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障害福祉支援者の耐え難い優しさ

障害福祉という概念が発生した正確な時期はわかりませんが、少なくとも私は精神障害者として支援を受ける時期を過ごしました。この10年間で、障害者が働くための法律も整備され、国や自治体を上げて、障害者の就労支援の取り組みが行われてきました。

就労支援の目的

障害者の就労支援の目的は、障害者が仕事を開始すること。そして、その仕事が長く続くように支援することです。

さて、仕事とはボランティアではありません。労働者には労働の対価として賃金が支払われ、それを以って労働者は生活を維持していくことが可能になります。このような常識は障害者に対しても当たり前のように適用されます。

就労支援には様々なステップがあり、障害者の年齢・経験・知識・技術そして障害の程度、など総合して評価し、それぞれにふさわしい支援を提供することになっています。ただ支援の提供者は一人で複数の障害者の支援をすることが慣例となっています。支援対象の障害者に応じて、支援の方法を使い分けていく感じです。

職業訓練に関しては、高度なスキルを教わることはほとんどなく、いわゆる「内職」に近いことを訓練します。私がやったことがあるのは「ボールペンの組み立て」とか「ボルトの分解」などです。要領の良い人なら、障害の有無に関わらず、すぐにできるような内容です。

それでまぁ、言われたようにやるわけですが、これはいったい何のためにやってるのか、さっぱりわからないわけです。

支援者は、障害者が出来たことを褒めて、出来なかったことには出来るように励ます・教える。これを繰り返す。それだけ。

支援者の障害者に対する接し方

ただ、その支援といいますか、訓練の結果報告といいますか、支援者の皆さまの口調が不自然なほど優しく、穏やかなのが、気になる。というか、気に障るのです。恐らく障害福祉の分野に疎い一般人にも予想がつくと思うのですが、腫物に障るような扱いなんですよね。当たり障りのないことをいってやり過ごしている感じ。

こんな誰でもできる事しかしない支援者にどれほどの価値があるのでしょうか。

「心を鬼にして支援しろ」と言いたいのではないのです。ただ、障害者の技術力の欠如と生産性の低さだけに注目して、一時凌ぎの支援で済まそうとしている支援者のなんと多い事か。支援者もふつうの人間。仕事とはつまり、特定のパターンを繰り返すだけの行為。そんな風に考えているからか、表面的な成果、いや、ただの行動とその結果だけをみて評価しています。障害者なんてこの程度の事しかできない、と思っているのか、それとも、支援者として自分にはこれ以上の事は教えられないと考えているのか。障害者に対しても自分自身に対しても「無関心」なんでしょうね。

結局、働くとは

結局、働くってどういうことなんでしょうか。福祉施設で習ったボールペンの組み立てを、定年までやっていける会社って実在するのでしょうか。「働く」と言えば、こんなセリフが印象的でした。

SFドラマ「スタートレック」のあるシーンで登場するセリフです。

「24世紀の地球にはお金というものは存在しない。人々はよりよい自分になるために働く」

確かこんなセリフだったと思います。
これは理想、というよりも進みすぎた共産主義の成れの果てといった風でもあります。ですが、私はたとえお金が存在しても、よりよい自分になるために働くことができる世界になってほしいのです。そんな働き方を追求したい。

最近ではAIの話題も盛んですよね。AIの普及にかかわらず、単純な仕事しかできない障害者は近い将来必ず淘汰されます。障害者は高齢者だけではありません。20代、30代の若い世代が多く存在します。10年先、20年先の社会を見据えたとき、現在のボールペンの組み立てのような就労支援をこれからも続けるのであれば、将来、生活力の足りない障害者であふれてしまいます。

あるべき就労支援のカタチ

それでは、あるべき就労支援とはどのようなものでしょうか。

現在の障害者の就労支援に関して思う事は、あまりにも刹那的な支援が蔓延っているということです。辛いとき、苦しいとき、仕事がうまく行かないとき、障害者はどうしたらいいのか。いや、若い支援者ではそんな事はわからないかもしれない。でも、そんな時、優しい声で「なんとかなる」という言葉をかけるのではなく、ともに考え、苦しみ、そして前に進んでいける。たとえ一人ぼっちになっても、誇りと尊厳をもって生きていけるようになる。そんな風に支援をしてほしいのです。

将来、医学や技術が進歩したら、発達障害すら完治できる特効薬が開発されるかもしれない。ただ、それで障害を克服したとして、「今は障害者ではありませんが、これまで障害者だったので何もできません。」今のままでは、こんな事を言う元障害者が現れるのは目に見えています。新しい時代には、新しい単純作業がもしかしたらあるかもしれない。でも私はそんな物には全く期待したくありません。

なによりも不幸なのは、そういった状況なのに、声を上げることもせず、ましてや「障害者である自分にもできることがある」と満足してしまっている障害者が、たくさん、たくさん、たくさんいることです。もっと外の世界を見て欲しい。せめてインターネットの中だけで構わない。稼いでいる障害者だってたくさんいるんです。自分らしく豊かに生活している障害者だってたくさんいるんです。その事をもっと知って欲しい。

私はといえば、福祉施設での訓練や仕事に真面目に取り組むふりをしつつ、独学でWeb制作を学び、それなりに稼げるようになりました。これからは新しい生活が始まりますが、まだまだです。

福祉施設の中にも先進的な取り組みをしている所も確かにあります。「福祉にもビジネス感覚が必要」などと今さらのように言われています。もっと早く気づくべきといった感じなので、ようやくといったところでしょう。そして今です。障害者が高らかに声を上げるべき時は。障害福祉が新しいステージに突入しようとしている今、支援者主導の支援を超えて、障害者にとって本当に必要な支援がなんなのか、導かなければならない。障害者が。示さなくてはならない。これからたくましく生きていくために。

私は福祉施設での仕事を辞めて、これからは一人で稼いで生きていく覚悟を決めました。否定的な事を書いてきましたが、今の自分があるのは、間違いなくこれまでサポートしてくださった支援者の皆さまのおかげです。

施設には私がこれまで指導してきた、多くの後輩や実習生が残って働き続けます。ですが、私は彼らを置いてきぼりにして、これから大きく前進する、なんてことはこれっぽっちも考えていないのです。

たった一歩です。

ほんの一歩だけ先に進むつもりです。
自分にとっての小さな一歩が、これから先の私の人生に何がもたらすのか、よくわかっていません。きっと嬉しい事や楽しい事よりも、辛い事や悲しい事の方が多いのだろうと思います。そんな事は誰にとっての人生でも当たり前な事かもしれません。そして、思い知ることになるのでしょう。私が感じた耐え難い優しさは、自分にとっての忘れられない優しさだったということを。

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