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サービスエリア乱闘物語(4/4)

本日は、神戸三ノ宮エリアから須磨・垂水のあたりまで、次に音楽を作る予定の映画のロケ地巡りをした。終着点は役者さんがまさに映画の"今"を生きている撮影現場だ。未来の聖地巡礼といったところ。

三ノ宮はライブでもプロモーションでも度々お邪魔している好きな街のひとつで、すっかり馴染みがあるが、須磨・垂水のあたりは初めての訪問だった。完全な異国に放り込まれたみたいに独特な雰囲気を感じて、興味を強くそそられる。「なんだかすごく面白いぞ!」という瞬発力を伴った高揚感と「ちょっと不気味」というそわそわ感が入り混じっていた。

所狭しと住宅が並び、急な坂や曲がり角が多くて、海と電車と自転車と車と再び電車が一直線に並ぶ。そんな"生活だらけ"な街構成なのに人の気配が異様に薄くて、それが高揚と不気味さのどちらもを呼び起こしたのだと思う。

褒めてるのか貶してるのかどっちなんだ!とクレームが入りそうだが、こんな印象を残す場所はそんなに多くない。要するに、すごく褒めている。レジデンスなんかあれば、この街に少し住んでみたい気持ちにさせられた。

撮影現場では、港の暮らしがまるで動く写真のように額に飾られて、監督がこの街や物語に深い愛情を注いでいらっしゃることが強く伝わったし、それによって私も作品へのモチベーションを高め、その愛情に真っ向愛情で返すような音楽を作りたいなと思った。

そのまま広島に帰るため、愛しのシトロエンちゃんを走らせる。途中で小規模なSAに寄った。

お世辞にも広いとは言えない駐車場で、隣の車との距離も極めて小さい。まずそっと運転席のドアを開けたが、外に出るにはもう少しドアを開けたいところだった。
私が白枠のやや右寄りに停めていたことと、右隣の方が白枠の左ギリギリに停めていたことも不運な要素のひとつだったと思う。

一度ドアを軽く引き戻し、そろっともう一度開けて外に出ようとしたら、右隣の方の車(おそらく取手)にほんの少しだけドアが触れた。
「あ、結局触っちゃったな、すみません...」と独り言のように小声で言いながらドアを閉めてトイレへ向かおうとしたら、その車にはどうやら年配の男性が乗っていたらしくて、助手席の窓が開いた。

「あんたさ、人の車に勢いよくぶつけといて、それで平気なんだ?今、俺の車にぶつけてきたよね?ぶつけてませんって言い張るつもり?人の車にぶつけて当たり前と思ってさ、詫びもせずにそのまま店行くことどう思ってんの?」

と攻撃的な口調。
まずは乗車されていた事にビックリしたのと、是や非以前にその攻撃性に驚いて一瞬無言になってしまったのだが、そのあと素直に

「いや、当たり前とは思ってません。申し訳ないです、すみません」と述べた。

「単純に隣の車のことも気にしないで勢いよくドアを開け、当然のようにぶつけ、別に何事もなかったかのように店に行ってやろうと思っていたわけではなく、一度ゆっくり開けたけれどもまだ狭かったので、次は更にソロっと開けて何とか通ろうとしましたが、それでも車間が狭かったので、少しだけあなたの車の取手に触ってしまいまして、それも当たり前とは思わず「あ、ごめんなさい!」と思いました。なんなら声にも出して申し訳ないということを申し上げました。まあ、傷がついたわけではないですし(←これは余計な一言)まさか運転席にいらっしゃるとは思わなかっただけで、運転席を無視して謝りたくないとか、謝る必要もないだろなんて思ってないですし、当て逃げのつもりは本当に全くありません!」

という全貌を伝えるか迷ったのだが、でもこれってこういう類の怒りを帯びている人からしたらただの言い訳として更なる着火剤にしかならないし、実際ドアが触れたのは事実だしここは素直に謝るだけにしておこう、と思って、これらの話はせずにいた。

彼の中での私の人物像はおそらく強固に完成されており、同じ内容の説教をずっとされて、口調もさらに強くなってくる。「すみません、申し訳なかったです。本当に、申し訳なかったです。」とこちらも同じような謝罪ばかりをただ繰り返しただけだったのだが、その間、先日メルカリで違法販売していた方に言及した時、「確かに私はひどいですね。申し訳ありませんでした。」のみの返答で取引キャンセルになった事案を思い出していた。
ある意味で「あなたと討論するつもりは毛頭ありません」という意思表示(拒絶)を感じ、この人とのコミュニケーションは不可能だと感じ取って、こちらも瞬時に手を引いたのだった。

私は元々正義感が強い方なので、その分 余計に気をつけている。私の正義などどうでも良い人がこの世には沢山いることを。

拒絶は腹立たしいものだと思ってきたが、お互い時間の無駄という関係性もあるとは思う。

それから、知らない誰かに初めて声をかける時、その人とは生まれて初めてのコンタクトなのだという意識を持つことがコミュニケーションの上でとても大切だ。

同じ内容のことでも、「あんたさ、人の車にぶつけといて、それで平気なんだ?」から始まるのと「すみません、今、ドアぶつかりませんでしたか?」と言うのでは全然違うし、相手が悪意を持って当然のようにドアを"ぶつけ"てきたという決めつけは少々早すぎる。

「あなたの言っていること、わかります」的きめつけも要注意だ。人は共感を求める場面も多いとは思うのだが、私が何かを話して「わかるー!私も!」と共感されてから披露されるエピソードの7,5割くらいは「いや、全然そういう話じゃないんだけど、全然"分かって"ないじゃん....」。

それくらい解釈というのは難しい。どうしても自分の経験則で判断してしまうのと、自分の視点というのは極めて限定されていて、「所詮その程度」だということを忘れがちになるからだ。

だから特に友人と話している時の「それわかる!私も!」には注意が必要で、最近はクセづけとして、同じ人との数時間の対話で、「それわかる!私も!」を2回以上使わないコミュニケーションを試みている。

何か気に入らない、気になる出来事を経験したとしても(生きている限り、必ず定期的に遭遇するはず)、次に似た経験をした時に同じものだと決めつけ解釈をするのって、結構あるあるだけど、完全に間違っている。
私自身「日本人は〜」「女子校出身は〜」「ギターボーカルは〜」など、若干決めつけの罠に陥りがちなところもある。実際に傾向ってものもあるので線引きは難しい。気軽でお手頃な会話を楽しみたい時だってある。

でも、過去の全く別人との経験に引きづられて「お前もあいつみたいに嫌なやつに決まってんだ!」「てゆうか、もうお前はあいつだ!そうに決まってる!」みたいな決めつけと、一言目から暴力的な振る舞いをすることは己の品格を貶める行為として避けていきたいなと思う経験だった。

まあ、大前提として、私ももうちょい駐車が上手くなりたいものだ。
早速今回の教訓から、以後の駐車を丁寧に、真ん中に綺麗に、と心掛けてみている。

綺麗に駐車すると気分がいいね!

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