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新プロジェクトにむけて!人間的成長、音楽家の権利(3/29)

Blue Note Place にむけての練習中、江島(啓一)くんと本気で新プロジェクトがやりたいねと話していたのだが、本日はその第一歩としてスタジオへ。

D.A.Nの仁也君にも来てもらい、どんな音楽がやりたいのかを話したり、取り敢えず音出してみたり、私の曲をさらってみたり。そういう感じの時間を過ごした。

私は2人と違ってバンド経験がない。かつ、基本的に作曲行為に編曲まで全てが含まれているタイプの音楽家だ。

日本は「メロディを作った人が作曲者」みたいな理屈がまだまかり通っている印象だ。私もデビューしてまだ若かった頃、とあるバンドの先輩にそう言われて強烈な違和感と嫌悪感を覚えて反論したことがある。
個人的には今も昔も変わらず、ハッキリ言って、音楽的にそんな発想はあり得ないと思っているが、それを自己主張の強さと傲慢さだと揶揄されて悔しい敗戦を経験した。

冷静に考えてみても、誰か(おそらくメロディを作った人)のための悪しき隠蔽だとしか思えない。お金や権利の話を「自己主張の傲慢さ」と言えてしまう日本だから、今こんなにも自分たちの首を絞めている社会状況なのだと思う。だって、これは価値観の違いではなく間違いだからだ。

実際、私自身編曲というよりもうこれって共同作曲者ですよね?みたいなところまで踏み込んでいる楽曲もある。(そもそも、もらったデモのコードを大幅に無視して、構成も勝手に変えて作り始めることも少なくない。それが私の編曲スタイルと言えばそうだし「メロだけ辛うじて残っている」という状態をメロを作った人=作曲者とする見方をしているという事かもしれない)

音楽家は、そのアイデア、演奏という結果に辿り着くまでの時間を技術力としている側面もあって、それは医師とかスポーツ選手もそうで、目に見えないからといって評価の外に追いやるのは違うと思う。

そんな、海外ではとっくの昔に当たり前の、事実の明記の必要性を江島くんと語り合ったグリングリン。私の場合は自分が逆の立場でもあるので、昨今この点を頻繁に考えることが増えた。

ともかく私は、基本的に一人完結型の作曲家なので、異質なものを異質なまま融合させていく作業にとにかく不慣れで、今日のスタジオ作業は音楽活動というより人間活動に近いニュアンスも感じた。

良くも悪くも処理スピードが速すぎる私の場合、自分のスピードで物事を進めてしまうと他者を置いてけぼりにしてしまう。
今まで色んなマネージャーさんたちが私との共同作業をギブアップしていった最大の原因はここにあり、解決すべき問題なのだが、これがなかなか難しい。

湧き出るアイデアや次の展望が湧いて出てくると、周りの様子を見ながら遠慮がちに引き出しに閉まっておくことができない性分だ。それ自体は悪い事ではないのだが、これを十分に実現できる体制的な、経済的な体力がない人間(私)がスタッフを動かせるかというと、スタッフだって困惑して当たり前。

だったら、彼ら彼女らが世武裕子の活動に熱中できるくらいの対価は与えられるべきである。気持ちでやれる仕事なんてのは本人(この場合スタッフ)の意志で からがら成立するものであり、決してこちら側が強要するものではない。

自分の創作物やアイデアへの権利を声高に主張する以上、同じように他者が主張する権利にも熱心でありたい。

盛大に話が膨らみを持ったが、他者と深く関わろうとすると自分の物差しを相手に預けることになる。今日のたった数時間に、その個人的課題に向き合うチャンスがきているのだと感じた。
彼らに、そういう成長のヒント、経験値、素質、お手本となるような姿勢を示し与えてもらえることも、この新プロジェクトで私が得られる財産だ。

もっと、他者に耳を傾けられるような人間に成長したいなと思う。

ありがとう。

追伸 : 本日、プロ野球開幕。
ひとまず度会選手のバッティングが気になりますが....



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