないというリスクが常に付きまといます。僕たちは見えないところにある欠落や歪曲を余白に想像しながら、わかりやすいものと向き合う姿勢を忘れてはいけないのだと思います。

 次に後者。わかりやすい情報だけを飲み込んでいると、わかりにくいものを咀嚼する能力が退化するという問題です。わかりやすく変換された情報の役割とその限界、さらにそれが孕む問題点は、「離乳食」の比喩を持ち出すことで明らかにできると僕は考えています。離乳食は文字通り、乳離れをして通常食に慣れていくために、咀嚼しやすく消化吸収の負担が少ない状態に処理された食事です。また子どものアレルギーなどを想定して、少しずつ食べる食材を増やしていくなどの配慮がされます。この過程が通常食への移行に必要なのと同じように、わかりにくいものを理解するためには、わかりやすく加工されたものから触れてみるというのは確かに有効です。冒頭で挙げた職業の多くは、受け手の理解度の成熟に応じて出す情報の質や粒度変えていくので、この点も離乳食に似ています。

 しかし、わかりやすい情報だけを飲み込む続けるとうのは、離乳食を食べ続けていつまでも通常食を自分の顎で咀嚼して食べることを怠るようなもの。歯や顎は使わないと退化します。そして嚙み合わせが身体のさまざま箇所の健康に影響を及ぼすように、情報の咀嚼を怠ることは、僕たちの思考や知性の全体に悪さをしうると思います。物事を断定しないこと、多角的な視点を持つこと、関係のないものを組み合わてみること、抽象と具象を行き来すること、不確定性に耐性を持つこと。これらは一般に知性や感性を育てるうえで習得が望ましいとされている姿勢ですが、これらもわかりにくい情報とじっくり向き合って自分でよく咀嚼して解する過程で身についていくものでもあります。わかりやすい情報にしか触れないことは、これらの姿勢を身に着ける機会を逃していることになります。

 さらに、よく噛んで食べたものはよく消化吸収されるのと同じように、わかりにくいものを自ら時間をかけて理解することで、より自分の中で腹落ちして理解した内容が頭に留まりやすくなるというのは、誰も経験したことがあるのではないでしょうか。反対にわかりやすい形にされてサクっと入れた情報は頭を素通りしてしまうことも多い。

 最後に。離乳食が常に受動的食事で、通常食になって初めて能動的食事が可能となるように、わかりやすい形に変換された情報を知ることは受動的であり、わかりにくいものと自ら向き合うのは能動的な姿勢であるといえます。人間は受動的に行動するときと、能動的に行動するとき、どちらでより喜びを感じるのでしょうか。どちらの行動がより豊かなのでしょうか。僕は、能動的行動に喜びを感じ、能動的行動が豊かさに繋がるとも考えています。通常食を食べる力、さらに硬いものでも選り好みせずに食べられる咀嚼力があれば、日々の食事は自分で好きなものを食べることができます。誰かが離乳食にしてくれるのを待つこともなく、自分の好きな組み合わせ、自分だけが試してみたい食べ方を楽しむことができます。情報も同じで、わかりにくいものをわかりにくいままに理解する力があれば、好きな情報を自分の力で加工して、自分で新たな仮説を立てたり、別の情報を援用して観たり、共通点を見つけて楽しんだりすることができます。最終的には、この豊かさを最大の理由として「わかりにくいものはわかりにくいままに理解する」という姿勢を提唱したいと思います。この姿勢はアナログを含めて高度に「情報化」した現代でこそ、さらに活きるものだと信じています。

Nothing That is Worth Learning Can be Taught.
学ぶ価値があるものは誰にも教わることはできない。

オスカー・ワイルド (1854 – 1900)


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